臓器提供
1999年(平成11年)2月23日、高知赤十字病院に一人のくも膜下出血の患者が搬送された事からこの騒動は始まった。
臓器移植が法的に可能になったのはわずか去年の事で、技術的には既にかなり以前から可能であった事とが晴れて公で出来る状況というのが目の前に実現すると、それがマスコミ界を興奮させ、まさしく洪水のような報道の仕方を呈した。
騒動の大部分は、患者とか医師の評価を論ずるものではなく、ただ単に興味本位のマスコミの好餌にされたところに今回の騒動の原因があるように思う。
丁度、我が父親の死亡と重なった時期で、死についていささか考えざるを得なかった時期であったので、興味深くこのニュースを考察してみたが、マスコミの報ずるところは論点がずれているような気がしてならない。
一般論として、今の時代は情報公開が声高に叫ばれて、何でもかんでもマスコミでとりあげさえすればそれが「善」だという風潮であるが、この思い込みから抜け出せないでいるとろが恐ろしい。
その一方でプライバシーの尊重を同じボリュームで唱えているわけで、この矛盾を矛盾のまま、自分の方の都合で、その立場,主張を、その時,その場の雰囲気で、どっちにも同じように利用しているわけである。
今回の場合,くも膜下出血で搬入された患者の家族から、善意で「臓器移植をしてもいいですよ」という意思表示があったわけで,その事自体は素晴らしい事のはずである。
人の世の中というのは、人の善意が良い方向に集まらない事には前進が見られないわけであるが、マスコミというのは、その事自体を食い物にしている。
心臓移植の先駆者は31年前,1968年に札幌医大の和田寿郎医師によって行なわれているわけで、その時のマスコミの和田医師に対する評価というのは、殺人者よばりであった。
これは日本人の死に対する考え方、つまり潜在的な民意を集合したものの発露と私は受けとめているが,我々は古来から死というのは天からお迎えがくるもので,そのお迎えに応えるものである、という認識から抜け出していないわけである。
この事は日本人の死生観というものが21世紀に差し掛かろうとする今日でも一向に進歩していないと、いう事に他ならない。
父親の死に際しても,我々自身の死生観というものを深く考察する機会を得たが,現代に生きる我々は、技術の面のおいては日進月歩の勢いの中にいるが、精神の面においては人間の誕生以来なにも進化していないという事である。
臓器移植をするに当たって,そのこと自体は技術,医学上の技術であるが,それを容認するかしないか、というのは人間の心の中の問題となるわけで,この人間の心の中の問題となると、21世紀に入ろうという時代においても人類誕生以来の思考と一向に変わるものがないという事である。
技術の進歩に比べ、我々、人間の死に対する考え方が一向に進化していないという背景には、宗教の存在があるわけで,宗教に根ざした死に対する倫理というものが我々の心をきつく束縛しているものと思う。
臓器を他人に移植するという行為は、医学上の技術として既に確立されたものであるが,今回はその事自体を合法的な行為であると国が認めた最初の例であったわけで、その日本で最初の行為であると云うところをマスコミの側としては報道したかったわけである。
問題は、こういうマスコミの側の心理は理解しうるものであるが,各社一斉に同じ取材対象に群がるという点にある。
日本のマスコミ批判の大元は、実にこの各社一斉に同じ取材対象に群がって取材合戦を展開するところにある。
和歌山県の園部地区で盆踊りのカレーライスに毒が入れられた事件でも同じで,報道という大義名分のもとに、日本のマスコミ各社が同じ取材対象に雲霞(うんか)の如く群がるところに問題があったわけである。
今回もそれと同じ情況を呈したわけで,日本のマスコミ各社が同じ取材対象に洪水のごとく集中的な取材を展開したので,臓器を提供する側がビビッテしまったわけである。
臓器移植が合法である以上、その行為は基本的にニュースにはならないはずであるが、それが日本で最初の例である、という点でマスコミ各社の取材合戦になってしまったわけである。
そのことから、その臓器移植が真に成功するかどうかという問題よりも,マスコミ各社の取材合戦の是非について自己批判したような変な状況に陥ってしまっている。私の基本的な考え方では,他人の臓器を移植しなければならないような人,つまり他人から臓器を受ける側の人は、既にそのことだけでも生きるための限界に達している人ではないかと思う。
