第1回 国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
−抄録集−

     目次

   シルクロード病と呼ばれるベーチェット病の現在・過去・未来
 1.Dr. アハマド カリル(エジプト)‥‥‥‥‥‥‥エジプトの現状
 2.大野 重昭,西田 朋美(日本)‥‥‥‥‥‥ベーチェット病の眼症状
 3.三浦 宏子(日本)‥‥‥‥‥ベーチェット病患者のオーラル・ヘルス・ケア
 4.ワファ マダナット(ヨルダン)‥‥モザイク画のような病気−ベーチェット病
 5.坂根 剛,岳野 光洋(日本)‥‥‥‥‥‥‥‥‥特殊型

   各国のベーチェット病患者さんおよび、患者さん周囲の方々の実体験談を聞く
 6.井上 和雄(日本)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥自分に厳しく周りに優しく
 7.ピルスー キム (韓国)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥妹も同じ病で
 8.ケビン チャオ (中国)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥漢方薬
 9.エルサィド レファト モハメッド エルグラウディ(エジプト) ‥目の症状
 10.西上 厚子 (日本)‥‥‥‥‥‥失明は免れたけど皮膚症状に悩む30年余り
 11.アニリア コスタァディノーバ ヴァシィリバ (ブルガリア)‥患者と家族から
 12.アクバール オウジ (ギリシャ)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥私のシルクロード病
 13.若山 道子 (日本)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥家族に愛に支えられて
 14.ビヤン ザーネガー (イラン)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥私の病歴
 15.アリ ソイヤー (トルコ)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥実話
 16.タリク アブアイシヤ(サウジアラビア)‥‥‥‥‥‥‥発病から現在
 17.タル キナスリー (イルラエル)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥情報を得る
 18.モハメッド サディエ (シリア)‥‥‥‥‥‥‥‥生まれながらのベーチェット病
 19.高橋 由美子 (日本)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥妊娠出産について
 20.ジヤマール タミミ (ヨルダン)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥シルクロード病のゆくえ
 21.山崎 賢二郎(日本)‥‥‥‥‥‥‥ベーチェット病の関するHPを立ち上げて
 22.ヘレン レーン (イギリス)‥‥‥‥‥‥‥1日1日をベーチェット病と生きる
 23.酒井 るり (日本)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥私らしく生きる
 24.ヒューレル ピージー(モンゴル)‥‥‥‥‥‥‥‥‥ベ−チェット病の現状
 25.鈴木直樹 (ブラジル)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥日本に来て発病
 26.西田 稔 (日本)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥私の経歴

   各国の社会福祉の現状と問題点
 27.安藤 亮 (日本)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥思いやりこそ人の道
 28.ペンビンダ マルケス ピレス フェレイラ(ポルトガル)‥‥‥私の病歴
 29.ジィーン ルイス ロステイング(フランス)‥‥‥‥‥‥‥‥‥私の病歴
 30.シイェッド・アーマッド ハッサンタッシュ (イラン)‥‥‥‥‥私の病との生活
 31.アハマド カリル (エジプト)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥エジプトの現状
 32.マリア ドニーヴァ(ブルガリア)‥‥‥‥‥‥ブルガリア社会福祉の現状と問題点
 33.ステファニー ドルスキー(カナダ)‥‥‥‥‥‥‥‥‥カナダの保険・福祉
 34.井口 伸 (日本)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥日本の年金制度

   各国ベーチェット病患者活動のありかた
 35.高野 喜久治 (日本)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥北海道友の会
 36.ヒルダ ハーティング(アメリカ)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥アメリカ友の会
 37.バリー シィーマン (イギリス)‥‥‥‥‥‥‥‥‥イギリス ベーチェット病協会
 38.尾本 次生 (日本)
 39.サイダ ベナムアー(モロッコ)
 40.ステファノ スビオリ(イタリア)
 41.セティン エジバー(トルコ)
 42.吉田 勝(日本)



1.ベーチェット病 − エジプトの現状
Dr. アハマド カリル
Dr. Ahmad K. Khalil
ベーチェット病に冒されている患者が初めてエジプトで診断されたのは、ベーチェ ット病の事が発表されてから数年後の事でした。ほんのいくつかの医療センターが ベーチェット病の治療を行っています。治療内容は個人差があります。また、基盤 となる治療の議定書というものは無く、そして治療後の経過状況を記した書類など もありません。多くの眼科医は免疫を抑制する薬を使うのを慎み、どちらかという と議論の余地があるまだ効果などのはっきりしていない全身ステロイド (systemicsteroids) を急性の発作の時に好んで使います。これらが我が国のベーチ ェット病患者に対して行われている簡単に述べた医療管理の状況です。発表内容は ベーチェット病に犯されている3人の患者の経歴、この病により彼らに与えた衝撃 と生活状況です。



2.大野 重昭,西田 朋美
横浜市立大学医学部眼科学教室
ベーチェット病の眼症状  
 ベーチェット病のいろいろな症状のうち、網膜ぶどう膜炎を中心とする眼症 状は特に経過が長く、何度も再発をくり返すため、失明率が高い。ベーチェッ ト病が代表的な難病である大きな理由の一つは、この難治性再発性の眼症状に 由来している。
 ベーチェット病の4大主症状の一つである眼症状は、男性の80−95%こ 出現するが、女性では60%位である。一方、眼症状は主に眼の前の部分に炎 症がおこる虹彩毛様体炎型(前眼部型)と、網膜や脈絡膜など眼内の後部に炎 症がおこる網膜ぶどう膜炎型(眼底型)に分けられる。男性では90%以上が 失明率の高い網膜ぶどう膜炎型であるが、女性では60−70%と男性よりは 低い。ベーチェット病の眼症状は90%が両眼性である。
 本病の虹彩毛様体炎型病変としては、時に前房蓄膿を伴う虹彩炎や虹彩毛様 体炎が特徴的である。虹彩毛様体炎型病変のみで失明にいたることは少ないが、 何度も再発をくり返すと併発白内障や続発緑内障などの余病が併発し、時に失 明の恐れがある。
 虹彩毛様体炎型の治療の基本は(1)ステロイド薬、(2)散瞳薬の点眼局 所治療である。時にはステロイド薬眼球周囲注射を用いることもある。これら を炎症の強さ、再発回数に応じて、必要最小限に用いることである。ただし、 これらはいずれもおこった炎症を消炎する治療であり、再発の予防効果は期待 できない。
 これに対し、網膜ぶどう膜炎型では失明の恐れが高く、局所治療に加えて炎 症の再発を予防するため、全身治療も必要である。たとえばコルヒチン(1日 0・5mg〜1・5mg)、シクロスポリン(1日体重当たり2〜5mg)、あるいはア ザチオプリン(1日50mg〜150mg)やシクロホスフアミド(1日50〜 150mg)などの免疫抑制薬を内服する。これらを炎症の強さや再発回数に応 じて増減しながら、数年間は飲み続けるのが一般的である。眼炎症が再発すれ ば、これらの内服薬に加えて、虹彩毛様体炎と同様ステロイド薬や散瞳薬の点 眼、眼球周囲注射などを併用する。
 ベーチェツト病では色々な新しい免疫療法が試みられており、今後さらに視 力予後が向上することが期待される。また、基礎研究では網膜視細胞移植や視 神経移植、遺伝子治療などの動物実験も行われはじめている。
 アラビア語で”ベーチェット”とば”幸福”という意味である。ベ−チェツ ト病その名の通り真に”幸多き病”となるよう、世界中の本病患者さん、そ 家族またベーチェツト病の診療に従事する医療関係者、研究者、コメディ カルの皆が力をあわせ”幸多き未来”を切り開いてゆくことが強く望まれる。



3.三浦 宏子
九州保健福祉大学保健科学部
ベーチェット病患者のオーラル・ヘルス・ケア
 ベーチェット病患者は口腔粘膜に再発性アフタを発症するため、その疼痛に より、しばしば口腔内清掃に困難をきたす場合がある。そのため、十分な歯口 清掃が行えず口腔粘膜症状が悪化する場合や、二次的に齲歯(虫歯)や 歯周疾患(歯槽膿漏)などの歯科疾患に羅患する事例も多いと言われている。  良好な歯科保健習慣の獲得は、口腔粘膜アフタの憎悪を防ぎ、齲歯や歯周疾 患の擢患を予防する極めて効果的な方法である。本講演では、日常生活のなか で良好な口腔管理を行うために、必要な口腔清持に関する知識とその方法につ いて紹介したいと考えている。具体的には、@口腔清掃不良の為害作用、A歯 口清掃器具の選び方、B効率のよい歯磨きの仕方、等について説明を行う予定 である。
 また、我々が先般行ったベーチェット病患者の歯科保健ニーズに関するパイ ロットスタディの結果についても、その槻要を併せて報告し、患者に対する歯 科サイドの取り組みのあり方についても言及したい。



4.ワフア マダナット
WafaMadanat MD Ph.D.
モザイク画のような病気−ベーチェット病
 ベーチェット病は多様組織からなり、病因の分からない病です。ベーチェッ ト病は医師会や研究者の間で多くの興味を持たれ、また越えていかなくてはな らない課題多き自然界に存在する病と言えるでしょう。べ一チェット病は病の 長期化、色々な人種に同じ病気が見られるという事、両性共々発病の可能性が あるという事、べ一チェット病と登録される患者数が毎年増えています。その 様な中、病因が明確でないが為に充分な治療が行き届かないという結果が生ま れ、ベ−チェット病は専門家にとってもかなり問題点の多い病気といえるでし ょう。 ベーチェット病の特有な口腔粘膜潰瘍や外陰部潰瘍、そして眼症状などは1 937年にHulusi Behcet(ヒュルシ ベーシェット)教授により発見され、彼 の名前をとりベーチェット病と名づけられました。皮膚症状などは後に発見さ れました。ベ−チェット病は世界中で見られますが、その中でもシルクロ−ド 沿いの国々で頻繁に見られるという事が分かっています。これによりベーチェ ット病は「シルクロード病」と言う名でも良く知られています。
 ベーチェット病にかかる特定年齢はなく、何歳にでもこの病にかかる恐れは ありますが、30歳前後に発病している人が数多くいる事が分かっています。 病にかかる男女の比率は国によっても違いますが、男性の方がどちらかという とべ−チェット病も重い症状を持っている人の割合が女性よりも多いです。ベ ーチェット病は長期間何度も発作が起き、死亡率は約1%です。死に及ぶ原因 として、動脈瘤の破裂、腸の穿孔、または重度の中枢神経の病があげられます。

