大学院試験を考えたときの方向性

HIROSHI IKUSHIMA

これは私が大学院受験を考えたとき、頭に浮かんだ方向性を思い当たる大学の研究科に送ったものです。
  反応は…、悲喜交々でした。


私は「大衆演芸」、特に漫才・コントに焦点を当て、その「笑わせる」構造について、
語用論・意味論・記号論などのコミュニケーション理論を使いながら分析したいと考えている。

卒業論文では、

…等のアプローチを試み、

「言語・非言語を含むコミュニケーション」、「芸人と観衆の社会的な関係、また心理的な関係」などを考えながら制作に取り組んだ。

漫才とは、二人ないしそれ以上の人間が舞台上で繰り広げる会話を元に観衆を笑わせるものである。それは、舞台上の人間同士のコミュニケーションがあると同時に、そのコミュニケーションを聞くという形で観衆ともコミュニケーションをとるという、並列関係にある二つのコミュニケーションが繰り広げられる複雑な構造を持っている。その点で落語や漫談(さらに言えば欧米のStand-up Comedy)などのように、1人対大勢という、ひとつのコミュニケーションを基本に行われる話芸とは一線を画するものがある。

さらに、「お笑い」とはその観衆を笑わせてこそのものである。そこには本来のコミュニケーションを基盤に「裏切り」といったようなもうひとつのコミュニケーションが存在する。その「笑わせる」という行為、それはどのような形のコミュニケーションによって生まれるのだろうか。

古今東西、芸能史的立場からの「大衆演芸」の研究、また日常における「笑い」そのものにたいする分析は数多く行われてきたが、これらの両者を併せた研究はなされていないのではないだろうか?

私が思うに、コミュニケーションとは話者の発話に対し聞き手が、使えると思われるあらゆる情報を駆使して推論を加え進行するものである。それには話者と聞き手とが共有する情報量が大きく作用するはずである。しかし大衆演芸において、発話者たる芸人は、言語・非言語のコミュニケーションのみで、「大衆」というほとんど共通性を持ち合わせていないような集団を相手に「笑い」をとらなければならない。テレビなどのマスメディアを通過して顔も見えない大衆を相手としたときは尚更である。普通に考えればこれは頗る難しい作業である。しかし現在のお笑い隆盛の状況を考えるに、彼らはこの困難極まりない作業を見事に成し遂げているのである。その現象は充分に研究に足る要素を含んでいるだろう。

これらの疑問に対し、私は先に述べたコミュニケーションのスタンスからその構造を分析し、将来的にはそのスタンスから「お笑い芸能」全般への言及、もしくは文化的な比較も視野に入れつつ、何かしらを形に残していきたいと考えている。


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