甘いお菓子の香りがする。 がさがさと包みから出されたそれはアップルベリーパイ。 紙袋には「リトルマミー」のロゴとマーク。 オデッサが鼻歌交じりに楽しそうに。 それを切り分けて言った。 「美味しそうでしょう?」 「どうしたんだ?それ。」 リトルマミーのアップルベリーパイは大評判で。 手に入れるには店先に小一時間は並ばなければならない。 予約なんてものは、頑固な職人気質の店主が頑なに受け付けてなどくれないのだ。 「君が並んで買って来た、なんて事は…」 「まさか。」 その返答にほっと息をつく。 ころころとたおやかに笑う目の前のオデッサは。 見た目はただの綺麗なお嬢さんでも、中身は帝国軍が血眼になって探している、お尋ね者「解放軍のリーダー」であるのだ。 なのにのん気に菓子屋の行列になぞ並んでいて欲しくない。 人の気を知ってか知らずか。 オデッサが微笑んで切り分けたパイを乗せた皿を差し出した。 「ビクトールが買って来てくれたのよ。あなたも食べるでしょう?前に食べた時、美味しいって言ってたわよね?」 「あの男が?…だったら俺はいい。」 少し小腹も空いていたし、目の前に出されたそのパイは、甘いだけではなくて菓子の類の好かぬ自分でも美味しいと感じたものだった。 けれど、ついこの間仲間になったビクトールという男が買って来た。 それだけで手を伸ばす気が逸れた。 「フリックは相変わらずビクトールが気に入らないのね。」 「気に入るとか、入らない、とかじゃなくて…!…大体、胡散臭すぎだろ、あいつ!」 「そうかしら?彼、私には優しいわよ?」 「そんなの、下心があるからに決まってるだろ?!」 「…そうじゃないわ…」 ふっ、とオデッサが目を落として小さく笑う。 「ビクトールが優しいのは、知っているからよ。」 その声は酷く遠くに聞こえた。 知っている? ビクトールが? 何を…? 甘い、お菓子の香りがする。 がさがさという音の方に目を向けるとビクトールが済まなそうに言った。 「起こしちまったか?でもよ、ほらこれ、食べるだろ?」 手にした紙袋から出したそれはアップルベリーパイ。 「それ…」 「しかもリトルマミー製のだぜ?!お前好きだったろ?」 得意げに笑って、ビクトールは一旦それをテーブルに置くと、ナイフを取りに棚へと向かう。 リトルマミーのアップルベリーパイは大評判で。 手に入れるには店先に小一時間は並ばなければならない。 その上、今はイチゴの季節ではなかった筈だ。 きっと数も少なく値段も高いに決まってる。 「いやー前を通り掛ったらよ、ちょうど焼きたてだって言うからよー」 皿とナイフとぶどう酒を持って、ビクトールがテーブルに戻る。 そして鼻歌混じりに楽しそうにパイを切り分ける。 今日は、確か朝早くからビクトールは出掛けて行った。 熱を出した自分は昼前の頃に、またうとうとと寝入ってしまっていたのだろう。 寝台の横にある窓から、外の冷気がじわりと忍び込む。 そこから見える空からは、ちらちらと雪が。 「ほら、食えよ。」 そう言って皿を差し出したビクトールの鼻が赤い。 受け取る時に触れた手も。 酷く冷たかった。 「お前は…優しいんだな…」 予約も出来ない。 品薄で割高で。 でもそれを手に入れる為にビクトールは。 雪降る街へ朝早くから出掛け。 寒さに凍えながら、何時間か行列を並んでいたに違いない。 ただ。 自分のこの好物のパイを買う。 たったそれだけのためだけに。 「はっはっは!やっとこの俺の良さに気付いたか?…それとも、熱がまた上がっちまったかあ?」 心配そうな顔が近付いて。 ひやりとした手が額に触れた。 思わず、その冷たさに目を瞑る。 「…お前は、知っていたんだな…」 『ビクトールが優しいのは、知っているからよ。』 「だから、お前は優しいんだな…」 知っている。 何を? 大事なものを理不尽に奪われた。 その。 痛みを。 苦しみを。 「お前はずっと、優しかった。今もそうだけど…あの時から、そうだった。」 あの時。 オデッサが死んだ。 そう、告げられた時。 その時から。 思えば、ずっと、ビクトールは優しかった。 そして今も。 戦いを終えて仲間ではなくなった今でも、傷を負って足手まといな自分の世話を嫌な顔をせず引き受けて。 「俺は…知らなかったんだ。こんなに…こんな、に…っ」 哀しくて辛いなんて。 怒りで生まれた炎に焼き尽くされそうで苦しい。 胸の中はからっぽで、ただ冷たい風が吹き晒していくだけ。 少し時間が経てば、と思った傷は。 塞がることはなく。 穴が開いたまま乾ききって、何ものでも埋まらない。 ひび割れて、ほんの少しの衝撃でまた血を流して。 「知らねえなら、それに越した事はなかったんだ。」 ビクトールが、肩に腕を回して言った。 力強く、引き寄せられる。 「出来れば、俺は、お前にはそんな想いはさせたくはなかったんだけどよ…」 ビクトールの。 腕が震えている。 そして思い出す。 『おまえがついていて、どうして!』 あの言葉は、どれほどこの男を傷付けただろう。 「お前は…俺に怒ればよかったんだ。」 あの時の。 周りなんて全然見えてなかった酷い自分に対して。 「『お前だけが辛いんじゃない』、『俺の方がもっと辛い想いをしてきた』んだって…!」 命さえ懸けて全身全霊何もかもを奉げた女を失ったのと。 故郷とそこに住む家族達何もかも全てを失くしたのと。 どちらが、などと比べる事は出来ないけれど。 少なくとも経て来た年月を思えば、きっとこの男の方こそが辛かったであろううと。 今になって。 ようやく解る。 「ばっか、言えるワケねえだろ…そんなこと…」 「言えよ…今からでもいいから、言ってくれ…」 ぎゅう、とビクトールの肩を掴んだ手に力が込もる。 知っている。 ずっと、認めたくはなかったけど。 この手が、自分を支えてくれていたことを。 労わり、励ましていてくれたことを。 ずっと。 その痛みを哀しみを知る、ビクトールは優しかった。 「やっぱ、言えねえよ。俺は…」 ビクトールの手が緩んで。 溜息とともに声が降った。 「その代わり、なあ、フリック。言わせてくれ。」 「…?」 何を言われるのか、と。 少し怖い気持ちで顔を上げてみれば。 存外に穏やかに。 どこか困った風にして笑うビクトールの顔。 「早く、怪我を治して、元気な姿を見してくれ。」 「…そんなことか?」 「おう。」 「……」 「ま、まだ続きはあるんだがな。」 「続き?」 怪訝に見上げれば。 今度こそ屈託なく笑われた。 「元気になったら言わせて貰う。」 そう言った後、頭をわしわし撫でてビクトールは立ち上がった。 そしてパイの乗った皿を差し出す。 「そのために、まずは食えよ。な。」 甘いお菓子の香り。 懐かしくて苦くて痛い。 きっと、胸の傷を一生抱えて生きていく。 それでも。 この男のように。 強く優しくなれるように。 生きていこう。 受け取ったパイに噛り付く。 途端に広がる甘酸っぱい味と香り。 忘れずにいよう。 この味と香り。 楽しそうに鼻歌混じりに切り分けていたオデッサのすがた。 冬の凍てつく寒空の中を買ってきてくれたビクトールの優しさ。 そして。 愚かだった自分に涙して、今、パイを食べるこの瞬間を。 |