ヤマハ発動機サッカー部の前身は「磐田工場サッカー同好会」で昭和47年サッカー部の強化を打ちだした。
(本社が浜北にあった昭和45年以前から有り当時はぺんぺん草チームとあだ名されていたみたい。)
当時の日本楽器(現ヤマハ)の野球部に力を入れ、都市対抗野球で名を馳せていたことも有り
ヤマハ発動機もスポーツでイメージアップを図るために、静岡県は「サッカー王国」とも言われており
直ぐに良い結果を得られるということで昭和47年9月にヤマハ発動機役員会でサッカー部強化決定が下された。
現ジュビロ磐田社長の荒田氏を中心に環境つくり、指導者探し、選手の補強は県内の高校(浜名を中心とする)や
社内のサッカー経験者をリストアップしていった。
指導者探しで、当時日本リーグ1部の三菱重工でプレーしていた杉山隆一(現ジュビロ磐田シニアバイザー)が
会社を辞めて清水市に戻ってくるということで首脳陣の根強い勧誘の末に承諾を得て
昭和49年4月にサッカー部の監督に就任、この年に17人の補強(現、湘南ベルマーレの社長の小長谷氏も含む)もして
この年の県社会人リーグ2部を8勝1分けで優勝して1部に昇格。

昭和50年も1部でも14勝1分で優勝、第11回全国社会人選手権(2位以内で日本リーグ2部の挑戦権を得られる
最短の日本リーグの昇格) の推薦出場も得て1回戦で五戸町役場(東北代表)を6−0、2回戦で新日鉄広畑(関西代表)を
2−1で勝利して、準決勝でヤンマー戦は1−1でPK戦にもつれて、3人づつがが決め、4人目でチームを全国に
アピールする為に、この年に現役復帰した監督の杉山がはずして、2部のスピード出世の夢がたたれて
引き続き東海リーグ入りを決める東海社会人大会でも三重教員チームに敗れ
51年も県社会人サッカーリーグでのプレーをする事になる。

昭和51年の県1部も14勝1分けで優勝して、再度東海リーグ入れ替え戦で豊田工機に連勝して東海リーグ入りを果たす。

昭和52年の東海リーグも14勝1分け1敗で優勝、 さらに、この年は天皇杯で日本リーグ1部の日立を破る金星をあげる。
(その前の2年は2回とも1部の新日鉄に敗れている)
昭和53年2月の「第1回地域リーグ決勝大会」の決勝戦で東芝堀川町を延長戦で下して日本リーグ2部の出場権を得る
入れ替え戦で、田辺製薬と第1戦で1−3(アウェイ)、第2戦を1−0(ホーム)で勝ったものの得失点差で涙を飲む。

昭和53年も東海リーグを13戦全勝で完全優勝を果たして、入れ替え戦で京都紫光クラブと試合をして 第1戦を3−1
第2戦を0−1(ホーム)で得失点差で2部の昇格を決める。
この年に初めてDFの清水が日本ジュニア代表に選出で中国遠征に参加。
夏に韓国遠征の帰りに日本に立ち寄ったマレーシア代表を 1−0で勝利したりと着実にチーム力がアップしてきている。

日本リーグ2部昇格1年目、前期は上位チームに歯が立たなくて5位がやっとだったが、後期に7勝1敗1PK敗と好成績で
総合10勝3敗2PK勝3PK敗で、東芝についで2位で1部入れ替え戦の権利を得る 。
相手は日本鋼管で第1戦は0−0(PK3−4)敗戦も、地元東山グラウンドで35、73分とゴールを決め2−0となり
相手の反撃も87分のPKだけに抑え、見事に創部7年目にして日本リーグ1部の昇格を決める。

昇格1年目は5勝3分10敗、トータル勝点13で9位。この年は逆の立場で入替戦で富士通と試合をして
第1戦は伏見のゴールで1−0で勝利、2戦目は先制されるも伏見のゴールで引分にもちこみ1部残留を決める。

昭和56年は2年目の試練となり、前年得点ランキング4位の望月をマークされたりして結局10位(最下位)に落ち込み
自動的に2部への降格が決定してしまった。これを継起としてDF鈴木(現ジュビロ磐田監督)、石神(現ジュビロコーチ)
山本(日本代表こーち)FW伏見を オランダのアヤックスに留学させる。
チームの補強も日体大の上永吉、東農大の柳下、沖野、早稲田の志田、国士館大の内山篤を 補強して後々チームの柱と
なる選手となっていく。初の外国人のコーチとしてハンス・オフトを招聘する(実際の実現は昭和57年の前期が終る頃)

昭和57年の2部は第1戦の新日鉄、第2戦の埼玉教員にまさかの引分だったが前期は何とか首位をキープ。
後期から参加したオフトコーチの教えも有り、チームに良い影響を与えて後期は一気に突っ走って12勝5分1敗で優勝で
1部復帰を決める。 その余波でリーグ終了後の天皇杯も1回戦東芝を2−1、2回戦富士通を1−0、3回戦三菱を1−0
準決勝では強豪の読売クラブに2−0で 下す会心のゲームで決勝に進む。
決勝の相手は日本リーグでも常に上位のフジタとの対戦も前後半0−0で延長戦に進み吉田のボレーシュートが
決まり天皇杯を獲得。創部12年目での快挙 天皇杯で優勝したヤマハはジャパンカップの出場権を得て
シリア代表に2−1、ボタフォゴ(ブラジル)1−1 日本代表に0−0、ニューキャッスル(イングランド)は0−1と負けはしたが
強豪相手に好成績。(この大会の最下位は日本代表)
天皇杯やジャパンカップの好成績で長沢、石神、内山、吉田が日本代表に選ばれ、それ以後も森下、石井も選ばれる。

1部復帰の初年度は7勝5分6敗で4位、翌年は読売クラブ、日産と優勝争いもするも10勝4分4敗で3位
昭和60年からチーム数が10→12に増え、この年は勝ち星に恵まれず9勝5分8敗で6位。

昭和61年は開幕から7試合連続無得点が続いたりと、2部落ちの危機があったが松下電器を3−2で退け1命を取り留め
3勝11分8敗で10位。これで危機感を感じて今度は南米のサッカーを取り入れるべく当時県サッカー協会の堀田理事長の
紹介を得てブラジルのジャウーFCのジーバーコーチを受け入れ。
同時に東海第一高在学中で年齢制限でプレーできなくなった サントスも研修生を受け入れる。
ヤマハ初の外国人選手のジャウーFCのMFアンドレFWアディウソンの受け入れも決めた。
首脳陣の移動も決め、杉山監督が総監督、小長谷助監督を監督に就任、チームをAチーム、Bチームに分けて
Aチームのコーチに石川操、シーバー特別コーチ、Bチームに鈴木政一、山本昌邦が担当する事になる。

チーム改革をした昭和62年は順調に勝星を増やして、終盤は日本鋼管との優勝争いになり5月8日の20節の対マツダ戦
を迎え この時点でヤマハ勝点29、2位の日本鋼管26でもしも日本鋼管が負けヤマハ優勝となることとなった。
試合は前半にマツダの信藤の退場もあり試合を優位に進め、アディウソンのゴールで先制してリードし
途中に日本鋼管が敗れるという情報も入り、後5分を守りきり優勝。