病状一病状的に大きく分けて2つに分けられます。

主症状:これらの症状はほとんどのベーチェット患者に見られるものである。
1.勃発性の口腔粘膜潰瘍
  この症状は98−100%の患者に発生していて、口腔粘膜潰瘍はたいて いかなり痛みが激しいもので、12ケ月中3回程度症状が繰り返 される。 局部の外傷と歯科治療により潰瘍が促進してしまう事がある。
2.外陰部潰瘍
  80%の患者さんに傷跡となって残っている事がある。
3.皮膚症状
  皮膚症状は約90%の患者たちにみられる。とある人から聞いた話 なので すが、ベーチェット病患者の血疹やにきび損傷からなる結節 性紅斑をよく 見ると、思春期に出来始めるにきびとよく似た性質がある事に気づきます。 私達は外陰部で見られるアフタ性潰瘍と似たよ うな潰瘍が脇周辺で見られ ましたが、これは珍しいものだと思います。
4.眼症状
  前方、後方ブドウ膜炎や網膜炎などは50%の患者に診られている。その 中の25%の患者は色々な眼治療をしても完全に盲目になって しまう事が ある。
5.Pathery Phenomenon
  採血部分の発赤跡は特定のべ一チェット病患者に見られ、ヨーロッパに住 むベ−チェット病患者には見られない症状である。

副症状:これらの症状は各地域により異なり、全てのベーチェット病患者に見 られる症状ではない。
1.導管外傷
 表面の血栓性脈炎、?
2.関節痛と関節炎
 40%程度の患者に見られる症状である。それはひどい関節炎ではなく、 ほとんど膝や足首の関節に影響があります。
3.胃腸関係
 潰瘍が胃腸宮にそって出来、また回腸と盲腸の末端にもよく出来ます。
4.中枢神経系関連障害
5.胸膜肺の外傷
 喀血と共に熱、胸の痛み、また呼吸困難の症状がみられます。
6.睾上体炎
  30%の男性患者に診られる。
7.家族病歴
 患者の身内で勃発性口腔粘膜潰瘍、またはベーチェット病を持った者は約  50−60%にも登り、それ以外に心臓、腎臓、その他の臓器に障害がある者もいましたが、それは稀でした。

診断: ISGの基準によると、患者が口腔粘膜潰瘍と2つ以上上記の症状があればベ ーチェット病と診断される。

治療法: ベーチェット病の治療法はいまだ確立されていないが、局部と組織治療を行っ ている。局部の治療(口腔と外陰部潰瘍)には局所のステロイドを使い、また眼 症状には点眼を処方しています。全身療法では次の薬を用いています。
1.CoIchicine
2.Thalidamide
3.Corticosteroids in oral and W forms
4.Immunosupressive agents(Azathioprine,Cyclophosphomヱde, Chlorambucil and Methotrexate)
5.Cyclosporine



5.坂根 剛,岳野 光洋
聖マリアンナ医大 免疫学・病害動物学  
 ベーチェット病では口腔内アフタ、皮膚症状、陰部潰瘍、眼症状の主症状の ほか、全身のほとんど至るところにいろいろな症状が急性炎症性発作として繰 り返し出現します。中でも中枢神経症状、血管症状、腸管症状は生命に脅威を もたらす警戒すべき状態に賄ったり、治ってもしばしば後遺症を残します。  
 中枢神経症状は大脳や脳幹部の障害に基づくもので、急激な髄膜炎が起こる こともあれば、運動麻痺などの神経症状が徐々に進行していくこともあります。 末期に問題になる人格変化、痴呆などの精神症状にはなかなかいい治療法があ りません。血管病変は、大きな動脈、静脈が閉塞して循環障害を引き起こした り、動脈癌が破裂して大出血を起こしたりすることがあります。腸管症状は小 腸の末端と盲腸の周辺に病変ができることが多く、腹痛、下痢、血便の原因に なります。

 日本ではこれらの症状が重症化した患者は特殊病型(神経型、血管型、腸 管型)に分類され、副腎皮質ステロイド薬や免疫抑制薬などの積極的な治療を 要します。血管型では動脈瘤破裂したり、閉塞したりしたときに、腸管型では 腸管からの大出血や穿孔をきたしたときには、手術が必要なことがあります。  残念ながら、このような特殊病型の発症を前もって予測することはできま せん。ベーチェット病の経過中に疑わしいこれらの症状が出たときには、担当 医にすぐ相談し、頭部のMRI検査、血管造影、大腸内視鏡検査などの精密検査 で早期に対処するよう心がけることが大切です。



6.井上 和雄  
 私は、ある朝突然目がかすんで文字が見えなくなり、1959年べ−チェッ ト病と診断されました。当時、下痢・結節紅斑・口内アフタ等の症状も出てい ました。その後、充血と全房蓄膿と共に視力が低下していき、数年間多くの病 院で治療と入退院を繰り返しました。1973年白内障が進んでほとんど見え なくなったので、全盲を覚悟で両眼を手術しました。左眼は眼鏡をかけると、 歩ける程度の視力に戻っています。現在は自宅ではり・きゆう院を開業、体調 も良く、生活も安定しています。  
 信仰を持ち、「自分に厳しく周りに優しく」をモットーに生活する中で、病 気に負けない自分になっていました。私が現在あるのは、多くの方の支えがあ ればこそと感謝の気持ちで一杯です。これからは地域社会に貢献できるよう頑 張って参ります。



7.ピル スー キム
Pil Soo Kim−韓国
 私は韓国航空の訓練生でした。私がべ一チェット病にかかったのは訓練中の飛 行機の中で1995年の7月の事です。私は視力に問題が生じたため仕事も飛 行機内での仕事からから地上勤務に変わらなくてはなりませんでした。病院で 治療を受け始めてから、私の今の健康状態は良いです。現在私は韓国のべ−チ ェット病患者の為にインターネット上でウェブサイトを開きました。そして、 韓国ベーチェット病協会では2000年3月1日に最初のニュースレターを発 行しました。私もニュースレターの編集に携わりました。
 私には私と同じベーチェット病を持つ妹がいます。彼女は病に冒されてもう すで12年にもなります。私達は病院できちんとした治療を受ける前は、色々 な民間療法などを試していました。しかし民間療法には効果は無く、結果とし て最悪な事態に焔りました。妹の片目は盲目となり、もう一つの目にも最小限 の視力しか残りませんでした。でも彼女は残り少ない視力という弱点を乗り越 えようとしています。今妹は放送大学の2年生です。将来は社会福祉の視覚障 害がある人達の為に貢献したいと言っています。



8.ケピン チャオ
Kevin Chow
 私は1980年11月にベーチェット病を発病しました。当初27歳で、イギ リスに住んでいました。症状は口内や外陰部の潰瘍、肘と足首に痛みを覚え、 夜汗ばみ、斑点が顔にでき、また今までよりも疲れやすくまりました。

 症状は急速に悪化してゆきました。約1年後に結節性紅斑が腫れ、手足にで き、夜になるとそれらは特に痛みを増しました。私は医者から抗生物質薬を与 えられましたが、この薬が私の眼症状を引き起こすきっかけとなってしまいま した.その時以来、眼症状は2−3週間おき位に起こるようになり、症状が起 きた時はPrednesoneという薬を使って、炎症を抑えていました。1982年 10月にイギリスのミドルセック市にあるノースウィック病院で、初めてベー チェット病と診断されました。私はそこでCyclosporinAとPrednesone と いう薬をもらい飲み始めました。初めは効いていたのですが、そのうち薬を飲 む度吐き気がひどくなり、最終的にはこれらの薬をやめました。

 1983年、完全に視力を無くし、私は香港へ帰りました。ベーチェット病 にはいまだ治療法が見つかっていない事をふまえて、私は何人もの中国漢方医 を訪ね、薬を色々作ってもらいました。しかし、漢方医に作ってもらった薬の ほとんどにより炎症が悪化してしまいました。

 1992年にとうとう私に運が向いてきました。中国漢方医がある薬を調合 してくれました。その薬により今まであった全てのベーチェット病症状が24 時間以内に解消されました。私はこの薬を“FuGui”と呼んでいます。それ以 来、炎症がおきはじめる時点で“FuGui”を飲んでいます。この薬を飲み始め てから、私自身健康になったと思います。私のベーチェット病症状は私と合わ ない食べ物(揚げ物、香辛料の強い食べ物、ナッツ類、トースト、コーヒーな ど)を食べた時に現われます。今では食事制限と“FuGui”で、私が完全にべ 一チェット病をコントロールしています。
  “FuGui”の素晴らしい所は、毎日飲まなくてよい事、また副作用が少ない事 です。中国漢方は最小減または全く副作用が無いという事で知られています。

  トルコ人のベーチェット病患者が“FuGui”を使ってみた所、彼にはとても よく効きました。その反面、中国人のベーチェット患者には
“FuGui”は全く 効きませんでした。私はこれらの結果を中国漢方の教授に訊いてみたところ、 先生はもしかしたらベーチェット病の中でも2種顛ベーチェット病があるのか もしれないと説明されました。中国の医学用語でいえば、1種類のべ一チェッ ト病はヤン(Yang)が欠けていて、2種顛目はイン(Yn)が欠けていると説明で きるのです。

漢方薬

網膜ぶどう膜炎
材料:                     マンダリン色調:
新鮮なBeng da wan(草の一種)       1,4,3
新鮮なYu lin cao(草の一種)         2,2,3
Mei Pian(中国漢方)                2,4

作り方:
*Beng da wanとYuu lin caoをすり鉢に入れ練る。
*練り物状になったら、ガ−ゼに塗る。
*Mei Pianを練り物状になった薬の上にばらばら振りかける。
*Mei Pian側の薬を目の上にかぶせる。

下痢
材料:
*養蜂場から買った新鮮な蜂蜜
*サツマイモの粉

作り方:
*大匙3杯の蜂蜜をお湯で溶かす。
*その中にサツマイモの粉を小匙半分入れる。

FuGui
中国漢方:       マンダリン色調:     量(g):
Bei qi            3,2             8
He shou wu        2,3,1          13
Fang dang         2,3             8
Wu wei zi          3,4,3           4
Tu fu ing          3,2,2          27
Bai shao          2,2            13
Chuan xu duan      1,4,4           8
Gan jiang          1,1             8
Fen ge gen         3,2,1           8
Gui zhi jian         4,1,1           8
Bai shu           3,4             8
Tu si zi           3,1,3           8
Shufuzi           2,4,3           8
Gu sui bu          3,4,3           8
Chuan gong        1,1             8
Niu qi            2,1             4
Zhi gan cao        4,1,3           8
Dazao            4,3             8
新鮮な生姜                   3個 3枚(薄切り)


