あの花火の音に掻き消されたのは







人熱れと雑踏。
蒸し暑い空気を時折凪いでいく微かに涼やかな夜風。
川岸にある公園の遊歩道は溢れる人々でごった返していた。
今日は夏祭りの最大イベント、花火大会の日である。



夏季合宿のはじめての週末。
チームワークのため親睦を深めるという理由で。
近所で開催されている夏祭りにアメフト部の連中は全員参加する事になった。
そこで行われる花火大会はなかなかに大きなもので、その界隈の人々では知らない者がいないくらいの規模のものだ。
ただの一部員が知る由はなかったが予め合宿の予定に組み込まれていたのだろう。
そういえば、先輩達は朝から少しばかり浮き足立っていたような気がする。
と、筧は会場に向かいながらぼんやりと思った。
夕食も、早めの風呂も、終えた今でもまだどこか空の遠いところは明るい。
だけどもその透明な薄藍色は花火が上がる頃には真っ黒に塗り潰されているだろう。



数十人がぞろぞろと道を往く姿は人目を引いたが、祭の提灯が見え始めるとそれも不自然にはならなくなった。
その数十、数百倍の人々にあっという間に飲み込まれたからだ。
それでも部長の小判鮫を筆頭に、3年の部員から順に固まりになって人ごみを抜けていく。
特に会場に着いてからの行動に指示や説明はなかった。
けれど、『親睦を深める』という名目のもと、皆と行動を共にするのが当たり前と思われる。
実は留学などでここ数年祭になど来た事がなかった筧は、辺りをきょろきょろと見回しながら最後尾で部員達に付いて行っていた。

その、筧の。
隣から手が伸びた。
そしてそれは筧の掌をぎゅっと握り締めて手を繋いだのだった。

「…水町。」
「ん?ナニ?筧。」
「何って…これは何だ?」
水町に繋がれた手を、少し挙げる。
なぜ、手を繋がなければならないのか。
「ん、はぐれねーよーに。」
「はぐれ…って…」
事も無げに言った水町の顔を筧は見た。
いつものどこかとぼけたような顔で水町は笑っている。
「いや、子供じゃねーんだし…それに、」
一旦、繋いだ手を見。
そして顔を上げて人ごみの前方へ筧は目を向けた。
数え切れない程の黒い頭の波の中、ぽつぽつと飛び出した頭が見える。
そのうちの特に高い二つの影は、明らかに大平と大西のものだった。
それに。
水町と筧だって、辺りからは頭ひとつ分飛び出しているのだ。
手など繋がなくとも、はぐれるなんて有り得ないのではないだろうか。
そう思った筧は。
「…俺やお前が、はぐれる訳ねえだろ。」
だから、手を離せよ。
と、そういうつもりで水町に言ったのだ。
けれど。
「んなこと解んねーじゃん。」
そう言うと水町は繋いだ手はそのままに、筧を引っ張るようにして歩き出したのだった。



熱い、と筧は思った。
夏の、人熱れの、暑さだけではなく。
水町と繋いだ掌からじわりと熱が伝わる気がすると。

しっかりと、まるで逃げられないようにとさえ思えるほどに強く握られた手。
いや実際、筧は逃げた。
手を振り解いたのは3度ほど。
けれどその度に水町は黙ってまた手を握り締めにくるのだ。
あの人懐こい笑顔で。
だから、もう。
筧は諦めてしまった。
だから、何度も伸びてくる水町の手を拒まなくなっていた。
そうすると、水町はとても嬉しそうに。
でもどこか泣きそうな顔で笑ったのだ。
その顔を見た筧は、ますますもって手を離す事など出来なくなってしまったのだった。


熱い、と感じながらも実際手を繋いでいると意外にも気付かれない事に筧は気が付いた。
前も後ろも横にも人がぎっしり密集していて、互いの足元なんか見えやしない。
その上、その人々は様々な露店に気もそぞろなのだ。
他人の事などわざわざじっくり観察するような人などいない。
先を行くアメフト部員だってそうだ。
2、3列前を行く大平や大西が時折振り返って筧達に話し掛けてくるが、向こうからは人の陰になって胸から下は見えないから気付かない。
それに水町は自分が露店で何か買う時など人目に触れるところでは手を離していた。
そんな状況だったので。
買い物が終ってまた当たり前のように伸ばされる水町の手を。
筧は渋々ながらも受け取って握り返すようにさえなっていた。



