一体何の拍子にだったのか。 どんな遣り取りでそんな事を言われたのかさっぱり思い出せないけれど、とにかく言われたのだ。 ビクトールに。 「お前、人を殺した事なんてねぇんだろう。」 言われて、自分はすぐに一笑した。 「そんな訳ないだろ。寝呆けてんのか?」 現に今日だって、一緒に帝国兵相手に剣を交えてきたではないか。 3日前には頼まれて夜盗を退治した。 その数日前にも捕らえられた仲間を奪捕するため戦っただろう。 そうつらつらとすぐに思いつくだけの事を言ってやったが、ビクトールの顔色は変わらなくて。 「それに第一、俺は戦士の村の出で、子供の頃から戦場にかり出されてたんだぜ。」 戦場に出る度に、当然何人か殺した。 歳を取る度、自分の技量が上がる度、その人数は増えていった。 もう、何人殺したかなんて数えられない位殺した筈だ。 今ではもう、それに関しては特に何かを感じる事はない。 剣を持てば殺し殺されるのは当たり前の事だと思っている。 そのくらい。 そのくらい人を殺す事が自分に取っては当たり前で身近なものである、と。 よりにもよって、そんな自分に対して。 人を殺した事なんてねぇんだろう。 一体何を思ってビクトールはそんな事を言うのか。 まさか本気ではあるまい。 だとしたら、何の思惑があっての事なのか。 全くと言っていいほど察しが付かないので、イライラとしながらその顔を見詰め返した。 「ああ、でもほんとの意味で人を殺した事なんてねぇだろ。」 ほんとの意味、とは。 「…だから、そんな顔して笑ってられるんだろうな。」 「……」 そんな顔。 がどんな顔を指して言っているのかは解らなかったが、決して褒められた訳ではないのは解る。 「どういう意味だ?」 「別に…そのまんまの意味だ。」 喧嘩を売られているのでは、と思い睨みつけて問うたのだが、そうではなかったらしい。 ビクトールは大した反応も見せず、ただ、自分の言った台詞に納得したような顔をしているだけだ。 言いたい事がよく解らなくて、訝しげに見詰める。 と、すまねえとビクトールは小さく謝ってきた。 「いや、それが悪いとかそんなんじゃねぇんだ。ただ…のまあ、事実確認みてぇなもんっつーか。それに羨ましいっつたら羨ましい話だしな。」 「ああ?」 言われた事の意味がやはり解らない。 そんな顔をしていると、やっとビクトールは笑って言った。 「解らねぇなら、そんでいい。」 つーか、やっぱお前は若ぇから、まだ解んねーだろ。 最後に茶化した言葉を付け加えて。 自分をわざと怒らすので、お望み通りに蹴りをくれてやったのだった。 そう、確かどこか酒の席での話だったと思う。 その時はそのまま、忘却の彼方にとその記憶を押しやっていたのに。 戦況は、ほぼ優勢だった。 このまま押し切ってしまえば、とりあえずは今回の戦は勝ちを納めるだろう。 そしてこの町は解放軍の傘下となり、また少し勢力を蓄える事が出来るに違いない。 解放軍は、新生され。 新しいリーダーが治めるようになって、目覚しく躍進するようになった。 自分の知っていたかつての小さく日陰の存在であったそれとは比べ物になどならない位。 有能な軍師を抱え、立派な湖上の城を持ち、味方の軍勢は増え。 革命、という言葉はただの理想ではなく、きちんと掲げられた現実の目標だった。 しかし解放軍が大きかろうが小さかろうが。 戦に出ればする事は同じで。 ただ、目の前に現れる敵を斬って捨てるのみだった。 傍らから刀身が伸びてきた。 避けながら振り返ると、そこには一人の兵士が。 迷わず、躊躇わず、腕を伸ばして剣を薙ぐ。 相手の首元を白く煌く軌道が走ると、遅れて鮮血がぱっと飛び散った。 そして。 ぎぃん、と。 剣の切っ先が何か小さなものを引き千切って、それを空へと放り投げた。 「…っ?」 それはきらりと光を反射して、ゆっくりと降り、地べたに臥した兵士の甲冑に落ちてかしゃんと小さな音を立てた。 