第1部 発病まで    

第1弾    知恵熱!

あれは今から13年ほど前、昭和60年3月大学を卒業し、
   4月からは某コンピュ−タ会社に行くという頃‥‥
    「さぁ、社会人になるんだ! 頑張るぞ〜!」と
        新生活に燃えていた。

    入社後からか、原因不明の高熱が3日ほど続くということが‥‥
  別にのどが痛いのでもなく、鼻がでるのでもなく‥‥病院に行っても
  「風邪かな〜」と言う感じで、
    ところが4〜5日すると嘘のように治ってしまう。
  そういったことが何度か続いた‥‥

    会社の人や家族に言わせると
   『バカが 会社に入って勉強のしすぎだよ そりゃぁ”知恵熱だ”』
    と言う有様。自分自身でも、1週間のすれば何事もなかったかのように
  またふつうに生活できるし‥‥
              笑っていました。

    そんなことも1年も過ぎると高熱のでる回数も減ってきたし
   仕事の方も順調で、やっぱりあれは「知恵熱だったんだ」
   と、思ったりしていました。


第2弾    足が腫れた

昭和62年4月、熱の出方もやや落ち着いてきた頃、
   カミさんが妊娠しました。
    
   「パパになるのか! 頑張らなくちゃぁ〜。」と思った‥‥
  
   あれは、6月梅雨にはいるかという時期。
    弁慶の泣き所あたりに赤い腫れ物ができていました。
   押すとなんか痛い。そんな風に思っているとカミさんが、
  
    押入に『毛虫がいる〜』と、それは色鮮やかな何ともいえない
   見たこともないような毛虫だった。
   「あれに刺されたんじゃないの?」
   そうかなぁと思いつつも近所の皮膚科へと向かった。
 
    皮膚科でもそれだけじゃわからないので、塗り薬でも塗って
   しばらく様子を見ましょうと言うことだった。
   その腫れは不思議なことに1週間もすると跡形もなく治ってしまいました。
      「よかった、よかった‥‥」
     しかしよくはなかった。
  
    2〜3週間もすると、また別の場所に(あるいは同じ場所に)
   出で来る。それはたいてい膝よりも下の場所。

    そんなことが3ヶ月ほど続いたある日、皮膚科で
   「大学病院を紹介するから一度検査してくるといいでしょう。」
  
    私は訳もあまり分からないまま
       昭和60年10月某日、大学病院へと向かった‥‥



第3弾    子供が産まれた

近所の皮膚科で紹介された「日大駿河台病院」へと向かった。
 しかし、病院では簡単な問診と血液検査をしてそれから塗り薬をもらって帰ってきた。
 
    昭和62年10月27日、この日は初めての子供が産まれる予定日だった。
   夕方会社から家に電話をするとカミさんが
    「破水したみたい‥‥」
    「すぐ家に帰るから近くに住む私の母に電話をして
     一緒に病院に行ってなさい‥‥」

    病院に着くと疲れ切ったカミさんがいた。
     「大丈夫か。」
     「うん、大丈夫。」
     「頑張れよ!」
     「うん。」

そこは総合病院で、完全看護だったんで、かえって明日にでも電話して下さいと‥‥

    何か吹っ切れないままカミさんにもう一度
     「しっかりな! 頑張れよ!」と言うと
    家に帰った。

次の日の朝、病院に電話すると今朝生まれましたと言われすぐ病院に行った。

    病院に行くと、一仕事終えたカミさんと
   生まれたばかりの可愛い女の子が‥‥

    「ご苦労さん。これからはこの子のためにも頑張るよ!」
    「うん‥‥」

    11月の始め、大学病院で検査があった。
   腫れている部分の皮膚を切り取り、口内炎の写真を撮り眼科でも検査した。
    「結果は、2週間後です。」

    痛い足を引きずりながらもカミさんの実家へと向かった。
   もちろん可愛い、可愛い子供に会うために‥‥。



第4弾    何じゃ? それ!

