有事法制について 03・05・09
ある投書を呼んで
5月から我が家の新聞が朝日新聞に変わった。
で、その朝日新聞の5月9日の朝刊16面、オピニオンのページの「声の欄」に興味ある投書が載っていた。
「4月27日の社説「有事法制 民主党案は土台になる」を読んでたくさんの「なぜ」が沸き起こりました。
そもそも、なぜ有事法制が必要なのですか。
万一に備える法律がなぜ有事法制となるのですか。
安全保障をめぐる国民の不安が深まっているから作るのですか。
つまり、不安感に後押しされてそれで作るというのですか。
「備えは要る」というとのことですが、その備えがアジアの国々、特に北朝鮮に対して脅威となりませんか。
有事法制は不安感や脅威の相互の増幅作用をいっそう促進しないでしょうか。
如何なる法律であれ、一度作られてしまうと、一人歩きしてしまう危険性がありますが、有事法制にその危険性はないのでしょうか。
民主主義尾の原点に立った有事法制づくりは本当に可能ですか。
武力によって物事を解決する世の中にして良いのでしょうか。
この点については子供たちになんと説明したらよいのでしょうか。
日本が戦争できない国であり続けることが、何か不都合なことがあるのですか。
20世紀は戦争の世紀でした。21世紀は世界中の多様な価値観をお互いに認めあい、共存共栄の実現に向かう時代にすべきだと思いますが、有事法制はその流れに逆行しませんか」というものである。
まことにもっともな意見だと思います。
今の日本の先進的な人々、きちんと戦後の民主教育を受けた人々の最大公約数的な模範的な思考だと思います。
今の日本で普通にものを考え、普通に意見を述べる人は、大なり小なりこの意見に共感すると思う。
普通に善良な人ならば、この意見に対して真っ向から異論を述べることはできない。
まさしく今の日本の標準的な考えである。
朝日新聞がとり上げるべき最も基本的な意見であり、最も朝日好みの政治的スタンスである。
現実を直視する勇気
しかし、私はこの意見に組するものではない。
私に言わしめれば、日本の大部分の人々がこういう意見をもっていること自体に危機感があると思っている。
万一の事態に備えることが北朝鮮を刺激するのではないか、と危惧されているが、こう考える根拠には、「北朝鮮は日本に対して何も悪い事をしていない、善良な主権国家だ」という認識があるからこういう発想になっていると思う。
拉致問題というのはほんのわずかな人が犠牲になっているだけで、国全体の問題とはなっていないし、大部分の国民は飽食の中で生活を謳歌しているわけで、大部分の国民にとって見れば他山の石だと思っているわけである。
そんなことで北朝鮮と「戦争してもらっては困る」というのが大部分の国民の本音だと思う。
主権国家として、少々主権を侵されたとしても、今の飽食の生活を犠牲にすることは御免こうむりたいというのが国民の偽らざる本音だと思う。
人間はこの世でたった一人で生きているわけではない。
宇宙船地球号の乗組員というのは、全員が善良な人々ばかりではないわけで、人が狭い地球上に寄り添って生きている限り、人と人の軋轢、摩擦、意思の疎通の乖離、思い違い、または思い込み、独善、空威張り、という煩悩は付いて回るわけである。
自らが生きるためには、少々他人の領域を侵したり、他人のものを掠め取らざるを得ない状況もあるわけである。
この宇宙船地球号にはアメリカのような超大国から地球温暖化で水没しそうな国まであるわけで、それらがごちゃ混ぜにこの地球という船に乗り合わせているのである。
それは丁度地域のコミニテイーと同じなわけで、自分の地域の住人にも、良いやつもいれば悪いやつもいるのと同じである。
地域の住人が全部善良な人たちならば、家に鍵をかう必要はないわけだが、そうは言いつつ、隣人を信用しようと思いながらも、家を出るときには鍵をかうのと同じである。
