携帯メールに現れる教育の諸問題

 最近、新聞を読んでいるとよく「携帯メールの…」といった記事を目にする。とくに最近目にした3つの記事を挙げると、
 @講義中、静かと思ったら… 堂々"メール私語"
 Aシアワセですか?B 悩みも「ピッ」人を感じた
 Bニッポンのことば 第1部 何が起きているのか@ 書きしゃべりというものである。これはどれも携帯電話のメールでのやりとりから派生した記事である。
さて、携帯メールの何が教育と関係するんだという方もいるかもしれないが、ちょっと考えてみてほしい。

 まず@だが、これは大学生の講義中における携帯電話のメールによる私語が広がり、本物の私語でやかましかった教室が静かになっているという記事である。記事によると、講義中のメール私語について「周りに迷惑をかけないから構わない」と考えている学生は49%に上ったそうである。ポイントは「周りに迷惑をかけない」ということであろう。

 そしてAだが、これは通信制高校に通うアイコ(仮名)を記者が取材したもので、アイコは親友も彼氏もいて、別に孤独なわけではないが、二日に一度は携帯でメル友を探している。アイコは悩みはなぜか「だれでもいい」メル友に発信するという。以前、何でも話せる親友に相談したとき、後になって「悩みを聞くだけで助けてあげられなかった。つらかった」といわれ、自分もつらくなったからだ。メル友は顔も知らないし心配もかけないからサラッと相談してサラッと返事ができるそうだ。

 最後にBだが、これは『ニッポンのことば』という連載の中で携帯電話のメールやりとりが取り上げられている記事である。記事では、携帯のメールのやり取りは、書き言葉のふりをした話し言葉であり、また携帯メールは時間をかけられない分「ライブ」の魅力を生むとも書かれている。

 以上3記事を考えていくと、@の記事ではマナーやモラルの感覚が問われており、Aでは人間関係のあり方が問われており、Bでは言葉のあり方が問われているような気がする。もっとも、すべての記事はAのように人間関係やコミュニケーションのあり方が考えられることは言うまでもない。

 

 私自身が改めて考えさせられたことは、携帯電話のメール機能からこれほどの問題が提起されうるということである。今、学校教育現場では、さまざまな問題を抱えている。学級崩壊やいじめ、少年犯罪といった問題は、根本的にはマナーやモラルの問題であり、また人間関係の構築過程での問題である。人間関係の構築にはコミュニケーションが不可欠であり、これらの問題は相互に密接するものである。

 このような問題を今や当然のように抱える教育現場において、携帯電話のメール機能から垣間見える問題は極めて多い。その問題を、教育現場はどう解決していくのであろうか。例えば@の記事によると、大学ではカンニングの恐れのある試験時以外は、携帯電話の使用を教員の判断や学生の自主性に任せているそうである。ある教授は、「学生が『他人の迷惑にならない』と判断しても、実際は他の学生に悪影響を与えている。学生がこれを非常識だと思う『常識』を持っていないなら、教員が教えるしかない」と話している。これは大学での話だが、教育現場で考えなければいけない重要なポイントがここにあると思う。

 ――常識というものは何なのか?

 このことを考える機会が教育において非常に減ってきているのではないだろうか?
確かに、マナーやモラルというものは一概に決められるものではないかもしれない。しかし、人はそれぞれ自分の中での常識があり、その中で他人の立場や集団の立場を考えながら生活していくわけである。もっとも他者の立場をわきまえられないこと自体も問題であり、そのことも手伝って個々人の常識のズレが埋まらずに、「非常識だ」ということになるのであろう。

 ならば、この問題の解決はそのズレを埋めていくことにあろう。ここで今度はコミュニケーションの問題が出てくる。しかし、今やそのコミュニケーションが携帯メールによって対面から非対面の関係に変わってしまっている。しかも、そこでの言語体系は「書き言葉のふりをした話し言葉」であり、「ら抜き言葉」など短縮語が当たり前となり、日本語の体系自体が変化しつつある。ここには人間関係構築のためのコミュニケーション体系の問題と言語問題が混在している。

 このように、なにやら問題は芋づる式に絡み合っていて、書いている私も携帯メールによる弊害を把握しきれなくなってきている。しかし、一つだけしっかり考えられることがある。この携帯メールをただの「弊害」とだけとらえるのではなく、携帯メール現象からこれら諸問題の解決の道を探る可能性を持つ必要がある、ということである。

 今まで教育は常にどこかに押し付けの要素を抱え、常に決められた「常識」を教え込もうとしていた。しかし、社会は変化し、子どもたちも変化しているのである。たとえ仮に学校で携帯電話をすべて禁止したところで、学校外では携帯のコミュニケーションに花が咲くのである。であれば、やみくもに携帯電話を禁止するのではなく、教師・学校が、そして親が、広く言えば大人たちが、なぜ今の子どもたちが携帯メールに頼り、なぜそのような常識を持ち、なぜそのようなコミュニケーションを取るのかを、しっかりと理解して、子どもたちと一緒になって考えていくべきである。

 これ以上「常識」のミゾを深めないために、大人と子どもが一緒になってよりよい「常識」を創っていくことが、今教育に求めるべきことでないだろうか。

参考文献?:
 @朝日新聞2001年1月6日(土)
 A朝日新聞2001年1月6日(土)夕刊
 B朝日新聞2001年1月7日(日)