平成11年(1999)のゴールデンウイークは家内と娘は海外旅行で不在であった。
私も一緒にいくように誘われたが、まだ国内もろくに見ていないのに何故海外にまで行って恥を晒さなければならないのか、というわけで頑として拒否しつづけた。
それで家にいても手持ちぶさたで、する事もなく、外は見事な五月晴れなのだからこれはもったいないと思い、家の近所を散策する事にした。
近所といっても、犬の散歩程度ではなく、以前家の傍の川の源流を確かめた事があるので、それに再度挑戦しようと思って外に出た。
小牧の川向の家に住んでいたとき、すぐ裏手を大山川という川が流れており、その源流を突き止めたくて、流れに沿って溯っていった事がある。
結局、その源流は中央道の小牧東インタ―チェンジの傍の小さな池であった。
今回は、その源流はもう解ってしまっていたので、そう気負い込んでいく必要も無かったが、家を出る以上、某かの目的が無い事には張り合いがないので、一応そういう目的で家を出た。
こういう散策もガンを患ってからは久しぶりで、以前に比べると体力の衰えを感じずにはいられない。
で、今回は大山川に出るまで、東海ゴム工業の脇の住宅地を通り抜けて川に出てみた。
この住宅地というのがいっこうに代わり栄えのしない町で、道はくねくねし、その上道幅も極端に狭く、乗用車もすれ違えない狭さである。
そのごみごみさといったらない。
全く区画整理がなされておらず、一旦火事にでもなったら消防車も入れない。
この有り様は20年来変わる事のない状況である。
この狭い町を通り抜けると大山川の堤防に出る。
大山川に出たら、その右岸を上流に向かって歩き出した。
子供の頃から見慣れて風景であるので特別な感慨はない。
ただただ一目散に前を見て歩いたわけであるが、東名高速道路の下のガード辺りに、いつもはもっとゴミが散らかっていたような気がするが、本日はいくらか少な目であった。
その代わり、大きな看板が出ており、「この辺りにゴミを捨てるとゴミの中身を調べて氏名を公表し罰せられる」と言う旨表示してあった。
ゴミを不法投棄するという行為は全く困ったものだ。
自分の所で出たゴミを道端とか、野山に棄てるという行為は厳重に罰すべきである。
しかし、これもなかなか難しい問題で、ゴミを選別しなければならない行政の在り方にも多少の問題はあるが、その前にやはり我々の側のモラルの問題が先だろうと思う。
人さえ見ていなければ何をしてもかまわない、というモラルの低さというか、自分さえよければ後は野となれ山となれ、という無責任な行為というのは厳重に処罰すべきである。
野山に棄てられた不燃物の類のゴミは、最後は行政の側で処分する事になり、それは行き着く所、税金の無駄使いという事になる。
住民と行政の関係で言えば、本当はゴミの処理というのは、行政の側が責任を持って行うのが筋ではないかと思う。
我々、一般市民というのはその為に税金、地方税というものを納税しているわけで、一般家庭で出るゴミというのは、基本的には行政が責任を持って処理すべきではないかと思う。
ところが昨今では、一般家庭から出るゴミが当方もなく多量で、その上プラスチックが多量に含まれているので焼却処分をするとダイオキシンの発生が懸念され、その為に家庭から出るゴミを極力少なくし、再利用できるものは出来るだけ再利用し、焼却処分するものはダイオキシンの発生の伴わないものを分別しましょうという事で、ゴミ一つ出すのにも市民の方で行政に協力しなければならない。
行政と税金の関係から言えば、こんな事は本来行政の側で知恵を出して解決すべき事で、市民の側に協力をさせる、という事は筋が通らない事だと思う。
ならばその分の税金を返せといいたくなる。
しかし、野山に不燃物を棄てるという行為は、こういうノーマルな発想の埒外で、人間としてまことに恥ずべき存在である。
そんな事を考えながら、このガードをくぐり、三菱重工の脇を通り、更に上流に歩いていった。
重工の前の道路を地下道で潜り抜け、さらに歩いていくと プロパンガスの充填所があり、これは以前のままであるが、この近辺も大きく変わり、もう工業地帯の感がしてくる。
