フリーメーソン!それは世界最大にして、未だ多くの謎を秘めた、古代の秘儀を伝承していると言われている秘密結社!その巨大さ、そして数多くの世界的指導者が所属しているという事実から、陰謀の総本山として囁かれている。しかし、それは本当であろうか?それは、メーソンの秘密主義や、「情報の欠如」からもたらされた、非科学的な過った認識なのだろうか(吉村 1989:12)?確かに、世界中の宗教的、経済的、政治的そして学術的リーダーが所属している事実はあるが、それだけでは陰謀の証拠などにはなりえない!この結社に対する数々の陰謀論にメーソン自身が納得のいく反証をしていないことが、大衆に誤解を与えている一面もあると考えて妥当であろう。

しかし、証拠がないからと言ってこのような巨大な組織が、まったく政治的影響力を放たないと考えるのも、また非科学的である!フリーメーソン憲章は各ロッジでの政治的会話をいっさい禁じているが、そのメンバーは個人として、結社の外で自由に政治的活動を行える。吉村はその研究の中で、数多くのメーソンがアメリカ独立戦争にかかわり、メーソンのスローガンたる自由、平等、博愛を追い求めたと示している(吉村 1989:120-164)。結社自体は政治的中立を保ちつつも、その理想を信じるメンバーが一個人として、その理想の為に政治的活動を行うことは、十分考えられることである!それでは、あの歴史的転換点となった、その突発的発生自体が謎に包まれているフランス革命はどうであろうか?ここではフランス革命におけるメーソンの役割を、本邦先行初公開する!

この研究は、フランス革命の源泉に関するいくつかの点を発見することを目的としている:フリーメーソンは組織的にフランス革命の発生に関わっているのか?革命の夜明けに、一個人として革命の発生に関与した人物はいたのか?その人物は革命の思想家たるフランス知識人のコミュニティーを影響したのか?メーソンの信条や行動は、フランス革命の起源に於いてどのような役割をおっていたのか?

本文では、メーソンは組織的に革命に関与しなかったことが繰り返し述べられている。それは、個人的な行動の産物であった。革命の中でのメーソンの役割とは、イギリス自由主義をフランスに輸入し、大衆に民主主義的共和主義的思想を広げ、間接的に革命を呼び寄せたことであった。フランス革命はフリーメーソンの知的活動を抜きには語れないのだ。

メーソンの起源と信条

革命に焦点をあわせる前に、メーソンの歴史と信条を短く説明するべきだろう。我々の目的は、メーソンの信条と革命の理想の関係を探ることにあるからだ。

フリーメーソンは兄弟愛の原則を広めることを目的とした友愛会である。そして、他の友愛会とメーソンを大きく隔てる特徴は徹底した秘密主義や、会合の中で行われる秘儀、それに用いられる神秘的象徴、そしてその知られざる起源にある。その起源に定説はない。しかし、グランドロッジを中心とした近代的、組織的メーソンの起源は、記録の中から見つけることができる。1717年にロンドンにてグランドロッジが開かれたのが、一般的にメーソンの起源とされる。後で述べられるが、成文化されたメーソンの信条は、1723年にジェームズアンダーソンによってフリーメーソン憲章として出版された。

グランドロッジの開設と共に、情報を交換するコミュニティー、つまり社交的クラブとしてのメーソンの性格から、上流階級、中流階級から多くのメンバーが集まることとなった。ヨーロッパ大陸には1725年に早くも伝わっており、その年パリにグランドロッジが設立されたと記録されている。大陸での地方ロッジの数やメンバーは着々と拡大を続け、フランスだけでも革命が起こる1789年には629の地方ロッジと三万人近いメンバーが存在した(モルネ 1971:525)。メンバーの社会的地位は様々であり、王族、貴族官僚、神官、評議会代議士、軍人や商人と多種多様であった。吉村とモルネの研究の中から、後に平等王フィリップとなるオーリーンズ候や国王ルイ十六世の兄弟達など、そうそうたる人物がメーソンのメンバーであったことが分かる。フリーメーソンはフランスの上流階級と中流階級に良く知られた団体であったのだ。

