レテのほとりで



気が付くと俺はそこにいた。

どこかの川。
その川岸に立っていた。
目の前には男が一人。
そいつが、俺に気付いて声を掛けて来た。
「お主も迷ったのか?」
年の割りに似合わぬ物言いだが、どうしてか違和感がない。
そしてそれはどこか不思議な響きを持った韻だった。
「も…?じゃあ、あんたも迷ったのか?」
「いや、わしはここで番をしておる。ここには主のように迷ったものが良く来おるのだ。」
「番?」
「そうだ。この川のな。」
言われて、辺りを見回してみる。
が、眼前に広がる川以外にはここには何もない。
深い霧に包まれて見えなくなってしまっている川向こうに、何か城のようなものでもあるのだろうか。
色々と引っ掛かりを覚えて、訊きたい事もあったのだが。
それよりもまず自分は帰りたい。
「なあ、俺は帰りたいんだが、ここはどの辺りなんだ?」
俺の言葉に。
番人とやらが不意に笑みを作った。
凄みを感じるような、そんな笑みを。
そして。
さも、可笑しそうに声を。
「帰りたいとな?」
「ああ、そうだ。」
笑われてむっとして答えると、更に笑う声が大きくなった。
「どこへ?」
「え…?」
「どこへ帰るというのだ?どこへ帰りたいと?」
「……?!」
問われて。
自分の記憶が定かではない事にはじめて気付く。

俺は一体、今までどこにいたのか。
そしてどこへ行こうとしていたのか。
「帰りたい」と思った場所はどこだったのか。

「俺は…」
続く言葉がなくて立ち尽くす。
ほんの数刻、沈黙が流れた後に。
微かな水音がして顔を上げた。
男が小さな杯で川の水を掬っている。
「苦しかろう?」
「何?」
「お主、救われたいのだろう。」
「!?」
静かな、これど地に響くような。
その声が記憶を呼び覚ます。


守りたかった。
守れなかった。
何者よりも重いと思ったその命は。
自分の知るべくもないところであっけなく消失していた。

自分があの時。
同行してれば。
止めていれば。

守れたかもしれない。
失わなかったかもしれない。


「苦しかろう?」
先程の男の言葉が胸で蘇る。


ああ、苦しい。
怒りや憎しみや哀しみや後悔や諦めや、そして悟ろうと許そうと思う気持ちとが鬩ぎ合って安らぐ事がない。
彼女の夢を、果たせばそれで収まると思ったそれは。
収まるどころか膨らむばかりで。
苦しい。辛い。憎い。


湧き上がった感情に攫われそうになって拳を握って唇を噛み締める。
そこに、涼やかな聲が。
「これを飲むがよい。楽になろう。」
はっとして顔を上げれば、杯が差し出されていた。
さっき、汲んでいた川の水だろうか。
「さあ、飲め。現世の煩い事など全て忘れようぞ。そうして安寧の揺らぎに身を任せるとよい。」
「なん…だって?忘れる?」
訊き返した俺の顔を見て、男が笑う。
「忘れるとも。」
人為らざるものの笑いとは、こういうものかとふと思う。
「ここはそうゆう場所だ。許しを求めるものがここに来る。お主も、だからここに来たのだろう?」
綺麗に綺麗に作られた笑みで問われ。
そうなのかもしれないと思う。
もう、十分に苦しんだのではないだろうか?
もう、忘れて楽になってもいいのではないだろうか?
震える手で、掲げられた杯を受け取る。
触れた男の手は恐ろしいほどに冷え切っていて。
また、びくりと思考が揺れた。
それを押さえ込むかのように聲が響く。
飲め。
飲んで忘れろ。
と。
それは恐ろしいのに、酷く甘く頭に説け入る。
抗い難くて手が口元に杯を運んだ。



ああ、しかし。
本当にこれでいいのか?
忘れてしまっても、本当に?

『…ック』

微かに。
声が聞こえる。

『フリック!』

俺の名だ。
聞いた事のある声のような気がするが誰だか思い出せない。
ああでもこれを飲んだら、もう、それが誰でもどうでもよくなってしまうだろう。

『おい、フリック!!』

そうだ。飲んで楽になるんだ。
もう苦しいのは沢山だ。
けれど。
こんな風に逃げる自分を見たら彼女はなんというだろうか。
きっと悲しげな目をして
『フリーック!おい、バカ、おいって!!』
それでいいのか?
でももう疲れ
『早く目ぇ開けろって!フリック』
…ちょっと待てよ。
誰だか知らねえが今大事な考え事をしてるんだ。
『バカ、ボケ、あほ!起きろよほら!!』
だから待てってば。
『起きねえのならこっちにだって考えが』



「って、うるせえ!!!!!」
「どわっ?!」
「人が真剣に考え込んでんのに…っ…て、あれ?」
頭の中の声が段々と大きくなって、あまりにも喧しいので思わず怒鳴ってしまった。
そしてそこは気付くと見覚えのある部屋の中だったのだ。
「……?」
さっきまでは川のほとりだったのに、と上手く働かない頭で状況を理解しようと試みる。
そうこうしていると、やはり見覚えのある顔が下から覗き込んできた。
「ビクトール。」
「おう、びっくりしたぜ…」
「俺…」
「なかなか目ぇ覚まさなかったからよー死んじまったのかと思って焦っちまったぜー」
その言葉を聞いて。
少しづつ記憶が戻る。
「まあ、起きてそうそう怒鳴り付ける元気があるなら心配いらねえよな。」
「……」
そういえば、昨夜また熱を出したのだった。
受けた矢傷がまだ完全に癒えず、時折こうして体調を崩す。
そうか。
「俺、死に掛けてたのか…」
やっと理解する。
あの場所がどこだったのかも。
「馬鹿言え。ただの熱だろーがよ。」
殊更、何でもないような口振りで目の前の男が言った。
さっきは自分こそ死んだのではと疑ってあんな大声を張り上げていたくせに。
勝手な男だ。
本当に。
「お前のお陰で、また、死に損なっちまった…」
「ああ?」
そう。また。
死を選ぶ事が出来たあの時も、そこから有無を言わさず連れ出した。
今もまだ記憶に新しい、崩れ落ちる城で。
そして今もまた。
考える間もなくこの男が連れ戻した。
ここへ。
この場所へ。
ここが、俺の帰りたかった場所なのだろうか。

きっと、そうに違いない。

「ありがとう。」
「な、なんだよ、急に…」
「いいんだ。今言いたいんだ。ありがとう。」
「お、おう?」



そっと胸を押さえる。
まだ、ここには苦しみがある。
とぐろを巻いて、居座る憎しみも悲しみも。
けれども。
ここに、俺は、帰って来れて嬉しいと思える。
思えるんだ。


きっと、ひとりでは帰ってこれなかった。
有無を言わさずでも、何でも、この男が連れ出してくれて本当によかったと。
そう思うんだ。
ありがとう。


また、いつの日か。
あの場所に行くのかもしれない。
その時はひとりで帰れるようになろう。
もし、帰れなくても。
あの川の水は飲まないでいたい。



レテ。
忘却の川。
死者が越えるあの川の水を飲めば。
常世の記憶は全てなくなるという。



END.




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