    昭和62年11月のある日、日大へ検査の結果を聞きに行った。すると
    おたくは

    「不完全型ですが、ベ−チェット病です。」

    ん? 何じゃ それ! 生まれて初めて聞いた病名だ!

    アフタ(口内炎)・結節性紅斑(足の腫れ)・眼症状・陰部潰瘍

    この4つが主な症状ですが、おたくは始めの二つ
   それと針反応、血液検査などの結果で診断されました。

    家に帰りカミさんに言うと、やはり
      「何 それ?」

    早速二人で、家庭の医学を見た。
    働き盛りの特に男性に多く発症する病気で、失明率の高い、難病です。

     失明‥‥‥‥‥

    今のところは、眼は大丈夫だ。眼の症状のでない人もいる。
   しかし、頭の中では、『失明』と言う字だけが、駆けめぐった。
    子供の顔を見つめながら、
   「この子の大きくなっていく姿は見られるのか?」
    涙が一滴、一滴と」こぼれ落ちてきた。
    それから私、いや私たち家族の闘いが始まりました。

       第2部  苦悩期

第5弾    目が…!

     昭和62年12月始めのある日の夜中
    急に目の痛みにおそわれ目が覚めた!
   「目にゴミでも入ったかな?」
  涙が止めどなく出るし、洗面所へと向かった。
  電気をパチン
   「あれっ 左目が赤いし、物がダブって見えるなぁ」
  いくら目をこすっても治らない。
   カミさんが起きてきた。
  ボ−っとしている私に向かって
   「どうしたの?」
   「目が……」
  とうとうこの日がやってきた!
  カミさんも私もしばらく無言で、
  抱き合っていた。
    二人の目からは、涙が……

   その日の朝、早速大学病院へと向かった。
  「ベ−チャット病の発作です。でも、
   目の大事なところは大丈夫だだから
   点眼の薬を付けていれば、そのうち治りますよ。」

   1週間もすると元の通りに治った。

   その日から眼科への長くつらい通院が始まった。

   ある時眼科に行くと先生がなにやら資料を持ってきていた。

  「知っての通りベ−チェット病は、難病に指定されています。
  というのは、原因も治療法もわからない病気です。しかし、
  今のところ『免疫』が関係していると思われます。
  人より免疫機構が、異常に働くんです。従って、
  免疫抑制剤が効くと言われているんです。
  しかし、現時点では、この病気に対しての保険申請が
  降りていないので、今のところは実費となります。
  でももうすぐ申請が降りて無料になります。」
  副作用も肝機能にさえ注意していれば後は
  ほとんどないことなので
  私は、目には変えられないので‥
  早速その日から飲み始めました。

  しかし実際は月に15万ほどするのは痛かった‥‥

  でも2ヶ月もすると申請が降りて、さかのぼって
  お金は返ってきましたが。

    しかしそれからも軽い目の発作は続きました。


第6弾    目に注射!

目の発作は繰り返し起きていましたが、幸い大事にいたらなく、
 しばらくする元とのように治っていました。会社へも足を
 腫らしたり多少の熱があっでも行っていました。
    そんな中、昭和63年6月某日の朝、

    『右目が見えない!』
  
  今までの発作は、蚊文症(黒い点が見える)があった程度でした。
 つまり、洗面器の水の中に墨を数滴落としているような感じ。
 かなりうっとおしいですが。
   今回のは違う………
   右目の中心部分とその周りが、全く見えない!

  愕然としながらも片目で、病院へと向かった。
 すると医者は
 「目の前の方の炎症はいつもの通りなんですが、
 今回は、真ん中や後ろの方にも炎症が来てしまいましたねぇ。」
  と
 間をおかずに看護婦さんに向かって
 
   「がんちゅう‥‥」

 なに! がんちゅう? ひょっとして『眼注?』
 めんたまに注射? そう思っただけで、青ざめてきた。
 しかも、体が固まっていくのがわかり、心臓の音がバクバク。

   医者は、淡々と
  「ハイ、そのベットに仰向けに寝て
   目を閉じて下の方を向いて‥‥」
  「いきますよ〜」
      心臓が口から飛び出そう!!

