「なぁ、フリック。久しぶりにあれ、やってくれや。」 今、此処同盟軍の本拠地の城は、騒然とした空気に包まれている。今日の夜、ルカ・ブライト本人による夜襲が行われるとの情報が入った為だ。先の戦争では、我が軍最高の軍師であるシュウの策が通用しなかったと、意気消沈していた同盟軍である。この裏をかく絶好の機会に最善を尽くそうと、武器や戦闘員の用意が念入りに行われている。殺気だった者や興奮気味で落ち着かない者が溢れる城内には、只ならぬ雰囲気が漂っていた。 その中の一角。 フリックの部屋は、戸外の異様ともいえる熱気には侵される事なく、静かな時が刻まれていた。 中にはフリックと、ビクトール。 お互いただただ静かにこれから興る闘いに備えていた。もう何度もこうした修羅場を潜り抜けて来た二人である。今更特別思う事も、する事も無く・・・いつもの様にただ決意だけを固めていた。かと言っても、ずっと苦渋を味わされ続けた相手である。やっと軌道に乗り掛けた傭兵隊の砦も、あのルカ・ブライトによって無に帰されてしまったのだ。それに敵はとてつもなく強いという事を、先の一件で身を持って知ってしまっている。今迄の借りを返したい気持ちと、一筋縄ではいかない相手だという事もあって、いつもよりかは幾分感情的になる部分もある。それを知っているからこそ、二人は余計に気を落ち着かせようとしているのかも知れない。 武具などを担いで慌しく行き交う兵士達を、窓の中から覗いていたビクトールは、ふと思いついた様にフリックに声を掛けた。 それが、冒頭の言葉。 「あれ?あれって、何だ?」 急に訳の解らない事を言われたフリックは、当然ビクトールに疑問を投げ掛ける。 「ほら、昔良くやってくれたじゃねぇか。オデッサがお前にしてたヤツ。」 「ええ?何だよ、それ・・・」 「戦いの前によ、こうやって―――」 まだ、解らないと顔を顰めたフリックに、ビクトールが応えながら目の前で手を握り合わせた。まるで、何か祈る様な仕草。 「ああ・・・それか。良くそんなの、憶えてたなお前。」 「忘れる訳ねぇだろ。これは・・・ホントに良く効いたんだからよ。」 一瞬、呆れた様な表情になったフリックだが、ビクトールの返答にその顔を綻ばせた。 「しょうがないな・・・ほら、こいよ。」 少し照れた様にフリックが、ビクトールを呼ぶ。呼ばれたビクトールも、口の端を吊り上げて少し気恥ずかしそうに笑ってその場を離れた。ベッドの端に腰掛けてたフリックが立ち上がる。ゆっくりと歩いてきたビクトールが、その向かいで立ち止まった。 「手袋、脱げよ。」 「お、おぉ。」 珍しく緊張している様子のビクトールに、吹き出しそうになるのを堪えてフリックは自分も手袋を外す。そして、大きく深呼吸すると、目の前に突っ立った男の無骨な手を取って瞳を閉じた。 その、ビクトールの望む儀式を執り行う為に。 初めてその光景を見た時は―――まるで、そこだけ空気が違うかの様に感じた。 遠目で見ても静粛で、厳正な・・・とても神聖なものに見えたのだ。 当時のビクトールは、トラン解放運動を目的とする集団の主要メンバーとなっていた。故郷を滅ぼした宿敵を追い求める旅の途中ではあったが、リーダーであるオデッサの人柄に惚れ込んで力を貸す事としたのである。惚れ込んだ・・・とは言っても、一人の女性としてでは無く。たとえそうだったとしても、ビクトールには叶う筈も無かったのだが。 何故ならオデッサの側には、いつも一人の男が居たから。 青雷のフリックである。 そのあだ名の示す様に、青いバンダナとマントを身に纏い、雷の魔法を使う。腕に自信のある自分ではあったが、本気で手合わせするとしたら勝敗が解らないと思う程、剣の腕も相当のものだった。その彼は、その腕前とはおよそ掛け離れた様相をしていて。実際の年齢よりかなり若く見える整った顔立ちに、剣士にしては細い体。