パリの二人 2003・5・26
この映画、1963年のパラマウント制作のまことに奇妙な映画であった。
ラブ・コメデーというジャンヌがあることは承知しているが、これもあえて云えばその中に入るに違いない。
ところが配役がそうそうたるもので、ウイリアム・ホールデンにオードリ-・ヘップバーン、そしてトニー・カーチスときている。
このメンバーが喜劇を演じているわけである。
オードリー・ヘップバーンの出演する映画というのは、どちらかといえば喜劇ポイ作品が多いと思う。
彼女にシリアスな汚れ役とか、悪女の役というのは似合わないに違いない。
彼女の場合、あのコケテイッシュな雰囲気に包まれた、夢の中の美女というイメージが、世界の大衆の中に出来上がってしまっているので、それを壊すことに誰しも抵抗を感じていたからに違いないと思う。
それでこの映画、まことに漫画チックな作品で、彼女のための作品という感じがする。
この映画の見所は彼女のファションではないかと思う。
ウイリアム・ホールデン扮するいい加減な脚本家のもとに、オードリー扮するタイピストが派遣されて仕事に来るところから物語が始まるが、この時に着ていたウグイス色のスーツに白い帽子、そして鳥かごを提げて現れるシーンは、まさに彼女のための映画ということを髣髴させる。
そしてホテルの古いエレベーターがシースルーになっており、それを下からカメラが追うところなど、まさしく鳥篭そのものである。
そこで脚本家であるウイリアム・ホールデンが「エッフェル塔を盗んだ娘」という脚本を書くという物語である。
ホールデンが頭の中にひらめいたアイデアを口述して、ヘップバーンがそれをタイプするという設定であるが、ホールデンが口述すると、それをタイプしているヘップバーンの頭の中でイメージが飛躍してしまい、それを口にするとまたまたホールデンの頭の中の構想が変わり、その度ごとにそのイメージが映像として表現されるわけである。
ここの部分にドタバタ調の喜劇が盛り込まれるという仕儀である。
そして全体として、現実の映画制作の舞台裏を暴露するというか、内情を比喩的にもじってというか、大いに皮肉っているところがますます面白い。
空想シーンの中に現れるヘップバーンのファッションもそれこそ見ものである。
ある時はオレンジ色のワンピースに白い大きなつばの帽子であったり、白いノースリーブのワンピースであったりと、女性の女性らしさを最も素直に表現したファッションが見れる。
このイメージの映像化の中で、トニー・カーチスが現れ、彼女の恋人であったり。間抜けな警官であったりと、これまた我々のイメージをぶち壊すようなキャラクターとして現れるのでおかしくてならない。
しかも下手な大根役者という設定で出ているものだから、その下手振りというのがまさしく堂にいった演技で、逆におかしらがこみ上げてくる。
恋人として町角のカフェテリアでの待ち合わせの場面など、真っ赤なセーターに白いズボンといういでたちで、それがスクーターに乗って現れ、気障なプレーボーイを気取ったところなど、そのしぐさの下手振りというのはまさしく一品ものである。
気障な男を故意に気障ッポク演じているので、そのおかしさといったらない。
馬鹿笑いというのではなく、なんとなくくすくす笑えるというおかしさである。
トニー・カーチスにああいう大根役者の役を振り当てるところなど、大いに皮肉ポイというか、人を食った製作意図ではないかと思う。
「エッフェル塔を盗んだ娘」という脚本を仕上げる設定の中で、その構想の部分部分がイメージとして現れては物語が進んでいき、ヘップバーンが夜寝ているときにホールデンが作家としてのプロ意識で一晩で作品を仕上げ、それを点検している間にもイメージが膨らんでしまう。
そして、その完成と共にヘップバーンが仕事を終え、仕事場を去ると急にホールデンは彼女を追いかけ、心を入れ替えて真面目に仕事をすると決心して大団円となるわけである。この作品は全編を通じて大人の漫画というか、おとぎ話というか、ファンタジックな人畜無害な映画である。
100%完全なる娯楽映画である。
それにしてもオードリー・ヘップバーンというのは美しい。
そしてこの時代のファッションが実によく似合っている。
この時代のファッションというのはまだまだおとなしいもので、女性が女性らしく振舞うことに価値のあった時代だ。
1963年といえば日本では昭和38年で、高度経済成長に差し掛かった頃ではないかと思う。