自然界であればもう既にこの時点に来るまでの間に淘汰されている人であろうと思う。つまり死んでいても不思議ではない人である。
当然、死ぬべき人が、現代の医学の向上,医学的技術の向上,医療施設の向上等々外科的手法の発達で死なずに生かされているわけである。
この時点で行われたことの意味は,他人の臓器を持ってきてそれと取り替えるということで、それはもう自動車の修理と同じことになるわけである。
そういう状況下であってみれば、取り替えたところが元の体と適合しない状況というのはあって当然である。
そういうリスクを全部排除しよう、というのが現代の医学であり,究極の医療になるわけである。
これはまさしく人類の夢に違いない。
しかし,自然界の中で泳がされている生物としての人間という立場に身を置いてみれば,これは人間が自然というものを冒涜することになると思う。
人が自然界を克服したことになってしまい、科学、医学、技術の限りなき発展というのは、言葉を変えれば自然の摂理に徹底的に逆らうことに他ならない。
科学,医学,技術の進歩というのは限りない発展が可能であるが,人間の精神というのは、一向に発展する余地がなく,人が自分の死を恐れる考えというのは、人類誕生の時から変わらないわけである。
人の臓器をとっかえひっかえ取り替えれる時代に、人が死を恐れるというのは、まさしく人の心がいかに進歩、向上していないかということだと思う。
今回の臓器移植で大きな問題提起になったことは,その医学的技術についてというよりも、その問題を扱う報道の仕方に大きな疑問が投げかけられたわけである。
技術的にも可能で,法的にも認められて行為であり,ニュース・バリューとしてははなはだ値打ちのないニュース・ソースであったにもかかわらず,それが日本で最初の行為である、というだけで日本の報道各社が一斉に洪水のような取材攻勢である。
こうなれば、当然の取材の対象は、臓器を提供する側の家族,それを受ける側の家族にまで及ぶことは必然的な成り行きで,事実そうなったわけである。
報道の仕方という問題にのめりこむと、再び日本人論に立ち返ってしまうので,ここでは死生観のうほうにウエイトを置きたい。
我々、生きとし生ける物が死を恐れるというのは自然の摂理である。
自然の摂理である、ということは不思議でもなんでもなく極当然なことであり、弱虫でもなければ,気が弱いわけでもなく,精神が病んでいるわけでもない。
それでこそ正常な人間であり,自然な生き物であるということである。
自殺をするというのは人間だけの特権で,自殺ということは非常に勇気のいる行為だと思う。
人間が自然の摂理のまま生きているとすれば、決して自殺などということはないに違いない。
自殺ということは、事ほど左様に自然の摂理の対極にある行為だと思う。
その意味からすれば、医学の向上とか、医療の向上、医療技術の向上ということも自然の摂理という観点からすれば、その対極に位置する行為である。
福祉ということもその範疇に入ることを忘れてはならないと思う。
福祉とか,老人医療の向上ということも、今の日本の人々の概念からすれば、それは良き事という範疇に入っているが,自然の摂理という見方をすれば、それは明らかに対極をなすものである。
人類の発展,科学技術のはてしない発展というのは、自然という立場から見れば、ことごとく自然を克服する,つまりは自然を組み伏せたことによる成果であったわけである。
自然を克服してしまい、自然を組み伏せてしまえば、何処かにその反作用、仕返し、跳ね返りというものが潜んでいるような気がしてならない。
今回の臓器移植に際しても、手術後の拒否反応というのは、自然界の揺り戻しの具体的は例であるわけで,自然界に人間が手を加えれば、必ずその揺り戻しというのは有るはずだと思う。
地球上の万物は神様が創ったとしか言い様がない。
科学技術というのは、そういう万物の誕生の秘密までも解き明かしかねないが,いかに科学技術が進歩したとしても、地球上の万物は神が創った、という不透明な部分、このようの不思議さの部分というものも少しは残しておいた方が夢があるように思える。