隣人が善良な人だと思っていても、その隣人が全く食うに困り、明日食べるコメにも事欠くような事態になれば、いつ押し入ってくるかもしれないし、無理難題を押し付けてコメをせびりにくるかもしれないわけで、その時でも話し合いで事が解決できればそれに越したことはないが、いつ棍棒を振り回すかもわからないわけで、有事法制というのはその時のためにこちらの対応を考えておきましょうというものである。
この有事法制を憂う意見というのは、全くもって心の奇麗な純情可憐な善意の塊のような考え方であるが、人間というのはこういう奇麗事では済まされないわけである。
夢を食って生きておれる獏ではない。
今生きている人が将来にわたっても安逸で安定した生活を続けようと欲すれば、人間の醜い面も直視しなければならないと思う。
人間の奇麗なところだけを見るのではなく、その奇麗事の裏面の汚い部分も恐れずに直視しなければならないと思う。
言葉を変えれば、現実を直視して、現実に即した考え方をしなければならないということである。
主権の侵害を考える
第2次世界大戦が終わってからというもの、我々日本人は58年間も他国と戦争をしたことがない。
これはまことに結構なことであるが、今の我々は、それを日本人がそう願ったからこういう現実があるのだ、と思い違いをしているところが問題である。
今の日本人は、つまり我々は、憲法で戦争放棄をしているから戦後の日本は戦争に巻き込まれなかったのだ、と思い違いをしているが、これは唯我独尊的な思い込みに過ぎず、アメリカの庇護があったから、我々は血を流さずにこれたわけである。
そこに戦後政治の反省として不可欠な部分が横たわっている。
だからこの投書の
余儀なく非戦を強いられていたので、その代償として今日拉致問題が起きているわけである。
日本の主権侵害で一番の問題は、やはり北方4島の問題であるが、これは今拉致問題の陰に隠れてしまっている。
この北方4島の問題も、拉致問題も、それからもう一つ元韓国大統領の金大中氏の拉致ということも含めて,これらはいずれも日本の主権が大きく侵害された事件である。
基本的には日本が北方4島の主権侵害を今日まで放置しておいたことが金大中氏の問題から北朝鮮の拉致問題まで尾を引いていると思う。
こう説くと、それは当時の日本政府が悪いと短絡的に思いがちであるが、問題の本質は実はここにあるわけである。
日本は戦後民主主義の政治体制をとっているわけで、政府が何かしようとすると必ず反対意見が出てくる。
反対意見が出ることは致し方ないが、反対意見が政府のしようとすることをぶち壊してしまうわけである。
つまり国益という事を全く考えない、反対のための反対意見が国益というものを阻害してしまったわけである。
結果として日本政府は有効な手立てが打てず、問題の解決は先延ばしに終わって、ことは一向に改まらないわけである。
先の湾岸戦争の時はイラクのサダム・フセインはクエートを武力で実効支配しようとしたから世界中がよってたかってイラクを制裁したわけである。
1945年、日本がポツダム宣言を受諾して武器を置いたとき、旧ソビエットの軍隊が日本古来の土地を実効支配したのが今の北方4島の問題なわけであるが、この時は戦争終結のドサクサで、世界中で旧ソビエットに対してそれを排除しようという動きが全くなかった。
第一、旧ソビエットは連合国の一員であり、戦勝国の一員であり、アメリカといえどもあの時点でソビエットを敵に回して戦争することは出来なかった。
そして、それが既成事実としてなってしまったので今に至っているわけである。
この例を見ても、武力がなければ主権の維持そのこと自体が不可能なわけで、武力がなければ事の解決が出来ない、という現実は人間の生き様、つまり国際社会を生き抜く現実のとして厳然とあるわけである。
ところが、戦後の日本人の教養のある方々は、こういう現実を認めようとしない。
北方4島を日本人の血を流してまで取り返す価値があるのか、という考え方が蔓延しているわけで、血を流してまで取り返す必要はない。
主権が少々侵されても大勢に影響はないのだから、そんなことに血を流すことは止めましょうという発想である。