私の子供の頃は、この辺りまで自転車で遠征して、川遊びに興じた場所であるが、その頃は東西南北どちらを見ても水田で、わずか40年足らずの間にこれほど変わるとは想像も出来なかった。
川の上流に向かって右側はまさしく工業地帯で、大きな工場が建ち並んでいる。
目下、日本経済は停滞中で、世の中は不景気風が吹きまくっているが、私の観測では、もうバブル崩壊の打撃からは立ち直りつつあるように思う。
このあたりの工場も盛んに設備投資をしている所を見ると、景気が徐々に上昇気流に乗りつつあるように思う。
ところが世間一般では、まだまだ不景気、不景気と叫んで、購買意欲を削ぐような発言が多いが、産業界という所は自分の実績を良く言う人は珍しく、誰でも控えめ控えめに言うものだから、景気回復がまだ先のような印象を受け勝ちである。
それにマスコミが提灯持ちの記事を書くものだから、ニュースとしては不景気な記事ばかりが出回る事になる。
不良債権の事から金融機関の問題が大きく影響している事は否めないが、物作りの現場では、もうとっくにバブルの崩壊というショックからは立ち直っているというのが私の観測である。
製造業が、こういう元の水田地帯に次から次へと工場を立てていくのは一見頼もしいような気もするが、その反面、水田という風景が壊されていく事でもあるわけで、人間の進歩と自然破壊との接点である。
そんな事を思いながら太陽のさんさんと照っている川べりを歩いていくと、木曽川の水を名古屋市に送る上水道の上にきた。
私の子供の頃は、これも雑草の生い茂ったのあぜ道のようなものが何故作られたものなのか長い事不思議であった。
しかし、それが木曽川の水を名古屋市に送る上水道と解ってしまえば大いに納得できたが、今、この施設はきれいな遊歩道となり実によく整備されている。
一度、この遊歩道を何処までもたどっていってみたいと思いながら通り過ぎた。
なおも歩くと、池ノ内という集落に近づいてくるにしたがい、右側にコンクリートの工場が2,3建っていた。
ここでもふと疑問が湧いた。
日本の産業というのはあまりにも過当競争が激しいのではないかという事である。
過当競争が激しいというよりも、少々儲かりそうな事業と思われると、洪水のようにその業種に資本投下が殺到するといった方が正しいのかもしれない。
その事実が結果として過当競争を引き起こしているのかもしれない。
この地区だけでも2社も3社もコンクリート工場が乱立しているわけで、これでは過当競争にならざるを得ない。
資本主義、自由主義経済の中で、儲かる事に人が群がる現象というのはある意味で自然の成り行きではあるが、洪水のように群がるというのは、我々、日本民族が置かれた宿命かもしれない。
あまりにも単位面積当たりの人口密度が高すぎて、その集中の度合いが顕著に表れすぎるのかもしれない。
逆にその事が日本がこれまで発展してきた原動力であったのかもしれない。
そんなわけでコンクリート工場を右手に見ながら、なおも歩いていくと、川が道路と平行になるところに出てきた。
そして、桃花台から下ってきた道路とクロスする地点に出た。
字の名前は知らないが、此処はいつもいつも車で通過する場所でよく知った所ではある。
で、この場所には、おそらくバス停があったはずだと思い、道路沿いを少し調べたら果たしてバス停はあった。
しかし、このバス停に止まるバスというのは一日に3本しかない。
こんな馬鹿なバス路線というのも考えられない。
これではバスが通っていない事と同じではないか。
この道路のもう少し先、山に近寄った所には野口大山という集落があるはずで、以前はその集落まで一日に何本ものバスが運行されていたように記憶する。
それを当てにして歩いてきたのに、バスがなければ、この先、低い峠道を超えて入鹿池に出、明治村経由で帰るか、またもとの道を帰るか迷ったが、この交差点にたっていた道路標識を見ると明治村まで5km、桃花台まで1km、となっていた。
迷うことなく桃花台へ歩くことにした。
というのも、桃花台のピーチライ−ナーというものに一度乗ってみるのも悪くないと思ったからである。
で、この交差点から丘の上に向かって歩き出したが、自動車の通る道を歩いても仕方がないので、集落の中にある田舎道を選んで歩いた。