真っ直ぐな青い瞳は、澄み切った空を思わせられた。 そんな青年を、ビクトールはオデッサ同様とても気に入っていた。 彼はその戦場での働きとは裏腹に、日常生活や人付き合いにおいては驚くほど疎い事が多かった。世間を知らない上に、要領も悪い。危なっかしくて見てられねぇなと思いながらも、ついつい面白くて良く『鈍くせぇ』と言ってはからかったものだった。 その日は、久々に大きな戦になる予定だった。 その出撃前、オデッサとフリックの姿が見えなかった為、探しに来たビクトールはその光景に出会う。 解放軍のアジトは地下にある。薄暗い上にカビ臭くてあまり好きにはなれないと、ビクトールはいつも思っていた。その地下の会議等で使われる広い一室に、彼等はいた。 ランプの頼りない光が、手を取り合って寄り添う二人をちろちろとオレンジ色に彩っていた。その静かで、儚い光景はまるで・・・美しい絵画を見ているかの様で。自然とビクトールは足を止め、それに見入ってしまっていた。 暫し呆然と佇んでいたビクトールだが、はっとして我に返ると静かに頭を振った。 『これじゃあ、まるで覗きみてぇだよな・・・』そう思って苦笑する。珍しくいちゃついてるトコロを邪魔するのも悪いなと思いながら、ビクトールが一歩踏み出そうとした、その時。後ろから誰かに肩を掴まれ、その動きを止められた。人の気配を感じない程に、夢中になって見てしまっていたのだろうか?しまったという表情をしながら振り返ったビクトールの目に、少し険しい顔をしたハンフリーの姿が映った。 「邪魔するな。あれは、儀式だ。」 「儀式ぃ?あれが・・・か?」 聞き慣れない言葉にビクトールが問い返すのに、ハンフリーは黙って堅く頷いてみせた。 「もっと良く解る様に言ってくれなきゃ、わっかんねぇな・・・」 「・・・・・・」 「おい、説明をだな・・・」 普段から多くを語らない彼に、ビクトールは説明してくれと促そうとした。が、やはり黙ったままのハンフリーに業を煮やしかけたビクトールの後ろから、良く通る声が響いた。 「ごめんなさい・・・もう、終わったから。」 オデッサがフリックと共に、こちらへと向かって来た。フリックはどうやら見られた事が恥ずかしかった様で、少し赤い顔でむっとした表情をしている。 「その、儀式とやらが、か?」 「え?儀式って・・・そんな大袈裟なものじゃ無いのよ。」 ビクトールの問い掛けにオデッサは手を振りながら答えた。 「おまじない、みたいなものね。・・・また、ここに帰ってこれますようにってね。」 オデッサが自分の胸を押えながら、優しく笑っていた。ここに・・・とは、自分の元へという意味なのだろう。フリックは照れているのか、ビクトール達とは明後日の方を見て、ますます頬を赤く染めていた。 自分の知る限りでは、この恋人同士がお互いをそれは強く想い合っているにも係わらず、二人でゆっくり過ごす時間などは無いに等しかった。皆の手前もあって、毅然とした態度を取らざるを得ない事も。だからこそ、こうして戦いの前には相手の無事を心から想うのだろう。 「なぁ、オデッサ・・・それ、俺にもやってくんねぇかな?」 不意に口を突いた言葉。無論、他意は無かった。ただ、こんな風に自分の無事を祈ってくれる人間がいてくれたなら―――と。そう想った心が、つい口から洩れてしまったのだ。 「だっ、駄目だっ!」 しかし答えたのは、オデッサでは無くその恋人だった。慌ててオデッサとビクトールの間に入っては、遮ぎる。うっかり口を滑らした事を後悔していたビクトールだったが、フリックの反応を見て悪戯心に火がついてしまった。 「なぁ、オデッサ。俺には恋人も、ましてや家族さえいやしねぇ。でも、そんな俺でも無事を祈ってくれる仲間がいてくれると思えれば・・・この戦いで死ぬ様な事もねぇんじゃないかと、思うんだがよ。」 