フランスのグランドロッジの歴史は複雑で政治的であり、ロンドンのグランドロッジとは性格が大きく違っていたことは述べておいていいだろう。理神論的な結社とは言っても、ロンドンのグランドロッジは神の存在と魂の不滅を信じていることが参入の条件であったが、フランスのグランドロッジ「グラントリアン(Grand Orient=大東社)」は宗教に対して過激な性格を有していた。それは、一種の組織内クーデターの結果であった。グランドロッジ・オブ・パリにはもともと内部に階級に基づく派閥主義が横行していたが、1765年には政治的危機が爆発、中流階級派閥のリーダーであったラコルネという人物が、上流階級に属するグランドロッジの指導者を追放してしまったのである(モルネ 1971:523)。その後、追放されたグループはなんともう一つのグランドロッジを設立してしまい、それに偉大なるオリエントという意味のグラントリアンという名前をつけ、結果的にもともと存在していたグランドロッジは空中分解し消滅してしまう。グラントリアンはリーダーであるオーリーンズ候シャルトルの手により組織的改革が行われ、より無神論的な、理性へのさらなる信仰をロッジの信条とするに到った(吉村 1989:45)。グラントリアンの宗教的異端としての性格は心に留めていただきたいが、ここではまず、フランスのメーソン内部に存在する階級間のぎくしゃくした関係に注目してほしい。これは後で我々のテーマと大きく重なるからだ。

先にも述べたように、メーソンの原則は自由、平等、博愛であるが、それらは当時のイギリスとフランスの知識人コミュニティーが議論していた論点の反影と呼べる程似通っているものであった。メーソンの信条はメーソン版聖書の冒頭に要約され、掲げられている。

「メーソンは、人に博愛と親切心を実行すること、貞操を守ること、血縁と友を尊敬すること、宗教の信条を受け入れ教義に従うこと、貧しいものを支えること、盲を導くこと、足の不自由なものを支えること、孤児に宿を貸すこと、祭壇を護衛すること、政府を支持すること、道徳を教えること、学びを普及すること、人を愛すること、神を畏れること、神の慈悲を請い幸福を望むことを教える」(1957:3 引用者訳)

ここで述べられているものは一見博愛と平等の精神のみのようであるが、自由の精神も謳われている。平等と自由の精神は、元来密接に結びついたものだからだ。我々はまず、メーソンの説く平等が「神の下の平等」であることに注目せねばなるまい(吉村1989:105)。これは神学的な神の下の平等という概念とは極めて異なるもので、十八世紀当時のイギリスの政治哲学界にて始まった一種の流行であった。メーソンの説く神の下の平等とは、これすなわち自然法の下の平等ということである。理論的には次のような流れとなる。人は(理性的)神の作りし自然法の下に平等であり、

メーソン版聖書
メーソンに関する貴重
な書類の数々が収められている

自然法に守られた同じ権利を生まれながらに有している。その権利と平等は当然のごとく、人の作るより位の低い人定法によっても守られる、ということである。この概念は時代の流れと共に大きく変わったが、法の下の平等とはすなわち神の下の平等から派生したものであった。法の下の平等はまた肯定的自由、つまり「〜をする自由」を人に与えることになる。そして、その自由と平等を根底から支えるものが、協力の精神を具現化する人々の博愛、というわけだ。これは、メーソンの信条がただイギリス知識人の流行をあらわしたものだけではなく、議会制度の発達したイギリスの市民社会にて養われた思想的環境を映したものだという、政治的な意味合いも含まれている3

しかし、先ほどにも見たように、フランスのメーソンロッジではこれらの信条が実行されていたとはお世辞にも言えない状況にあった。確かに平等を議論する動きはフランス知識人の間にもあったが、イギリスの先進的思想を伝えていたはずの、フランスのフリーメーソンロッジでは平等など存在していなかった。第一に、王族や貴族に囲まれた中では、フランス知識人は平等を論じることなどしたくてもできなかったであろう。そしてメーソン版聖書の冒頭に書かれてあるように、「政府を支持すること」はメーソンの義務であり、フリーメーソンが組織として革命を影で主導していたという議論と真っ向から対立する。さらに、政治的会話はロッジの中で禁止されているのである(茅田 1997:65)。しかしこれが示唆していることは、この状況下でメーソンにいるフランス知識人が心理的に抑圧された環境にあり、国民全体が共和国樹立に大きく傾いた1788年に、待ってましたといわんばかりに革命を組織したのではないのか、ということだ。ただし革命のこのような背景は可能性の一つではあるが可能性以外のなにものでもない。この可能性を証明する物証は存在していないからである。答えを得るにはフランスでのメーソンの活動を具体的に知る必要があるだろう。