集落の中といっても、昔のように如何にも田舎の家という感じの住宅は全くなくて、その大部分が昔の言葉で言えば長者ドンの家のような立派な家ばかりである。
日本はまさしく貧困というものを絶滅してしまって、日本全国何処に行っても中産階級ということは言えていると思う。
農村がこれほど豊かになったのは、その根底のところに、50有余年前にマッカァサーが行った農地改革の賜物である。
しかし、今その事を強調する人が全くおらず、農村の今日あるのは、あたかも農村自身、農民自身の努力の結果だと思い込んでいるが、それ以前の農村では農民自身が努力をしても、その努力の結果を享受するシステムがなかった、という過去の事実を忘れている節がある。
地主と小作という封建制度の中では、農民の努力はそのまま実にならなかったわけで、その制度をマッカアサーというアメリカ人が木っ端微塵に粉砕したからこそ、今の農村の豊かな現実があるわけである。
今の日本で、こういう観点で日本の経済を語る人が全く居ないと言うのは一体どういう事だろうか。
日本の農民は有史以来、恵まれた環境で生きてきたとでも思っているのであろうか。
そんな事が頭の隅をかすめてはいたものの、この豊かな農村の中を歩き、桃花台団地の縁にたどり着き、ここから団地の中に入り込んで住宅地の中を歩いた。
しかし、これが大失敗で、団地の中の道というのは、昔の城下町と同じで、道が一直線になっていない。
鍵の手、クランクの連続で、目標になかなか近づけない。
ここの目標と言えば、遠目にも鮮やかみえる高層マンションの存在で、よくもこんな田舎にこれほどの高層マンションを作ったものだと感心する。
要らぬお節介であるが、これで採算が合っているのかどうか他人事ながら心配である。
住宅地の中をあっちに行ったりこっちに行ったり、散々迷った挙げ句、やっとユニーに辿り着いた。
此処のユニーも何度となく買い物にきているので、今更店の中に入る必要もなく、ピーチライナーの駅で、自販機の飲み物を買い、一息いれ休憩した。
此処まで歩いて約2時間半ぐらいの時間が経っていた。
不思議なことに、このピーチライナーの駅というのは地下になっていた。
土地の起伏の激しいところでは往々にしてこういう事があるが、私の知るピーチライナーというのは、いつも高架の部分しか見ていないのでどうにも違和感が拭い去れない。
私の人生で一番最初にこういう違和感に気がついたのは東京の渋谷駅であった。
うん十年前、最初に渋谷というところに行ったとき、地下鉄の駅が建物の3階にあったのには驚いた。
ガンを患って月に一度上京している今、新橋から出ているユリカモメという新交通システムを2,3回利用した事があるが、それとこのピーチライナーは全くの類似品と言ってもいいくらいよく似た交通システムである。
ただ違うところはその利用者の数である。
この新交通システムは決して黒字になることはないに違いない。
ユリカモメの方は東京という土地柄、利用者の数がこことは雲泥の差で、システムが同じである以上、その採算性は利用者の数で決まることは必定である。
なにも東京と競争する必要はないが、採算が合わない事業はいずれ淘汰されるに違いない。
このピーチライーナーもその懸念は最初からあったわけで、そのため第3セクターで運用されているが、第3セクターであればこそ、採算が合わなければ税金が投入されることになるわけで、結果としてこの事業は失敗であるということになる。
もともとこの桃花台の開発ということに無理であったわけで、行政が高度経済成長の波に乗り遅れまいとしたあがきであったわけである。
この地域というのは、代々、濃尾平野の中でも不毛の土地であったわけで、利用価値のある土地はすでに水田として利用され尽くしており、その残りの何にも作物が出来ないところという意味で、果樹園として開発された土地であったわけである。
しかも土地の人はすでに見放した土地であったので、それを開墾するのに満州から引き揚げてきた人々に割り当てられたわけであり、稲作が出来ないものだから、果樹園や牧畜業でしか成り立たなかったわけである。
そういう土地を一大住宅地にしようとすれば、まず最初にしなければならなかったことは、公共交通手段を既存の都市と直結しなければならなかった。