こういうはっきりとした言い方をする代わりに、「日本は戦争放棄しているから話し合いで解決すべきだ」などと言い換えているが、これでは事は一向に解決にならないわけである。ここで言う「事」というのは、「日本の主権が犯されたままになっている」ということで、我々は主権回復ということに全く無頓着なわけである。
国家の主権が少々侵されようとも、我々の日常生活に影響がなければ、そんなことで血を流す事は御免だという思考である。
これが戦後の日本人の大多数の人の考えかたなわけである。
主権なんか少々侵されても、人々は平和ボケのままで、今の生活を継続する方が徳だと考えるわけである。
こう考える人を悪人とは決め付けれないし、名誉も誇りもない人間だとしても、そういう理由だけで差別することも出来ないわけである。
同じ同胞としてそれはそれで受忍しなければならない。
日本の国内で意見が2分されているとすれば、日本以外の人々からすれば、日本はいつでも意見が二つに分かれて何も解決しきれない国だ、ということはわかってしまうわけである。
相手の非を同胞に転嫁する愚
宇宙船地球号の乗組員というのは、地域のコミニテイーの住人と同じだということは前に述べたが、コミニテイーの中でも少々威張っている人や、隣人を恫喝して平気な人もいるが、それが受容の範囲内ならば隣人は我慢するが、その限界を超えた時は相手に対して一泡吹かせよう、吹かせたいという願望を持つのが普通の人間だと思う。
あまり無理難題を吹っかければ、最後にはケツを捲るという図であるが、これが普通の人間の極普通の感情であり生き様の筈である。
ところが今の日本の進歩的な人々の唱える平和主義というのは。相手からいくら無理難題を持ちかけられても「ケツを捲る勇気を持たない」というところに問題がある。
相手から如何なる難問を吹きかけられても、それは「日本政府が悪い」という発想になるところが最大の欠点である。
他力的な外圧があったとしても、それを同胞の「政府の対応が悪い」という風に、なんでもかんでも同胞にとって不都合なことは、相手を慮るあまり自分達の政府の責任に転嫁するという発想は、実に無責任な考え方だと思う。
戦争が終わってから他国の領土を略取することや、東京のホテルから他国の人間が政敵を拉致したり、日本人を国内および海外において拉致するなどという行為は、誰が何といっても整合性のある行為ではないはずである。
それを「日本政府の対応が悪い」などいう発想をする事は、主権国家、つまり日本の国民として、日本に生息する人間として許しがたい行為のはずである。
旧ソビエットが北方4島を不法占拠しようが、大多数の日本人には直接的な影響はないわけで、そのためにわれわれは再び血を流すメリットというのは見あたらない。それで、我々は黙って堅忍自重しているわけである。
相手が不合理なことを押し付けてきても、大多数の国民にとってはそれは生活に直接かかわる事ではないので黙って指を銜えて傍観している構図である。
傍観していれば血を見ずに済むわけで、そういう状態を称して我々は戦後58年間も平和でこれたといっているわけである。
戦争反対はバカでもいえる
戦争を避けたいのは古今東西、老若男女を問わず、民族を超え、国家を超えて人類の希求に他ならない。
日本の進歩的な人たちの専売特許であるわけではない。
反戦平和を声高に叫んでいるから偉い人、立派な人、気高い人なわけではない。
そんなことは赤ん坊から腰の曲がったおばあさんまで皆同じなわけである。
日本の進歩的知識人がベトナム戦争に反対し、今回のイラク戦争に反対するということは、決して進歩的でも革新的でも文化的なこともないはずである。
赤ん坊や子供でもわかっていることを、さも立派な理念かのように鼓舞吹聴して、自分たちは無学文盲の一般大衆よりは偉いんだぞ、というポーズをとっているが、そんなことは赤ん坊から子供にいたるまで周知の事実である。
アメリカの母親が自分の息子を慶んで戦場に出していると思っているのだろうか?
イギリスの母親はイラクの罪もない子供を殺さざるを得ない立場に立たされていることを嬉々として迎えていると思っているのであろうか?