<注意事項> 私も中国漢方医も漢方調合の資格を待った者ではありません。これらの漢方薬 は、私自身の経験で試しながら他のべ一チェット病患者と共に作った薬です。 もしこの薬を試したいならば、自分の責任でお試し下さい。症状の悪化、また は副作用が使用者に出ても私は責任を負いかねます。



9.エルサィド レフアト モハメッド エルグラウディ
EIsayed Refast Mohamed Elagroudy
 まず、私の自己紹介から始めたいと思います。私は58歳で長年ベーチェッ ト病に冒されています。私は科学者で、結婚して28年になります。3人の子 供達がいます。カハリド(Kahaud)27歳エンジニア、ヘイサム(Haytham)2 6歳で陸軍士官、リーム(Reem)は24歳で彼女は結婚しています。私の家族は 皆健康でベーチェット病暦を持つものは一人もいません。
 
 1975年に最初の病状が出ました。私の左目が赤くなり炎症を起こし、足 首が腫れました。医者はステロイド(Corticosteroids)性の目薬と錠剤を処方さ れました。その後2−3年間何回か目の発作があり、それに加え口腔と外陰潰 瘍が発生しました。ベーチェット病と診断されたのはその頃でした。私が覚え ている限りではこの70年代にベーチェット病とカイロで診断された患者は2 5人いました。私の右目は1980年にひどい発作に冒され、それはいまだ治 りません。右目の内部圧力が高くなり、その2−3カ月後に右目は完全に失明 しました。左眼は白内障になり始めていたので、1986年に手術を受けまし た。

 今までの間私は多様な治療法を試し、色々な医者に診療してもらってきまし た。それらの経験はレポート内で説明したいと思っています。



10.失明は免れたけれど皮膚症状に悩む30年あまり
西上 厚子
1.病名を知るまで10数年  私がべ一チェット病と珍断されたのは、19969(昭和44)年5月、大阪大学病院皮膚科に 入院中でした。
 しかし、発病はそれよりはるか10数年前かと思われます。中学生の時であったのか、 高校生の時であったのか、いまとなっては記憶が定かではありませんが、口内炎がたくさ ん出来て何日か学校を休み、母に「もっと柔らかい食ペやすいものをつくってよ。」と泣 いて訴えた記憶だけは残っています。それから、修学旅行中に足が腫れてきました。この ときの写真を見ると、旅行の2日目から足が太くなっているので、よくわかります。これ が、長らく私を悩ませたベーチェット病特有の結節性紅斑と血栓牲静脈炎のはじまりだっ たようです。眼のほうもジワジワと悪くなっており、病名確定したころには両眼とも虹彩 は癒着、併発白内障もかなり進んでおり、治療の主力は皮膚科より眼科に移っていきまし た。

2.今年は何が出るかと、むしろ楽しみに
 病名がわかっても、べ一チェット病についてなにも知らなかった私は、ショックもなに もなくキョトンとしていました。だんだん病気の内容がわかってきても、「なるほど、道 理で私は5人姉妹弟の中で一番身体が弱かったはずだ、納得、納得!」と思いました。また 失明の恐れあると言われても18歳のころ母につれられて行った眼科医院で、ペーチェッ ト病という病名は聞いておりませんが、「この子は失明するかも」と言われていたので驚 きもしませんでした。
 私は粘膜系にはあまり出ないたちらしく、口内炎もたまにちょっとでるだけ、陰部潰瘍 は一度も経験していませんが、足の結節性紅斑はくりかえし何度も、何度もでました。ま た、血栓睡静肺炎で両足が妊烈に痛み、立ち上がるのも鞋儀、歩くのも大変と言うときも 「何のこれしき、眼が悪くなるのに比ペたら、我慢できる。」とやせ我慢をはっていまし た。
 変わった症状としては、右顔面末梢神経麻痺をおこし、左半分しか動かないおかしな顔 になり、舌さえ右半分麻痺したようで、試しにお砂糖を舌の右側にのせたら、何の味も感 じられないのにぴっくりしたこともありました。
 ある年は、ものすごい頭痛が続き、頭痛薬を飲んでも治まらず、おう吐が続卓、しまい には黄色い胃液らしいものまで吐いてしまったことがあります。大学病院まで行く気力も なく、近くの神経内科医を受診したら、「あなたか苦しんでいるのはよくわかるけど、何 でそうなっているのかさっぱりわからない。」と言われてしまいました。かつては大病院 の重要なポストにいた先生ですが、ベーチェット病とは思いつかれなかったようです。私 もベーチェット病だと言ったのかどうかさえ、覚えていません。
 毎年のように出てくる症状の組み合わせがちがいます。しまいには今年は何が出るんだろうと楽しみにしていました。幸い、どれもそれほど重症ではなかったので、こんな不遜 なことを考えていたのだと反省しています。
 それでも、だんだん眼が見えにくくなることはなによりも辛く、何度死にたいと思った かしれません。ある時、「この病院の屋上から飛び降りてやる!」と若い担当医に言った ら、その先生少しも慌てず「迷惑だから、この病院から飛び降りるのだけは止めててくれ よそでやるのは勝手だけど。」とスラリと言ってのけられ、上手にはぐらかされたようで、 あとはその先生と一緒に笑い合った一幕もありました。後日、ベーチェット病友の会に入 って重い視力障害にもめげず、前向きに頑張っておられる先輩たちのことを知って、まだ 人手も借りず何とか歩けていたころに死のうとした自分を、恥ずかしく思いました。

3.白内障手術で視力回復
 白内障手術は、病名が確定した1969(昭和44)年当時すぐにでも受けたいと、主治医 に申し出たのですが、断られました。ベーチェット病患者の手術は危険だと言われていた からです。しかし、1975(昭和50)年1月には、それまで眼を近づければ何とか読めてい た新聞も読めなくなり、自分で書いた電話番号も読めなくて困ったり、地下鉄の階段を転 がり落ちるという事故もありました。
 「もう、誰が反対しても手術を受ける。それで駄目なら締めるから」と再度申し出まし た。やはり、当時通院していたところの開業医は反対しましたが、大阪大学の三村先生が 引き受けて下さったので、1975(昭和50)年8月に左目、そして、1976(昭和51)年10 月に右目の手術を受けました。
 「目め前がパッと明るくなる」という表現がそのままに、劇的といっても良い視力回復 が得られました。もちろん、それは人並みになったと言うことではなく、視力はコンタク トレンズをはめて右0.1〜0.4ぐらい、左は0.4〜0.6ぐらいで、それも網膜が傷んでいる のか、虫食い状態に見えない部分があります。でも、手術前の自分の視力にくらべれば、 10倍ぐらい見えた訳です。

4.ベーチェット病友の会大阪府支部とともに
 まず左目の白内障手術がうまくいったのが嬉しくて、1975(昭和50)年12月、その年の 9月に発足したばかりのベーチェット病友の会大阪府支部に手紙を出して「なにかお手伝 いをさせて下さい。」と申し出たのがきっかけで、25年間役員の一人として活動を続けて きました。   ベーチェット病のことも、身体障害者とか障害年金という言葉さえ知らなかった私が、 いつの間にか会員の方などの相談を受ける立場になってしまっています。私は小さな会 社や小人数の税理士事務所に勤めていたので、社会保険や税務関係のことは、一通りはや ってきたのですが、友の会で聞くのは一般には、めったに出てこない事例ばかりです。一 つ、ひとつぶちあたるごとに調べたり、教えてもらいにいったりしました。
 そして、気が付くのは制度上の矛盾です。なぜ、同じような障害をもっていても障害年 金のある人と無い人がいるのか、同じベーチェット病であっても、制度を知らなかったば かりに、特定疾患医療受給者証の申請をせず、ある時ふと気付いた主治医から「君、20 年も損したね。」と言われたと憤慨する患者がいたりしました。いろんな制度は全部申請主義だから、知らなかったばかりに損する人がたくさんいます。制度のある分については、 相談を受けた時に教えてあげて喜ばれることもあります。
 しかし、この25年間の間に多少改善された部分があるとは言え、難病患者、とりわけ ベーチェット病患者には制度の谷間に落ち込んで、救済されない人が大勢います。「難病 対策の充実を求める」国会請願著名運動や大阪府や市町村に向けての陳情運動も、長年続 けていますが、ともすれば後退する施策もあり、難病患者が安心して療養に専念できる状 態ではありません。

5.重症ベーチェット病患者を見捨てないで
 相談を受ける中で一番辛いのは、神経ベーチェット病で重症になった場合、適切な治療 とリハビリを受けられる病院がないことです。介護に手が掛かる、治療が難しい、長期化 する等の理由で受け入れてもらえないのです。たとえ受け入れてもらえても、3ヶ月近く なると、退院するか次の転院先を探しなさいと言われます。
 歩けない、しゃペれない、嚥下困難で食ペものを誤飲して肺炎をおこす、次には呼吸さ え困難になって気管切開、鼻腔栄養或いは胃ろうをつくって食べ物を流し込む等どれひと つをとっても在宅での管理は難しいのに、おまけにベーチェット病の炎症も次々おこすの に、「ご自分で転院先をみつけるか自宅へ帰りなさい。とせまられている、どうすればい いのか。」と泣くように相談してこられます。こんな相談には私も一緒に泣きたくなりま す。こんな患者を受け入れてくれる病院をみつけるのは困難です。
 20年前、国立療養所神経内科医師に「当院の看護婦は神経ベーチェット病患者に対応 する訓練が出来ていません。他の神経難病なら受け入れるけれど、ベーチェット病患者は お断りします。」と言われ、仕方なく他の病院を探したけれど、もとより引き受けてはも らえず、いわゆる老人病院に無理矢理お願いして、まだ40歳の男性患者2人が、転院後 間もなく亡くなるという悲しい思いをしました。 専門の神経内科医もいない病院です。仕方なかったのかも知れませんが、未だに記憶に生 々しく残っています。そのほか、悲しい事例が多数ありますが、時間が無いので省略しま す。
 それから20年もたったのに、事情はほとんど変わっていません。現在も、まだ22歳女 性の紳経ベーチェット病患者が、動けないどころか意識さえもないのに、転院をしなさい と言われています。厚生省では、「重症難病患者入院施設確保事業」という名前で予算を とっています。これで救われるかと大阪府に問い合わせたら「国からの予算は、病院のネ ットワークをつくる準備の会議費だけで、病院にベッドを用意させるための補助金はない から、これでベッドが確保できる訳では無い。」というのです。
 ペーチェット病は対症療法の進歩などで、一般的には軽症化していますが、ほんの僅か の人数とはいえ、物音うことさえ出来ない患者がいます。そのお仲間に代わって「重症ベ ーチェット病患者を見捨てないで下さい。そして、べ一チェット病の治療法を確立してく ださい。」とアピールして私の発言を終わります。