何故、それを手に取ったのか。 次の敵が現れるまで、少し間があったからだろうか。 それともあまりにも綺麗に日の光を反射して煌いたからだろうか。 何故だか自分でも解らなかったが、それを拾い、そして見てしまったのだ。 それは小さな銀のロケットだった。 落ちた拍子に開いた蓋の隣で美しい女性が笑っていた。 瞬間、どん、と何かの衝撃が身を襲った。 剣か魔法か、と慌てて周りを見遣ったが、そこには何もなくて。 けれど、確かに自分は何かの衝撃を受けたのだ。 そのための、動悸もある。 訳が解らなくて、少し不安になって辺りを歩く。 そうすると、また新たな敵が前方から向かってくるのを確認した。 呆けてる場合ではないと頭を振って気合を入れる。 手にしたロケットを脇へ投げ捨てると、剣を握りなおして突進していくべく地面を思い切り蹴った。 けれど。 剣が重い。 うまく集中が出来ない。 どこか焦っているような感覚があって、動悸が激しい。 繰り出される太刀を避け、剣を振り下ろす。 その、度毎に。 どうしてか心の奥の方に何か冷たいものが触れる。 そして。 体が思い通りに動かなくなっていく。 息をする事すら、困難になっていく。 「おい、何やってんだ?!」 ふらふらとする意識で、それでもどうにか応戦していた自分の肩を誰かが強く引いた。 その場に引き摺り倒されるようにして座り込むと、目の前に大きな影が覆った。 「そのままそこで座っとけ!!」 その影はそう叫ぶと、自分を守るようにして立ち塞がっていた。 そんな訳いくか、と立ち上がろうと思ったけれど。 面白いくらいにあっけなく敵兵を薙ぎ払っていくのを見ると、そんな気も失せてしまった。 有難くここは任せる事にして、どっと全身の力を抜くとびっしょりと汗が噴出してきた。 なんだろう、この、胸がざわつくような感覚は。 自分でもおかしく思う、けど、どうしてか酷く焦燥に襲われる。 まるで、自分が大罪でも犯したかのような。 ぎぃん、ぎぃん。 剣の交わる音がする。 その音に反応するようにして。 目の裏に映像が浮かび上がる。 ぎぃん。 剣の先に引っ掛かった小さな銀のロケット。 ぎぃん。 優しく笑う、美しいひと。 ぎぃん。 真っ赤に飛び散る鮮血と倒れる兵士。 ぎぃん。 あんな風に後生大事に身に付けていたのだから、きっと何よりも大事な人だったのだろう。 あの兵士が死んだと、知ったらあのロケットの女はとても悲しむだろうか。 恋人か家族か、それともそれ以外の人なのかはわからないけれども。 だとしたら。 戦場で、どこの誰とも解らない相手に殺された。 その、悲しみを自分は思い図る事が出来る。 何故なら、自分も。 恋人を、何よりも大事に思っていたひとを、殺されたのだから。 その悲しみ。 哀しみ、怒り、憤り、絶望、無力感、虚無感。 手に取るようにして解る。 そして理解する。 その、生きているのさえ辛い、哀しみを。 自分は人に与えられ。 そしてまた、自分が人に与えたのだ。 と。 一人の人間の命を。 これからある人生の喜びを、自分の手で刈り取った。 そして。 その人を大事に想う、ひとの人生の喜びさえまでもを、刈り取ったのだ。 心臓が、ぎゅっと痛んで震えが走る。 『ほんとの意味で人を殺した事なんてねぇだろ。』 不意に、ビクトールの言葉が胸に響いた。 ほんとの意味で。 人を殺した。 子供の頃から戦場に立って、ずっとずっと人を殺してきた。 けれどそれは。 人、という物だったのだ、自分に取っては。 敵という名の付いた人。 沢山の数があるから、それらは全部同じ物だと思っていた。 けれど、違った。 違っていたのだ、と。 知って、気付いて。 自分でもどう呼んでいいのか解らない、感情が次々と湧き上がっては鬩ぎ合っている。 敵と名の付く、人という物は。 物ではなかった。 