ここで小牧という土地柄の狭量な発想が物を言ったわけで、そのためこういう無様な結果を招いているわけである。
私が以前聞いた噂では、このピーチライナーを既存の町、たとえば名古屋とか、春日井とか、岩倉に直結すれば、人がそちらに流れ、小牧の町が潤わない、だからこの新交通システムを小牧止まりにするというものであった。
ニュータウンの住民に小牧で買い物をさせよう、という狭量な発想が桃花台の魅力を半減しているわけで、勢い、この陸の孤島に住む住民は車に頼らざるを得ない。
車で出かけるとなれば、小牧も、春日井も、名古屋も、岩倉も同じ条件になってしまうわけで、誰もこの新交通システムを利用しないということになってしまう。
車に乗れない年寄りか児童になってしまうことは火を見るより明らかである。
利用者が少なければ当然それは運賃にも跳ね返り、運賃が高ければますます利用者が居なくなる、という悪循環を呈することになり、現実にそうなっている。
システムそのものは東京の新橋と有明けを結んでいるものと同じである。
こちらを先に経験してしまった限り、なにも珍しいものではないが、高いところから見る我が故郷の光景というのもおつなものである。
ところが、この風景というのは、私が幼少の頃に見た光景とは雲泥の差で違ってしまっている。
我が子供の頃のこの辺りの風景というのは、どちらを見ても水田であり、小牧の町がそれこそ城下町として、その一角に集合していただけのものが、今は四方八方、工場と倉庫だらけで美観の観点からすればまことに無愛想な風景になっている。
窓の外を見ながらそんなことを思っている間もなく小牧駅に着いてしまった。
で、小牧の街を久しぶりに歩いてみようと思ったわけであるが、いつもは車で素通りするだけの町であるが、此処は紛れもなく私が育った町である。
しかし、その変わりようといったら筆舌に尽くし難いほど変わってしまって、昔の面影というのは微塵も感じられない。
小牧駅そのものが大きく近代化してしまって、駅の移転ということもあり、それと駅ビルが重なり合って、昔の面影のかけらも感じられない。
昔、乗り降りした時には如何にも停車場という雰囲気が濃厚で、田舎の駅という感じがしたものであるが、今では新興都市の感が強い。
しかし、小牧という街は新興都市ではないはずで、由緒由々しき歴史ある町のはずであるが、そういったものは全く感じられない。
駅を出て西に歩く遊歩道に、犬の銅像ようなモチーフが備えてあり、それには小牧に伝わる吉五郎キツネの像となっていたがこんな伝説は子供の頃聞いたこともなかった。
私が知らなかっただけかもしれないが、それよりも後世に残すべきものとしては、小牧の祭礼の山車を残しておくべきである。
小牧の行政担当者は実に不勉強というか、時代を先取りする才に欠けており、桃花台の開発にしろ、祭礼の山車にしろ、時代を先読みする能力が欠如している。
小牧には戦前から旧制中学があり、今これは小牧高校となっているが、これは濃尾平野の中でも数少ない知的機関であったはずである。
その伝統ある卒業生が沢山この近辺にはいるはずにもかかわらず、こういう馬鹿げた発展しか出来なかった、というのは地元民の不徳のなす仕業とした言いようがない。
駅から西に向かって 小牧山の方に歩くと、正面にイトーヨーカ堂があり、これも1,2度来たたことがあるので 寄ることはやめ、町中を歩くと、旧の商店街というのはそのほとんどが様変わりしてしまっていた。
子供の頃、同級生の親がしていた店というのは全部なくなってしまって、所々に商売替えをしていない古ぼけた店が残っているという感じである。
町名も変わってしまっているので今はどう呼ぶのか知らないが、旧の横町にあった店が全く見当たらない。
何となく残っているのはお寺ぐらいで、そのお寺も、場所が変わっていないというだけで、建物そのものは近代化された立派なお寺に生まれ変わってしまっていた。
昔、ハリーと名づけられた飼い犬を連れて散歩した町並みは何処にもなかった。
この町を通りすぎる頃にお宮さんがあったが、この神明社のみがかろうじて昔のままのたたずまいを残していた。