手を繋いで。
一体どこから集まってきたのかと不思議に思うほどに続く露店が並ぶ道を、人ごみの流れに沿って歩く。
その道すがら、水町は呆れる位に買い物をしていた。
アメリカンドッグにイカフライ、リンゴ飴、たこ焼き、フライドポテト。
ピカチュウのお面によく解らない暗闇で光る腕輪。
そしていかにも体に悪そうな色をしたジュースを二つ。
持ちきれなくなった分は筧に持たせてまで。
それに筧は、手を離せばいいのに、と思ったが口には出さないでいた。
代わりに。
「おい、こんなにいっぺんに買ってどーすんだよ?せめて何か食ってから買えよ。」
そう言った筧に。
デカイ手に2つのジュースを易々と持った水町がにやりと笑った。
「これは今食うんじゃねーの!後で花火見ながら食うんだって。」
「ああ、ならいいけどよ…にしても、今からそんなに買わなくったってよ。」
腕時計を見ると、まだ7時半前だった。
花火大会は8時からと聞いている。
今からではどれもこれも冷めてしまうのではないか。
そう思って見返すと水町と目が合った。
そうすると。
まさに悪戯っ子、といった顔で笑ったのだ。
それを見た筧に急速にいやな予感が襲う。
そしてそれは勿論外れる事はなくて。
「花火見んの、俺の知ってる特等席からにしねえ?」
水町はそう言うと筧の返事を聞くこともせずに歩き出した。
手を繋いだままで。

かくして筧は、水町に引き摺られるようにして人ごみから連れ出されたのだった。





そこはまさに穴場といったところだった。
あれから水町はぐんぐん歩いて、かれこれ20分は掛けてその場所へやって来た。
公園の川岸から対岸へ掛かる橋を渡り、そこにもある人ごみを掻い潜ってわき道に逸れて。
土手を越え、暗くなって隠れるようになった細い小道へ踏み入る。
すると、小さなボートがひとつ寄せてある、簡易な木製の船着場が見えてきたのだ。
後ろの方で遠く、人々のざわめきが聞こえる。
そして対岸には幾つもの提灯が連なり、その下にある土手の斜面に人々がひしめいてるのが見えた。
きっとあのどこかに小判鮫や大西達がいるのだろうと筧は思って目を眇めた。
「…後で怒られたって知らねえからな。」
「ダイジョブダイジョブ!」
佇んでいる筧の後ろで、水町は腰を落ち着けて買ってきた食い物を並べながら暢気な声を出した。
「ほら筧、立ってねーでここ座れって。」
そして準備万端とばかりに満足気に笑って、自分の隣のスペースをぽんぽんと叩いて声を掛けた。
2つ買っていたジュースのひとつは筧の分だったらしく、そのスペースの前にちゃんと置いてある。
「……」
すっかりお膳立てされた様子に筧は苦笑を洩らして。
けれど言われるままにそこにと腰を降ろした。
そんな筧に、水町はどこか浮かれた調子で食べ物を勧めて笑う。
と、花火大会の開始のアナウンスが空に響き渡った。

いつの間にか、空は暗闇が覆っていた。
人々の喧騒を離れたここは、特に暗いようにさえ思う。
満月よりかは少し痩せた月明かりのお陰で、お互いの表情はよく見えるけれども。

「タイミングばっちしじゃん!俺ってすごくね?」
そう言って笑った水町の顔を、最初の花火が煌々と照らし出した。

そして続くたくさんの花火。
最初はやっぱりド派手にと、一際大きなのが連発される。
ぴゅーっと独特の音が幾つも響き、どんと鳴って色とりどりの大輪の花が夜空に咲いては消える。
それは見惚れるには充分美しいものだった。
けれども、驚いたのはそれにではなく。

音が。

鼓膜と共に胸に衝撃を与えていく。
そして辺りの音を全て奪っていった。
発射場所からかなり近いのだろう、相当に大きな音が二人の耳を襲う。
目に、耳に、容赦なく与えられる刺激に筧は声もなくただ空を見詰めることしかできないでいた。
そんな筧をこっそりと盗み見て、水町は満足そうにして目を細めたのだった。



「……」
数十発の花が夜空に散った後。
対岸から歓声と拍手が起こっていた。
まだ、少し呆けて空を仰いだままでいる筧に、水町の声が掛かる。
「迫力満点でスゲーだろ?」
「…ああ…よくこんな場所知ってたな。」
「へっへー、ちっちぇときに探検ゴッコとかやってたタマモノってやつ?」
「ふーん…じゃあ毎年ここで見てるのか?花火。」
その筧の問い掛けに。
得意気な顔をして筧に笑い掛けてていた水町が、ふいと前に視線を移した。
「…いや、いつもはダチとあそこら辺で見てたかな。」
あそこら辺、のところで水町は対岸の土手を指した。
そして続く声。
「でもまあ、去年はこっから見てたかな。」
「……」


去年、といえば水町は水泳部もやめ、特に何もしていなかった筈だ。
水町本人から水泳部であった経緯は聞いている。
その後、何にもやる気がなくなって多少荒んだ生活をしていたらしき事も。
その時の水町が。
ここで。
この、寂しい場所で。
花火を見ていたというのか。
その時の友達とだろうか。
それとも。
たったひとりきりで?