11.アニリア コスタァディノーパ ヴァシィリバ
患者と家族から  ベーチェット病への経歴
 アニリア コスタァディノーバ ヴァシイレバは45歳の白人女性で、今も 先生として働いています。目の病気が始まったのは1992年の事でした。ブ ドウ膜炎、静脈外膜炎からなる網膜の出血、そして斑点水腫がおきました。何 度もの両日の炎症を彼女は体験してきました。患者はソフィアにある大学の付 属眼科クリニックで幾度も治療を受けてきました。そこで、ブドウ膜炎の疾病 再発可能なベーチェット病と診断されました。彼女はその症状に加え、197 8年に口腔粘膜の再発性アフタ性潰瘍、足に結節性紅斑、背中に毛嚢炎様皮疹 ができ、そして注射跡に小膿胞が現われました。精密検査から陽性のHALB− 5という検査結果が出ました。また時折、高い値の循環免疫複合体が見られま した。治療方法は、副腎皮質ステロイドを定期的に使い、免疫抑制する薬を常 時使用しています。視力は両目とも0.6から0.8位です。



12.私のシルクロード病
アクバール オウジ
Akbar Owji
 1993年の春、私は口内に奇妙な感覚を覚え、その2ヵ月後、眼症状があらわれ ました。その後、何人もの医師にかかりましたが、最終的にNemasi病院のベーチェ ットクリニックと Shiraz大学の医療科学部において、ベーチェット病と診断されま した。診断されてから治療回復に3ヶ月もかかりました。私の甥はベーチェット病 状が最終段階近くにまで発展していたので、診断が遅ければ失明するところでした 。私は一般にベーチェット病について、マスメディア(テレビ、ラジオ、週刊誌)を 使い広める必要性があると思います。現在Shiraz市にはベーチェットクリニックと ベーチェット病の研究を行っている団体があります。それらの施設は1995年に 資産家のベーチェット病患者により創立されました。この慈善団体では辺鄙な地域 に住んでいるベーチェット患者や健康保険を持っていない患者の為に経済支援をし ています。私達は世界中のベーチェット病患者の団体、または協会での活動内容に 非常に興味を持っています。 私の知っている限りでは、ベーチェット病はアジアの地域で最も診断されているの で、アジアの国々の政府や科学者が集いもっとベーチェット病の発病原因や患者へ の看護に力を入れるべきだと思います。

 私は今回開催されるシルクロード会議で世界各国から集まるベーチェット病患者と 出会い話し合いの場が持たれるという事にとても感謝しています。ここでは私たち 患者同士今までの経験やこれからの将来について語り合いたいと思っています。



13.若山 道子
家族の愛に支えられて  
 べ一チェット病と診断されて4年半の34歳の主婦です。2年前に神経べ− チェットを発症しました。
 ベーチェット病と診断された当初は、病気についてあまり深刻に考えていな かったのですが、その後、神経ベーチェットと診断され、病気とは別の大きな ストレスで精神的にも落ち込んでいたので、将来について一時絶望的な気持ち になったこともありましたが、主人の理解・励ましと家族の愛によって、立ち 直る事が出来ました。  
 今は病気を抱えて将来的な不安や悩みはあるものの、病院での闘病生活中の ある「詩」との出会いと、病院で出会ったある人のお蔭で考え方まで変わり、 家族の愛に支えられて、現在を幸せだと思えるように生活を送ることの大切さ を知りました。病気だからと言って決して不幸なことばかりではないことをお 伝え出来ればと思います。



14.ビヤン ザ−ネガー
Bijan Zarnegar  
 私はイラン人で60歳になります。私は結婚していて3人娘がいます。私の べ−チェット病は30年前に始まりました。最初に口腔と外陰部アフタ性潰瘍 が発生しました。その症状は繰り返し発病しました。1年後に皮膚傷害が私の 足に見られるようになりました。これらの傷害は結節性紅斑と診断されました。 この皮膚傷害の症状は2年間出たり出なかったりしていましたが、運動して走 ったり競歩した時に右足に痛みを感じていました。エコグラフイーの結果から 私の動脈が損傷を受けている事が分かり、動脈炎と診断されました。私は痛み を感じながらも運動を続け、少しずつではあるものの6カ月後には痛みの減少 を感じてきました。その頃と同じ時期に前腕にも痛みがあり外面静脈炎と診断 されました。血液検査により沈殿値が高い事から、主治医は私が感染されてい ると見て抗生物質を長い間処方しました。また、私には関節炎の症状も出てい ました。

 私はベーチェット病の典型的な症状が出ていたにもかかわらず、15年間ベ ーチェット病と診断されず、その間ずっと抗生物質の薬を使っていました。私 はテヘラン大学のリウマチリサーチセンターでベーチェット病と診断されまし た。医療科学の為、私はLevamisisoleという薬を6ケ月、C01chicineを1年間 使い治療を行いました。病はこれらの薬によりたまに症状が再発するもののほ とんど制御されていました。5年ほど前から、私の病状は悪化し今ではひどい 関節炎に悔まされました。この関節炎の治療の為、Sulphasalazine, Methotrexate,そしてステロイドを使っていました。治療を始めて数ヵ月後に 関節炎の痛みは消え、薬も少しずつ減らしてゆき最終的には薬を完全に使わな くなりました。この後2回ほど関節炎になりましたが、同じ方法で治療をしま した。

 ベーチェット病の症状が繰り返し発病する時は、私自身が極度に弱っている 時かスポーツによる疲労を感じる時です。私の得意運動種目はフェンシングで、 私は世界級の腕前を持っています。



15.実話
アリ ソイヤー
Ali Soyer
 2年前私はある女の子と付き合っていました。それは普通でとても楽しい交際でし た。普段僕は健康を保つ為にたくさんの薬をとっているという事を人に言うのは好 みませんでしたが、彼女とは親密に交際している中でもあったので、私自身知って もらうのが自然と思い病気の事を彼女に告げました。しかし残念ながら、彼女は私 の病気の事を彼女の母親に言ってしまったのです。彼女と母親は私の病気に対して 不安を抱きました。ある日彼女は病気に対しての不安を私に打ち明けたのです。ベ ーチェット病は伝染病なのか?私には伝染しないと確証できるのか?それは確かな のか?それは性行為によって移らないのか?将来私達の赤ちゃんもベーチェット病 を持つのか?
 
 最初に、私にはどこでどのようにして私達が結婚するという考えを彼女と母親が持 ったのか不思議である。私は当初まだ22歳で、結婚とはまだほど遠いところにいた 。今日に至っても結婚はまだ早すぎると思っているので、当分この状態が続くと思 います。とにかく彼女は私とは、かけ離れた考えを持っていました。たいてい私の 交友関係の中では女性の方が結婚を前提に付き合うという考えを持った人が多いよ うです。

  彼女と母親が病気に対して心配した事件は私をも困惑させました。もし私が心底彼 女を愛していて結婚したいと思ったら、ベーチェット病は私達の関係を阻む障害に なるのだろうか?

 今日私の健康状態はすごく良い。もちろん医者が出した処方箋の薬はたくさん飲ま なくてはならないが、ベーチェット病は僕の生活に全くと言って良いほど影響があ りません。僕は16歳という若い年齢で起きた病気の異変に気づき、ベーチェット 病と診断されました。その時から健康状態は良好で、イスタンブールにあるセラパ サ医療学校で充分経験のある医師達の看護を受けています。 私はイスタンブール市内にある銀行に会計士として勤めています。私の平日は勤務 時間9−10時間で、運動をしにジムへ2時間行き、家に帰り寝るというのが普段の生 活なのですが、それでも週に1−2回は平日の夜に友達と会って映画を見に行った りもします。週末には、平日に充分取れなかった睡眠をとり、夜には飲み屋さんや クラブへ繰り出します。私は今、健康で最高の人生を送っています。

  しかし私は将来もずっと今の健康状態を維持できるのであろうか。これは今の私の 最も心配する事である。ベーチェット病により、今はまだ正常な目を病で冒された くありません。ベーチェット病はまだの私の目には及んでいません。 今までの年月の間に私はベーチェット病を私の一部として受け入れて生きてきまし た。しかしそれと同時に私の健康状態が良好な為、ベーチェット病を持っていると いう事を時折忘れられるという特権も持っています。ベーチェット病は私である。 病気を無視する事が敵だと私は思っています。私はベーチェット病を持つ自分をこ よなく愛しています。 



16.タリク アブアイシヤ
Tariq Abu-Aisha
1.私は、1979年に発病したときの話について
2.私が学生だった時分に発病した後の話について
3.私の現在の状態

17.タル キナスリー
Tal Kinnersly イスラエル
 発病は一般に20−40代だと言われ、その発病の時期についても不明確です。 私は16才でベーチェット病の診断がつき、それまでに4年間の検査期間があ りました。子供の訴えは、簡単に無視されることが多く、特に大きな問題が起 こるまでわかりにくいことがあります。もう一つは、珍しい病気だから、すぐ にそういう病気は特に子供の頃は念頭におかれないことがあります。

 サラダバーヘ行って、少しずつお皿にのせて、みんなサラダがあるけど、それ ぞれちょっと違います。ある考え方によると、誘因があって、病気が発生する そうです。また、ある考え方によると、その誘因によって、自己免疫性の病気 の種類が決まると言われています。ベーチェット病の症状は患者さんによって 違います。しかし、同時に、他の病気によくにています。どうして診断がはっ きりするのでしょう。子供に何かがあって、自分はベーチェット病だから子供 の症状もベーチェット病だと思うか(もしかして、似たような病気だけなのか もしれません)。よくある病気だからわかるのか、それともわからないのは珍し い病気だからなのでしょうか?遺伝といっても、同じ病気になったり、それと もただ同じように自己免疫的な病気になったり、どちらが正しいのでしょう?