口八方は得意な事この上の無いビクトールが、オデッサに饒舌に、けれどしおらしい態度で詰め寄った。フリックの顔が見る見る変わっていく様が面白い。 「駄目だって、言ってるだろう?!」 「おいおい、何だよ、別に手ぇ握るくらい・・・」 「あら、フリック。私は別に構わないわよ。」 「オデッサっ!!」 オデッサの台詞に、噛み付かんかの勢いでフリックが怒鳴る。それに対してオデッサは気にした風も無く、にっこりと笑って言った。 「だって、ビクトールの無事を想うのは、本当の事ですもの。」 「だからって、何も君が・・・なぁ、ハンフリー!お前からも言ってやってくれよ。」 「・・・オデッサが決める事で、俺が口を挟む事じゃ無い。フリック、お前もな。」 助けを求めたハンフリーに、逆に諭される結果となってフリックはぐっと詰まってしまった。一連の成り行きを見ていたビクトールが、決まりだなと嬉しそうににやりとした。頷くオデッサに、うんざりした様子で肩を竦めるハンフリー。そして、フリックはわなわなと震えていた。 「・・・解った。俺が・・・やる。」 「は?」 搾り出す様に出た声に、一同はフリックの方を仰ぎ見た。その目が据わっている。 「別に、仲間だったら誰でもいいんだろ?だったら、俺がやったって一緒だろ?!」 「お、おぉ・・・」 詰め寄るフリックに迫力負けしてビクトールは、その申し出にたじたじと応じた。ホントにオデッサの事となると、この青年は見境が無くなるらしい。浮気をするという訳でも無いのに、こんなに剥きにならなくても・・・とビクトールは内心呆れつつ苦笑した。 「ちゃんと、心を込めてやってね。」 「ああ、解ってるよ。」 まさかこんな遣り取りが起こるとは想像もしてなかったオデッサが、ちょっと心配そうにフリックを覗き見た。それにぶっきらぼうに答えるフリックは、その元凶の男を睨み付けている。 「じゃあ、手袋脱いで、手、貸せ。」 淡々と告げるフリックに、ビクトールは従ってその手を預けた。 それを受け取ったフリックは、自分の手の平を合わせしっかりと握り締める。もう一方の掌を握った手の甲に当てて包みこんだ。 そして――― 瞳を閉じたフリックは、包みきれなかったビクトールの指を、自分の唇に押し当てたのだ。 途端、驚いたビクトールは思わず手を引っ込めそうになった。が、何とか押し留める。フリックの、唇の感触は柔らかかったが・・・ビクトールは何故か痛いと思った。 まるで熱を持ったかの様に。 熱くて痛い。 「・・・・・・」 ビクトールは、まるで信じられないものを見る様な目で、フリックを見詰めていた。綺麗な青い瞳が伏せられると、普段でも若く見える彼の顔に更に幼さが増す。堅く閉じられた目蓋の上の形のいい眉は、少し顰められていて、本当に彼が心を込めていてくれているのが解る。やるからには―――と、根が真面目な彼は今、一心にビクトールの無事だけを祈っていてくれているのだろう。 そう思ったビクトールの心の中を、何か得体の知れないものが走り抜けた。この手を振り払って、この場から逃げ去ってしまいたくなる衝動を、必死に耐えていたビクトール。しかしその後フリックが取った行動によって、更にその身を強張らせる事となったのだ。 唇にビクトールの指を縫い止めたままに、フリックは額をビクトールの額にこつんと合わせた。 一瞬真っ白になった思考でビクトールは『さっきはこんな事していなかった』と思っていた。いや、多分ハンフリーに声を掛けられ振り向いていた時に、していたのだろう。オデッサがするのを、フリックが躍起になって咎める筈だ。 こんな―――こんなお互いの息が掛かる距離。まるで、今にもキス出来そうなくらい、近くにいる。 合わさった額と、指から伝う唇の感触に、ビクトールの意識は嫌が応にも集中していた。