提出論文要旨

♪あ〜ぁん、やんなっちゃった

これは私が学部卒業にむけて書いた卒業論文『「お笑い構造分析」〜「漫才コミュニケーション」とその笑いの考察』を
削って削ってようやくここまでの分量にしたものです。
そして同時にこれが、修士論文へのスタートラインでもあります。


この論文は、人間の感情表現のひとつである「笑う」ということ、そしてそれを、個々の共通情報が薄いと思われる「大衆」を相手にある種の共通性を持たせて発生させる「お笑い」というものを対象としている。「笑い」とは、ある種の共通情報の共有なくしては発生しにくい現象であると考える。しかし「お笑い」というものは、その肝心の共通情報の共有が薄いと思われる「大衆」を対象として発達し、今やある程度の「確実性」を持った商売として成立している。私はその現象に疑問を感じた。それについて、言語コミュニケーションの観点から分析を試みる、それが論文の発端である。

当論文は大きく分けて二つの部分から成り立っている。ひとつは「笑う」という感情表現の原因について、「笑い」一般への分析を試みている。そして第二部では、第一部での考察を基に、「お笑い」という大衆演芸について、その「笑わせる」企み・構造についての分析を、実例を含めて試みている。



第一部

第一部では「笑う」という感情表現一般についての考察を行っているわけだが、そのポイントは「違和感」である。

第一章

第一章では「笑う」という行為についての考察を行っている。心理学において「適応機制」という考え方がある。これは『「ストレス(心理的変化を及ぼす力。この場合は程度の大小は問わない)」と感じている環境を変化させようとする行動』のことである。人間は「ストレスを感じてしまうような環境」から刺激を受け、その環境の変化に適応しようと「反応」を起こし、環境との関係をできるかぎり自らの過ごしやすいものにしようと努力する。それは「笑い」についても同様ではないかと、私は考える。つまり「笑い」とは、ある現象(視覚的・言語的どちらも含む)に対し、受容者が「違和感」を抱き、そこに生じた「ズレ」を修正・解消するための適応機制であると考えるのである。そしてその「違和感」とは、『予測とは違った出来事を体験したときに発生する「ズレ」に対する感覚』であると結論づけている。

第二章

第二章では、今度は「笑わせる」側からこの感情表現を考えている。前章で「違和感」に原因を見出したわけだが、今度はその「違和感」を人工的に発生させる条件、そしてその「違和感」を「快い笑い」というベクトルへ確実に方向づけるにはどのようにすればよいのか、についてここでは考えている。
まず前者の問題であるが、まず「違和感」というものを、グライスの「関連性の原則」とベルクソンの「笑い」に関する考察をヒントに、一種の「関連性の捻じ曲げ、加負荷」であると考え、それを発生させるには受容者の抱いた予測を「裏切る」ことが必要であると考えた。それについて私は「裏切りの条件」として次の三つを提示している。それは以下の

  1. 『相互認知環境の共有の確立』
  2. 『聞き手に「裏切り」の事実を悟らせない』
  3. 『聞き手に「裏切り」の発生事実を、自主的に、認識させる』

である。@)は、まず何を対象に「裏切り」を目論んでいるのかということを、受容者がある程度理解している必要がある、ということである。そしてA)は、その「裏切り」を「観衆」に気づかせない、つまり「ネタばれ」を防ぎ「観衆」の予測の範囲に「裏切り」の内容を含ませないことを意味している。最後のB)は、「裏切り」が発生した後に、その事実を自主的に認識し、「観衆」自らの手でその「違和感」を修正・解消させることの必要性を意味している。この三つの条件が、私の論文の生命線となる。
そして後者の問題については、「下ネタ」を考察している。当論文においての「下ネタ」の定義は、「汚物などの汚いもの、またはセックスに関する話題や性的な表現を使って笑わせようとするものである。また「下品な笑い」という大きな区分においては、身障者などをネタにしたものも含まれる 。」としている。ここでは実例と林達夫氏、柳田国男氏の考察を基に、「下ネタ」に対する世代間での反応の違い、また同世代における個人間での反応の違いから、それぞれにおける「違和感」の結びつく「笑い」の方向性について考察を試みている。 これらの一般的な「笑い」に関する考察を軸に、第二部以降では今度は対象を「大衆演芸」に設定して考察を続けている。



第二部

第二部では、第一部での考察を基に「大衆演芸」での「笑わせる構造」についての分析を試みている。先に述べたように、「大衆演芸」における「笑い」の考察の上で私が最も重要視している事柄は、「大衆」との関係である。「大衆」とは、個人を対象とした場合と異なり、共通性の低い集団であり、それらに「裏切り」を試み、ある程度同時発生的に「笑い」を巻き起こし、それをある種の「確実性」を持った商品として成立させるには、多くの超えなければならない問題がある。しかし現に「お笑い」は世の中の大多数を笑わせ、ある種の「確実性」と持った商品として成立している。この難しい問題をクリアしている構造について、第二部では考えている。

序章

まず序章では、第一部での考察をもう一度捉え直した上で、「お笑い」を担う「お笑い芸人」と呼ばれる人々が「笑い」を目論む上で抱える宿命的な問題点を浮き彫りにし、その宿命を打ち破る方法としての「落語」「コント」「漫才」を考えている。「お笑い芸人」の抱える宿命、それは彼ら自身が既に、「笑い」つまり「裏切り」を想起させる存在であり、これは「裏切りの条件A」『聞き手に「裏切り」の事実を悟らせない』を達成する上で大きな支障となりうる。そこで「その支障を取り除く方法」という観点から先に挙げた三つの方法を捉え、それぞれの演芸における「観衆とのコミュニケーション」の違いを述べている。

