トラン解放戦争。
そう名の付く戦争が終わってから、ここ1年近くフリックはビクトールと旅を共にしていた。
不本意な相手と、仕方なく始まった旅ではあったが、それなりに楽しく過ごして来たような気がしていた。
ミューズ市に着いた時、ビクトールはまず一番に「古い友人に会いに行く」と行った。
しかしそれが最初女性だとは思わなかった。しかも、この大きな都市の市長などとは。
アナベルと名乗った彼女は、ビクトールと自分を快く迎えてくれると、宿の用意までしてくれた。それに甘えるようにして、気が付けばずるずると滞在する事となった。
そしていつのまにか、ビクトールはアナベルに頻繁に会いに行く様になっていた。
フリックは窓に凭れ、ただぼんやりと目に映る闇を見詰めていた。
最近、よく眠れない。
だから、色々余計な事を考える様になった。
ここへ来て気付いた事がある。
今迄二人きりでいたから思いもしなかったけれど。
ビクトールには自分の知らない過去があって、当然自分の知らない親しい人物だっているのだ。きっとあの女市長はその中でも、かなり上位にいるのだろう。ビクトールが、彼女をとても大事に思っている事は充分に見て取れた。
それから、こうして独りにされると自分は何もする事がないという事。
思い返せば、旅の間はずっとビクトールが側に居た。それ以前には独りになる機会もあった筈だが、どうやって過ごしていたのかよく思い出せない。ただただ時間を持て余して、酒を飲むくらいしか出来ないでいた。
気付いたと言えば。旅をしていて気付いた事もあった。
あの男の見た目とは裏腹に器用なところとか。料理などは自分よりもうまく作る事。旅の仕方や、人との付き合い方にも精通している事。大雑把でいい加減でずぼらな様に見えて、その実他人の事を思い遣っているところ。
それから―――自分がビクトールの事をどう思っているのかも。
ここへ来て、かれこれ一月近くなる。時折アナベルが仕事を紹介してくれ、それをこなしては報奨を貰う。そんな生活が続いている。
今日もビクトールは、アナベルの所へ先程出掛けて行った。きっと朝まで帰らない。
宿の部屋は二人部屋で、今はそのただっ広い空間でフリックは一人取り残されたままだった。
ビクトールは毎晩、アナベルを訪れる訳ではなかった。週の半分以上はこの部屋でフリックと過ごす。そしてそんな時は大概、旅の間そうであった様にフリックを抱いた。けれどそうする度に、フリックの頭を薄ら寒い考えがよぎる。
自分は、彼女の代わりなのではないのだろうか。
もしかすると、旅の間もそうであったのかもしれない、と。
どうして自分はこの街に留まっているのだろう。あの男とは違って、ここにいなければならない理由など、自分には何一つとして無いのだ。
もし自分が『この街を出る』と言ったら、ビクトールはどんな顔をするのだろうか。
ビクトールはこの街で旅を終わらせるつもりなのかもしれない、と予感めいたものがあった。
そうであるならば、また、故郷を出た時のように独りで旅をするだけの事なのに、その決断にフリックは中々踏み出す事が出来ないでいた。
夜の闇に身を浸し、その隙間に紛れる様に深く深く溜息をついて、フリックは瞳を閉じ心も閉ざした。
「なぁ、今日の夜から祭りがあるんだってよ。一緒にひやかしに行かねぇか?」
「・・・行かない。」
少し遅めの昼食を平らげたビクトールが、食堂から帰ってくるなりフリックに話を持ち掛けた。しかしそれにフリックはちらりと一瞥した後、冷たくそれをあしらった。
「何でだよ?行こうぜ、楽しいぞ。」
「・・・そんなのは、あのアナベルって人を誘えばいいだろ。」
「あぁ?アナベル?何でだよ。大体あいつは今日用事があるとかで、どっかに出掛けてる筈だぜ?」
思い掛けない応えが返って来たビクトールは、頭をがりがり掻きながら不審そうにフリックを見た。けれどフリックはベッドの端に腰掛けたままこちらを見ようともしなかった。
「だから、俺か。」
「何?聞えねぇよ。」
「・・・別に、何でも無い。」
ぼそりと呟いたフリックに近づいて、ビクトールは目の前に立った。それでも、フリックは顔を上げようとはしない。