体がぎしぎしいって、身動きが出来ない。耳には、動悸の音だけがやけに大きく響いて、煩いくらいだった。 ふとした拍子に、フリックの指が、今度はビクトールの唇に触れる。 まるで、雷に打たれたかの様な衝撃がビクトールの全身を貫いた。眩暈がしそうな程の甘痒い痛みが、ビクトールの胸を襲う。空いた手で思わずフリックを抱き寄せ様としてしまって、ビクトールは愕然とした。中途半端に上がった腕が、小刻みに震えている。その腕のやり場を考えられる余裕など、今のビクトールには微塵も無かったのだ。 どうして、こんなに自分はうろたえているのだろう?と、ビクトールは頭の隅で思う。男のフリックに、自分は何を期待しているのか。ましてや、死ぬ程愛している女のいるヤツ相手に・・・ 時間にしてみればほんの数分間であったが、ビクトールにとっては永遠かとも思われた時は終わりを告げ、フリックはゆっくりと離れて行った。最後に握っていた手を自分の胸元に当てたフリックが、目蓋を押し上げてから呪文を唱える。 「ビクトールが、ここに、帰ってこれますように。」 その声色は驚くほどに、真剣味を含んでいて。その真摯な蒼く澄んだ眼差しに、ビクトールは思わず泣きそうになる。ここに帰って来たい、と素直に心から想った。 「・・・ありがとな。フリック。」 その手が完全に自分から離れて行ってから、ビクトールはフリックに微笑んだ。その瞳が、何だかとても寂しそうに見えて、フリックはビクトールを見詰め返した。けれど、その漆黒の瞳は深すぎてフリックには、計り知る事は出来なくて。 「お前が死んだら・・・俺も寝覚めが悪いからな。」 「はっはっは、そりゃ悪かったな!」 それに、オデッサの代わりだからなと、付け加えたフリックの背中をバンバン叩いて、ビクトールは声を上げて笑った。もう、いつものビクトールに戻っている。だから、フリックは気のせいだったんだと、気付かずにいた。ビクトールの中に芽生えた、言葉に出来ない想いを。勿論、ビクトール本人にもまだ、解ってはいなかったのだが。 「では、そろそろ行こう。」 ハンフリーがもう出撃の時刻だと告げると、面々は地上へと続く階段へと足を向けた。その最後尾で、ビクトールは自分の掌をじっと見ていた。その温もりの名残を、とても惜しむかの様に・・・ それ以降、ビクトールは事有る事に、その『儀式』をフリックにせがんでいた。『良く効くから』と言い、断ろうものなら『俺が死んでもいいってのか?』と返し、渋々とフリックが引き受けざるを得ない状況を作って。 そして相変わらずその『儀式』には、激しい痛みを伴った。けれど、何故なのかは解らなかったが・・・いや、解っていない振りをしていただけかも知れないが、どうしてもビクトールは求めずにはいられなかったのだ。フリックが自分の無事を祈ってくれる。ここへ帰ってきてくれ、と言ってくれる。ただそれだけで、自分は無敵になれる様な気がした。そんなビクトールの頭によぎる疑問。あの時・・・オデッサが『儀式』をしてくれていたら、彼女にもこんな気持ちを抱いたのだろうか? けれど、その答えは得る事がないままに。 彼女はこの世を去っていってしまった。 オデッサが逝ってからのフリックは、それはそれは痛々しかった。 日に日に、痩せていく体と心。気丈に振舞う彼の、心の内を示すかの様に。 今の彼を例えるなら、細い糸がこれ以上は無いという程にぴんと張り詰めた状態。きっと何か些細な事で、ぷつりと切れてしまうのでは無いか?ビクトールは今にも倒れそうなフリックの顔色を見る度に、湧き上がる歯痒い思いに唇を噛み締めた。自分に出来る事といえば、ただ側に居てやる事くらいだ。側に居て、共にオデッサの夢見た平和を勝ち取る為に戦う事しか出来ない。とても、癒してやる事など出来ないと、そう思ってはまたそんな自分に嫌気がさした。 