 病気の可能性があっても、原因が解明される日を待っています。そうかもしれ ないが、もしかして病気にかかっていても悪い日がくるまで気づかないだけで す。例えば、私の口に以前から、アフタがあって別に当たり前のことと思って いました。お腹がいつも痛くて、初めて病院へ行ったのは関節が動けない程痛 かった時でした。

 治らない病気なのに、時間がたつと少しよくなると言われます。ここにそうい う人がいればうれしいですが、私の家族ではそういうケースがありません。大 体いい時も悪い時もあるのですが、時間がたつと、症状も増えるしよくならな い(母はもっとひどくなると言っています)。ただいつまでもお医者さんへ行く のはいやだから、多分もう行かないからよくなったに思われる。私だけそうだ と思いません。もう一つは再燃だけの時ではなくて、毎日の戦いです。

 自己免疫的な要素が弱いか強いか、実は体が弱くなると発症するというベーチ ェット病は日和見的な病気だとも考えられます。他の病気の時か後か、ワクチ ンを受ける後、天気の悪い時(特に湿気が多い時、または気温の変化が大きい時)、 疲れの時(例えば残業か運動をやりすぎて眠れない時)、ストレスなど。あるい はある食べ物、運動不足もそうかもしれません。

 効果のある物 一栄養補助食品(ビタミンやミネラル、特B12、抗酸化物質 (anti-oxidants)、酵素や体によい細菌、特に消化不良の人に.それでプロポリ スやアロエなど);運動(水泳かローインパクトで、やり過ぎないように気をつ けると);指圧、鍼療法など;健康食品と化学物質は出来るだけ避ける(無農薬食 品、ミネラルウォーター、空気のきれいな場所に住むことなど)。人によって効 き目があるものが違いますので、自分でやってみて自分に正しい方法を見つけ られると思います。

 家では大体言った通りやっています。自分で調べて自分でやってみて、効果の あるものに決めてます。きちんと運動して、笑顔で楽しく仕事や生活を。楽し むのは一番効果的です。また、支える家族も大事です。

 地方や国によって症状がちがって患者さんの数も割合もよく違います。同時に、 他の病気に症状が似ているので除外してベーチェット病の名をつけます。症状 の違いは探すに関係があるでしょうか。その上、患者さんの世界の割合を国で 調べる方法に関係あるのでしょうか。自分の症状はどんな風に分かるでしょう。 お医者さんから教えてもらうことでしょうか。こう言うことはべ一チェット病 に関係があるということはどうしたら分かるのでしょう。自分がたくさん勉強 するしかないのでしょうか。自分の感じていることが自分しか分からないけれ ど、意識してないとお医者さんに知らせないことになります。新しい情報はい つも出てくるので、得たほうがいいと思います。

Recomended sites.
(pass for circulation?)

( Hellenic Association Dermatology- Venereo1ogy)
(many lnks to other sites
)

(a well established site by Alex Knight,patient)

(Behcet's Syndrome Society-a UK based patient support group)

(by Joame Zeis, not medically trained,author of"you are not alone")

(for a different view− a natural approach by an MD)

Recomended Japanese sites

(てちゅぱぱ) ‥‥‥‥‥‥‥詳しい説明

(難病情報データベース)‥‥ 一般

(特定疾患の診断) ‥‥‥‥ 一般

(難病の診断と治療指針) ‥‥一般

大阪友の会) ‥‥‥‥‥‥友の会

大手町薬局漢方相談室)‥‥ちょっと違った感じ、漢方



18.モハメッド サディエ  
Mohammed Sadieh
 私は病とともに生きる事に慣れ姑めたのは19歳の時でした。病状は、まず 初めに外陰部と口腔粘膜にアフタ性潰瘍ができ、次に症状は左目に移り、私が 26歳の時に失明しました。私は1965年に生まれその時点で病院側から “ベーチェット病”と診断されました。幼い頃、色々な病を持った人々のグル −プ内で育ちました。今考えると、普通ではない幼児期から私はこの病と共に 過ごしてきました。ベーチェット病を理解し始めた時、私の右目を何とかして 病にかからない状態で維持しようとしたのですが、残念ながら病は進み始めて いて、最終的には私の左眼同様失明の道をたどる事と思います。それにまして、 神経−精神の不安、心身障害や過大な治療費とベーチェット病にまつわる問題 点募るばかりです。



19.妊娠出産について
高橋 由美子
 皆さんこんにちは。 私は宮城県仙台市から参りました高橋由美子と申します。 現在31才、仕事は音楽教室の講師をしております。
4歳の娘がおります。
 発病して10年になります。現在の症状は口内炎、陰部潰瘍、皮膚症状、軽い関 節炎です。 薬は1日にコルヒチン1錠、プレドニン5mgです。 発病10年、と言っても私の場合、とてもゆっくりな病気の進行をしました。子 供の頃から出ていた口内炎が10年前、21歳の頃から特にひどくなり、それか ら2年後、23歳で陰部の潰瘍、それがヘルペスと間違った診断を受け、今から 5年前、26歳の頃にヘルペスでないことが分かり、初めて、お医者様の口から 自分がベーチェット病であることを告げられました。
 発病してから、いろんなことがありました。就職、結婚、妊娠出産。その中でも最も大きな出来事と言える妊娠出産のことについてお話しさせていただきます。
 結婚して1年半、私が26歳の時に初めて膠原病の専門医と出会いました。その 時子供はおらず、初めての診察の時「子供が欲しい」と先生に言ったところ、先 生は私をマジマジと見て「今調子が良さそうだから子供作っちゃえば?」とおっ しゃいました。私はそれをまともに受けて、運良くその3週間後、妊娠している ことが確認されました。当時はまだ、診断を受けたばかりで、投薬など一切の治 療は受けていませんでした。 妊娠中は、妊娠にまつわるトラブル、例えばつわり、切迫流産、早産、妊娠中毒 症などは殆んどありませんでした。ですが、私の妊娠生活は振り返っても、とて も大変なものでした。
 妊娠が判った瞬間、陰部の潰瘍が出来てしまいました。これには産婦人科の健診 では内診ができず、産婦人科の先生も困ってしまいました。オマケに妊娠初期だ ったため、当然のことながら薬も飲めません。 時は1月。世間では阪神大震災が起こった時です。「きっと2月になったら良く なる」と思い、ひたすら耐えていましたが、2月、妊娠3ヶ月に入ったばかりの 時に、今度は急性虫垂炎になってしまいました。それを薬で散らし、なんとか治 まりましたが、陰部の潰瘍は痛みを増すばかり。オマケにトイレを我慢するあま り、膀胱炎にもなってしまう有り様。「きっと3月になったら良くなる」と、頑 張っていたのですが、痛みのあまり夜も布団に寝ることができず、軽いつわりで 食事も思うようにいかず、そして仕事も忙しくそのストレスが溜まり、3月のあ る日、発作的に自殺をしようとしました。
 あと一歩のところで我に返り、事なきを得たのですが、「これではマズイ」と、 産婦人科の先生に相談をしました。先生は「アンタが死ぬよりマシだから」と、 痛み止めを処方してくださいました。まだ危険な時期だと先生はおっしゃってい ましたが、私は迷わずその薬を飲みました。それからは夜も眠れるようになり、 自殺しようというヘンな考えも持たなくなりました。その薬はポンタールという もので、1日4錠、それを4ヶ月間飲み続けました。 それからは痛みも軽くなり、何度か39度以上の発熱を繰り返したものの、比較 的安定した日々でしたが、妊娠8ヶ月で今度は急性膵炎になりました。その時は 入院しての治療でしたが、膵炎の治療薬の一つに、胎児に影響を与える薬があっ て、先生は「赤ちゃんが未熟児になる可能性が大きいが使ってもいいか?」とお っしゃいました。私は迷わず「使ってください」と言いました。お腹の赤ちゃん も大事だけど、自分の体の方がもっと大事だと思ったからです。
 それから時が過ぎ9月。私は出産を迎えました。出産は自然分娩、普通の人と変 わりない出産でした。出産所要時間も5時間半という安産でした。ただ一つ、他 の人と違ったのは、陰部の潰瘍の跡が盛り上がっていたので、それを切除しても らったことです。生まれた子供は、先生がおっしゃった通り2,280グラムという 小さな赤ちゃんでしたが、大量に飲んだ痛み止めの副作用もなく、元気に生まれ てきました。  出産後も、順調に回復しました。仕事も出産後1ヶ月より始めました。その無理 がたたったのかもしれませんが、妊娠前より病気の症状の出る頻度が高くなりま した。母乳をあげている都合上、すぐに治療はせず、出産後7ヶ月で母乳をやめ 、コルヒチンを飲み始めました。しかし、あまり効果を実感できず、そして関節 炎も出たこともあり、それから1年半後、プレドニンを開始しました。そして今に至ります。 今、その妊娠生活を振り返って思うことは、身体も辛かったのですが、一番辛か ったのは精神面でした。
 私は診断を受けてすぐの妊娠だったため、キチンとした 病気に対しての知識もなく、妊娠することによって起こる体の変化に対しても、 漠然としたイメージしかもっていませんでした。まさかそれが、半年間にも渡る ほどの潰瘍が出るとは思ってもみませんでしたし、ベーチェット病とは直接関係 はないものの、虫垂炎や膵炎などの病気になるとは全く予測のつかないことでし た。妊娠ということで、ただでさえ精神状態も変化してきます。それを支える家 族も同様です。痛みに一人耐える私を見て、家族だって辛い思いをしたはずです 。先生も出来る限りの手を尽くしてくださったに違いありません。どうしようも ない痛みはとても辛いものでしたが、先生を信じることだけがその時の自分の心 の支えだったような気がします。もしその時、病気に対しての正しい知識と理解 が私と家族にあればまた、違った生活が送れたのではとも思います。事実、私が 自殺をしようとしたのも、病気が今後どのような過程を辿るのかわからず、将来 に悲観した気持ちと、痛みからただ解放されたい気持ちからでした。
 もしこれから妊娠しようとしている方がいらっしゃれば、その部分のフォローが 必要と思います。それは体の管理以上に必要なことではないかと思います。患者本人にとどまらず、患者の家族も同じ悩みを抱えていることでしょう。出来るこ とであれば、一緒に診察を受け、説明を受けて欲しいと思います。 私は妊娠した当時、一切治療をしていなかったため、薬の副作用などの心配はあ りませんでしたが、これから妊娠しようとしている方は、先生の言葉を信じて、 勇気をもって怖がらず出産ということに立ち向かって欲しいと思っています。先生が大丈夫と言えば、大丈夫です。人それぞれ症状は違うと思いますが、出産し ても元気な私がここにいます。出産後は確かに症状は出やすくなった感じはあり ますが、むしろ出産後は妊娠前より身体自体は丈夫になったと思いますし、逆に 言えば妊娠前より出産後の方が薬の副作用に怯えることなく治療に専念できるの で、いい状態になれると思います。
 私がベーチェットと診断されるまで、いろいろな病院を転々としました。その時 、様々な思いを経験しました。産婦人科の先生にとどまりませんが、中にはベー チェットに関して理解があまり深くない先生がいたことも事実です。診断を受け る前、潰瘍が出たとき「ベーチェットではないですか?」と私が質問したのです が、それに対して「眼の症状が出ていなければベーチェットではないし、第一そ んな大変な病気を簡単に言ってもらっては困る」とおっしゃった先生もいました 。妊娠後も潰瘍については「妊娠中はステロイドの分泌量が多くなるので膠原病 の悪化は絶対ない」とおっしゃった先生もいました。そんな状態の中では、いい 出産を迎えられるはずはありません。病院選びは大きな一つのポイントとなりま すので、当然のことですが主治医の先生と連絡が密に取れる、信頼できる産婦人科の先生を見つけていただきたいと思います。
 そして・・・。この病気になって、改めて健康というものの意味を知り、考えさ せられました。そして病気と付き合っている自分に対し、それを支える家族や周 りの人たちの深い理解と協力、主治医の先生の献身的な治療、いつも温かく接し てくれる看護婦さん、同じ病気の仲間との交流・・・これらの上に今の自分の生活が成り立っていると思うと、感謝の言葉をいくら言っても足りません。病気に なってしまい、健康という言葉とは無縁となりましたが、それ以上に得たものは 大きく、今の自分の心は病気になる前より大きく成長したと思っています。こん な人生も悪くない、今ではそう思えるほどです。
 この場をお借りして、お礼を申し上げたい方がいます。私をこの場に呼んでくだ さった西田朋美先生、そのキッカケとなったインターネットのホームページ主催者の山崎さん、そのホームページで私にいろいとアドバイスをくださった皆さん 、ベーチェット友の会宮城県支部の皆さん、これに参加する間、仕事を休んで子 供の面倒をみてくれている夫、両親。これらの方々のお力添えの上に、今の私が います。本当に心から感謝申し上げます。 一生の付き合いとなるベーチェット病ですが、今以上にいい付き合いをしていき たいと思います。皆さんも辛いことが多いと思いますが、お身体に気をつけて、 病気といいお付き合いをしていこうではありませんか。 最後までお聞きいただき、ありがとうございました。