  ブチッ、針が刺さり目に入ってきた。
  痛いの痛くないの、頭の中をトンカチデ殴られたような
  しかし、動けない、針が刺さっているのだから‥‥
  わずか1分足らずだっただろうか、私には、何時間にも思えた。
  しばらくは、体が固まって動けなかった。
  20分ほどしてからか、やっと起きられて、帰った。

   その日は、注射の痛みもすごかったけど、目が見えないと言う
  精神的なショックのほうが大きかった。
  先生のはからいか、強めの睡眠薬が処方された。
  それから4〜5日は、食事と風呂とトイレ以外は、
  眠りっぱなしだった。

   1週間たっても視力の方は、回復しなかった。
  濁りは少しずつ引いてきたが、
  見えない部分が、でてきてしまった。

  これからどうなって行くんだろう‥‥

   そんな中でも智美の顔を見ていると落ち着けた。
  まだ見える。まだ見える。まだ見える。


第7弾    どん底

   昭和から平成に入った頃からか、私の目には2ヶ月に1〜2回の発作が起き
  かなりの打撃を受け始め、肉体的にも精神的にもつらい日々を送っていた。

   自分の親に
 「俺は何も悪いことをしていないのに何で……
  何でこんな病気になるような体で生まれてきたんだ!」

   あるときはカミさんを
  別にどうということもないのに、あたったり、どなったり……

   それに絶対にしてはいけないこと
  カミさんの親に対してもひどい態度をとってしまったこともある
  カミさんは涙を流しながらもじっと耐えているようだった。

   そんななかでも救われる出来事が
  平成1年の6月、カミさんが2人目の子共を妊娠した。
  私は薬を飲んでいたが、医師に相談してみると特に問題はないという。
  しかし、こんな状況のなか産まれてきてもその子供は、
  幸せになれるのだろうか……
  「智美一人じゃ寂しいしもう一人いたほうが、にぎやかになるし
  私は産む……」と、カミさんが。
  しかし私の体の方は、相変わらずよくない。

   それからも私の体は、足が腫れ、熱が出、目も見えずらくなるし、
  発作を繰り返す。しかし、智美や産まれてくる子供のためにもまた
  カミさんのためにも頑張った。つもりだ。

   平成1年12月18日午後9時20分、美紀は産まれた。

   しかしうまくいかない。カミさんと子供たちが実家に行くと
  私の一人になる時間が増え、心の落ち込みが激しくなることもあり。
  電話でカミさんに当たるようになった。
 
   朝起きたら両目真っ暗で、カミさんの手に引かれて
 病院に行ったこともある。
  夜寝るのが恐ろしいときもあった。
  そしてカミさんたちに当たる……

   おそらく、智美や美紀そしてカミさんがいなかったら私はここに
  いないだろう。
    今もそれは思う。
        本当に申し訳ない。 
   ただ、少し出かけると熱を出したり、足を腫らしたり
  するし、車の免許もなくなるし、子供たちを旅行やドライブにつれていったりすることができない。
  ただ、そばにいてやるだけのパパ。
  それでも子供たちは文句の一つも言わないし、いや
  毎日話をしたり、ゲ−ムをしたり以外と喜んでくれる。
     本当にありがたい。
   しかし一番感謝しなければならないのは、カミさんにだろう。
 

       第3部  新たな旅立ち

第8弾   障害者!
 

 美紀が産まれてからもぱぱの発作はひどくなっていく、そして
平成2年6月ついに来てしまった。致命的な目の発作。それまでも
少しずつ視力は落ち、視野も減ってきてはいたが、この発作で
右目の視力が、中心は、0で、少しずらしても0.03位しか見えない
左目も、0.06位。
  コンピュ−タの仕事はもうできない……
   
