不審な船の徘徊

不審船の徘徊     H11・4・10,
去る3月23日,日本海において不審な船が怪しげな電波を発信しているということで日本の当局側に察知され,追跡劇が展開された。
その不審な船は日本の船籍の表示をしていたが,その同じ船が他の所で操業していることから不審船であることが判明し,追跡劇になったわけである。
しかし、結局のところ、その不審な船は北朝鮮の港に逃げ込んでしまったので,日本側では朝鮮民主主義人民共和国の船ということを確定した訳であるが、北朝鮮側は知らぬ存ぜぬで押し通している。
「盗人猛々しい」という事はこういうことを言うのであろう。
日本という国は四周を海で囲まれているので,こういう事態が起きることは常にありうるが,その割にはこの4つの島の中に生息している人々というのは案外そういうことに無関心である。
平和ボケという言葉のとおりで,自分の身に直接危害の及ぶ事がないせいか一向に感心が薄い。
主権が犯された、ということに対して一向に憤慨する様子がない。
北朝鮮の船が怪しげな電波を発信しているのがわかったのは23日のことであり,翌24日には追跡劇が始まったわけであるが,ここで問題になってきたのが、日本の行政の縦割構造の弊害が浮き彫りにされたわけである。
海上保安庁と海上自衛隊の所管の問題が浮上して来たわけである。
日本の現行の態勢から見れば、領海内であれば海上保安庁の所管になり,領海外であれば海上自衛隊の所管になるであろうということは我々,庶民でも想像がつく。
しかし,北朝鮮の船が何かの目的で日本の周辺をうろうろしている程度ならば所管争いしていても構わないが,これが緊急事態の時にそんな事をしていたとしたら憂慮すべき事といわなければならない。
今回の場合、海上保安庁の威嚇射撃で相手がすたこら逃走したから事なきを得たが,これが反撃をうけ、日本側の巡視船が沈没でもし,死傷者が出たとなれば、日本国中てんやわんやの騒動になるに違いない。
私が思うに,この騒動の中において,海上自衛隊の護衛艦は故意に相手の船を逃走させたのではないかと思う。
もし仮にこの船を闇雲に拿捕してしまったら、事後処理の問題がいっそう複雑になり,中国を始め韓国,アメリカをも巻き込んで4つ巴の大混乱を引き起こしかねない。
相手が逃げきってしまえば,それで問題は雨散霧消してしまい,「一生懸命追い掛けましたが逃げられてしまいました」で済んでしまう。
仮にこれを捕らえてしまったら最後,当然,事情聴取をせねばならず、その趣旨から、命令権者から、根掘り葉掘り聞き出さなければならず、その上国交もない相手に対して交渉もせねばならず、厄介至極な処理が待ちうけているに違いない。
逃がしてしまえばそういう七面倒な手続きはしなくても済む。
深追いを断念した理由が,日本の防空識別圏の外側に出てしまったので,これ以上深追いすると相手の反撃に合うかもしれない、という理由がもっともらしく言われているが,日本の国防ということを少しでも知っている人間にとって見れば、日本の防空識別圏というのは専守防衛の立場に立って、相手がこの線から入ったとき我々は注意を喚起しなければならないというもので,日本が不審な船を追いかけるときに何ら問題となるものではない。
深追いしすぎて海上自衛隊の護衛艦が相手国の防空識別圏を超えてしまうので追跡をあきらめた、というのならば納得できるが,日本の防空識別圏というのは、今回のような不審船の追跡に何ら支障をきたすものではないはずである。
こういうことを総合して考えると、海上自衛隊は故意に相手の船を逃がした、としか言い様がない。
状況としては一触即発の状況で,こういう判断が一番トラブルを避けるにベターな方法であった事とは間違いない。
昔のように,何でもかんでも軍事力に訴えれば事が解決するような時代ではないわけで.日本が如何なる状況に置かれても、軍事力の行使というのは慎重に慎重を重ねた上でなければそれをしない、ということを内外に示した良い例だと思う。
しかし,これは相手の立場に立ってみれば,日本に対して少々の主権の侵害をしても反撃されることはない、ということの証明でもある。
汚い言葉で言い換えれば「ナメられている」と言う事に他ならない。
昨今の日本人の感情,日本人の意識からすれば,少々ナメられたり馬鹿にされたりしても,武力は使わないほうがより良いという風潮であるが,これは全地球的視野で見れば、国威の失墜以外のなにものでもない。