20.ジヤマール タミミ  
Jamal Tmimi  ヨルダンベーチェット病友の会  
シルクロード病のゆくえ  
 私達の会はベーチェット病に携わっている医師や患者らが集いできた会です。
1997年にアーマンで開かれた国際ベーチェット病研究会議にて、世界各国 から研究者が参加しました。参加国は日本、イギリス、ヨルダン、パレスチイ ナにもおよび、私達ベーチェット病患者は参加国の多さに驚き、また各国同じ ような問題点にぶつかっているという事を知り、私もベーチェット病患者とし て心強くなりました。私達はイギリスのベーチェット病協会の人々と会う機会 があり、彼らの活動やサービスなど色々意見交換をしました。その後、ヨルダ ンでもベーチェット病友の会を1998年に創立しました。私達の会の活動内 容は次のようなものがあります。

1.マスメディアを使い、一般社会に私達の会の事を知ってもらうキャンペ ーンを行っている。
2.ベーチェット病についてのプリントを一般へ配布している。
3.一般市民にベーチェット病についての講義会を開いている。
4.国民年金で支払いきれないべ−チェット病にかかっている治療費の補助。
5.病で必要な薬の寄付(これらの薬は他のベーチェット病患者からの寄付 がほとんどです。)
6.無料診察所を何人かの患者の為に開いている。
7.この会で最も重要視されている事は、ヨルダンに住むベーチェット病患 者に交流の場を与え、自分達の経験をお享い分かち合える場を開いた事です。

私の経験
私の名前はJamal Al Tamimi(ジャモール アル タミミ)といい、24歳に なります。私がベーチェット病になったのは1995年10月17日の事でした。変化に気がついたのは、ほとんどのべ一チェット病を持つ人と同じで、あ る朝起きた時に左目の隅の景色がかすんでいたので医者に行きました。これ以 前にも少し症状が出ていましたが、さほどの事とは思わず私の担当医からもそ れが病気だとは説明されていませんでした。しかしこの時は、他の医師に診察 され色々今までの症状などを聞かれ私自身何がおきているのか分からなくなっ ていました。あの事態について今思う事は、医師達も私の病状について困惑し ており、それが私には良くわかった事が何よりも私を不安にさせたという事で す。このような事態はベーチェット病患者に今まで以上の精神的ストレスを与 え、医師として患者を扱うにあたり大きな問題点だと思います。私は数え切れ ないほどの薬(Predniso1one)を飲み始め、長期間薬を飲み続けた副作用として 顛は月のように丸くなり、体重が3ケ月の間に35kgも増えてしまいました。 その後、研究室で私の体質に合う薬の研究を始めました。最初に Neoral(Ciclosporine)を5ケ月ばかり試しました。たまにImuranという薬も 併合して使い、Predniso1oneは常時使い続けていました。それに加え、両目 のレーザー手術を行いました。また、私は6ケ月間左足を曲げる事ができなく なり困りました。

ベーチェット病と分かった当初私自身病気を受け入れ上手くやっていました が、時が経つにつれて色々問題が出てきました。病気も良い時と悪い時があり、 悪い時には指先が見えない時もしばしばありました。22歳という若い年齢に もかかわらず、足が曲げられなくなり、100mすら歩けない時や、休み休み 歩かなくてはならない時もありました。身体的な問題もありましたが、それ以 上に現実やってゆけなくなった事もあります。私は機械工学に興味があり大学 で3年間勉強してきましたが、病の為次から次へとクラス等取れなくなり、と うとう休校猶予期間が過ぎてしまい大学を中退する事になってしまいました。 時には色々な人と会うのが嫌な時期すらありました。

これからのベーチェット病患者に必要なものは次の様な事柄だと思います。
1.べ一チェット病についての正しい知識を専門医から与えられる事。そし て、世界中にこの病と戦っている人々がいて、患者自身が一人ぼっちでは ないという事。
2.常に、病の経過報告書を書き続ける事。ベーチェット病は個人差がある為、これらを使い常に病気に立ち向かい打ち勝つ心を持ち続ける糧とする 事。
3.他のベーチェット病患者の容態や経験談を聴き、自分自身に役立てる事。
4.患者にリハビリの出来る施設の提供も重要な事です。

私自身ヨルダンにある視力障害者の為のサポートグル−プに所属しています。 ここでは視力回復のリハビリが出来る施設開発にあたっています。ヨルダンベ ーチェット病友の会でもこのグループと共同で、ベーチェット病患者のリハビ リ向上に勤めています。また、低視力でも使える商品を知り私は大学に再入学 する気力を与えてもらいました。今はマーケティング専攻で、大学3年在学 しています。

最後に、私の兄の協力により、私達ベーチェット病友の会のウェブサイトを 確立する事が出来ました。興味がある方は見てください。

※ ウェブを見つけることができませんでした。(by てちゅぱぱ)



21.ベーチェット病の関するHPを立ち上げて
山崎 賢二郎
 私がベーチェット病と診断されたのは今から13年前のことです。 社会人になって、しかも結婚して2年目の秋でした。初めて聞く病名にたいした驚き もありませんでした。しかし、家庭の医学の本を見て愕然としたことも事実ですが、 その当時は、眼の症状もなく、それほどこの病気に関して気にも、とめていませんで した。
 その年の冬です。突然、眼の発作が起こりました。それから、この病気の本当の怖 さや病気に対する取り組みを考え始めました。しかし、この病気の知識もほとんどな く、ただ 不安な日々を過ごしました。この間は妻や親などにも迷惑をかけてきたと思っていま す。
 眼の発作が始まって2年目くらいでしょうか、視力もかなり落ち、この先今の仕事 も 続けられないだろうと考えて、あん摩・マッサージ師、鍼師、灸師の資格を取ろうと 思い ました。そんな中、ベーチェット病友の会を知り、早速連絡を取り入会させていただ きkました。やはり同じ病気を持った人との出会いがあり、気持ちの面でかなり助か りました。
 資格を取り、病院で働き始めた頃からか、趣味にでもと思いパソコンを始めまし た。 そして今から3年ほど前からインターネットを始めました。
 はじめは、ただ遊んでいるだけでしたが、だんだん自分でもHPを作ってみたいと 思い 始めました。そんな中ネット仲間の方が、子育て奮戦記のようなものを作っていたの で 私はただ、自分の闘病期でも載せようかと思いHPを作り始めました。
 ベーチェット病に関するHPがほとんどないのも知っていましたが、一人でも多く の方にこの病気を知っていただきたいと思っていました。しかし、しばらくすると結 構メールが届きだし、掲示板を作ってみるとこれまた投稿は来るしで自分自身びっく りするやら驚くやらでした。   私自身もそうでしたが、同じ病気の患者さんと知り合うことで、気持ちが少しでも 和らぎ、自分だけではないと思い、この病気に対して頑張る力がわいてくると思って います。 HPを開設してみて、少しでも患者さんにそう思っていただけたら幸いだと思ってい ます。



22.ヘレン レーン
Helen Lane−−−UK
患者の思い  − 1日1日をベーチェット病と生きる
 ベ−チェット病患者としての私の生活、仕事、そして家族はこの病の為に自分 達の生活を調節しなくてはなりませんでした。私は才能にも恵まれ、活発で生 き生きとした人間であるにもかかわらず、今はイライラが募り、疲れきってい ますが、そんな中でも帝望を持とうとしています。今は何年も先の事よりも、 べ一チェット病の性質をふまえて1日1日の計画を立ててゆく事しか出来ませ ん。私にはこれが今唯一ベーチェット病と向き合ってゆける手段なのです。