この暗い。
真っ黒に流れる川を目の前にして。
ひとりきり、空に咲く花を見上げる水町の姿を想像して。
筧は知らぬうちにぎゅっと唇を噛み締めていた。
だから何も言う事は出来なくて。
訪れた沈黙を水町が不審に思うその前に。
第二弾の花火が上がりはじめて二人はまた空を見上げた。
花火が打ちあがり始めると、圧倒的な音に会話など消し飛ばされる。
必然的に無言になるしかならず、ただ黙って二人は空を見詰めていた。
その咲いては消える花々を眺めながら、筧は思う。

何故水町は自分をここに連れてきたのだろうか、と。
水町は去年のように、もう、ひとりではない。
自分には部の皆ともそれなりに馴染んではいるように見えたし、それに小判鮫先輩の事だって人一倍懐いているように見えた。
そんな水町が。
何故、自分だけを誘ってここへやって来たのか。
普段の水町からすれば、皆でワイワイ言いながら騒ぐ方がずっと好きそうなのに。
なのに、何故。

こっそり盗み見た水町の明るい髪が、花火に照らされてキラキラと輝く。
口の端を持ち上げて笑っているように見えるその顔は。
いつもの水町のようでいて、だけども見知らぬ人のようにも見えた。
すぐに視線を逸らせて振り切るようにして空を仰ぐ。
間近に見る花火は、酷く目に沁みた。





「…ごめんな、筧。」
「え?」
5セットも終えた頃だろうか。
小さな、けれどはっきりと聞こえたその声に筧は水町を見た。
「無理矢理連れてきちまってさ…ほんとは皆と一緒に居たかったりした?」
「…」
筧の方は見ず、煙った空を見詰めながら水町はそう言った。
その同じ空に視線を戻しながら。
「嫌なら絶対ぇ付いてなんか来ねえよ。けど、謝るくれえなら最初からすんな。」
「…うん、ごめん。でもさ…」
そこで一旦水町は口篭った。
そして。
「今日ここで筧と花火見とかねーとって…」
今年は合宿と重なっちまったし、もう他には機会もねえと思って。
と、そう早口で告げた。
そのくちぶりに、筧は少し眉を顰めて返す。
「…この花火大会は毎年やってんだろ。今年じゃなくても来年も再来年だって…」
「でも絶対に来年も一緒にいるとは限んねーじゃん。」
「な…」

そこで、空気を裂くような音がして、また花火が上がり始めた。
けれども筧はそれを見ようとはせず。
というか、見る事さえも忘れたかのようだった。

『来年も一緒にいるとは限んねーじゃん。』

水町の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
そんな事は考えた事もなかった。
来年には水町は一緒にいない?



「アメフト、やめるつもりなのか?」
花火の音がやまって直ぐに、筧は水町に問い掛けた。
今の水町の練習振りから、今すぐやめるとは流石に筧も思ってはいない。
けれど。
秋大会が終ったら。
関東大会が終ったら。
クリスマスボウルが終ったら。
もしくは勝ち進めなくて途中で負けてしまったら。
水町は、アメフトをやめてしまったりするのか、と。

確かに、いずれは誰もがいつかはアメフトをやめる。
それは充分解ってはいるつもりであったが、それでも何故か理不尽な怒りのようなものを筧は感じていた。
水町はそんな筧の様子に気付いたのか気付かないのか。
「やめねーよ。」
そんな暢気な声で返す。
そして。
「筧に、『二度と顔見せんな』って言われちまうまでは、やめたりなんかしねーよ。」
「…言わねえよ、そんなこと。」
返って来た答えに、筧は内心ほっとして声を吐き出した。
それから、ふと思いついて笑った。
「それとも、言われちまうような事をやるつもりなのかお前は。」
「うん。」
「…っ?!」
ほんの軽い気持ちでからかうようにして言った言葉に。
あっさりと水町が肯定してぎょっとして筧は絶句した。
「うっそ、ジョーダンだって!」
それに、大変驚きました、と顔に書いた筧の顔を見て水町が笑って言った。
けれどその笑顔はすぐに消える。
「しねーよ、筧がほんとに嫌がる事はさ…つーか、出来ねーし。」
その声は真摯な響きを持っていて。
月明かりの下の水町は、先日見た時にもそう思ったように何か違和感のようなものがある気がした。
違和感、というかどこか無理をしているかのような。
「でも我慢出来なくなっちまったらごめんな。」
水町がそう苦く笑ったと同時にまた花火の音が轟いた。