戦い、といえば。 まだあの『儀式』は続いていた。 オデッサの事を思い出して辛い思いをするのでは無いか、と遠慮していたビクトールに、フリックから申し出があったのだ。もう仲間の誰の死も見たくは無いから―――と。 その『儀式』が繰り返される度、ビクトールの痛みは比例して、どんどん大きくなっていく。そして、不謹慎にも感じる甘い疼きも。 指に当る唇の柔らかさや、吐息の甘さ。握り締めた掌の、合わせた額の、温かさ。彼の指に口付ける事を許される一時。それらが全てビクトールに、焼け付く程に強烈な、甘美な苦しみをもたらしていた。 何度、彼をこの腕に抱き締めたいと思った事だろう。 何度、『オデッサの事は忘れちまえ』と言いたくなった事だろう。 けれど、そうする事によってフリック自身を失うのではないか、という危惧からそれは果たせないままで。情けなくも棒の様に突っ立って身じろぐ事さえ出来ず・・・身を焦がす想いが胸を締め付ける痛みに、ただただ耐えるばかりだ。 そんなビクトールが、ただ一度だけ自分からその手を引き寄せた事があった。 それは、解放軍としての最期の戦いに赴く前。 いつもの様に、『儀式』は行われた。 きっとこの戦いは勝利を収める事だろう。長年の戦士としての勘がそう告げている。オデッサの望んだ結末がすぐ其処にあった。 しかし、ビクトールによぎる一抹の不安。 オデッサの死が、解放軍当初からのメンバーで信頼していたサンチェスの裏切りであった事を知ったフリックの、その瞳に冥い影が落とされている事をビクトールだけは気付いていた。 自分は必ず生き残る。フリックのこの『儀式』があるから。フリックも自分から死に往く様な事はしないだろう。 けれど、もし・・・万が一が起こったら? 万が一生死を分ける様な状況に陥った場合、生を望むのか?そのまま死んでもいいなんて、思いはしないのか?今のフリックの瞳の精彩の無さはどうだ? これが生きたいと思う人間の瞳なのかどうかは、ビクトールには嫌に成る程解ってしまうのだ。 だから。 「ビクトールが、ここに、帰ってこれますように。」 そう告げて結んだ手を解こうとしたフリックの手を取って、ビクトールは自分の胸に押し当てる。 「ここに必ず帰って来い!フリック、必ず、だ!」 驚きで見開かれたフリックの瞳を、真っ直ぐ正面からビクトールは見詰めた。いや、睨み付けたと言った方が正しいだろう。握り締めた掌に強く強く力を込めて。フリックに心の奥底からの真剣な想いを伝えたいと、必死な形相でビクトールは声を絞り出した。 「いいか?俺がお前を死なせやしねぇ。だから、必ず生きて帰って来い。ここに。」 フリックの掌を握り締めたまま、どんっとビクトールは自分の胸を叩いた。死なせたくない。失いたくない。この先もずっと共に生きていきたいのだと。 心を、祈りを、込めるビクトールがフリックの答えを待っている。 その時の―――フリックの表情を何と言えばいいのか・・・ 困った様な、けれど嬉しそうな・・・泣き笑いを浮かべて、確かにしっかりと頷いたのだ。 きっと自分はこの顔を一生忘れる事は出来ないだろうと、ビクトールは今でも思う。 あの時程、フリックの単純さに救われた事はない。 自分の身を心から案じる仲間の想いに応える為、フリックは精一杯戦い、そして生き抜いたのだから。 ちゃんと、自分の元へ、帰って来たのだから・・・ 厳粛に時間が過ぎていた。 まるで其処だけ辺りの空間を切り取ったみたいな、恐ろしい程の静けさが二人を包んでいる。 かつてそうしていた様に、フリックはビクトールの掌を取り一心に祈っている。互いの指を唇に押し当て額を合わせ、体温が確実に伝わる程近くに寄り添い合って。 けれども、もうビクトールにはあの激しい痛みは湧き上がっては来なかった。