グラントリアン及びその下部ロッジたちの知的役割

シャルティエは、「メーソン社会は知的社交性を提供する様々な新しいグループの中でも最も巨大なものであったので、(フランス革命を研究する際には)特に注目に値する」と述べている(Chartier 1991:162 引用者訳)。この組織はメーソン憲章に表されたイギリスの自由主義をフランス人のメンバーに伝えるという意味で、非常に大きな役割を持っていた。特に当時のヨーロッパ大陸はイギリスを思想的先進国としてみなしており、啓蒙哲学を実現した社会として高く評価していた。大陸の知識人達はイギリス的考え方を学ぶことに躍起であり、「この傾向がフリーメーソンの受け入れに貢献した」のである(茅田 1997:35)。特に自由と博愛の精神について、絶対王制の下に暮らすフランス知識人や中流階級はメーソンから学ぶことがおおかった。

しかし、それでも革命を動かしたというメーソンの陰謀には「証拠がない」のだ(Lefebure 1989:53)。実際、フランスのメーソンは組織として革命を準備する機会は与えられていなかった。急進的思想家もグラントリアンにいたではあろうが、それと同時に貴族もまたメーソンであった。グラントリアンでは74パーセントの参入者が中流階級を含む平民であり、大学の存在する地方都市に設置された下位ロッジでは平民の参入者が平均して80パーセントに達していた(Chartier 1991:164)。しかし、この統計は裏返して見れば少なくともメーソンの5人に1人は貴族階級か聖職者の出身であったことを示している。そして、組織内クーデターをグラントリアンを作ることによって失敗させたことからも分かるように、階級派閥という点で上流階級の力は相対的に大きかった。イギリスのロッジで日常的に行われていたように自由や平等を論じることは、フランスのロッジでは事実上不可能であった。

フリーメーソンは、フランス革命に於いてなんの役割を持たなかったと考える歴史学者達の急先鋒であるダニエル・モルネは、その著作の中で当時のメーソンらは集会の中で国家権力と教会を繰り返し誉めたたえていたことを裏付ける証拠を、これでもかといわんばかりに引用している。「修道院の中に」グラントリアンの支部ロッジが設立されたこともあったほどである(モルネ 1971:534)。メーソンは政府を支持することを教え、さらにロッジの政治的活動と集会での政治的発言が禁じられているとすると、革命的、反王政的行動がロッジによって引き起こされた可能性はなかったと結論するのが妥当であろう。なぜなら、ブレシーに設立されたロッジの議事録にも見られるように、「すべてのロッジで、人々は王を讃えるチャンスを一つとして見逃さなかった」からである(モルネ 1971:541)。

それでは、フランスのメーソンは集会の中で一体何をしていたのか?飲み会であった。もともとロンドンのグランドロッジが設立された表面的な理由は、大勢で飲んだ方が少人数で飲むより楽しいからというものだった。しかしイギリスやアメリカでは、情報を交換したり、最も進んだ哲学思想を議論する場というメーソンの役割は十分機能していた。ただ、それらの哲学思想は、ヨーロッパ大陸ではあまりに進歩的すぎていた。フランスのメーソンは、集会の中で進歩的学説をまったく議論していなかった可能性もある。例えばイギリス生まれの自由主義を、絶対王政国家にて貴族のいる目の前で議論するなど、どう考えてみても自殺行為である。よってフランスは国家として、比較的安心してフリーメーソンの普及を許していたはずだ。メーソンがフランスに於いて、違法活動の罪に問われた事例は、せいぜい集会で酔ったメンバーが他人に迷惑をかけたことぐらいであった(モルネ 1971:536)。

フランスのメーソンがその活動の中で、重きを置いていたのは兄弟愛の精神であり、自由と平等ではない。しかし、だからといって、それら三つの信条の内二つもが完全に無視されていたのか、ということはなかっただろう。実際にフランスのフリーメーソンの参入者は大部分が平民であったし、彼等は後々革命家へと変貌していったからである。アメリカ独立戦争に見られたように、メーソンの政治活動は個人レベルであり、決して組織レベルで行われたものではなかった。組織から独立した形で、革命に参加していたのである4

では、実際問題として、メーソンは革命をなんらかの形で影響していたのか?我々は、フランス革命の目的自体がフリーメーソンの信条と全く一致していたことを思い返さなければいけないし、革命中期に起こった恐怖政治に於いて、グラントリアンの反宗教的思想が、膨大な数のカソリック関係者が断頭台で虐殺されたことから実現したことも考慮しなければならない。しかし、物証らしい物証がない限り、メーソンと革命の関係を考えるにはいくつかの仮定が必要とされる。