この世に生を受けた人間で殺し合いを好むものなど一人もいないということは自明である。話し合いでことが解決できればこれほどありがたいこともまたとない。
今回のイラク戦争だって、話し合いではことが解決できなかったではないか。
それでも「話し合いで」ということは、事の解決を放棄せよということに他ならない。
今回のイラク戦争にそのことを当てはめれば、サダム・フセインの独裁体制をそのまま温存して、テロの輸出をするがままにさせておけということになるわけで、そんなことが許されるであろうか。
話し合いでは解決できず、だからといってそのまま放置しておくわけにも行かないから、最終的に武力行使という強硬手段にならざるをえなかったのと違うか?
この状況を日本の知識人だとて理解していないわけではないと思うが、我々は部外者として蚊帳の外にいるわけで、イラクの戦争に対する発言というのは、無責任にならざるをえない。
我々が今、飽食の日本でリストラの嵐が吹きすさんでいるとはいえ、のうのうと生きておれるのはアメリカの傘の下に庇護されているからである。
戦後の一時期、日本が独立する以前、韓国の李承晩という大統領は李ラインというものを海の中に作って日本の漁船を締め出したことがある。
これは日本が連合国に負けたという状況から、元被支配地の朝鮮人の一部が、旧支配者に対して意趣返しをした構図である。
つまり国家が自分の国を守るという気概と能力を失うと、他の国はそれをいい事に、隙あらば何らかの利益をあさろうという虎視眈々と狙っているということである。
旧ソビエットの北方4島の問題でもこれと同じ構図である。
日本の敗戦直後という時期はそれこそ日本は何もなかった。
「戦い敗れて山河あり」というわけで、自然の山々以外、見事に何もなかった。
今、44歳の主婦に、その時の状況が想像できるであろうか。
如何に何もなかったかということは、戦勝国のアメリカ軍の極東司令官のマッカアサー元帥でさえ認めているわけで、彼でさえも「日本は絹織物以外なにも産業がないので、今回の戦争(太平洋戦争のこと)も致し方なかった」という事をアメリカ議会で言っているわけである。
日本は戦争に負けて、自分の国を自分で守る能力さえなかった時は、隣国の韓国は日本の漁船を勝手に追い出して、ソビエットはもともとの住民を追い出して、北方4島を不法占拠してしまった。
事ほどさように、自分の国を守ることを放棄すると、他の国がわが祖国を蹂躙するわけである。
そういう状況を見かねて、日本の吉田茂は日本の独立と同時に、日本を守ることをアメリカに肩代わりさせたわけである。
自分で憲法を作ろうとしない愚
戦後できた日本国憲法というのは確かに第9条で戦争放棄をうたっているが、この日本国憲法というのは、アメリカのためにアメリカが作って我々に押し付けたものであって、日本国憲法の趣旨はアメリカの国益のためにあるわけである。
アメリカの国益のために、日本が再びアメリカに対して戦争を仕掛けることのないように、日本の牙を根底から抜くという目論見で、戦争放棄という条項が挟まれているのである。あの憲法そのものが日本人が発案したものではなく、第9条というのも、戦争に勝った側が、再びこのような苦しみ(戦争遂行という意味)をしなくても済むようにというわけで、駄目もとで入れられた条項なのである。
駄目もとというのは、当時のアメリカ占領軍の意向としては「どうせ日本はすぐに憲法改正をするであろう」という予感をもっていたが、それまでのつなぎとしてでも空想的で非現実的と思いつつも戦争放棄という理念を入れてみよう、という魂胆であったわけである。
当然、作った側も占領期の暫定的なものと思い込み、独立に際しては作り直すと考えていたわけである。
それをなぜ我々、日本人の内側から「平和憲法だから改正罷りならぬ」という論法になるのであろう。
李ラインで日本漁船が締め出しを食っても、北方4島を不法占拠されても、東京のホテルから韓国の官憲が人を攫っても、日本人が拉致されても、我々の側がじっと我慢の子で堅忍自重していれば確かに戦争にはならない。
ならばその不合理の矛先を政府に向けるのではなく、自らが負わなければならない。
その時になって、「政府が悪い」というのは無責任もはなはだしい。
