NGOカトマンドゥ/牛乳パックでヒマラヤ植林の苗作り
カトマンドゥ通信番外地
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続カウレ村、春秋
長老チャンドラの生涯
カウレ村、春秋
・キツネ目の男
・赤い蕎麦の花
ネパール料理の作り方
・シタの家族
・毛沢東派と植林



続カウレ村、春秋

 カウレ村のリーダーは二人の男、と、一人の女であることは、すぐにわかった。だがそれは、実際に村に入ってからのことである。

 2004年の冬、私は2人の男の案内でカウレ村に向かった。同行したスタッフは、植林センター教官補のランバブ、隠れ毛派ゲリラのスマンだった。
トリスリ河に注ぐサラク川を渡ると、ジグザグの山道になる。30分ほど登って行くと、地雷の爆発した跡が2ヵ所あった。よく地雷の爆発跡をすり鉢状と表現するが、実際はなべ底型である。政府軍の進撃はさぞ鈍ったであろう。案内の男二人は案外平気である。私たちは案内の男の後ろから、おっかなびっくり付いて行った。

 マネガウン村を過ぎ、タンダパニ村を超え、さらに私たちの植林の最前線であるカルカレ村を過ぎると、未知のエリアになった。周囲は岩だらけになり、周囲には木がない。不意にずっと上の岩陰で、何かが動いた。ランバブは私に頭を下げるように言った。スマンも油断なく、視線を鋭くしている。先頭の案内人の男が、タマン語で何か叫んだ。「俺たちだ」、は分かるが、次のタマン語が分からない。「撃つな」、じゃないだろうか。

 「スマン、様子を見て来い」ランバブが言った。右手は私の頭を抑えて、さらに低くさせた。
 スマンが斜面を走り出した。低い姿勢から、草むら、岩陰、くぼ地、などをたくみに利用しながら、ツバメのように走る。男なら惚れ惚れするような身のこなしだ。さすがはゲリラである。 
「それで、どうなっている」ランバブが鋭く叫んだ。
「ケヒ、カタラ・・〔危険は、少しも・・・〕」スマンの声がずっと上の方で聞こえた。
そのときだった。大勢の女性たちが岩山を降りてきた。
「日本のメメ〔お爺さん〕いらっしゃい」
「メメ、よくいらっしゃいました」
花輪や白いカタ〔聖なる絹の布〕が、次々に私の首や肩に掛かる。子供は今朝手折ったばかりの一輪の花を、私の手に握らせた。
内戦のせいか、若者の姿がない。
 


カウレ村の植林地は村の中心部から2キロほど離れている。
大きさは野球場を4〜5個くっつけたほどあり、下は崖で切れ落ちている。
そこから植林作業中に一人が滑落し、意識不明になった。首都の病院に運ばれ、治療後に息を吹き返した。現在6年目までの苗2万本が活着している。









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長老チャンドラの生涯
 
チャンドラは、物心が付いたときから地主の家で働いていた。明け方から日の暮れるまで、畑の土を起こし、種を蒔く。牛の世話をし、山羊の草を取りに行く。どうしてそんな境遇になったのか、本人にも説明が出来なかった。孤児だったのか、親の借金のかたにされたのか、どちらかだったろう。
 ともかくチャンドラは一生懸命働いて、青年になり嫁を娶った。子供が生まれた。その男の子は、後で信州大学農学部に入り、植林センターの教官になるインチューの父である。だが子供が生まれた後、妻は隣家の息子の嫁になった。この辺の事情は、私には良くわからない。19年がたった。チャンドラの仕事が終わる日が来た。年季が明けたのだ。
 地主はチャンドラにわずかな土地を与えた。チャンドラはそこに自力で家を建て、やがて息子が大人になり、ドゥルガの姉シタを妻にした。二人の間に長男のインドラ、長女のインチューが生まれた。ドゥルガは父の後妻に来た継母と折り合いが悪く、実家を追い出された。あちこちの家で働きながら、最後に姉の家を頼った。そこでインチューの子守をしていた。
 1974年、私は夕暮れに其の村を通りかかり、インチューを抱いた12歳のドゥルガに出会う。ここから私の人生と、チャンドラ、其の息子のテク、妻〔ドゥルガの姉〕シタ、インチュー、が関わってくる。
 ドゥルガは遠くのチベット族の村へ、働きに出されようとしていた。しかしそこはドゥルガのようなヒンズー教徒ではなく、ラマ教の村だった。食べ物も、風習も違う。第一、言葉が違っていた。                                  
 ドゥルガは毎日のように、河原をさ迷っていた。実は死のうと思っていたらしい。不通ではないそぶりに気づいたのは、苦労人のチャンドラであった。息子や嫁のシタに、もう少しここにおいてやるように説得してくれた。そんなとき、日本人の旅人に出会い、日本へ行く決心をしたのだった。