メーソンのメンバーが個人として革命の準備に関わっていたとしたら、彼には三つの道がある。1、メーソンのメンバーが、革命的思想を他のメンバーと手紙や会話をロッジの集会の外で交し、そのグループが次第に革命家としての自覚を養うに到った。2、メーソン内部での上流階級による差別にしびれをきらし、革命前になんらかの活動を起こし、メーソンに属さない一般市民に平等主義と自由主義を伝えるに到った。3、メーソン信条に表されたイギリス思想に触れたメンバーが、革命的感情を内面的、個人的に養い、革命に於いてそれを爆発させた。第一の道は性格的に、その人物が知識人であり、同じ思想を持つコミュニティーをメーソン内部に形成していることが必然的であり、第二と第三は、学問的な背景を持たない一般市民が取りうる道である。

メーソンのメンバーで、急進的な思想を持っていた知識人を挙げるとするならば、科学的思考と理性を重んじていた百科事典編纂グループからの人間であろう。しかし、メーソンに参加していた百科事典編纂協力者は十人のみで、フリーメーソン信条に影響され革命を組織するには余りにも少ない。また、百科事典編纂グループのリーダーであったディドロがメーソンであったという証拠は見つかっていない。次に考えられるのが著作「カンディード」でフランスの特権階級を過激におちょくって批判したヴォルテールである。しかし、彼はメーソンではあったものの実際は死の数カ月前に参入していたため、とてもではないが革命をグループを作って影で組織していたとは考えられない。革命の当事者であり過激派だったダンタンやロベスピエールは、グラントリアン思想にかなり近いものを持っていたが、メーソンであったという証拠は見つかっていない。歴史に残っていない急進的知識人がメーソンであった可能性はあるのだろうが、そうだとしても彼等がメーソン外部でグループを作りイギリス自由主義を一般市民に広めていったということは、どちらにしても証明不可能だ。手紙や直接的会話といった形であれば、革命の準備が当局に見つかることはなかったであろうが、例えそうだとしてもそのようなグループが存在していたのであれば、すでに我々の知るところとなっているはずである。

しかし、メーソンが国王に逆らい行動した事例は一つ残されており、メーソンの多数派であった中流階級がメーソン信条に対しどのような忠誠心を持っていたかを示してくれている。ヴォルテールの死後、フランス支部ロッジの中では最も大きい影響力を誇っていた「九詩神」のロッジで葬儀が開かれたが、それはルイ十八世からの中止命令を無視して開かれたものであった(吉村 1989:141)。強行的に開かれたのには、アメリカの思想家ベンジャミン・フランクリンが葬儀に参加していた為、彼の面目を保つという理由もあっただろうが、やはりこの場合はメーソンの兄弟愛の信条が忠実に実行された事例と見ていいだろう。国王とメーソン信条が秤にかけられた時、先に立つのは信条の方であった。

例えロッジの中でメーソンの信条たる自由、平等、博愛を議論する機会が貴族や聖職者の監視下にいたためなかったとしても、メーソンの多数派である平民はそれでも「市民の平等、宗教の寛容、そして人間個人を無知な状態に置こうとするすべての機関からの解放を望んでいたため、(メーソン信条の)哲学的浸透を受け入れた」のである(Lefebre 1989:53 引用者訳)。これこそフリーメーソンのフランス革命における役割であった。すなわち、知識人ではなかった一般階級の参加者が、イギリス思想の片鱗に触れる機会を与えられたのである。

「多くの革命家はメーソンであり、」これは、メーソンが知識的に革命の準備に貢献していなかったとしたら説明できない事実である(Lefebure 1989:53)。グラントリアン内部にははっきりとした形で階級派閥主義が存在しており、社会の底辺にあったサード・エステイト(一般市民)からのメンバーは集会の中で文字どおり差別を受けていたことが記録の中から読み取れる。それは1787年に「平和」のロッジの集会にて、ロッジ指導者が「階級の低い参加者がロッジの品位を毒している」と演説したことであったり、一般市民がロッジに参入する際は、参加者は原則的に平等であるが階級の高い者には特に尊敬の念を払わなければならない、と警告を受けていたことであった(モルネ 1971:556-557)。そして、それでもあらゆる参加者がイギリス思想にある自由と平等の概念にさらされていたのである。メーソンがフランス革命に於いてなんらかの役割を果たしていたとするならば、それはパリにいるメーソン全体の74パーセントを占めた一般市民の心を、革命に備えそれが起これば参加するように準備させたということだった。そして、史実が表すように、フランス革命はパリを中心に爆発しているのである。メーソンの信条と、ロッジの中での差別という矛盾した環境の中で、しかもその矛盾を指摘すること自体が自殺行為であったとすれば、理想を追い求める心理が1788年と1789年、共和国樹立への期待が高まる中で、ベクトルを革命行動に向けていったことは想像に難くない。