「なぁ、何か怒ってんのか?」
「別に。」
「じゃあ、どっか具合悪いか?」
「別に。」
「・・・俺、お前の何か気に食わん事とかしたか?」
「別に。」
「・・・・・・」
「俺、今日この街を出るからな。」
「はぁあああ?!」
何を言っても『別に』としか言わないフリックに、ビクトールが苛々とし始めた頃。
やっぱり顔を上げないまま、フリックは今度ははっきりと聞える様に言った。ますます思い掛けないフリックの申し出に、素っ頓狂な声を上げたビクトールは我に返ると慌てて問い正した。
「お、おいっ!出て行くって、何処に行こうってんだよ?!」
「別に、何処に行こうとお前には関係ないだろ。」
「・・・っ!何だってんだ、さっきから一体!!」
あんまりな言い様にかっとしたビクトールが、フリックの胸倉を掴んで思いきり引き上げた。
「別に別にって、言いたい事があんなら、はっきり言やぁいいだろ?!」
凄い力で締め付けられ、フリックが苦しげに顔を顰めながら声を洩らす。それにはっとして手を緩めると、ビクトールは怒りを抑える様に深く息をついた。フリックは少し咳き込んだ後、深呼吸をして息を整えている。
「すまん・・・お前が、ここを出たいってんなら、それでもいいさ。俺も一緒に出て行くだけだ。」
「・・・・・・」
「けど、出発は明日まで待ってくれ。アナベルに話を通さなきゃなんねぇんでよ。」
「お前は、ここに残ればいいだろ。」
「フリック?」
「お前の方こそ、アナベルアナベルって、そんなにあの人が好きなんだったらっ、俺なんかに付いてこなくったって、ここに残ればいいだろっ?!」
一気に捲くし立てて、猛然と立ち上がったフリックはビクトールを突き飛ばして、纏めてあった荷物を手に取った。
「お前には、世話になった・・・っ、でもここまでだ。じゃあなっ!」
そして、そのまま振り向きもせずビクトールに別れの言葉を告げると、ドアに向かって歩き出した。けれど、その一歩を踏み出す事は出来なかった。ビクトールが、後ろから羽交い絞めにしてフリックを抱え込んでいたからだ。
「行かせねぇ。」
「離せっ!」
「何処にも、行かせねぇよ。」
「離せって、言ってるだろ?!」
暴れるフリックを力尽くで押さえ込んで、ビクトールは益々腕に力を込める。
「お前は・・・俺のもんだ。何処にもやらねぇっ・・・!」
ビクトールの、呻く様な声を聞いて、フリックの力が抜ける。それでもビクトールは、抱きこむ腕を緩め様とはしなかった。
「何で・・・お前、何でそんな事が言えるんだよ・・・」
『俺よりも、あの人の事が好きなくせに―――』
そう続け様としたフリックだったが、それは声が震えて言葉にならなかった。視界も滲んでよく見えない。
「なん・・・でっ・・・」
それは、フリックにとって初めての経験だった。いや、幼い子供の頃にあったのかもしれないが、もうすっかり忘れ去られていた感覚だった。
言いたい事がある筈なのに、それらは全て嗚咽にしかならなかった。涙を止めようとしても、無駄だとばかりに次から次へと溢れては異様に目頭を熱くする。
悲しいとか、悔しいとか、辛いとか、惨めだとか、そんな気持ちが止め処なく頭の中で渦巻いて、うまく思考する事が出来ない。
立っている事も侭ならなくて、座り込んでしまったのを後ろからビクトールが抱き留めてくれていた。
自分ではもうどうしようもなくなったフリックは、胸に込み上げる大きな黒い塊を全て吐き尽くす迄、ひたすら泣き続けた。
ビクトールはそんなフリックのマントや防具を外してやり、楽な格好にしてやる。そうして自分の防具も外すと、フリックの手を握ったり頭を撫でたりしながら寄り添った。
そうしてビクトールは、部屋が夕闇で薄暗くなっても、ずっと我慢強く抱きしめる腕を解かないでいた。
「なぁ、お前・・・そんな泣く程、俺と一緒にいるのが嫌なのか?」
もう随分時間が経って・・・フリックが落ち着きを取り戻した頃。
背を丸めたフリックの肩に頬を乗せて、ビクトールはフリックの手を握りながら尋ねた。
「・・・違う・・・と思う・・・」