「金持喧嘩せず」の思想は日本人の隅々にまで染みとおっている。
人の集団というのは、人と人との関係の上に成り立っているわけで,例え北朝鮮が共産主義に固執し,他の隣国との壁を立ちはだかった状態を続けようとしても,周囲の主権国家としては、その中の人々に無関心ではいられないわけである。
韓国,中国,日本,アメリカ等の諸国は、北朝鮮,朝鮮民主主義人民共和国の指導者を憎む事はあっても、その中にいる人々を憎んでいるわけではない。
指導者の政治の仕方,国の運営の仕方を憎んでいるわけであって,その中で生活している人々を援助するのに手を拱いているわけで、指導者がもう少しオープンに隣国の気持ちを逆立てないようにすれば、援助をするのにいささかも躊躇する気持ちはない。
日本にいて、マスコミの情報で考察している限り,北朝鮮,朝鮮民主主義人民共和国の政治指導者はいったい何を考えているのかさっぱり想像もつかない。
我々、北朝鮮から見て他国の人間は、北朝鮮の内情よりも、自らの危機管理についてもう少し深く考察する必要があるように思う。
不審な船が北朝鮮に逃げ込んだ事が明らかな事実にもかかわらず、知らぬ存ぜぬという態度に対して、もっとも怒りをあらわにしなければならない。
我々日本は、四周を海によって囲まれおり、これが一種の要塞のような機能を果たしていると同時に,入ってくる側にしてみれば開かれた玄関でもあるわけで,玄関の間口が無限に広いわけであり、出るも入るも極めて自由なわけである。
大昔から日本には大陸からいくらでも人は流れ着いたわけで,それが日本の文化の底流を成している事は周知の事実である。br> これは逆に言うと,如何に日本にとって危機管理が困難かということでもある。
自分の庭先を土足で踏み躙られても,一向に怒りが込み上げてこない体たらくな人々であれば,こういう主権の侵害に対して無関心でいられるかもしれないが,やはり民族の誇りというものがあるとすれば、そのままでは済まされないというのが人間としての本音ではなかろうかと思う。
人々が本音と本音をぶつかり合わせれば,そこに平穏はあり得ない。
人として理性を備えた人間ならば、自分の本音を押さえ,我慢し,自らの欲望,願望というものを、知性とか理性というもので押し殺すところに他人への愛というものが有るように思う。
主権というものが近代国家の存立の基準になっているとすれば,主権侵害ということを露骨に忌諱する事がありていの姿である。
我々はそれをせずにへらへらと笑っているようなものである。
「金持喧嘩せず」という俚諺は、ある意味で人命尊重にもつながっている。
誇りや,面子で命を失うよりも,金を払ってその場の危機を回避した方がどれだけ有利というよりも、生き長らえるための術として有効という事がいえるかもしれない。
しかし,誇りや面子というのは、人間の最低の生存の意義でもあるわけで,誇りや面子を失ったが為に生きる意欲を失う人、というのは世間に掃いて捨てるほどいるわけで,この二つが人が生きる上で精神の糧になっている、という面も同時に考えなければならない。
我々は誇りも面子もいらない,とにかく金だけは出すから主権侵害になるような事だけはしないでくれ、ということはただただ,生物の一員として生きているというだけの事で,人間としての尊厳というものを喪失した烏合の衆の集まりとしか言い様がない。
地球上に住むあらゆる民族は、ある程度、自らの民族の誇りというものを持ちながら生きているわけで,ただ食い物を食って,糞をして、寝るだけの生き様をしているわけではないと思う。
人類が今ままで戦争を延々と繰り返して来た事実というのは、ある意味で民族の誇りと面子の誇示にほかならず、民族の誇りと面子が犯されて時には必ず戦争という手段でそれに対向して来たに違いない。
どちらにしても、主権国家の領海に入って、何やら訳のわからない行動をするというのは主権国家の主権を侵すものである。
このとき,主権を侵犯された側の官憲のいうことを素直に聞き入れて、停船するなり,臨検を受けるなり,筋の通った釈明をするのならば,何も問題はない。
広い海の上で、船が航行不能になるということは太古からままある事で,何ら不思議ではないが,それを装って、何か良からぬ行為をしようとしているとしたら、官憲が迫ってくれば逃げざるを得ない。
今回の場合はこういうケースの極めて具体的な例であったわけで,不審な船というのは、停船命令に従って検査を受けると都合が悪い事をしでかしていたに違いない。