今の日本は戦後58年を経過して、この投書の44歳の主婦のように、日本の独立以降に生まれた人は知っているのか知らないのか判らないが、我々の祖国は戦争で敗れ、約6年半の占領の後に独立を許されたのである。
もともと飽食の国であったわけではない。
同胞を犯罪者いう愚
アジア諸国は19世紀以降続いてきた西洋列強の帝国主義、植民地主義から自ら独立を勝ち取ったという感じがする。
厳密に言えば、そういう西洋列強の地盤を揺るがし、土台をがたがたにしたのは日本であるが、そういう西洋列強の基盤が緩んだところにナショナリズムが勃興して、独立を勝ち得たという面があるが、我々の場合は極悪人が刑の執行を解かれ、国際社会に解放されたというニュアンスである。
まさしく独立が許されたという感が強い。
それは戦後、東京裁判、いわゆる極東国際軍事裁判というもので、開戦当時の日本の指導者を国際連合の名の下で戦争犯罪者として裁いたので、日本国というのは犯罪国家だという印象が植え付けられてしまったからである。
だから日本の独立というのは、犯罪者が解放されて牢から解き放たれた、という印象が強く我々は国際連合の慈悲の元、特別に許されて国際社会の一員に加えられた、という感じで認識されている。
この認識が、旧戦勝国、旧連合国、つまりアメリカやイギリス、フランス、オランダ、ソビエットというような外部の国がそう思うのならば致し方ないが、事もあろうに我々の内側、我々の同胞の中からでさえ、しかも日本の知識人、大学の教授やジャーナリズムを生業としているような、日本の進歩的知識人までもがそういう認識に陥ってしまっていたので、それが今日の日本の奈落の原因となっているのである。
日本と戦った敵の総大将、マッカアサー元帥でさえ、日本を占領してみると、日本がアメリカに歯向かったのも致し方ないと、その戦いの原因に対して理解を示しているのに、同胞がその時の日本の指導者に対して鞭打っているのである。
それと同じ精神構造として、日本がこれから独立しようというときに、それに反対して、「アメリカさんよ!どうぞこれからもずっと占領し続けてください」という趣旨のことをいうバカがいたわけである。
こういう趣旨の発言をしたのが、戦後の日本の国立大学、ほんの少し前ならば大日本帝国大学の教授連中、大学の先生方が、「日本は独立する必要はない、独立すればアメリカに敵対する勢力、つまりソ連が戦争を仕掛けてくる、アメリカにずっと占領されていればその危険はない、だから独立する必要はない」と、大学の先生方が徒党を組んでこういう事をいっていたわけである。
こういうものの考え方が一貫して戦後の日本の進歩的知識人、反体制の人々、無責任な大衆の潜在意識として流れているものと私は考える。
大学の先生方、大新聞の編集関係者、出版社の首脳陣、労働組合の急進的な人々が、一様に自分たちの政府というものに信をおかず、アメリカの利益、ソビエットの利益を代弁するようなことをいっていれば、日本が良くなるわけがないではないか。
日本国憲法の第9条を一番有難いと思っている国は一体どこであろう。
日本以外の国からすれば、こんなに有難いたい憲法はないと思っているに違いない。
いくら仕掛けても相手は決して仕返しをしないことを明言しているわけで、日本以外の国にとってこれほど有難い、馬鹿げた憲法もまたとないと思っているに違いない。
馬鹿げていたからこそ、アメリカは駄目もとで、この条項を入れてみたわけで、当然、独立の際には変えるものと思っていたし、日本人がそれをこれほど有難がるとは当人達も様相外であったに違いない。
「裸の王様」は、自分が裸であること、つまりバカだということに気が付ず、世界で一番良い着物を着ていると思い込んでいたわけである。
我々の同胞のなかには「ワアーイ、王様が裸だ!」と、現実を直視したありのままを素直にいう人がいないわけである。
人間の生き様を素直に受け入れることを遺棄し、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、取りとめのない空論ばかりを述べて、それが進歩的知識人の使命だと思い違いをしているわけである。