このお宮では、お祭りのときに各町内の山車が4台そろって、その山車の上でからくり人形の技を競い合ったものであるが、こういうものの保存を怠った小牧の行政というのはまったく話にならない。
神明社を過ぎると小牧山の南を通る道に出るわけであるが、この道は車で通る事はあっても歩くということは実に何10年ぶりかの事である。
だからわざわざ裏道を歩いて小牧中学校の東門の方に回ってみたが、これが通行止めになっていた。
正門に回ってみると、中学校の校舎そのものが存在していなかった。
ユニーの南側に新しい中学校がで出来たことは承知していたが、それがもう跡形もなく消え去っているということは大きな驚きであった。
私はこの学校の卒業生ではないが、この学校に関して、その開校の前から知っている。
この学校は終戦直後、アメリカ軍が小牧の飛行場に進駐してきた際、その滑走路を拡張するために小牧山の土を掘り、その掘った跡地を利用して作られたものである。
この工事の際活躍したのがアメリカ軍の軍用トラックで、それもダンプカーで、こういう建設機械というのは、その当時の日本ではまだ見る事も出来ない代物であった。
作業の合理化という点で、子供心にその合理性に驚いたものである。
今でこそ日本全国どこでも見られるダンプカーであったが、この当時の日本にはまだこういうたぐいの建設機械というのは存在していなかった。
小牧山で土を掘る作業をしていた建設機械には、その他にパワーシャベルという機械も大活躍していた。
これも目新しい代物で、私が遠くからこういう機械で行う作業を見守っていたが、子供心にも、これではアメリカと戦争すれば負けるのも当然だ、と妙な納得をしたものである。
その当時、日本では自動車といえば木炭車であり、土の運搬はトロッコかモッコであり、鋤と鍬、乃至はシャベルしかなかった時代である。
この時私はまだ小学校にあがる前で、わずか6歳か7歳のときであったが、この建設現場でアメリカン・ドリームというものを垣間見た感じがしたものである。
その作業には負けた側の我々の同胞が従事していたのを見て、今まで鬼畜米英と言っていた者が、一夜開ければアメリカ人の奴隷のように働かされているのを見て、敗戦の悲哀というものを肌で感じた思いがした。
ところが、ここで働いていた日本人というのは、その当時の日本人よりも良い給料を取っていたわけで、進駐軍で働くということは、ある種のステータスでもあったわけであうる。
今まで鬼畜米英と言っていたものが一夜にしてアメリカ軍に媚びを売る有り様を見て、世の中の矛盾というか、庶民のたくましさというか、人の心の移ろいを見る思いがしたものである。
そうして土を掘った跡に出来た学校であるので、其処では新しい民主主義の教育が十分に行き渡ったに違いない。
その結果として、小牧の発展は時代遅れのものとなり、伝統は廃れ、ちぐはぐな町が出来上がったわけである。
この中学校の前にあったユニーも、いつのまにか解体されて跡形もなかった。
このショッピング・センターも閉鎖するとは聞いていたが、まさしくスクラップ・アンド・ビルドである。
小牧山のほうといえば、中学校の体育館を市の剣道場として利用しているらしく、そこだけ残されていたが、ここを通って市役所の裏に出てみた。
この小牧山に関しては我が家の庭ほど熟知している思いがする。
幼いころから私の遊び場で、隅から隅まで知っているつもりであるが、ここに市役所が移ってきたころから縁が遠くなって、あまり近寄らなくなった。
特別な理由があるわけではないが、私が大人になって、子供の遊びを卒業したからに他ならない。
そんな訳で小牧山は中腹まで行って、そこから折り返してきてしまったが、駅に向かう途中、昔の我が家のあった所を見てきた。
不思議な事に、私がいたころ既に老朽化の極みを経ており、もうこれ以上建ってはおらないだろうと思われて家が、未だに建っているのが不思議でならない。
そして、昔、淡い恋心を抱いた女性の家を見て帰ってきた。
その女性とは私が結婚してからというもの一度も会わず、話もした事がないが、幸せに生きていたもらいたい、と念じつつ家を見るだけで帰ってきた。
こうして今年のゴールデン・ウイークの初日は終わった。