第一章

第一章では、先に挙げた「大衆演芸」の方法のうち「漫才」を取り上げ、その歴史を概観している。
一口に「マンザイ」と言っても、歴史的視点に立てば、数多くの変遷を遂げてきている。現在の主流となっている「漫才」とは主に大正時代に関西に現れた「横山エンタツ・花菱アチャコ」が始めた「しゃべり漫才」にその源泉を持っている。それは、本来踊りや謡などの「芸能」色が強かった「マンザイ」が、「対話芸」、すなわち「コミュニケーション」によって「笑い」を目論む芸に変わることを意味していた。そこで第二章からは、現在の主流となった「しゃべり漫才」を焦点に、その「コミュニケーション」について考察を加えている。

第二章−1

"第二章−1"では、まず「しゃべり漫才」の分類を行っている。「しゃべり」とはいえ、そこには「観衆を笑わせる」という大目標の元に様々な手法がある。

第二章−2

"第二章−2"では、それらを基に今度は「観衆」を目の前にした際の「漫才空間」に生まれる「コミュニケーション環境」というものを考えている。「漫才空間」とは、当論文では「二人以上の人間が対話する形態」と定義しているのだが、そこには舞台上での芸人同士のコミュニケーションと「観衆」を対象としているコミュニケーションが同居している空間である。前者を「舞台上のコミュニケーション」、後者を「観衆方向のコミュニケーション」とここでは名付けている。「漫才」は「対話芸」である以上、舞台上でのコミュニケーションを欠くことはできず、また「観衆を笑わせる」ことを最終目標としているからには「観衆」とのコミュニケーションも欠かすことはできない。つまり「漫才」とはこの二つのコミュニケーションが同居した高度なコミュニケーションであると、私は考えている。そしてこの二つのコミュニケーションを基に、「漫才」と「コント」の違い、また「ぼやき漫才」と呼ばれる手法について言及している。

第二章−3

"第二章−3"では、この「漫才コミュニケーション」においての「ボケ」と「ツッコミ」の果たす役割について、実例を含めて言及している。「漫才」には基本的に「ボケ」と「ツッコミ」の二つの役割が存在している。そしてそれぞれに「観衆方向のコミュニケーション」において必要不可欠な役割を果たしている。そのことをここでは、「ボケ」「ツッコミ」双方に個別に考察を試みている。「ボケ」については、その重要性は「裏切り」の発生にあると考え、その方法を、いくつか具体例を盛り込みながら言及している。また「ツッコミ」についてはその役割を大きく4つに分類し、そのひとつひとつについての考察を、具体例を盛り込みつつ行っている。4つの役割の内訳は次のようになっている。

  1. リズムの発生
  2. 流れの保持
  3. 「観衆」の代弁者
  4. 「観衆」と「ボケ」の距離を調節する解説者

"1","2"については「形式上の役割」、"3","4"については「舞台と観衆の関係における役割」としているのだが、前者は主に「舞台上のコミュニケーション」における役割であり、後者は主に「観衆方向のコミュニケーション」に果たす役割が大きい。特に後者は、その役割が「裏切りの発生条件」の達成において「ツッコミ」という存在が大変重要なファクターであることを強調しているつもりである。またこれらの役割が互いに関連しあって「舞台」と「観衆」を「笑い」に適した環境に設定し、理解を助け、「ボケ」の目論む「ズレ」が最大限の効果を挙げる上で非常に大きな役割を果たしていることを「ツッコミの重要性」と題して、実例分析を含みつつ述べている。そして「ボケ」と「ツッコミ」の関係の変化について、「横山やすし・西川きよし」の漫才と井上宏氏の見解を基に、「ボケとツッコミのあり方の変化」として考察を加えている。

第三章

第三章は「ネタの構造」と題して、実際のネタ台本を基に、そこで行われている「観衆」との「相互認知環境の共有」のプロセスについて考えている。対象としたものは、「横山エンタツ・花菱アチャコ」の代表的ネタである「早慶戦」、現在も第一線で活躍中の「オール阪神・巨人」の「マンザイブーム」期におけるネタのひとつ、そして「相互認知環境の共有に与えるマスコミの影響」について「横山やすし・西川きよし」のネタ分析、と以上の三組について考察を試みた。 まず「エンタツ・アチャコ」の分析では、そのネタを基に、言語による「相互認知環境の共有」とその「裏切り」について考えている。そして「阪神・巨人」のネタ分析では、多数派概念としての「常識」の設定とその「裏切り」について、さらに「やすし・きよし」ではその「常識」形成に多大な影響力を持つ「マスコミ」の存在も交えて、今度は「芸人個人の情報が相互認知環境となる過程でのマスコミの影響」について考えている。

補章

ここでは第三章で触れた「横山やすし・西川きよし」の分析から、本来「お笑い芸人」にとって宿命的弱点とも言える「宿命的記号」が、ある時点から絶対的利点となる過程、そしてそこから「お笑い」というものが「笑いの発生」を約束し、ある種の「確実性」を持った商品として成立する理由を、1980年代に巻き起こった「マンザイブーム」を通して、当時の資料なども交えつつ、考えている。そこでは「お笑い芸人」の持つ「宿命的記号」がある時期を境に固有の「ブランド」として独自の信頼性とイメージを持ち、それによって「お笑い」は、等価交換や購買者の満足など、ある種の「確実性」を持った商品として成立し、商業として成り立つ由縁となっている、と結論づけている。



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