私は1998年にベーチェット病と診断されました。まず、最初に毛嚢炎が わきの下にでき、関節の痛み、それから多数の口腔粘膜の潰瘍症状が出ました。 そして私はものすごいだるさと風邪のような症状にも冒されました。病が進む につれて次の症状が急激に進展してきました。それらは、異常緊張、心拍の不 整脈、外陰部潰瘍、頭痛、飲み込む事が大変になり、両目にアレルギーが発生 し、そして睡眠に関しての問題が生じました。病気に関連する問題症状が無限 に感じられ、時折自分がベーチェット病に対し異常なほどの恐れや不安を感じ る事があります。

私が現在服用している薬
a.Prednisolone(20mg l日1回)
b.CoIchicine(1mg l日1回)
c.Cozzra(50mg l日1回)
d.Cisapride(10mg l日1回)
e.Zotone(30mg l日1回)
f.Flecainide Acetate(100−300mg l日1回) この薬に関しては変わる予定。
g.Meloxicam(15mg l日1回)
h.Hay Crom と Hypromellose Eye Drops
i.Azethioprine と Dapson(今まで色々な服用量を試したが、あいにくひど い副作用に冒された。)

 幸運にも、私のリウマチ専門の先生Dr.ニサ−ルは私のベーチェット病に関す る思いを理解してくれ病気に対しての恐れや不安を吹き消してくれます。Dr. ニサ−ルは初めての診察の時から私とベーチェット病と真剣に取り組んでくれ ました。私はDr.ニサ−ルに出会う前に色々な専門家の先生を訪ねました。そ の中の整形外科の先生は私に対し、「君は何も病には冒されていない、自分自 身の思い込みだ。」と言われた事もありました。

 私は今もベーチェット病に関して医療関係者、特に私の一般開業医との意見の 食い違いがあります。開業医は私がべ一チェット病に冒されているという事を 信じてはくれず、「ベ−チェット病とは男の人しかならず、それもトルコかア ジアの人しかこの病気にはかからないのだ。」と言い続けてきました。私の開 業医は初め、専門医から繰り返し出される処方箋の供給すら断りつづけました。 私はどうしようもない状態に落とされたのです。しかし最近は、私の開業医も 少しずつ私の病気にも理解を示し、私の専門医の見方になりつつあり、又、治 療は専門医に任せてくれるようになりました。

  ベーチェット病は私をとても衰弱させる病です。骨折のような怪我であれば、 一般の人は症状や怪我の具合など分かるのですが、ベーチェット病が珍しい病 気な為、誰も私がこのような病気をもっているとは知らないのです。ベ−チェ ット病患者は同情を求めているとは思いません。ただ、もう少しベーチェット 病に関して一般の人にも理解を求めているのだと思います。



23.酒井 るリ
「私らしく生きる」
 私は幼少の頃から徐々に視力が低下し、結婚後、元来の網膜色素変性症に心身 症とベーチェット病を併発して失明しました。 1993年にステビア(盲導犬)との運命的な出会いで、行動範囲が広がり、 現在、歌・点字・パソコン・ダンス等を意欲的に学んでいます。また失明後の 苦しかった気持ちや、ステピアを授かってからの充実感と感謝を込めて「むっ つの足跡」という歌を作成しました。小中学校等で、自分の体験を講演し、そ の歌も発表しています。今後もステビアと共に、命ある限りいろんなことにチ ャレンジし、盲導犬の普及に努力していきたいと思っています。



24.ヒューレル ビージー
Hurel Biigee
ベ−チェット病の現状−モンゴル
 ベ−チェット病は多数の炎症組織からなる病気です。1998年から1999年にか けて、中央共和国診療病院眼科部で網膜ぶどう膜炎の治療を受けている111 人の患者に対し病状経歴を調べなおしました。年齢層38−66歳中6人の網 膜ぶどう膜炎患者(12個の目)がべ−チェット病にかかっているという事が発 覚しました。そのうち4人は男性患者でした。診断は他の病状診察結果とHLA タイプTが出ていた事から、ベ−チェット病と断定されました。私達が調べた 中で、3人のベーチェット病患者が良性のHLA−B51を持っていました。 診断基準は次のような結果が出ました。

眼症状         100%
口腔粘膜潰瘍     100%
外陰部潰瘍       50%
皮膚症状         83%
関節炎          66%
CNS           66%
前方ブドウ膜炎     9目
Panuveitis        3目

ベーチェット病と伴う病状は次のものが多く見られました。
視神経萎縮      41% (5/12目)
白内障         50% (6/12目)
網膜隔離        25% (3/12目)
Posterior Sinechia  75% (9/12目)
盲目           41% (5/12日)

 以前ベーチェット病はあまり知られていない病気でしたが、私達のデータよ り、モンゴルでは珍しい病気ではないという事を発覚しました。医師らはもっ とべ一チェット病について知る必要性があり、また疫学、免疫学的にも研究を 進めなくてはなりません。



25.鈴木直樹 
Nilton Naoki Suzuki  ブラジル
 1983年、私は初めて日本に来ました。その当初は出稼ぎという言葉はあり ませんでした。従兄弟が明治座で仕事をしていましたので頼んで修行、見習に 3年間お世話になりました.  86年10月頃、右目が少しおかしいと感じるようになりました。それで、 東京の医者に行ったら飲み薬と目薬をもらいました。それから3カ月後、ブラ ジルに帰って来てから目が悪くなりした。それで、サンパウロの眼科に行き飲 み薬と目薬をもらって様子を見ていたら、右目から出血しました。それで、1 年後に鈴木先生に見ていただいて手術をしてもらいました。右目がよくなりま した。2カ月後には左眼がおかしくなってきたので、移ったと思いました。
 
 88年にまた日本に行きました。働きながら目の治療に虎ノ門病院に通いま した。89年、ブラジルに戻ってきて3カ月後また日本に行きました。その時 89年10月でした。また虎ノ門病院にお世話になり治療していましたら、先 生から食べ物のせいもあるかも知れないと言われて、気をつけるように心がけ ました。毎日食べたものを書くようにしました。それから、豆類とか缶詰類な ど一切食べないようにしました。インスタント製品と缶ジュースも駄目でした。 ブラジルのフェジョアーダ(豆で作った料理)を食べて大変な思いをしました。 目が赤く腫れ上がり、顔が腫れて本当にひどい思いをしました。それ以後絶対 に食べません。

 今、母が作ってくれるアオシルを毎日仕事から帰って夕食前に飲んでいます。 そのアオシルの中には(にんじん、ごぼう、なす、りんご、みかん)などミキサ ーにかけてこしたものに酢を入れて飲んでいます。気のせいか私に合った飲み 物と思って毎日飲んでいます。アオシルを飲み始めて8年位になります。酢を 入れたのは1年10ヶ月前からです。これからもアオシルを飲み続けたいと思 っています。それと一生薬を飲み続けなければならないのでしょうか。副作用 が心配です。病気に負けないようにがんばります。



26.西田 稔

1.失明
(1)1957年(昭和32年)5月  左眼底出血。原因は結核性と診断。
(2)1958年(昭和33年)8月  べ一チェット病と診断。
(3)1959年(昭和34年)10月 両眼ぶどう膜炎を発症。これ以後1ヶ月ないし2ヶ月おきに両眼ともにぶどう膜炎と眼底出血を繰り返し発    症。
(4)1960年(昭和35年)6月  左続発緑内障発症。左眼球摘出。
(5)1960年(昭和35年)10月 右ぶどう膜炎と眼底出血を発症。右視力、光覚弁、左視力、光覚弁なし

2.社会復帰

(1)1961年(昭和36年)4月  国立失明者更正施設に入所。
(2)1964年(昭和39年)4月  大分県立盲学校教員となる。
   1972年(昭和47年)4月  国立福岡視力障害者センタ−教官となる。
(3)1992年 (平成4年)3月  同センター退職。

3.結び

(1)インフオームドコンセントの徹底。
(2)失明の告知。
(3)早い段階でのカウンセリングの実施.



27.安藤 亮
 これまで、福祉の仕事をさせて頂いて、30年以上になります。若い頃、 目の不自由な若い青年から「健常者(役所)は、障害者の苦労を理解していな い」と訴えられたことがありました。
 しかし、当時、私には知識・経験が乏しく、返す言葉がありませんでした。  私達夫婦にも2人の子供が授かりました。子を育て、親としての喜びを味わ いましたが同時に初めて、日本の諺の「子を持って知る親の恩」親の有り難さ を自覚しました。  
 所沢市にある国立身体障害者リハビリテ−ションセンターでは、津山直一Drr総長にお使いして『人間、老後はすべて障害者になる、また、障害者になり たくてなった障害者は誰もいない、たまたま若くして障害者になっただけ「思 いやり」(相手の立場になって)こそ人のみち』と教えられ、感銘しました。



28.ベンディーダ・マルケス・ピレス・フェレイア
Benvinda Marques Pires Ferreira
 私はポルトガル人で,Benvinda Marques Pires Ferreiraと申します。現在,30歳 です。私の国,ポルトガルはヨーロッパ大陸の西方,イベリア半島にあり,人口は 約1000万人です。ポルトガルは何世紀もかけて世界を探検した歴史があり,そのため世界の国々にたくさんのポルトガル人が移住し,暮らしています。
 私が21歳の時、長男を出産したのですが,その時に結節性紅斑の皮膚症状がはじめてみられました。しばらくして,ベーチェット病の特徴的な症状,口腔粘膜のアフタ性潰瘍,外陰部潰瘍もみられるようになりました。これらの症状がみられたので,ベーチェット病と診断されました。また,関節炎も生じ,歩けない状態になる程強い痛みがみら れることもあります。関節炎がひどい時にはコルヒチンの内服を行いました。ベー チェット病が発病して2年後に,前眼部ぶどう膜炎も生じ,コルチゾンの内服と眼内注射治療が始まりました。後眼部ぶどう膜炎が生じてきた頃から,高用量でコルチゾンを使用するようになり,Coimbra大学付属病院に通うようになりました。また, コルチゾンの用量が増加された時と同時に,シクロスポリンの併用も開始しました。.この2つの薬を使用しても,病気は悪化してきて,目はだんだん見えなくなりまし た。ImuranやLeukeranの薬,まだ臨床治験段階のAcitostatosという薬も使用したの ですが,その治療効果は認められず,目は見えなくなりました。シクロスポリンと コルチゾンの量は少しづつ減らし,今は使用しておりません。現在,病気は安定し ているのですが,定期的に診察は受けています。
 私の国にはベーチェット病友の会 のような組織はありませんが,できるだけ近い将来に組織を発足したいし,できる ことを願っています。医療面では眼科学とリウマチ学専門の医師達がグループを作 り,ベーチェット病の治療を行っています。現在,シクロスポリンについては私の国では無料です。今回,「第1回国際シルクロード病患者の集い」に招待して頂き, 誠に有り難うございました。深く感謝いたします。