このように科学の分野,技術の分野というのは、文字通り日進月歩の勢いで進化している。
ところが人間の心に中,心の動き,脳の中身の発達というのは、一向に進化していないわけで,人類の誕生以来、死を恐れ,喜怒哀楽というのは顔に現れるわけである。
死に対する考え方の違い、というのは宗教の存在が大きく関わっているように思える。
我々,日本民族というのは、どういうわけか外来文化に非常に弱く、既に縄文時代から日本以外の大陸に思いをはせていたようである。
この時代から日本の固有の文化を大事にするという気持ちが薄く,外来文化を有り難がる傾向が内在していたようである。
そういう潜在意識があるからこそ、我が民族は異国の宗教を取り入れ,それに帰依することで自分が文化人にでもなったような気分に浸っていたわけである。
まさしく既に縄文時代から今日,21世紀に差し掛かろうとする今日まで,今の我々と同じ行動パターンが出来あがっていたわけである。
この潜在意識の進歩のなさというのは、まさしく化石に等しい。
我々が仏教という外来文化に精神を侵食され、それの呪縛から脱却できないでいるということは、正しく精神のシーラカンスそのものである。
今,臓器移植を前にして、その脳死の判定にこだわるというのは、仏教の唱える呪縛から精神の脱却が出来ていないからである。
私のようにドライで,罰当たりな人間は、死というものについて深く考察することがなく,寿命というものを素直に受け入れる心つもりであるが,生について未練を吹っ切れない人は、死の瞬間というものに納得のいく説明を要求するわけで,それを運命として受容することに非常に懐疑的なわけである。
私の考え方からすれば、確実に死んでいく人が臓器提供の意思があれば、それを有効利用して、助かるかもしれない人が助かれば、それに越したことはないと思う。以前は、このことが技術的には可能であったにもかかわらず,法的に許されていなかったので,それが施行できなかったわけである。
そして死に直面した人が「私の臓器を提供しても良いですよ」という意思表示をしたのも今回が最初であったわけである。
その最初の行為であるからこそ,日本のマスコミ各社が雲霞の如く,まさしく洪水のように一斉にそのニュース・ソースに群がったわけで,そこで例によって大混乱を提供したわけである。
自分は確実に死ぬので、臓器を提供して,自分の臓器で助かる人がいれば、その人を助けたいという,発想,気持というのは非常に尊い心だと思う。
人間の誕生以来、死を恐れる気持ちに何ら進化がないという中で,「自分の臓器を他人のために使ってください」という意思表示をする行為は、明らかに人間の心の進化の一つであり、精神の向上の具体的,かつ顕著な事例だと思う。
ここで問題なのは今回の臓器移植に関するマスコミ各社の報道の仕方である。
私が今まで縷縷述べて来たように、臓器移植を承認し、なおかつ自分の臓器を他人に提供する行為というのは非常に尊い行為である、ということを強調する報道ならばまだ許されるが、昨今の日本のマスコミというのは、そのすべてが三流のマスコミに成り下がってしまって,論調の格調,論理の格調,記事の格調というものを失ってしまって,その全部が低俗なラインで横並びしてしまっている。
低位安定で横並びすることが民主化の結果である、というのは今日の進んだ社会の現況である。
今日の人間社会では、社会の中の階級というものが全面否定され,人は須らく平等で有らねばならないとされているが,その事は低位安定,最下層のラインで皆横並びにならなければならないということを言っているわけで,その横並びの線から突出することは許されないわけである。
これが21世紀に入ろうというときに,日本の知識人が目指した理想であったわけで,自由,平等,博愛を追い求めた結果、我々の社会は低位安定で横並びの低俗な好奇心の烏合の衆が出来あがったわけである。
今日のマスコミ業界というのは、この低俗な好奇心に迎合しようとするところに問題が有るわけである。
私が思うに,マスコミの使命というのは「人の命が少しでも助かれば、私の臓器を使ってくださいという」人の心なり、精神,その愛情,人類愛,隣人愛,同胞愛というものをより多くの人に知らしめ,そういう人が次ぎから次ぎに現れるような方向に仕向けることではないかと思う。
こういう事を表す言葉に「啓蒙」という言葉があるが,この啓蒙というのは一歩間違うと政治に利用されかねない。