だから,日本側の追跡を振り切って北朝鮮の港に逃げ込んでしまったわけである。
北朝鮮の港に逃げ込めば、その不審な船は北朝鮮の船であろう、と誰でもが推測するが,北朝鮮側は知らぬ存ぜぬという回答である。
これはまさしく日本という国家主権を愚弄する言葉としか言い様がない。
世が世ならば、戦争の原因となるあきらかな挑発行為である。
実力行使をせざるをえない状況を先方が作り出している事になる。
金日成が死んで金正日になって何年も経つのに,北朝鮮の状況と言うのは一向に良くなったという兆しが見えてこない。
ミサイルを飛ばしたり,核開発を画策したり,世の顰蹙を買うような行為ばかりが目に付くが,彼らにしてみると、それが彼らの存在意義のようで,そういう顰蹙を買うような行為をする事によって援助を引き出そうという魂胆が見え隠れしている。
ちょうど、手を引かれた幼子が、母親の関心を引こうとして道端で大暴れしているようなもので,そうする事によって自分の願望を通そうとする行為に似ている。
母親と幼児が連れ添って歩いているとき,幼児が自分の欲求を通そうとして大暴れるすると,母親の方は世間体やら、幼児をなだめなければ、という親心から妥協せざるを得ないわけで,それを目当てに子供が道端で大泣きしたり大暴れする行為と全く軌を一つにしている。br> この件は不審な船が無事?北朝鮮の港に逃げ込んでしまったので、ある意味で何のトラブルもなく終わったわけである。br> 日本の領海がほんの少し侵犯されたという事で、双方に人命に関わるようなトラブルもなく終わってしまった。
後に残ったこといえば,我々の側の危機管理の曖昧さというか、緊張感のなさというか、マスコミを喜ばせたというか,とにかく何一つ残らなかったわけである。
我々の国というのは四周を海で囲まれているので,ある時はそれが独立国としての尊厳を維持するのに有利に働く事もあるが,逆に国境線など無い等しい、という状況に陥る事もある。
もともと我々には国境という概念が無い。
だから主権の侵害ということに関しても緊張感が全くないわけで、少々領海が犯されたぐらいでなにも人的被害がない以上、そう大騒ぎする必要などない、という発想である。
ジンギスカンのヨーロッパ遠征とか,ナポレオンやヒットラーのモスクワ攻略とか,アメリカ大陸の西部開拓という人為的な他民族圧迫という歴史を経験していないわけである。
近代に入って、西洋列強の仲間入りしたつもりで,帝国主義による富国強兵を夢見て植民地経営を試みてみたものの,歴史に根ざす経験が不足しており,あまりにも他民族を抑圧するには人が良すぎて、逆に恨みを買ったのが昨今のアジア諸国からの戦争の謝罪が不足しているという言辞である。
地球規模で眺めた場合、我々,日本人というのは、あくまでもアジアの辺境の4つの島に生息する温厚な民族で,人のいうことはなんでも受け容れてくれる、非常に有り難い、頼りになる,井戸の中の蛙的な人畜無害な民族である。
しかし,そういう人畜無害な我々の側から主権の侵害ということを見てみると,我々には主権の存在そのものを意識していない節がある。
これは戦後の日本人,我々の同胞が、アメリカの押し付けた民主主義というものを自分達で良く吟味もせず、金科玉条として有り難がって,何事に対しても免罪符として民主主義とか、民主化という言葉を使っているのと同じで,自分が息をしているのは自分だけの力であると思い込んでいるところにある。 自分だけ何もしなければ世の中は平和であると思い込んでいる。
何かをされても反撃しなければ世の中の平和は維持されると思い込んでいる。
自分さえ暴力を振るわなければ相手は何もしないと思い込んでいる。
北朝鮮の船が日本の近海でおかしな事をしていても、実害が無かったので追っ払うだけで由とすると言う事は、こういうことだと思う。
このことは軽微な法律違反に対して見て見ぬ振りをしているということに等しい。こういう発想は、我々日本人の一番得意とする発想で,役所に提出する書類で捺印すべきところに捺印が無く,書類が受理されないと、自分の不手際を棚に上げて、役所は融通が利かないという言い草に現れている。
民主主義の基本は、自分で規則を作り,作った規則は自ら率先して従い,規則に反した場合は素直に罰則に従うという事である。
これが3権分立の基本的意義のはずであるが,我々,日本民族というのは、大昔から談合体質が抜けきれず,話し合いで事を決める前近代的な特質を改善できずにいる。