29.ジィーン ルイス ロステイング
 jean Louis Rostaing. フランス  

 私は42歳、結婚もしており2人の男子の父です。私は健康で個人的にも、 遺伝性の病気も無く唯一あるとすればアレルギーくらいでした。私はフランス のサヴォイに住んでいましたが、1992年から1999年の間に4年はブラ ジル、そして2年はオーストラリアと外国で生活していました。

 1994年に痛みの激しい皮膚節瘤傷害が私の下半身に最初に現われました。 そして、この何年間は周期的に起こるアフタ性潰瘍が口腔内にでき苦しんでいま す。

 1997年1月に外陰部潰瘍ができ、フランスのリヨンにある市民病院へ行 った所、そこのレヴラット教授によりベーチェット病と診断されました。治療が 始まり、薬は coIchimax と coritcosteroids を使い姑めまし。.診断されてから はパリにある Pitie’Salpetrie?e という所でウェチェスラー教授のもとへ定期 的に診察を受けに行っています。

 1999年8月に初めてぶどう膜炎による眼障害があらわれました。この為、 私は何日聞か病院に入院し、大量の Corticosterids を摂取しなくてはなりませ んでした。私が今治療に使っている薬は Corticosteroids,Colchimax,Imurel, Asperine と Orocal D3です。

 フランスにおける福祉組織に関しては、今だ情報を収集中です。現在私にか かっている医療費(病院での診察、治療、入院費)は社会福祉で70%、そして 私の会社の保険が30%で100%保証されています。



30.シイェッド‐アーマッド ハッサンタッシュ
Seyed-Ahmad Hassantash
 ベーチェット病は主にアジア、そしてヨーロッパ(シルクロード沿いの国々)地域の 人々にみられる症状です。ベーチェット病によって起こる発作の度合いは患者が受 けられる社会福祉を影響し、またそれにより社会にも影響を及ぼします。この病に かかりベーチェット病患者の今までの日常生活の変化は皆さまざまだと思います。 ここでは私の病との生活について話したいと思います。

 ここでは4つ段階をふまえて話したいと思っています。
1. 私がベーチェット病と診断される前の発病期
2. 発作の時期
3. 発作が始まり2年後の経過
4. 今現在の私の病状と将来について

 多少関節炎がありましたが、医師免許を取得するのにあたって眼検診があり精密検 査が必要とされたものの、視力には大きな異常は見られなく仕事にも差し障りはあ りませんでした。その後、身体的にも精神的にも非常にストレスを感じる出来事が あった直後に突然視力低下が始まり、診断後治療が始まりました。処方された薬に より体調が変わり、約1年間日常生活が安定しませんでした。薬により骨髄が減り 、帯状疱疹などがでました。ある時には寝たきりの状態になり仕事(手術)にも行け ないほどでした。この一時期を過ぎてから私の健康状態も回復し、今では仕事(医師 )にも復帰し心臓手術に立ち会えるようになりました。しかし、私の左眼はベーチェ ット病により以前よりは視力が低下しています。今一番恐れているのは、ベーチェ ット病状の発病です。私の仕事柄(医師)ただでさえ神経を使う仕事に加え病を抱 えている事は私の日常生活に支障をきたし、かなり制限されます。私は今何も薬を 飲んでいませんが、少し関節炎に悩まされているので、私の体が仕事量を減らすよ うにと信号を出しいるのだと思っています。



31.アハマド カリル
Dr.Ahmad K.Khalil
ベーチェット病  − エジプトの現状

 ベーチェット病に冒されている患者が初めてエジプトで診断されたのは、ベ− チェット病の事が発表されてから数年後の事でした。ほんのいくつかの医療セ ンタ−がベーチェット病の治療を行っています。治療内容は個人差があります。 また、基盤となる治療の議定書というものは無く、そして治療後の経過状況を 記した書顛などもありません。多くの眼科医は免疫を抑制する薬を使うのを慎 み、どちらかというと議論の余地があるまだ効果などのはっきりしていない全 身ステロイド(systemicsteroids)を急性の発作の時に好んで使います。これら が我が国のベーチェット病患者に対して行われている簡単に述べた医療管理の 状況です。発表内容はべ一チェット病に犯されている3人の患者の経歴、この 病により彼らに与えた衝撃と生活状況です。



32.マリア ドニーヴァ
Maria Doneva…ブルガリア
ブルガリア社会福祉の現状と問題点

 ブルガリアは他の国々と比べて、ベーチェット病を持つ者に対して特に不利 な国である。ベーチェット病の中で、重点のおかれている視覚障害の症状が出 始めてから大抵の患者は眼科へ行きます。ブルガリアがひどい経済制度の変わ り目という時期において、患者と医者は病気管理に関して大きな問題点と直面 しています。この国には健康保険制度というものは無く、患者自身が薬などは 全額負担しています。それは私達にとってとても経済的に大変な事なのです。 しかし、視覚障害が特にひどい患者、また盲目の人々には国から財政援助があり ます。患者で0.1以下の視力を持つ者、そして完全に盲目の人は年給を与え られます。しかし、この年金は彼らの生活を支えられるほどのものではなく、 新たな援助を必要としているというのが現状です。

 ブルガリアの盲目患者の為の最も大きな組織はユニオンです。ユニオンは視 力障害をもつ者の為に設立された組織で、政府機関には所属していません。ユ ニオンに加入している者には特別な講義やリハビリテーションなどが受けられ るという特権があります。ブルガリアでは、ある一定数の盲目患者を特別な工 場などで雇わなくてはいけない法律かあります。



33.ステファニー ドルスキー
Stephanie Do1sky カナダ

 ※ カナダの保健と福祉について
 ※ カナダの保健機構の管理と現代化について
 ※ カナダ人の健康増進について−予防医学の面から
 ※ カナダ人の健康保護−統計学的な調査から
 ※ 先住民とイヌイットヘの働きかけについて
 ※ 政府の保健機構について

  Health Protection Branch、Medical Service Branch等
 各Branch(課)の紹介



34.井口  伸  
日本の年金制度(A SYSTEM OF PENSION IN JAPAN)  

 日本の社会保険には、医療・年金・雇用・労災の4分野があるが、医療保険 の分野については他の方が報告されるので、ここでは年金について報告する。 日本の年金には、国が運営する公的年金と企業年金や個人年金などの私的年金 がある。公的年金には、国民年金(基礎年金)・厚生年金保険・共済年金 (国家公務員等共済組合、地方公務員等共済組合、私立学校共済組合、農業漁 業団体共済組合)がある。私的年金には、企業年金(厚生年金基金、税制適格 年金、自社年金)・国民年金基金・個人年金(個人年金保険、財形年金、その 他)がある。日本の年金制度は、全国民を対象とした国民年金(基礎年金)を 基礎とし、被用者を対象とした厚生年金保険や共済年金があり、さらに企業年 金が公的年金である厚生年金の一部を代行給付するという複雑な仕組みになっ ている。  

 少子化・高齢化の一層の進行とバブル崩壊後の低金利によって公的年金の財 政が悪化し、「世代間扶養」を理念とする公的年金制度が危機に瀕している。 また私的年金である企業年金も不況に伴う倒産や業績悪化による積立金の運用 悪化による解散破綻が増え、さらに従業員の高齢化とリストラによる加入者の 減少に加え、低金利による積立金の運用悪化により積立金不足に陥り、これが 企業の「隠れ債務」となっている。また、年金受給権の保護が十分でないため、 企業が倒産したときに企業年金が支給されないこともある。日本の年金制度は その現状からして、存亡の危機にあるということができる。  

 そこで日本の年金制度の仕組みと現状を述べるとともに、公的年金と私的年 金の抱える問題点を明らかにする。



35.高野 書久治

 北海道べ−チェット病友の会は、1970年5月に全国に先駆けて結成されま した。病気の解明、会員相互の親睦、患者家族の抱える問題に結束して取り組 んできました。社会の理解を得て組織の拡大と強化を図り、医療講演会、相談 会、交流会を通して一人ばっちの不安を解消し、適切な療養生活を促す事が大 切です。研究体制の強化、医療と福祉の充実を関係機関に要請し続ける事も、 益々必要な事です。これらを基本に取り組んでいます。



36.ヒルダ ハーテイング
Hilda Harting

 アメリカベーチェット病協会の副会長ヒルダ ハーテイングにより、「アメリ カでのベーチェット病の状況や、アメリカでは知られていない病気の為ベーチ ェット病と診断される難しさ」について発表したいと思います。



37.バリー シィーマン
Barrie Seaman
ベーチェット病協会はイギリスで登録された慈善団体で、ベーチェット患者を唯一 代表する会であります。1983年に創立され、ボランティア団体として働いている職員は無給で、政府からの援助も全く受けていません。私自身もベーチェット病患者で、1985年に診断されました。私はこの13年間ベーチェット病協会の運営に携わってきました。

発表内容は主に協会の今までの患者に対してきた助言、医者たちとの接触や病への共同研究内容などです。これらの経験から、いくつかの問題点に注目したいと思っ ています。

* 医者と患者が協力し合う事により生まれる利益。
* 患者自身が病に対して知識を得る重要性。
* 患者自身が治療法などを選べる権利を得る事。
* 病院での治療と同様“充実した人生”を訴える事。
* “痛み減少”の重要性。
* 多角的な症状に対応可能な病院を一般化する事。
* 患者に病に対しての慈善団体又は協会があればその存在を教える義務。

最後に、発表者は一貫性のある治療内容、そして特に応急処置のいる病気の活発な 時期に治療を十分に受けられる体制の重要性を訴えたいと思っています。