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カウレ村春秋

 五歳のバサンティは、母と一緒に、広大な斜面に植えられた苗に水をやっている。バサンティには父がいない。バサンティはいつも父を思い出すかのように、顔を右に傾けている。父はマレーシアに出稼ぎに行き、事故死した。
 村人は全員で空港まで出かけ、棺を引き取った。棺はバスに乗せられた。
普段はバスの後ろに取りついたり、屋根に上ったりする人にさえしっかり料金を取り立てる強欲な運転手は、この不幸な男のために率先して場所を空け、棺を乗せた。結局、運転手は金を取らなかった。            
 山の下まで来ると、今度は村人が交代で村まで棺を担ぎあげた。寡婦になった妻は、友達に付き添われて山を下り、植林センターに来て外国人である私の前に座った。もしかしたら,職が得られるかもしれないと思ったのだろう。それししても、このシタは無口だった。

「お名前は?」
[・…]「シタです」
「何ができます?」
「・…」「百姓仕事なら」
「他には?」
「・…」「炊事なら」

 答えているのは一緒に来た友人であり、シタは床を見たまま、一言も発しない。こんなに無口で、はたしてスタッフとうまくやってゆけるのか、と危惧した。しかもNGOは金が乏しい。日本のテレビが、デモで血塗られた首都の歩道や、ゲリラのインタビューを報道したりするせいで、寄付は十分の一に減っていた。そんな国に、援助する気がしないという人が増えていた。                                
 だがあまりにも気の毒で、放っておくことが出来ない。スマンはネパール脱出して、湾岸諸国で働いているし、妻のシタ〔これもシタだった〕と一緒に住み、しばらく様子を見ることにした。

 カウレ村のシタは子供のバサンティと一緒に、スマンの妻のシタに教えられながら苗作りなどの仕事を覚えていった.。
 植林センターでは、みなが同じものを食べ、同じ茶を飲む。カーストによる差はない。作業も同じである。経験者の指示に従って、樹木の種を干したり、水に浸したり、畑に蒔いたりする。芽を出す間に、苗を入れるポットをビニールを切って作り、中によく篩った土と堆肥を混ぜて入れる。ポットは4万個もあるから、人手はいくらあっても足りない。
そんな中で、シタは少しずつ変わっていった。スタッフとも話をするようになった。

「お父さん、冗談じゃないわ。どこが無口よ」
植林センター教官のヤショダは、眠そうな目をこすりながら言った。
仕事が遅くなって、シタを隣に寝かせたら、一晩中しゃべっていたというのだ。
まず自分のことを語り、語りつくすと今度はヤショダのことを聞きたがった。これから行く日本のことや、ヤショダの婚約者のことなども。

 シタは自分の村であるカウレに戻っていった。私たちはそこへも苗畑を作っていた。水をやったり、草を取ったりする仕事が出来た。シタがそれをやった。しばらく経つと、シタは村人が首都のカトマンズに出た時、ボードナートのラマ教の寺を知り、渡りをつけて住み込みの仕事を見つけてきた。
 バサンティはカトマンズの学校に移った。

 シタは、私がカウレ村にいて仕事をしているとみると、よくラムサランの携帯に掛けてきた。
「お父さん。お元気ですか。カトマンズはどこのホテルにお泊りですか。お目にかかりに行きます」などと臆せずに話す。            
 またしても娘を増やしてしまった。

 











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キツネ目の男
 2001年1月1日。私を含む日本人5人と3人の現地スタッフがゲリラに拘束された。
 ゲリラは約70人であった。その中の何人かは今はいない。政府軍との戦闘の中で死んでいるからである。例えば、三郎ことハリーネパールはその後の戦闘で死んでいる。
 この人はいつもNGO活動を監視していた。拘束された私は、三郎からNGOの年間の計画や資金について問いただされた。
   
 私たちが囲まれた現場の少し離れた場所で、一部始終を見ていた男がいた。ゲリラにしては小柄で、傍観者的態度である。
 目が釣りあがって狐目であった。拘束された私たちは、翌日私が一人で指定されたサッタイセという場所に来る、と合意して開放された。翌日は1月2日である。
 私はサッタイセに出向き、ゲリラ側と会談した。実を言うと、とても怖かった。私が11時までに戻らなければ、残りの日本人は、カトマンズに脱出する手はずになっていた。
そこでも少し離れた場所に狐目の男の姿があった。

 2005年5月、ある夜、私を尋ねて誰か重要人物が来るから待つように、指令があった。指令は毛派のほうからだった。
 私は待っていた。深夜、政府軍の待ち伏せなど少しも恐れてはいない、とい言いたげに、やってきたのは狐目の男だった。
 初めて私は知った。彼がヌアコット郡の毛派の有力な政治局員だと。男は「毛派があなたを殺すことはありません」と言いのこし、去った。内戦は1996年2月に始まり、2006年11月に終わった。
   
 2008年5月、タマン族たちの植林地を一週間見て回った私は疲れ果て、トリスリ河の右岸の道をベトラワティに向かって重い足を引きずっていた。珍しいことに,向こうからバイクの音がする。
 見る見るバイクは近づく。乗っている男の顔に見覚えがあった。狐目の男である。男は懐かしそうに微笑んだ。
 「ナマスカール、ドクトル サーブ〔こんにちわ、先生〕」
 「ナマスカール、00ジ〔こんにちわ、00さん〕」
 私はすでに彼の名を知っていた。狐目の男の顔はふくよかになり、やさしささえ感じられた。平和がきたのだ。そのまま私たちは上流と下流に別れた。