民族の特質というのは、現代の科学技術でも変えることが出来ず,そこに住み続ける限り、民族の特質というのは変化することなく存在しつづけるに違いない。
こういう唯我独尊的な平和思考は、我々の民族が四周を海という要崖で囲まれているが故の思いあがりというか、認識不足というか,楽天的な思考である。
大陸に住む人々の発想というのは、こういう楽天的な思考には至らないわけで,隙あらば相手に少しでも食い入ろうというしたたかな発想である。
現実に日本の官憲に追われて北朝鮮の港に逃げ込んだ船に関し,知らぬ存ぜぬで押し通す態度と言うのは、したたかとしか言い様がない。
北朝鮮が核兵器を開発しようとし、ミサイルを飛ばし,その開発が現実のものかどうかという事実を見せることなく,相手国,アメリカなり,日本なり,韓国から援助を引き出そうという発想など、自分の弱さをバネにして、相手から自国の国益を引き出そうとするものに違いなく,こういうしたたかな発想というのは、まさしく大陸に住む人々の特質である。
我々日本人は、こういう場合には極めて淡白で,その天性の楽天的発想がメダカの方向転換的な様相を呈してしまう。
現行の日本国憲法というのも、日本の自主性に根ざした憲法という事になっているが、その実、裏の画策を考えると、明らかにアメリカ,マッカアサーの思惟による憲法である。
ある意味で、紛れもなくアメリカから押し付けられた憲法であることが歴然としているにもかかわらず、この憲法が戦争を放棄しているため,これが平和憲法の真髄であり,これさえあれば日本は戦争に巻き込まれることはない、という妄想から抜けきれていない。
しかし,戦後50有余年、日本が戦争に巻き込まれずにやってこれたのは、日米安保条約の賜物であることは間違いない。
これがあるから日本の官憲に終われた北朝鮮の不審な船は逃げ出したわけで,これがなければあきらに反撃に転じているに違いない。
戦後の日本が一度も戦争に巻き込まれなかったというのは,日本にちょっかいを出せばアメリカがしゃしゃり出てくる、という日米安保があるからであって,これが無かったらアジアの周辺諸国は必ず日本に何らかのちょっかいを出していたに違いない。
今回の事件も北朝鮮側はそれを見ているわけで,こういう状況にてらして、日本が独自の危機管理というものをしているとしたら、恐らく民族の誇りが北朝鮮の船を逃がすという事にはならなかったに違いない。
日本の現状というのは、アジアの周辺諸国から見れば、アメリカの属国として映っているに違いない。
しかし,このことは逆に、日本がアメリカの属国であるからこそ、アジアの周辺諸国は安心して日本にものが言えているという事でもある。
日米安保というもので、日本はアメリカの家来になっているからこそ、日本の行動が管理されているのであって,アジア大陸に住む人々から見れば、日本がアメリカの手綱を説き放たれた暁には、枕を高くして眠れないに違いない。
こういう状況というのは,アジアの歴史の中に今まであり得なかった事実で,今世紀の末になって始めて顕在化した大きな歴史のうねりであったわけである。
第2次世界大戦という未曾有の大混乱で、日本は完璧に破壊され尽くしたものが、その後50年という歳月の間に、それ以上の発展をしてしまったわけで、まさしくスクラップ・アンド・ビルドされたわけである。
こういう状況下に置かれた日本は、アメリカの属国に成り下がったことは致し方ないが、だからと言って、日本が再びアメリカの頚木を脱し、この地球上で自主性を発揮するようなことになれば、それこそアジアの周辺諸国の人々は恐怖におののく事になりかねない。
日本は確かに目下のところ武器を製造していない。
原爆もミサイルも開発していない。
核開発も原子力発電以外のものはタッチしていない。
しかし、北朝鮮が開発しようとしているようなものは、今の日本ならばすぐにでも出来るわけで、先の戦争の際においても戦艦大和を作り、ゼロ式戦闘機を作った我々であるから,今の我々ならば何時でも平和産業を軍需産業に切り替えることは簡単な事とである。
我々のそういう潜在能力というのは実に恐ろしいものがあり,日本はいざとなったら何をやらかすのか、我々自身も皆目検討もつかないところがある。
先の戦争も、ある意味でABCD包囲網による締め付けで、我々は国民的パニックに陥り,自暴自棄に陥った結果だと言える。
