◆がたぴし
擬音語・擬態語辞典によれば、「がたがた」と「ぴしぴし」が混ざった複雑な感じの不協和音ということで、「かたい物がぶつかり合ったり揺れ動いたりして出る騒々しい音。またその様子。」が最初の意味です。そこから、「組織や経営、人間関係などが噛み合わず円滑に行かない様子」にも使い、「肉体的に衰えて、体が痛みやすくなったり、弱ったりする様子」を表すこともある。その上「破産する」という意味の隠語でもあるらしい。
 擬音語の「がたぴし」に「我他彼此」と漢字を当てることがある。「我他彼此」(がたひし)は仏教語で、対立して争いが絶えないことを意味する。
≪我(自)と他≫自分と他人、≪彼(かれ)と此(これ)≫あれとこれ、といった二項の対立、他にも、有と無、賛成と反対、正と誤などなど。最近も国会で賛成か反対かでモメていたのは新しいところです。
対立の構図をはっきりさせると、不協和音が目立つようになり、争いやモメ事になってしまう。そうなると、賛成反対、白黒ふくめた全体が円滑に進まなくなり、弱っていってしまうのかもしれません。

(2015

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行者
問題です。
「行者」はなんと読むでしょうか?
@ぎょうじゃ Aあんじゃ
答えは両方です。
@ぎょうじゃ 仏道を修行する人。(日本語での特別な意味として)修験道を修行する人。修行者のことです。真言行者・法華行者とか、どうも苦行・荒行の難行・苦行の厳しい厳しいイメージがありますね。
Aあんじゃ 日本では,禅宗で得度・未得度(僧侶・俗人)をとわず,寺の住持(住職)や重役に従って雑用を行う修行者をいう。
私どもは、日々お仏壇の仏さまに、お水(茶)・お香(線香)・お花・お仏飯・お灯明といった供養をして給仕しております。これも立派な修行ではないかな、と思いますが、いかがでしょう。

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ひとりぼっち
今度は、漢字で書いてみましょう。「ひとり」は独り、「ぼっち」は法師と書きます。たったひとりでいること、孤独であること、という意味ですね。
辞書には「法師」とは、僧、出家(仏法に精通し人々の師となる者)のこと。または、男の子(昔、男の子は頭髪を剃っていたところから)。
 法師・僧侶は生涯独り身で、ある意味、束縛されない自由の身でもあります。だからヒトリボッチというのか、と想像してしまいますが、そこはアヤシイ 霊元丈法師の著書「あっと驚く仏教語」によれば―平安末にいた大きな寺の警備にあたる僧兵は、集団で朝廷などに力ずくでの訴えを繰り返したり、他宗への迫害をしたりしましたので、山法師といって恐れられていました。その乱暴な山法師も、たった一人では何もできません。大男ほど侘しい後ろ姿です。また、法師の僧服は、短くて小僧さんのようでしたから、元気のいい子を法師とか坊主とか呼ぶようになりました。―とあります。

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機嫌・譏嫌 きげん
みなさま、ご機嫌いかがでしょうか。そういえば、九月末まで、ほぼ毎朝「御機嫌よう、さようなら」と、耳にしていました。
さて、この言葉が仏教用語だったとは、つい最近まで知りませんでした。国語辞書では、
@〔仏教〕世の人のそしりきらうこと。(多く「譏嫌」と書く。)
A〔他人の〕健康の状態。
B快・不快などの気分。
Cいい気分であること。楽しい気分であること。
それにしても、≪そしり嫌うこと≫と≪いい気分≫とが、おなじ言葉とはビックリです。原語では≪ジュグプサナ≫で、漢字で「譏嫌」。そしり嫌う、嫌悪が、元々の意味です。
仏教の戒律の中に「譏嫌戒」という戒があり、行為それ自体は悪ではないが、世間のそしりを除くために制定したのだそうです。例えば、「酒を飲まない」「ニンニク・ネギ・ニラなどの五葷と呼ばれるものを食べない」。(何とも私にはつらいです。)
どうも、他人のそしりや嫌悪を招かないようにすると、ひとさまの気分を害することもない。そんなところから、機嫌という言葉に「気分」の意味が出てくるのではないでしょうか?

ということで、今回のこのコーナーも終わりです。「御機嫌よう、さようなら」
※朝ドラ「花子とアン」のナレーションの方のお名前がこの冊子の中にありますヨ。探してみてください。

(2014)

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善処 善所
善処」というと、「善処する」の形で使われることが多いのかしら?その場合、「物事をうまく処置する・処理する」の意味で用いられます。ただ、この場合には、どうも「とりあえず、その場をおさめるために」使われるケースが多い気がします。
 しかし、仏教で使われる「善処」は「六道輪廻の世界において、善業の功徳によって衆生が赴くよい境涯」のことです。つまり、「来世に生れる善い場所」、具体的には、人間界・天上界(天上の神々の世界)の二つを指し、お浄土(極楽など)を含む場合があります。
 ということで、私も、善処を目指すべく、可及的速やかに善処いたす所存であります。