暫し沈黙があった後、フリックの口から小さく曖昧な答えが出た。
実際、フリック自身思い返しても、何故涙があんなに出たのかよく解らないでいた。
ビクトールがアナベルの事を好きでいるのが嫌だったのか。自分より大切な存在があった事が嫌だったのか。あるいは、そんなビクトールの側に居続けた事が嫌だったのか。それとも自分自身で「出て行く」と言ったものの、彼と離れる事が辛かったのか。そう思う自分自身が情けなかったからなのか。
そのどれもが当て嵌まりそうで、違う気がした。全部纏めてそうだったのか、ただ単に泣きたいだけだったのか。
逡巡してみても答えは出る事が無く。
けれど泣き尽くしたからなのか、心の中はもうそれらの想いは全て洗い流されていた。
空っぽになったようだ。と、フリックはぼんやりと思っていた。
「・・・ちょっと思ったんだがよ。お前、もしかして俺とアナベルの事、誤解してやいねぇか?」
後ろから抱き締めるビクトールには、フリックの顔は見えない。黙り込んでしまったフリックに、ビクトールはまた静かに語り掛けた。
「別に・・・」
「前にも何回か言ったけどよ、本当にあいつとは何でもねぇんだ。昔も、今も・・・これからも、な。」
「でも・・・お前、朝まで帰って来ないじゃないかよ。」
「それは―――」
何もなくとも―――ビクトールにとって、彼女がとても大事な存在である事には変わりない。そう思ったフリックは、自嘲気味な笑みを暗がりの中うっすらと浮かべた。
「別に俺に言い訳なんかしなくても・・・」
言い掛けたフリックの口を、ビクトールの分厚い掌が塞ぐ。
「実はな・・・国境近くに傭兵を取り纏める施設を作るんだが、そこの責任者をやらないか、と話があった。」
少し、ビクトールの掌に力が篭った気がした。
「それを、受けようと思った。アナベルとは、その話を夜通しする事が多かった。それだけだ。」
やはりビクトールの旅がここで終わるのでは、という自分の予感は当っていたのだ。ざっと血の気の引く音がする。フリックは自分の口元に添えられたビクトールの腕を取った。
「そうか。頑張れよ。」
それしか、言えなかった。
ビクトールの腕を握る手が、震えている様に思える。それに気付かれるかもしれない。
それでも、その手を離す事は出来なかった。
「何言ってやがる。お前も、一緒にそこに行くんだぜ。」
「え・・・?」
一瞬、何を言われたか理解出来なかった。「自分も一緒に」と言われた気がしたが・・・
「まだ本決まりじゃねぇから黙ってたけどよ。勿論いずれは話すつもりでいたがな。そん時、お前が嫌だっつうんなら、断ろうと思ってた。」
「お、俺の意見なんか訊かなくても・・・受ければいいじゃないか。いい話、なんだろ?」
「俺は、お前と一緒にやりてぇんだよ。」
「・・・・・・」
「だから、そーゆー訳でよ、この街を出て行くんならアナベルに断りいれんといけねぇんだ。それを済ませたら、何処でもお前の好きな所に付いていくぜ。」
「・・・・・・」
どう応えればいいのか。そしてビクトールの言葉をどう受け止めればいいのか。
フリックは固まったまま、身動き出来ないでいた。
そのフリックを抱く腕にぎゅうと力を込めて、ビクトールは体をぴたりと寄せた。
「・・・今迄、口に出さなかった俺が悪りぃんだけどもよ・・・」
一旦言葉を切って、深呼吸したビクトールの腕が強張った気がした。何だか凄く緊張しているようだ。
「その・・・お前とこうなったのは、成り行きとか気紛れとかじゃあ、絶対ねぇんだ。」
びくりと、大きくフリックの肩が揺れた。背中に当るビクトールの体が熱い。
「・・・お前が、好きで堪んねぇんだ・・・俺としちゃあよ、ずっと一緒に居てぇと、思ってる。」
さっき引いた血の気が一気に頭に上って来たみたいだった。
顔が燃える様に熱い。体温が何度か上昇したかも知れない。
それから、心臓が壊れそうな程の動悸に襲われ、その音が煩いくらいに耳の中に響いた。
混乱する頭で、一番に浮かんだ言葉は「どうしよう」だった。
どう言えば、今のこの自分の複雑に入り混じった気持ちを伝える事が出来るのだろう―――?