戦後の日本人の左翼思想というのは、戦後の日本のマスコミの啓蒙というものに大きく便乗していたわけで,マスコミが世論を啓蒙するという事は、左の側にも右の側にも自由に傾くわけである。
左側に啓蒙するときもあれば右側に啓蒙するときもあるわけで,マスコミの言う事を心から信ずる必要な全くない。
しかし、自分の臓器を他人のために提供しようという事は、人としての最高の善意であり,これ以上の尊い行為というのはこの世にあり得ないわけで,こう云う事はマスコミといえども大いに啓蒙すべきことだと思う。
戦後の日本の世俗的な出来事は,戦後の日本のマスコミの発達が、精神的な向上を目指すよりも、世俗的な経済思考に偏ったため,経済的効果,つまり儲けなければならない、という思考に傾いたからであって、人の善意を啓蒙し,人の心の向上に寄与することを怠ったからに違いない。
資本主義で、自由主義経済体制の中の日本のマスコミ各社というのは、やはり儲けて、その儲けの中から社員の給料を捻出しなければならないわけで、となれば、儲けるためには、人の喜ぶニュース、人が買ってくれるニュースでなければならないことになり,理想論をいくら啓蒙したところで、それは経済という側面から云えば儲けには繋がらず,それに携わる人々の至福の向上には繋がらないわけである。
マスコミの業界といえば,それに携わる人々というのは日本人の平均以上の学歴の人ばかりのはずであるが,こういう人々も結局は人の子であって,自己の至福の向上が最大の人生の課題であり,人のため,人民のため,国民のためにという大義名分は個人,業界の至福の向上,つまり儲けの前には沈黙せざるを得ない。
資本主義の本質であるところの人間の欲望をコントロールして,人類全体の至福の向上を目指すという理想には程遠いわけである。
要するに,倫理観を後ろ盾にして、自己の精神,自己の欲望をコントロールする力を持ち合わせていないという事である。
今回の臓器移植に関し、臓器を提供する側の家族が、マスコミ業界の執拗なる取材攻勢に辟易したということが報じられているにもかかわらず,それでも尚、日本の知識人の中には情報公開を善とする論旨を展開する人がいた。
情報公開とマスコミの執拗なる取材とは全く異質なものであるにもかかわらず,その事が混同して、はっきりとした峻別が成されていない。
日本人というのは物事を自分の都合によってどういう風にも解釈する性を持っている。
まさしく日本人の曖昧さの顕著な例であるが,情報公開という場合,ふつうは官公庁が秘匿している情報を開示しなさい、という場合に用いられる言葉であって,それを個人のプライバシーまで報道の名を借りて暴き出しても良い、という風にかってに解釈しているわけである。
これはまさしくマスコミ業界という日本のインテリ集団が、意識的に言葉の拡大解釈している、としか云いようがなく,それに携わっている人々が恣意的に、金儲けのために、報道の名を借り,情報公開を旗標にし、個人のプライバシーを暴き立てて、それを金儲けにつなげようというものである。
臓器移植が法の認可のもと、晴れて実施されるに当たっては,基本的には自分の臓器を提供しても良いという,提供者の善意を鼓舞吹聴する事は良い意味の啓蒙にあたると思う。
それが提供者のプライバシーを暴き立てる方向に向かってしまったので、世の批判が集中したわけである。
この事実をもう少し深く考察すると,マスコミ業界には、そこのところの峻別が出来ておらず,その境界線を何処に引くのか、というきちんとした線引きがないわけで,それこそマスコミ業界に携わる人々のモラルの問題に起因する。
日本を代表するインテリ集団にしてこうであるので,戦後の日本が、混沌の渦中で、理性を喪失した烏合の衆が、自分勝手に金儲けという自然の摂理に流されていた事の具現化である。
人が金を儲けて自分だけでも楽をしたい、というのは人間の持っているそれこそ自然のままの自然心であり、自然の欲求であり,仏教でいうところの煩悩である。
こういう自然の心をコントロールするのが人間の心の理性なわけであるが,21世紀に入ろうという矢先の我々、戦後50有余年を経過した日本のマスコミ業界に身を置く日本のインテリ集団においても、人間の基本的欲望を自らコントロールし得ないことのあからさまな現実である。