  眼科の先生からは、「障害者手帳の申請をした方がいいですね。」と……

   「障害者? この私が、障害者……」

  「嫌だ、障害者になんかなりたくない」 しかし今の仕事を続けていく
 わけにもいかないし、 かといってどうすればいいんだろう。

  とりあえず、市役所の福祉課に相談してみることにした。
  これから先に全盲になるかもしれないし、そのためには
 障害者手帳をもらい生活訓練、職能訓練を受けられるようにして
 おいた方がいいし、その他医療費やその他の福祉など
 いろいろといい面が あるから申請をしましょう。といわれ
 8月手帳を手にした。
  
  それからこれからの仕事のためどういった物があるか考えたところ、
   PT(理学療法士)になりたいと思ったんですが、その学校
 へ聞いたところ途中で全盲になると そこで断念しなければ………
 
  やはり按摩・マッサ−ジ師・鍼師・灸師の免許を取るしかないと……
 かなり抵抗はありましたが、卒業後は運が良ければ病院で働けるので
 体の負担も比較的軽く住むというので、
  国立身体障害者リハビリテ−ションセンタ−にてその資格を取るべく
 準備が進められた、4月が入学なので、その間約4ヶ月どうするか
 福祉課の人の薦めで、点字をならいに行くことにしました。  
  
  東京の高田馬場に「日本点字図書館」というのがあり、そこでは
 週2回午前中に点字の勉強会があると いうので、そこに行くことにしました。
  
  そこには、私と同じような人たち、いやもっと視力のない人たちがきていて
 その人たちと知り合え仲間ができ、私の心に大きな力を与えてくれました。
  わずか、4ヶ月足らずだったけど、日点(日本点字図書館)に行った日は
 みんなで食事をしながら3時間も4時間も話をしていた。
  みんなの悩みやこれからのこと、また、福祉についていろいろと
 勉強にもなったし、私のこれからの人生にとって本当にいい時を過ごせた。
  
私の心にわずかながら光が差し込んできたようだった。
 カミさんにもずいぶん精神的に落ち着いてきたね、と言われたのも
 この頃からだった。
 
 そして、平成3年4月いよいよ私の第2の人生が始まった。



 第9弾   国リハ

   平成3年4月、埼玉県所沢市にある「国立リハビリテ−ションセンタ−」
 に入学と供に寮に入った。

  全国には、国立の視覚障害者のこういったセンタ−が5カ所あり、
 それぞれの地区のセンタ−に行くことになっています。
 ただし病院施設もあるので糖尿病性網膜症などの疾患の人は所沢に行く
 ことになります。 
  このセンタ−だけは、病院もありますが、視覚障害の他にも肢体不自由・
 聴覚障害のための施設もあり、生活訓練から職能訓練までほとんど
 すべてのものがそろえられています。
  このセンタ−であらたに50人の仲間と出会うことができました。
 もちろんすべてが視覚障害者です。
 (これらのセンタ−に入るには障害者手帳が必要です。)
  しかし視覚障害といっても原因もちがうし程度も違います。
 原因は、先天性のもの事故・網膜色素変成症・視神経萎縮・緑内障
 ・網膜剥離・糖尿病性網膜症それとベ−チェット病など様々。しかし
 私の病気や糖尿病の人は、全身の疾患のせいか他の人たちに比べると
 肉体的にはかなりきつかった。
 
  授業は、月曜から金曜までで1日6時間授業。体育もあるし小学生か
 中学生のような感じだった。
  先生方も視覚障害の方がほとんどで、授業は点字本か拡大文字の
 教科書(墨字本と言います)また点字かあまり得意ではないと言う人は
 カセットで録音して授業を受けていました。
 
  内容は、実技はもちろん解剖学、生理学、東洋医学、経絡経穴など
 幅広く学びました。そのため点字が得意じゃない人や途中で全盲になって
 しまった人たちもいて3年間で5人ほどやめていきました。
 
  寮生活は、4人部屋で、なれるまでは大変でした。私は、始めのうちは
 金曜日に家に帰り月曜の朝に学校に行っていましたが、やはりうちが一番。
 だんだん寮に泊まる回数も減り
 2年からは、大変でしたが、週のうち寮に泊まっていたのは2日だけでした。
 