けれど、口に出たのは全然思ってもみてない言葉で。
「何だよ、それ。相手を間違ってないか?」
「間違うか、あほ。」
手が伸びてきて、フリックの頬が横に引っ張られた。それを煩そうにフリックの手が払う。
「痛い。離せ、馬鹿。」
「馬鹿はお前だろ。アナベルなんぞにヤキモチやきやがって・・・」
「だっ、誰がっ、ヤキモチなんか・・・っ!」
「やいてないって、言い切れるのかよ?」
「煩いっ!黙れ、馬鹿。」
「でもよ、俺は嬉しかったぜ?そんくらいは、俺の事好きだって思ってもいいんだろ?」
「知るか・・・馬鹿・・・」
ビクトールと、くだらない遣り取りをしていると、また、涙が出た。
もうすっかり枯れたとばかり思っていたのに。
今日は随分と涙腺が緩んでいるのかもしれない。
そう思ったのは、やっぱり涙の出る理由が解らなかったからだ。
けれどさっきとは違っていた。ただ一筋だけ流れ落ちただけで、後から止め処なく溢れる、という事は無かった。
そしてどうしてか、穏やかな気持ちでいてられる。
「フリック・・・」
名前を呼ばれると同時に、顎を捕われビクトールの唇が重ねられた。
もう何度もしている筈なのに、酷くぎこちなくて、まるで初めてするみたいだ。
動悸が激しくて、胸が苦しい。頭の芯が痺れて眩暈を起こすのではないか、と隅の方で思う。
体勢が辛くて、身じろいで体を反転させると、何時の間にか灯った街灯の明かりが目に飛び込んできた。ビクトールの顔は影になっていて良く見えなかったが、とても優しい表情をしている様に見える。反対に自分の顔は光に照らされて、ビクトールからは丸見えなんだろう。
今、自分はどんな顔をしているのか。
そう思った途端、正面から抱き竦められた。
大きな胸が温かくて、安心する。酷く満たされた気分になって、フリックはうっとりと目を閉じた。こんな気持ちでビクトールと抱き合うのは初めてで。大きな背中に回した手に力を込めて、胸に顔を押し当てた。ビクトールの鼓動も早くてどきりとする。その音に聞き入っていたフリックの項から、つっとビクトールの掌が髪に分け入った。
「―――っ」
ぞくりとして震えるフリックに、ビクトールの唇が降って来る。啄ばむ様に額や頬に触れた後、ゆっくりと唇に宛がわれ深く合わせられた。
「んっ・・・」
歯を割り舌を絡ませながら、もう片方の掌がフリックの上着の裾から忍び込み、背中を上下する。背筋を走る感覚に必死に耐えるフリックは、夢中でビクトールに縋り付きながら、口中を侵すビクトールの舌に応えた。
「なぁ・・・フリック・・・」
「・・・んっ、あっ・・・」
背にあった掌を前に回して胸の尖りを押し潰しながら、ビクトールが顔を覗き込む。
「このまま、抱いちまってもいいか・・・?」
「そっ、そんなの、今迄訊いた事っ、ないじゃないかっ・・・!」
何を言い出すんだと、フリックが手を突っ張って、ビクトールの胸を押し返す。それにビクトールは、にやにやと意地の悪い笑みを湛えながら答えた。
「今は、訊きてぇんだよ。・・・それに、もっと他にも訊きてぇ事が沢山ある。」
「そんな事はっ・・・んーーーっ!」
文句が続く筈だったフリックの口は、途中でビクトールによって塞がれてしまう。そして暫く、何も言え無くさせられてしまったのだった。
その後。
フリックは言いたくない事や答えたくない事を、一晩かかってじっくりとビクトールに言わされる事となった。
勿論、高く甘やかな意味の無い声も、嫌という程上げさせられた。
そしてその翌日の夜には。
ビクトールと共に訪れたアナベルの元で、傭兵隊の砦を仕切るという約束が交わされた。アナベルに意志の確認を問われると、声が涸れて出ないフリックは、首を縦に振る事で応えたのだった。
その日から、不本意な相手と仕方なく始まったフリックの旅は、一旦ここで終わりをつげるのである。
終劇。2001.09.06. |