そのかわりに、フリックと触れ合う処からとても穏やかで優しい気持ちが、自然と溢れてくるのを感じている。 あれから、3年の月日が過ぎ――― 今こうしてフリックは、自分の隣で共に生きていてくれている。 『儀式』の形式だけはそのままに、きっとあの頃とは二人共、違う想いで祈っているのだと・・・そう信じたい。 触れ合う彼の気配が、昔よりずっと温かで優しいと感じるのは、自分の自惚れなんかでは無いのだと。 「ビクトールが、ここに、帰ってこれますように。」 そのビクトールを無敵にさせる呪文を唱えたフリックが、あの頃と同じ真摯な眼差しで自分を射抜く。その蒼い瞳にまるで吸い寄せられるかの様に、ビクトールは彼の背に腕を廻してきつく抱き締めた。 「ここに帰って来いよ、フリック。」 昔、あんなに焦がれて狂おしい程募った願いを、今の自分は易々としてしまうのだと思って、ビクトールは内心苦笑した。何度も何度も、フリックをこの腕に閉じ込めたいと想った。力尽くででも、自分の方を向かせてやりたいとも、想った。 当時に思いを馳せたビクトールの腕に、強く力が篭る。やっと手に入れた。死ぬ程欲して、まさしく命を掛けて彼を手にいれたのだと、自分ではそう思っている。 大事な大事な愛しい人。 「ああ、ビクトール。・・・ここ以外に、帰りたい所なんて無いからな。俺には。」 ビクトールの掌をまだ握り締めたままのフリックが、その手にぎゅっと力をいれると、そう告げて微笑んだ。 心臓を鷲掴みにされた思いでそれを聞いたビクトールが覗き込むと、そこにあるのはとても綺麗な笑みを作ったフリックの顔。 「だから、お前もちゃんと帰って来いよ。」 冴えた蒼い瞳に、不敵な笑顔。ビクトールの最も好きなフリックがここにいる。 「お前ってホント、俺の事、のせるのがうめぇよなぁ・・・」 「当たり前だろ。お前と俺の付き合いだからな。」 と、また自分では気付いて無いのであろうが、ビクトールを喜ばせる台詞を吐くフリックに、ビクトールは本当に嬉しそうに破顔する。 決して失いたくは無い。この可愛くて愛おしい彼を。 かつて彼の無事を心から祈り、この『儀式』を作り上げた女性はもういない。 けれど、彼女の気持ちは痛い程、自分には分かるから。 かと言って、代わりになどはなれないし、なりたくも無い。 だから。 彼女の分を含めてまで、彼に自分なりの遣り方で伝えようと想う。 「じゃ、そろそろ行くか。」 「ああ、そうだな。」 促すビクトールに、フリックは背筋をしゃんと伸ばして応えた。ちゃんと戦う男の表情になっているのを確認すると、ビクトールは安心しながら自分の気も引き締める。 「絶対、帰って来いよ。」 「お前もな。」 お互いの肩を叩き合いながら、そうして二人は扉を開けた。 その先に続く戦場へと赴く為に。 そして、更にその先へと続く、長い人生の路を二人で歩いてゆく為に――― 『ビクトールが、ここに、帰ってこれますように。』 『ここに帰って来いよ、フリック。』 こうして、想いを伝える為に『儀式』はまた受け継がれていくのである。 終わり 2001.06.12 |
かなり、がんばりました。『切ない』話って、凄く書くのが難しい事を知りました…ええ、ほんとに。でも、S様にお墨付き頂きましたので、ちょっと嬉しい私vv 色々試行錯誤した結果こうゆうお話になったのですが…如何なものでしょう?唯伽さん。やっぱり『メロウ』には程遠いでしょうかねぇ〜しかもらぶらぶなのかどうかも怪しいですが(笑) 今回の熊はいやに我慢強くしおらしい(笑)ですな。やっぱり『切ない』と言えば、片思いなのかと思いまして。解放軍時代からフリックの事好きだったとしたら、最期の戦い当りが熊にとって正念場だったのでは、と思います。そんな話。 |
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