これをやるつもりでいるのですが…。

USAでもイラン人

2001年の2月、私はこの研究計画によって大学院に入ることになりました。
したがってこの計画を基に研究することになっています。…進んでいませんが。
現在、挫折に近い状態です。通学時間に1日3時間取られる生活…、そろそろきつい。


「笑い」とは「おもしろい」「たのしい」などのポジティブな感情ばかりではなく、時として「悲しさ」「つらさ」などのネガティブな感情すら表現する。ところが多くの「笑い」に関する書物を見れば、そのほとんどが「笑い」をポジティブな感情と結びつけて語っている。しかし「笑い」とはそのように一面的な感情を表現するものではなくもっと多義的なものではないか、と私は思うのである。このような考えからこの論文はから始まった。

古来、幾人もの知識人たちがこの「笑い」というものを論じてきた。しかし、この感情表現の難しい点はその「個人差」であった。ポジティブであろうとネガティブであろうと、「笑い」を扱う問題にはすべて、その多義的な要素も含めて個人による感受性の差が立ち現れてくる。まずこの「個人の多義性」が大きな問題であった。結論から言って、この「個人差」を論じることは不可能である。

「笑い」はそれほどまでに多義的でその発露も個人によって異なるにもかかわらず、だがそれを人工的に引き起こし、ある「確実性」の元に成立させる商売がある。それが「お笑い」である。彼らはこの「個人差」によって語ることを困難としてきた感情表現を、"ビジネス"というある「確実性」の元に人工的に引き起こしてきた。

しかも「観衆」という共通性のほとんど見られない未知の集合体を相手にしてである。

「笑い」が明確なまでの「個人差」を有するものならば、なぜ彼らはある「確実性」の元により多くの「観衆」を、一度に笑わせることが可能なのであろうか? 私は、この感情表現が、「個人差」の中にもある「共通性」を持っていることを、「大衆演芸」としての「お笑い」は意味しているのではないか、と考えた。

私はこのジレンマを不思議に思った。そしてこの様々な感情表現を担う「笑い」というものが、「快い」というポジティブな方向においてのみ、「観衆」という共通性の薄い集合体を前に、一斉に、ある「確実性」を持って引き起こされるという現象に私は強い興味を抱いた。そして笑いの多義性から始まった私の興味は次第に「大衆演芸」における「お笑い」の持つ「笑わせる構造」へと向かった。

この論文は大きく二部構成となっている。

第一部はこの論文の基礎編である。
「笑い」とは多義的で個人差の強いものである。しかし「個人差」を持ったままで「お笑い」を論じることは非常に難しい。したがって私はまず「笑い」から「個人差」というものをできるだけ捨象し、ある「共通性」を導き出すことをしなければならなかった。ここでは広義での「笑い」という現象一般についての私なりの考察を、「コミュニケーション」という観点を中心に試みる。

そして第二部では第一部の内容を踏まえて、今度は「大衆演芸」としての「お笑い」を「コミュニケーション」という観点から考察する。 さて「笑い」という感情表現に一応の「共通性」を見出した後、私はそれを、今度は「大衆演芸」の「お笑い」という区分で捉えなおす。「大衆演芸」とは広義で言う「コミュニケーション」のひとつである。それは言語・非言語問わず様々なあらゆる有効と思われる"方法"を用いて、「観衆を笑わせる」という明確な目的の元に行われる表現活動である。次に私はそれらの"方法"についての考察を行う。それらを序章『「お笑い」の概要』で試みる。

そしてさらに、私はそれらの考察を通して「お笑い芸人」の持つ「記号的宿命」というものを考えた。先に申し上げた"方法"はまさにこの「記号的宿命」との格闘であった。中でも「漫才」という"方法" その大部分を「複数間で行う言語コミュニケーション」によって成り立っていて、さらにその「コミュニケーション」も特異なものであった。第一章ではこの「漫才」にスポットを当て、概略として「漫才」の歴史を簡単に触れる。

そして第二章では実際に「しゃべり漫才」を分析し、その中にある「笑わせる構造」というものを、様々な「機能」という観点から考察を試みる。。「漫才」には基本的に「ボケ」と「ツッコミ」の二つの役割が存在している。そしてそれぞれに「観衆方向のコミュニケーション」において必要不可欠な役割を果たしている。そのことをここでは、「ボケ」「ツッコミ」双方に個別に考察を試みている。「ボケ」については、その重要性は「裏切り」の発生にあると考え、その方法を、いくつか具体例を盛り込みながら言及している。また「ツッコミ」についてはその役割を大きく4つに分類し、そのひとつひとつについての考察を、具体例を盛り込みつつ行っている。4つの役割の内訳は次のようになっている。

  1. リズムの発生
  2. 流れの保持
  3. 「観衆」の代弁者
  4. 「観衆」と「ボケ」の距離を調節する解説者
("1","2"については「形式上の役割」、"3","4"については「舞台と観衆の関係における役割」としているのだが、前者は主に「舞台上のコミュニケーション」における役割であり、後者は主に「観衆方向のコミュニケーション」に果たす役割が大きい。特に後者は、その役割が「裏切りの発生条件」の達成において「ツッコミ」という存在が大変重要なファクターであることを強調しているつもりである。またこれらの役割が互いに関連しあって「舞台」と「観衆」を「笑い」に適した環境に設定し、理解を助け、「ボケ」の目論む「ズレ」が最大限の効果を挙げる上で非常に大きな役割を果たしていることを「ツッコミの重要性」と題して、実例分析を含みつつ述べている。そして「ボケ」と「ツッコミ」の関係の変化について、「横山やすし・西川きよし」の漫才と井上宏氏の見解を基に、「ボケとツッコミのあり方の変化」として考察を加えている。)

それを受けて第三章では、今度はその中で行われている「観衆」とのコミュニケーションと「笑い」の発生するまでのプロセスを実際にいくつかの実作を取り上げ、考察を試みる。  

最後に補章として、このような「個人差」の激しいと言われる感情表現である「笑い」を「お笑い芸人」たちはある「確実性」を持って引き起こすことができるのか、またその時の「観衆」の抱く感情などを取りaまとめながら、『「記号的宿命」を超えて』と題して考察を試みる。

以上がこの論文の概略である。

この論文の主幹となるものがいくつかある。

第一は「裏切り」という考え方である。これは第一部から第二部までを通しての私の論文の最も重要な考え方のひとつであるのだが、この「裏切り」こそが「笑い」という感情表現の大きな原因であり、また「個人差」の根底にあるある種の「共通性」のカギを握るものだと私は考える。

そして第二には「記号的宿命」である。これは主に第二部を通して「お笑い芸人」という存在が宿命的に持ってしまうもので、この「記号」をいかに克服し、「お笑い」という過程の中でどのように変化していくのかということが、私の論文を貫く第二の主題となっている。第二部を通すことで最終的にこの「記号」がいかなる変化を持つかということがおわかりいただけると思う。

この問題の性質上、また「大衆演芸」をこのような観点から分析しようという試みは、私の知る限りあまり行われてきていなかったものであったため、専門的な深い考察というよりもどちらかというと「演芸史」と「コミュニケーション論」の学際的な内容となっている。したがって、一方では「演芸史」に筆を尽くし、また一方では「コミュニケーション論」の立場からの分析というように、なかなか一本化された論文とは言いにくいかもしれない。しかし、「お笑い」特に「漫才」のコミュニケーション論的な構造、そしてその"ビジネス"として現在まで発展してきた所以とその陰にある多くの芸人たちの努力を少しでも感じとっていただければ私としては幸いである。


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