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ふとん
 最近では「ふとんがフッとんだー」と言って、子どもたちから「オヤジのダジャレ、寒ッ!」と、あしらわれる寂しい父が、このコーナーを担当しております。
 ふとんの漢字、「布団」は当て字で、元は「蒲団」だそうです。その上《ふとん》と読むのは、唐音だからだそうです。禅宗とともに中国から入ったという。もともと蒲団は、座禅をするときに尻の下に敷いて使う布製の丸い敷物(円座のこと)で、布のなかに蒲(がま)などが詰められていたから、「蒲」の字があります。
 寝具を「ふとん」と呼ぶようになるのは、江戸時代になってからで、それまでは、しとね(しきぶとん)と、ふすま(かけぶとん)と呼んでいたそうです。
 ちなみに、ふとんは冬の季語。でも私は俳句より歌がいい、シング・ア・僧#b#b



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言語道断

 この言葉、私は間違って《言語》+《道断》だと、最近まで誤解したままでした。《言語道》を《断》ずるのことなのですね。お恥ずかしい・・・。

 今よく使われている意味は、「とんでもないこと。もってのほかのこと。」で、たまに使われるのは「口ではとうてい言い表せないこと。」です。そして仏教語としては、「言語で説明する道の絶えた意。仏教の奥深い真理はことばで説明することができないこと」を言います。

 《言語で説明する道》とは、言い換えれば、言葉を使っている私たちの世界、凡夫の生活、俗世のあり方と言えましょう。言語の道が断たれたところに「お覚り」があるということです。仏教は基本的に言葉を信じていません。

 維摩経というお経の中で、教えを説くのに香りをもってする衆香国という最上香台如来の国土(お浄土)が出てきます。そして、そこでは説法を聞くことを聞香(もんこう)というと。

 つまり、言語の道が途絶えたところに、仏さまの世界が広がっているということなのです。以心伝心、不立文字などが同義語といえましょう。

 巷で使われる「もってのほか」という意味とは正反対のものとして、よいこととして、すばらしいものとして仏教では、この言葉を使います。

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入院退院

 もし、「すみません、わたしお寺に入院することになりました。」といわれたならば、何か変な感じがします。
 入院というと、「どこかお体の具合がわるいのですか?」と言いたくなりますものね。
 確かに辞典には「患者が治療・検査を受けるために一定期間病院に入ること。」という意味が載っていますが、もう一つ、仏教での使い方が載っております。「僧が寺院に入り住職となること。」と。
 同義語として晋山、入山などがあります。

 ということは、「退院」は、@入院していた患者が治って病院を出ることであり、A住職の地位を退くことになります。
 こうなると、果たして入院するのがいいのか、退院するのがいいのか、よく分らなくなってしまいます。どっちでもいいんじゃない、なんて言わないでね。
 さしずめ二十五年の間、拙僧、入院したままだ。

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猫も杓子も

 猫も杓子も、といえば「どんな人も。誰も彼も。どいつもこいつも。」として使われている言葉ですが、寛文八年の「一休咄」(いっきゅうばなし)で、一休さんの歌と伝えられている「生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も」が、始まりと言われています。

 それでも、「猫も杓子も」が腑に落ちません。語源は沢山あるのですが、私もお坊さんですから、一説の「禰宜も杓子も」これがいいかな、と思ったのです。

ネコは猫でなくて禰宜(ねぎ)つまり、「神職の一つ。宮司または神主に次ぐ。また、ひろく神職のこと。」

シャクシは、杓子でなくて釈氏(しゃくし)つまり、「お釈迦さま。または、仏道にはいった人、僧侶、仏家。」の意味。

これで、《神道でも仏教でも》となり、「誰も彼も」が想像できます。

 今では、神道と仏教と区別されておりますが、明治時代に廃仏毀釈が行われるまでのおよそ千年の間は、神仏習合、神と仏が同じとされていました。対立することなく宗教的平和を実現していたのです。

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涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)

一より小さい数(小数)に「涅槃寂静」という位がございます。

0.000000000000000000000001=涅槃寂静

最近耳にする「ナノ」ですら 0.000000001 ですから、それよりももっともっと小さい。

仏教の用語として辞書には、「三法印の一つ。煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静かな安らぎの境地(寂静)であるということ。」と載っています。

そして、三法印とは、仏教教理を特徴づける三つの根本的教説のこと。すなわち、
@あらゆる現象は変化してやまない(諸行無常)、
Aいかなる存在も不変の本質を有しない(諸法無我)、
B涅槃寂静の三つを言います。
これに「一切皆苦」を加えて四法印とすることもあります。

こんなに小さいことがらまでも揺らがず、静かに平和であることが、仏さまのお悟りの境地なのかと想像します。

しかしながら、大きなもの(那由多 なゆた・不可思議 ふかしぎ)から小さなものまで、数には、なぜか仏教が関係していますね。

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