それともう一つこの問題に憂慮しなければならない事は、日本のマスコミ各社が一斉に同じ方向に洪水のように押しかけ、同じ対象を各社がまちまちに取材するという事である。
まさしくメダカの群れと同じで、何かの衝撃で皆が一斉に方向を変える様というのは、日本人の民俗性を極めて如実に表している。
我々,日本民族ばかりでなく,あらゆる民族,種族は、人間の基本的欲求を、理性とか知性でいくらかでも押さえ,人間の基本的欲求,欲望,自然心で事を処してはならない、という理想,理念で以って教育という物を行って来たはずである。
しかし,この現実を見るにつけ,日本のマスコミ業界には教育の効果というものが一向にあらわれていないように映る。
如何にももっともらしい言葉の羅列には秀でているが,その精神に於いては、人間の願望剥き出しで,自分さえ取材合戦に落こぼれなければ良とする風潮,潜在意識が見え見えである。
これはひとえに日本のあらゆる産業が過当競争を強いられているというところにも原因がある。
我々が過当競争に陥るというのは、これも自然の節理で,生きんがため、儲けるためには,何かの仕事をせねばならず,それには日本という枠の中ではもう既に全く白紙の領域というのは存在していないわけで,あらゆる業界で既に先人が開拓した領域しか残っていないわけである。
生きんがため既に存在している領域に食い込もうとすれば、勢い過当競争を展開しなければならないわけである。
各業界でこの過当競争を避けようとおもって、生産の調整をすれば談合であるとして糾弾され、行政サイドの指導を仰ぐと云うことになれば、規制と云う事になって、これまた時代の要請に反することになってしまうわけである。
まさしく我々の生存そのものが大きな矛盾を抱えているわけである。
その中で、人の死というのは厳粛な事実でしかないわけであるが,この事実を厳粛に受け入れなければ、という人間の意識の方は、時代が21世紀に差し掛かろうとする今日に至るまで、一向に進歩、向上,恐怖の克服というものが形成されていないわけである。
先に示したように、人が開発した技術,技能,物作りのノウハウというものは日進月歩の勢いで向上しているにもかかわらず,人間が死を恐れる恐怖心というのは、一向に克服されていないわけである。
よってそこの部分は宗教が穴埋めをして、いくらかでも「人は死ぬものである」という厳粛な事実を曖昧なものに言い換えようとしているわけであるが、今度はそれが死にかけの人間を生き返らせるという技術に対して邪魔になっているわけである。
自分は確実に死ぬという人が,自分の使える部品をまだいくらかでも生き長らえる人に提供しよう、という意思を表明し,そういう技術もあり,それを望んでいる人がいる限り,使える技術は大いに使って、少しでも有意義な人生を全うしたいというのであれば、こんな結構なことはないわけで,それを興味本位に報道するというのは、人の生存そのものと,人の善意というものを冒涜する行為だと思う。
マスコミ関係者は報道することが社会的に認知された行為だと思い上がっているが,報道される側に立ってみれば、それは迷惑そのもので、人の迷惑の上に成り立っているのがマスコミという存在である。
今,統一地方選挙の最中で,あらゆる政党が情報公開を公約しているが,情報公開もよくよく注意して吟味しなければならない。
言葉とその内容が乖離しているというのが日本語の特長で,言葉の含む意味を大きく解釈することによって、どういう風にでも解釈することが可能なのが我々の使っている日本語である。
今回の臓器移植の手術の際にも,マスコミ側のあまりにも執拗な取材合戦が臓器提供側の心象を悪くしたことにかんがみ,マスコミ側の自己批判の中でも、個人のプライバシーはあくまでも守らなければならないが,それでも尚且つこういう手術の進捗状況は公開されなければならない、という論旨が罷り通っていた。
情報公開の名を語って、自分の都合の良いところをのみを強調しているに過ぎない。この混沌とした日本が、その混沌から抜け出すことを目指した報道ならば,自分の臓器を有意な人に提供する、という健気な心を持った人が次ぎから次ぎに現れる方向に鼓舞宣伝をするのが報道の使命だと思うが,これも偏に単純に鼓舞宣伝をすると先の大戦中の軍国主義の二の舞になり兼ねない。
報道と云う事は、事ほど左様に我々は心してかからねばならない。