確かに、少なくとも1788年にはメーソンに限らず、フランスにいる誰もが自由と平等を語りだしていたという反論もあるだろう。しかし、メーソンはそれ以前に革命を支持した急進派知識人と思想的背景をすでに共有しており、彼等は革命行動にすぐに移ることができたのである。

モルネの研究の失敗は、まさに彼がロッジの議事録やパンフレットなど、目に見える記録を追求していたことが要因であろう。なぜなら、メーソン内部にいた革命の参加者は貴族や聖職者ではなく、その集会での発言がロッジの議事録に残りようもなかった一般人だったからだ。そして、イギリス思想をメーソンから学んだのは別に知識人だけではなく、平民もその対象だったのである。状況証拠を見る限り、メーソンが革命に全く関与していなかったという分析は的外れとなる。メーソン信条を革命という形で実践したのは知識人、ましてやロッジで権力を誇っていた貴族でもない、平民なのである。

グラントリアン並びにその支部ロッジは、イギリスのメーソンと性格を全く異にしてしていた。革命以前のフランスでは自由と平等が論じられる余地がなく、一般に知られているメーソンの知識の伝達手段という役割を果たしていなかった。そして、革命が発生する以前は、メーソンが組織として革命を起こすべく準備することもなかった。グラントリアン思想が革命に関わった形跡がはっきりと読み取れるのは、革命の最中からである。過激派が貴族と聖職者を血祭りに挙げ、理性への信仰を国中に徹底させ、フランス人権宣言にメーソンの象徴であるピラミッド・アイを描いたことは、革命の”最中”で、グラントリアンが関わっていたことを示すものである。

そして、グラントリアンのメンバーが政治的に組織の外で活動しはじめるのも、革命の後からであった。グラントリアンは組織として関与することはなかったが、共にグラントリアンの参入者であったマルクスとエンゲルスが、同じくメーソンと深いかかわりを持っていたロスチャイルド一家の個人的な助言を受け、イギリスのメーソン思想とは異なっていたグラントリアン思想を、共産党宣言を書くことによって政治思想に仕立て上げたことが挙げられる。かくして共産主義という巨大な「死の樹」が世界を脅かすことになったわけであるが、これにはまた別の研究が必要だろう。

脚注:
1 http://www.conspiracywatch.com/fammasons.html はメーソンである世界的指導者のリストを載せている。
2 グラントリアンは今でもフランスのグランドロッジとして存在している。資料の不足により、未だにイギリスのロッジにくらべ無神論的立場を保持しているのかは分からない。
3 イギリス人ロックによる自然法解釈は、後にフランス人ルソーにより人権思想へと発展していった。彼等がメーソンであった物的証拠は存在しないが、この思想の変遷はフランスメーソンの中のイギリス思想がどのように受け入れられていたかを示すものでもある。
4 http://freemasonry.org/psoc/itisman.htm  この興味深いエッセーの中で、メーソンである歴史学者トーマス・ジャクソンは、多くの歴史がメーソンによって作られたにもかかわらず、それが組織ではなくメーソン個人の働きであったため、フリーメーソンの組織自体が歴史研究で顧みられないことを嘆いている。ページトップに戻る

参考文献

Chartier, Roger. The Cultural Origins of the French Revolution. Duke: Durhan. 1991.
茅田 俊一. フリーメーソンとモーツァルト, Tokyo: Kodan-sha. 1997.
Lefebure, Georges. The Coming of the French Revolution. Princeton: New Jersey. 1989.
モルネ, ダニエル. フランス革命の知的起源. Trans. 坂田太郎 and 山田九朗 Tokyo: Keiso-shobo. 1971.
Price, Roger. A Concise History of France. Cambridge: Cambridge. 1993.
Rousseau, Jean Jacques. The Social Contract and other Later Political Writings: Of Social Contract or Principles of Political Right. Ed. Victor Gourevitch. Cambridge: Cambridge. 1997.
吉村, 正和. フリーメーソン:西欧神秘主義の変遷. Tokyo: Kodan-sha. 1989.
Holy Bible: Masonic Edition. Philadelphia: Holman. 1957.
http://www.conspiracywatch.com/fammasons.html
http://freemasonry.org/psoc/itisman.htm
http://www.canonbury.ac.uk/library/lectures/pierre.htm