ひとつひとつそれぞれに、人生があって、喜びや楽しみや悲しみがあって。 そんな、物ではない、自分と同じ人という敵をたくさんたくさん自分は殺してきたのだ。 自分と同じ、生きるのが辛いとさえ感じる悲しみや憎しみを。 たくさんたくさん自分は生み出し与えてきていたのだ。 ビクトールの言った意味が今なら解る。 そうだ、自分は本当の意味で人など殺した事などなかった。 一人の人生を。 その周りの人達の人生を、その喜びを。 すべて奪う、そんな覚悟を持った人殺しなど、今まで一度だってした事はなかったのだ。 『だから、そんな顔して笑ってられるんだろうな。』 そして、思い出す。 それを言われた状況、心情を。 それは馴染みの酒場で。 解放軍のメンバーが大っぴらに寛げる数少ない場所であった。 そこで、自分は何人かに囲まれていた。 彼等は皆、自分をえらく持ち上げた。 副リーダーという立場に媚びていたのか、純粋に剣の技を認めてくれていたのか。 とにかく、あなたは強い、と賞賛の言葉を贈られていたのだった。 そこで自分は笑っていた。 戦場において強い、とはつまり敵をたくさん斃した、という事だ。 奴らが言った。 「副リーダーが一番あいつらをやっつけてましたって!」 「さすが青雷のフリック、あっとゆー間に死体の山を築いてましたよ!」 「こー、次から次へと一薙ぎでばっさりでさあ!向かうところ敵なしって感じ?」 囃し立てる声に、自分は笑っていた。 愚かな自分は、笑っていたのだ。 たくさんの死体を作ってきたことを、誇りにさえ思って。 「おい、終ったぜ。」 掛けられた声に顔を上げると、いつの間にか日が沈みそうになっていた。 赤く眩しく燃え尽す太陽。 地面から滲み出たようなだいだい色の空を背に、ビクトールは立っていた。 夕日にだけではなく、赤く染まった姿をして。 「引き上げだとよ。帰ったら祝勝会もやるってよ。」 そう言うビクトールの声は、どこか厳かで、酒好きな普段からすると似つかわしくなかった。 戦に勝ったと、もう帰るのだと、そう告げられても動かない自分をビクトールは何も言わずただそこで待っていた。 早く帰らなければ。 そう思うのに、体は動かない。 そんな自分に、やっぱりビクトールは何も言わずそこで佇んでいる。 どのくらい経ったのか。 日がもう、沈む、その時に。 やっと声が出た。 「ビクトール。」 それはまるで喉から鉛を迫り出したかのようだった。 あの時の事を、ビクトールが憶えているかどうかなんて解らない。 そんな顔、と言われた顔がどんなのであったのかさえも自分では解らない。 それでも、今。 どうしても訊かずにはいられなかった。 「なあ、俺は今、どんな顔をしているんだ?」 赤い赤い空の下。 ゆっくりと形あるものは闇色に染まりつつある。 そんな中、ビクトールの顔が僅かに歪むのが辛うじて解った。 しばし間があって。 そして。 「…今にも泣きそうな面、だ。」 苦々しい声が返る。 「んな顔、してんじゃねえよ。笑っとけ。」 意外な言葉が降ってきて、ビクトールの顔を見ようと目を凝らす。 「笑っても…いいのか?」 あの時、笑う自分に呆れたのではなかったのか。 人の死に触れ、それを笑う自分を咎めていた訳ではなかったのか。 ビクトールの思うところが解らなくて少し混乱する。 「今日の戦は勝っただろ。それに例え負けてたとしても、今お前はこうして生き残って、しかも大した怪我もねえだろ。それで笑わなくてどーするってんだよ。俺なら笑うな。」 そう言ったビクトールの歯が白く薄闇に浮かび上がった。 赤黒い空と、血の匂い。 足元に転がる夥しい死体。 自分を守っていてくれてたこの男は、きっと自分の分も敵を斬って殺しただろう。 その骸を足蹴にして、ビクトールが笑っている。 ビクトールは知っていた筈だ。 人を殺す、本当の意味を。 その者の命を、喜びを、幸せを。 その者に見えないけれど繋がっている、人々の喜びを、幸せを。 