こういう状況にずるずると落とし込むテクニックというのは、西洋列強,特にヨーロッパの人々のしたたかなところで,それにまんまんと嵌るのが我々,日本人の浅はかで、思慮に欠けた、熱しやすく冷めやすい軽佻浮薄なところである。
本日,4月18日のNHKの日曜討論を聞いていたら,日米安保条約が改定されて39年経ったと言っていたが,この日米安保条約に準拠して、日本が独自の軍事力を持たずにここまでこれたというのは,日本にとってもアジアの周辺諸国にとっても実に有り難いことであったわけである。
日本がもし仮に独自の軍事力を持ち,昔の大日本帝国のような国家になっていたとしたら,日本の周辺諸国は枕を高くして眠れないに違いない。
日本の周辺諸国のみならず,アメリカも、旧ソビエット連邦も、中国も日本に対する警戒をおさおさ怠りなく監視しなければならない。
日米安保条約というのは、こういう効能もあったわけで,このお陰で日本は軍備費というものに金をかけずに経済発展が出来,周辺諸国は枕を高くして眠れたわけである。
日本が独自で自国の防衛をするという事になれば、我々は今のような安逸な生活は期待できないし,アジアの周辺諸国は日本に対してものを言うにも気つけてしゃべらなければならなくなる。
ましてや戦争中の補償をうんぬんすれば、それこそ高価なしっぺ返しが来ることは必然で,日本を金つるとは到底思えない状況になることは火を見るよりあきらかである。
先の4月11日の統一地方選挙で、東京の都知事に石原慎太郎氏が選出されたが,彼の説によれば、日本は独自の軍備を持って、アジア周辺諸国に対してももっと毅然たる態度を取るべしという論理である。
今の日本はアメリカの属国に成り下がっているから、もっともっと日本の自主性を前面に出すべきである、という論理で彼は政治というものを考えている。
私が昨今の日本の政治を見ても,彼の言う通り,確かにアメリカの属国ではないかと言う感は免れず、我々は日米安保の中でぬるま湯に漬かったような生き様を見るにつけ、そういう風に取られても致し方ない。
北朝鮮の船が日本の領海内でこそこそしていても、それを拿捕も出来なければ沈没させることも出来ず、みすみす逃がしてしまうという面では、確かに不甲斐無い生き方に違いない。
これでは石原慎太郎氏が切歯扼腕するのも無理のない話で,実に情けない有り様といっても過言ではない。
地球規模で眺めた場合、こういう態度が一番軽蔑をされる態度ではないと思う。
我々の行為はあまりにも八方美人的で、誰をも傷つけることなく,見て見ぬ振りをするに等しく,最後には札束で解決しようという態度が他の国の人々には丸見えであるし,そういう態度が一番軽蔑される行為でもあるわけである。
ベトナム戦争華やかなりし頃,べ平連・ベトナム平和連合とか何とかいう組織があって、アメリカの逃亡兵をかくまうことをしていた。
戦線が怖くて敵前逃亡する兵隊というのは何処の軍隊にも少しはいるものであるが,こういう人間というのは何処の国でも弱虫というレッテルが張られ,軽蔑され,卑しまれ,蔑まれるものである。
ところがその当時の日本の知識人というのは、こういう人間をさも英雄かの如く扱って、逃亡の手助けをしていたわけで,これはまさしく日本の常識が世界の非常識で、世界の非常識が日本の常識に成り代わっている現実の姿であったわけである。
こういう価値観の逆転の中で,我々,日本民族というのは、自分さえ良ければ他のすべてが犠牲になっても構わない,自分さえ良ければ他がいくら迷惑をこうむっても預かり知らぬ,金は出すから命だけは助けてくれ、といっているようなものである。
こういう生き様が世界から受け入られるわけがない。
で,地球上の日本以外の国というのは、こういう日本であるからこそ、生かすことは生かしているが、取れるものは何でも取ろうという魂胆で,その手始めに、金を毟り取る算段をしているわけである。
考えて見れば,日本の海岸から日本人をさらっておいて,飢饉だから食料を援助してくれだとか,核開発を止めるからそれに見合う金を出せだとか,ミサイルの輸出を止めるからその代金を出せだとか,こういう馬鹿げた要求を臆面もなく出して来るということは、我々が如何に嘗められているかということに他ならない。
こういう相手の言い分に、我々の側では、人道上という大儀をかざして応えようとするわけで,そこでまたまた相手をつけあがらせてしまうわけである。

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