空気を裂いて尾を引く音、衝撃と共にやってくる弾ける音、火薬の燃え尽きる音。
それらだけがひっきりなしに響く世界で。
筧はまた考えていた。
水町は何事もなかったかのように、フライドポテトやたこ焼きを頬張りながら花火を見ている。

『二度と顔見せんな』

そんな台詞を水町に言う日などくるだろうか。
例えば。
タバコや飲酒や暴力沙汰なんかで大会出場がオシャカになる。
部としての活動も認められなくなってしまう。
例えば、そんな日が来たとしたって、自分が水町にそんな事を言うとは思えない気がした。
もし実際にそうなったりすれば、きっと止められなかった自分の方を責めるような気がする。
それに。
今の水町はアメフト一筋で、過去はどうあれ今はそんな無茶はしないに違いない。
それは自分にも言える事で、だからこそ身を持って水町を理解する事が出来ていると思っていた。
しかしそれは自分の思い上がりだったのだろうか。
だとしたら、それはとても口惜しい。



「あほもうひょっとれおわっひまふなー」
光る腕輪を着けた腕を反対側の手に近づけて腕時計を見ながら水町は言った。
イカフライに噛み付きながらだったので、不鮮明な発音であったが。
「筧も食べろって。」
そう勧められてあまり食欲がなかったが、もうそろそろ終るのなら片付けた方がいいのだと思って渋々手を出す。
フライドポテトを口に放り込んで筧は、肩の力を抜いた。

水町がよく解らないのは、今にはじまった事ではないではないか。
単純なようでいて、そうではないと見せておいてやっぱりきっと単純なのに違いない。
今日のことだってただの思いつきなのだろう、多分。
現に今、水町はハムスターのように頬を膨らませて鼻歌混じりにたこ焼きを貪り食っている。
気に病む必要なんてないに違いない。
絶対絶対絶対に。

そんな風に思って恨みがましく睨む筧の視線に。
気付いた水町が筧の顔を見返して。
そして。

「かけい、」

名を呼び、水町は手を伸ばした。
そして筧の手をぎゅっと握り締める。

空にまた、幾つかの光の筋が地面から這い昇るのが二人の瞳の端に映る。
それが天空で弾けるその時に。

「    」

水町が何か言った。
けれども、それは当然花火の音に掻き消されて筧には届かなかった。

それは。
たまたま、何か言おうとした時に花火が弾けて消えてしまったのか。
それとも、わざと聞こえないのが解っていて告げたのか。
筧には判断する事は出来なかった。



花火が途絶えても水町の手は離れなかった。
そしてどちらも、何も言えないでいた。
ただ黙って、手を繋いで。
また次の花火が上がっても。
やっぱり押し黙ったまま、二人して次々に咲いては儚く散っていく七色の花を見上げていた。





花火大会が終って。
水町と筧は部員達と合流すべく対岸へと来た道を戻っていた。
早足で先をいく水町の後を、筧が同じ早足で付いていく。

水町は帰りには手を繋ごうとはしなかった。
あんなにも行き道には拘って手を繋ごうとしていたくせに。


筧は歩きながらそっと自分の掌を翳して見詰めた。
手を繋いでいた時は、酷く熱かった。
だからだろうか。
水町が手を繋いでこない事を助かったとほっとするべきだろうのに。
どうしてか、さみしいと筧は思ってしまった。

バカな事を。

そう、思い直して筧は前を見据えた。
翳した手の向こう。
人並みに混ざり切れない、頭ひとつ飛び出た背中を。
そんな筈はないだろうのに、見失うような気がして筧は歩くのを速めたのだった。



夏の夜、人熱れ。
けれど吹く風はどこか冷たいと思った。







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気が付いたら約2年半ぶりの続編でした…
もう待っててくれる人、というか読んでくれる人もいるかどうかは解らんけども書きたかったので。
でも当時書こうと思ってたのとはちょっとだけ違うカンジに。てゆーか書き方も忘れ…
と、とにかく読んで下さった方おいでましたらありがとうございます。それだけで嬉しいです。
2007.4.14