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OK牧場の決闘

OK牧場の決闘  2003.5.27

これも古い映画で、かって見た記憶があるが、それが劇場で見たのかテレビで見たのか定かに記憶がない。
しかし、ストーリーの流れをきちんと記憶しているところを見えると、その時から相当に印象に残っていたものと思う。
というのも、昔、何かの本で読んだことが頭の中に残っていたからである。
それは保安官ワイアット・アープは、保安官であると同時に裏ではギャンブラーの胴元をしていたということが頭を去らず、悪徳警官のイメージが沁みついて、そのモラルというものにいささか疑問をもっていたからである。
モラルというよりも、保安官という人を取り締まる立場と、ギャンブラーという裏稼業が
癒着しているところになんとも割り切れない気持ちがあった。
この頃の私は若くて純真で、世の中の機微というものを真に理解することのない青二才であったわけだ。
ところがそういう私が、今は、民衆の賭博に対する射幸心と、それをどこまで許容するのかというモラルとしてのバランスというか、そのあたりのさじ加減の兼ね合いというのが、理解しえる寛容さをもったわけで、だからこの映画の場合、その微妙なバランスの上に立った駆け引きが非常に面白く感じられる。
それが男と男の友情で繋がっているところが非常に面白いと思った。
そして、その基底に流れるテーマとしては、日本の清水の次郎長や国定忠治の浪曲や講談に流れている義侠心に相通じるものがある、ということを鮮烈に思い出させる作品である。
このワイアット・アープとドク・ホリデイーの関係において、ドク・ホリデイーの役柄は日本の時代劇でいえば、平手造酒に通じるものがあるし、この映画の全編に流れている精神構造は、完全に日本の義理人情の世界である。
人が生きていくためには洋の東西を問わず義理人情というのは必然的に生まれるものに違いない。
考えてみれば当然といえば当然である。
人はたった一人では生きられないわけで、集団で生きているとすれば、当然ある時は助けられ、またある時は助けたりするわけで、恩義の貸し借りが生じ、それが義理と人情になるのは至極当然なことではないかと思う。
男の誇りと、家族の平穏な生活を秤に懸けて、どちらかを選択しなければならないときというのは人間の生活には付いて回ると思う。
バート・ランカスターのワイアット・アープもさることながら、この映画ではカーク・ダグラスのドク・ホリデイーも完全に主人公になりきってしまっている。
物語の展開上、主人公を盛り立てる脇役を通り越して、完全に主人公が二人という形になってしまっている。
そして、このドク・ホリデイーとケートというホリデイーの情婦だか奥さんだかしらないが、この二人の男と女の絡みが非常に面白かった。
お互いに軽蔑し合いながら、嫌いあいながら、それでも離れられず、離れたり受け入れたりする人間の感情の我儘さというものは、なんだか我が身につまされる思いで見ていた。,br> 喘息もちのホリデイーが、きちんと正装してギャンブルに興じる格好というのは、実にヤクザの中のヤクザに見える。
ある意味で、男のダンデイズムの頂点だろうと思う。
それを取り締まる側のワイアット・アープも、職務に忠実な保安官で、この男と男の駆け引きがこれまた秀逸である。
この保安官とギャンブラーの男と男の友情が、保安官の裏稼業というふうに巷間に伝えられていたのかもしれない。
ここに義理と人情、男と男の友情というものが物語をより面白くしているわけであるが、それは同時に浪花節的なイメージで、我々には民族的な本質となっている部分を刺激しているのかもしれない。
義理と人情、人から受けた恩を忘れない、ということは人々がつつがなく生きるためは必要不可欠なものではないかと思う。
この映画に登場する女性、ドク・ホリデイーの情婦、アープの恋人、クライトン一家の女主人というのはいずれも平和主義で、「そんな殺し合いはやめてくれ」というのであるが、男はそういう女性陣の言葉に逆らってでも、義理と人情、そして男の誇りのために無意味な戦いに挑む、というところなどまことに以って浪花節そのものである。
「止めてくれるなおっかさん」という場面である。
西部劇では、この保安官ワイアット・アープの物語は色々な作品として、色々な監督が様々な作品として作っているようだ。
ジョン・ウエイン主演の「リオ・ブラボー」あたりも、案外こういう流れの中のひとつではないかと思う。
しかし、同じ題材、同じネタでも、作る人によって様々な作風になっているところが実に面白い。
「リオ・ブラボー」のジョン・ウエインとあの牢番のコンビ、そして「OK牧場」のバート・ランカスターとカーク・ダグラスのコンビというのは、同じネタから生まれているのではないかとさえ思えてくる。
西部劇を見るのに理屈を付けて見る必要はないと思うが、それにしてもジョン・ウエインには彼なりの、カーク・ダグラスにも彼なりのイメージが定着してしまっているので、それをそのまま素直に受け入れて見ればいいと思う。

カーク・ダグラス扮する世捨て人ふうな、世の中を斜めに見て、自堕落な暮らしをする遊び人も、この映画では実に光って見える。

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