  学校生活は、やはり病気の勢いもまだまだ盛んな時期で出席日数の方は
 ぎりぎりでした。
  そして、平成5年3月無事に卒業できました。
 
  2月に受験した国家試験にも受かり4月から病院に勤務すること
 になりました。

 ここでの3年間は、いろいろな人たちと出会いがあり私の人生にとっても
 貴重な3年間でした。

  しかし3年間無事に過ごせたのもやはり家族の支えがあってのことでした。


10弾  現在とこれからのぱぱ

  平成5年4月、家から電車で50分くらいのところのクリニックに
 働きに行き始めました。
 
 仕事の内容は鍼治療やリハビリの機械操作をしていました。
  
  久しぶりの通勤と仕事で最初から具合のほうはあまりよくは
 ありませんでした。
 それでも多少の熱くらいでは仕事に行ってました。院長先生や
 看護婦さん達もフォロ−してくれたりとてもいいところで仕事ができました。
  
  しかし、リハビリの機械操作のほうは女の子がいたので
 私が休んでも大丈夫だったんですが、
 鍼治療のほうは、週のうち3日は私一人でしたので、いきなり休むと
 患者さんに申し訳ないしそれが私にとってプレッシャ−に思えるように
 なってきていました。いくら頑張っても体のほうは
 やはりきついようで、月に1日か2日休んでしまいます。
  
  そう思っていたところ家から歩いて行かれる職場が見つかり
 クリニックの先生には本当に申し訳なかったのですが、その年の
 12月20日でやめさせていただきました。
  
  やはり仕事はまだ無理なのか‥‥
   (私の仲間でも資格を取って本当に働いているのは6〜7割程度です。)
  
   そんな思いの中家から歩いて10分位のところにある今の職場
 「三☆戸張病院」での仕事が始まりました。平成6年2月のことでした。
  この病院は本来4週6休にもかかわらず私だけ週休2日戴き
  しかも昼休みは家にお昼御飯を
  食べに帰れるようにしていただきました。(昼休みは1時間30分)
  
   それでも私の体は、2月に1度くらいは休まなくてはなりませんでした。
  しかし、2年過ぎたくらいからか、平成8年の夏あたりからは
 休みもほとんど取らないで住むようになりました。
 
  ところが、その病院の院長がストレスの大きな原因となりました。
 患者の前では吠え、職員には吠え、つもりに積もっていたものが
 爆発し、平成13年7月で退職できました。
  現在は、介護支援専門員として、通勤時間は電車で45分くらいの
 ところですが、ストレスもなく元気に働いています。
  やはり、ストレスはよくないんだなあと思っています。

  でも、足は少しははれることがありますが、最後の職場として
 頑張って生きたいと思っています。

  話は前後しますが、平成6年の4月に妻の母が癌で亡くなりました。
  亡くなる少し前でしたか
 私に一言
  「よく頑張ってこれたね、私はおそらくもうすぐ癌で死ぬだろう。
 本当に目が見えなくなるんじゃないか。毎日 不安でしょうがなかった
 だろう。今の私にはあなたの気持ちがよくわかるよ。
 本当によく頑張ったね。……」
  
  私はうれしかった。と同時に義母に何もしてあげられなかったのが
 本当に残念だった。
 妻と結婚してまもなく病気になったため義母や義父にはなにも親孝行
 らしいことができなかった。
 それだけが心残りだった。
  
  今は義父に義母の分まで親孝行しているつもりです。

  今の職場に変わって3年が過ぎました。病気のほうも10年を過ぎ
 目の症状も一時よりは落ち着いてきました。しかし、足の腫れと
 発熱だけはあまりよくなったとはいえません。
 この病気は、10年過ぎると少しは落ち着く。また40過ぎると少しは
 落ち着く。といわれています。
 
  早く落ち着いてくれるのを願う毎日です。
  
  今でも朝起きるのが怖いときもあるし、夜中に目が覚めたときまず
 目の具合を見たりもします。
 早くよくならないかなぁ。

  私は子供の頃から作文というのが嫌いでした。それでも一生懸命
 書いてきました。
 下手な文章でしたが、読んで下さってありがとうございました。