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赤い蕎麦の花
 1970年、私は初めてネパールを訪れた。目的地は今では有名なジョムソンである。当時、チベットからダライラマの親衛隊であるカンパ族が越境し、ネパール国内でしばしばネパール警察と衝突していた。カンパ族は勇猛果敢で乗馬が巧みである。
 ネパールは中国から支援を受けており、カンパ族を掃討する立場にあった。警察では歯が立たない。急遽軍が動員された。そうは言ってもネパール軍にさほどの実力があるわけではない。一方でアメリカはインドに協力を求め、飛行機を使った運送会社を作った。実態はCIAである。武器を積んだ国籍不明機がヒマラヤを飛び交ったのだ。つまり、アメリカ、インド対中国、そして中立国としてのネパールという構図であった。ジョムソンはチベットに近く、カンパ族はしょっちゅう武器を携帯して闊歩していたから、トレッキングは不許可の地域であった。私はせめてタトパニまででも行きたい、と思い、許可証を申請した。ついでに、どうせだめでもともとと、ジョムソンと書き加えた。イミグレーションはちょうど昼時で士官がいなかった。ところが代理の下士官が間違えて許可の印を押してしまった。喜んだ私は、許可証をひったくるように戻り、支度もそこそこにポカラに飛んだ。
 ポカラ空港は舗装されていない。とにかく、空港から歩き始めた。車で出発する今のトレッキングとはだいぶ違う。
 一週間かかって、ようやくジョムソンの手前まで来た。途中何度もチェックポストで止められた。許可が下りるはずがないからだ。オフィサーは首をかしげながら私を通した。
 なにやら一面赤いのだ。赤というかピンクというか、それ一色しかない。シェルパに効くと、サーブ、パーパルデス、といった。
 そのときはよくわからなかった。
 ジョムソンからテリッチョ湖に行くために、ポーターを雇うことになった。ポーターは、飯を食うからちょっと待て、という。見ると黒っぽい粉に水と塩、それに唐辛子を混ぜ、小枝で練って食べ始めたではないか。シェルパに又聞くと、パーパル、だという。パーパルとはつまり蕎麦であった。蕎麦しか獲れないし、燃料も十分にない。だから蕎麦がきとして食べるしかないのだろう。

 以来私は蕎麦が苦手になった。蕎麦を見るたびに、あのジョムソンで、一人の男が黙々と蕎麦の粉を水で溶いて食べていた光景を思い出すからだった。
 ずいぶん後になって、戸隠で白い蕎麦の花を見たとき、それが本当に蕎麦だとは信じられなかった。

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 ネパール料理の作り方
ネパール料理を作りたいと考えていた私は、まずインド料理研究家・レヌ・アロラさんの門を叩いた。彼女はインドで初めて女性として料理長になった方だ。1986年当時、東京の麻布に住んでいた。アロラさんは、インド料理の本も著している。〔美味しんぼ〕という料理の漫画の本に、実在の人として登場する。ただし、漫画の絵は本人とは似ていない。

さてアロラさんによれば、、インド料理の基本とは、まず、たまねぎ、にんにく、生姜、をよく炒めることだ、という。
 ここでのたまねぎ、にんにく、生姜,は単なる野菜ではなく、香辛料である。そう扱え、と教えられた。全てのインド系料理の基本はこれだ、と強調された。以来私は、其の教えに従っている。


〔左〕鶏肉のカレーの材料:鶏肉、たまねぎ、にんにく、生姜、と香辛料。
〔右〕たまねぎの半分を細かく切る。残りは肉と一緒に煮込む。


〔左〕鍋に植物性の油を入れ、一緒にクミンの種も入れる。
〔右〕鶏肉の骨なし


〔左〕鶏肉を炒め始める
〔右〕表面が均等に白くなる

〔左〕残りのたまねぎを入れ、煮込む
〔右〕トマトを一緒に入れ、さらに煮込む


(上〕チキンカレーの出来上がり


〔左〕野菜カレーの材料の例。たまねぎ、にんにく、生姜、ナス、ジャガイモ、トマト。
〔右〕鍋にクミンと植物性の油を入れたところ。


〔左〕鍋を火にかけ、クミンが踊りだしたらたまねぎを入れる。
〔右〕たまねぎが十分火が入ったら、ジャガイモを炒める。


〔左〕たまねぎを入れる。少し炒める。
〔右〕香辛料を入れ、少し炒める。


〔左〕蓋をして煮込む。
〔右〕出来上がり。

要点:

 1、たまねぎ、生姜、にんにく、を香辛料として、共通のベースとする。
 2、

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シタの家族
シタは養女ドゥルガの2番目の姉である。
長姉はハリーという。
≪この項は未完です≫

毛沢東派と植林
なにが大変と言って、毛沢東派との交渉ほど大変なことはい。


 
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