殺すことで、にべもなく奪い去ってしまうということを。 そして、そうして奪われた者の気持ちでさえも。 誰よりも知っている、筈だ。 そんなビクトールが、笑う。 殺しておいて、奪っておいて、奪われていておいて。 「なあ、フリック、人を殺すのは辛ぇし怖いよな。」 ぽつりと洩れたビクトールの言葉はじわと辺りに染む。 「殺されるのも、大事な奴が殺されるのも、怖ぇ。」 ビクトールはそれを知っている。 だからこそその言葉は重い。 「覚悟がいる。自分は人殺しなんだってな。戦争だからいくら殺したって罪にはならねえ。それどころか殺せば殺すだけ出世だってするだろう。けどな、やってる事はただの人殺しだ。」 そこで、ビクトールは振り返った。 その先にあるのは遥かな地平線と物言わぬ人々の抜け殻ばかりだ。 「それをちゃあんと理解して、納得してねえとな。それで、その上で自分のために笑えねえとな。ここでは生きていけねえよ。」 今は良くても、いつかはぶっ壊れちまう。 闇に包まれつつある世界に、何を見るのかビクトールはずっと遠くを見詰めている。 「殺し殺され、生き残りゃ笑う。自分の殺した相手の夢を見たって、金を貰えば笑い、旨い酒が飲めれば笑う。それがいいか悪いかなんて知らねえけどよ…そうでなけりゃ生きてけねえよ。そんな世界が…」 ビクトールが振り返る。 その顔は、笑っている。 少なくとも表面だけは。 「俺たちの生きる場所ってこった。」 俺たち。 戦士たち。 きっとそれには、オデッサやハンフリー、本拠地の城にいる仲間のうちの一握り。 そして帝国の将軍達やその部下、敵兵。 戦場を生きる場所として宿命た者達が含まれているのだろう。 そこに自分の名はあるだろうか。 その自問に自答して、羞恥する。 「だからよ、笑ってろよ。なあ、フリック。」 強く、確固たる響きを持っていた声が、すこしばかり揺るぐ。 だからだろうか。 笑わなければ、と強く思った。 「ああ、そうする。」 答えて、笑う。 上手く笑えてる自信はない。 けれど、ビクトールも笑い返してくれた気配がしたので。 きっとそれなりには出来ているんだろうと思った。 きっと、あの時。 ビクトールが言った、そんな顔、とは全く違っている笑顔なんだろうけれど。 そして。 もう、二度とそんな顔では笑えないのだろうと思う。 あの時、ビクトールは言った。 『羨ましいっつたら羨ましい話だしな。』 その言葉に、今なら共感出来る。 きっと、あの時。 自分はあどけなく笑っていたのだろう。 人を殺しても傷みを感じる事はない、無情な顔をして。 殺し殺される事になんの感慨も抱けないのであるならば。 きっと、この世界はとてつもなく生き易いであろう。 そんな風に、傷みを知らない子供のようにずっと生きていられるのであれば。 けれどそんな事は難しい。 そこに傷みがあるのだと、一度でも知ってしまえばもう。 知らなかった頃になど、戻れはしないのだ。 だけど。 傷みを知るからこそ、強くなれる事もあるのだろう。 「そろそろ帰ろうぜ。早く酒が飲みてぇしよ。」 そう言って差し出される、この腕のような。 殺し奪う手であっても、強さとぬくもりを与える手にも成り得る事はあるだろう。 現に今。 こうして、自分にそれは与えられているのだから。 立ち上がると、更に目に映る景色は広がる。 闇に横たわる見渡す限りの骸ととどまる事のない死臭。 ここが、俺たちの生きる場所。 けれど、隣にはぬくもりを伴った大きな存在がある。 ここが、俺たちの生きる場所。 ここで生きる覚悟をしよう。 覚悟をした自分に胸が張れるようになろう。 そして。 ここでしか俺は生きられないんだと。 笑って言える。 そう、なれるように。 これから生きていこうと思う。 この場所で。 |
暗い。っつーかくどい。っつーか解り難い。っつーかなんなのこの話…
2006.03.28