我々が裸であったとしても、周囲の人々はバカだと思いながらも、心の中ではいくら軽蔑しようとも、藻も敢えて「着物を着なさい」という必要もないわけで、着物を着る着ないは主権国家の選択であり、自決権の問題である。
我々が裸であれば、確かにアジア諸国は、内心ではバカにしつつも脅威とはなりえない。我々が薄物とはいえ着物をはおり、その薄物がだんだんとグレード・アップしていくとなれば。周囲の国々も少しづつ警戒を強めることは当然である。
だからといって、それが平和共存の足かせになると思い込むのは、「独立すると東西冷戦に巻き込まれる」という被害妄想と同じで、気の回しすぎだと思う。
有事法制というのは危機管理の手順を整えるということで、今の日本は自衛隊をもっていても、法的な制約がきつくて何かのときに全く機能しない恐れがあるので、そういう不具合をなくしましょうというものである。
奇麗な言葉に幻惑する愚
この投書の最後の部分で、「日本が戦争の出来ない国で何か不都合があるのですか」と問うている。
また「21世紀は世界中の多様な価値観をお互いに認めあい、共存共栄の実現に向かう時代にすべき」とも言っている。
先の問いに対しては不都合はあるといわなければならない。
また後の文言に対しても、奇麗な言葉の裏に潜んでいる汚い部分。裏側の現実というものを考慮に入れていない。
言葉のアヤに幻惑された部分があると思う。
まず先の問いに対しては、太平洋に浮かぶ日本という国が、弱肉強食の餌食にされて他の国が勝手気ままに蚕食するとしたら、国際秩序というものが日本が裸の王様であったことが原因として破壊されてしまう。
宇宙船地球号の極東という区画に穴が開いたとしたら、宇宙船地球号そのものが難破してしまうことになる。
それでも構わないというのは、究極の一国平和主義で、これはもう人間の治める集合体としては何の価値も持ち得ないが、もしそうだとすると我々、この小さな島の住人よりも、他の地域に住む人々に甚大な影響を与えてしまう。
まず最初に困惑するのがいうまでもなくアメリカである。
日本との戦争に勝ったアメリカは、アメリカのために日本を復興させたという経緯から見ても、この極東から日本というものが存在しなくなれば、アメリカ自身が困るわけである。我々が自分たちで、「我々は名誉も誇りも要らないので、ただただ生かさせてもらえれば良い」といったとしても、アメリカはそれでは困るわけである。
アメリカにとって見れば、曲がりなりにも普通の主権国家として太平洋上に居てもらいたいわけである.
韓国や、北朝鮮や、中国が、日本という土地で好き勝手なことをしてもらっては困るわけである。
日本人というのは、国内政治や外交交渉では4等国であるが、ものつくりには長けており、おだてれば天まで昇る働き蜂であるから、使いようによってはこれほど健気な存在もないわけで、それがアメリカの敵に回るということは非常に困るわけである。
逆に、日本人を奴隷にした側というのは、それが総て利点となるわけで、今の日本というのはそういう国際関係のバランスの上に浮いているわけである。
それを我々の内側の努力で、戦後58年間も他国と血を流さずにこれたと思うのは、あまりにも無知といわなければならない。
アメリカも日本が丸裸のままで、他国からいくら虐められても堅忍自重する根性のない国であってもらっては困るわけである。
やはり、飛んできた火の粉は自分で打ち払うぐらいの気概を持ってもらいたい、と思っているわけである。
誇りや名誉で人間は生きられないが、それがなければ人間としては生ける屍と同じで、ただ食って糞して寝るだけの動物となんら変わらない。
「それでも良いんだ」という人たちが、こういう投書をする人々であろう。
そして、「世界中の多様な価値観をお互いに認めあい」と、いう文言も言葉としては実に立派なもので、誰もこの言葉に反論しきれないが、この文言にも言葉のアヤがある。
「多様な価値観」といった場合、その中には共産主義による人民・大衆の抑圧も、サダム・フ・セインの独裁体制も、テロの輸出も、北朝鮮の核の疑惑も、何もかもひっくるめて、それを認め合うということは現実的にはありえない。
戦争というのは基本的に価値観の衝突なわけで、価値観が衝突するから、人が殺しあうわけである。
「価値観を認め合う」などということが出来るわけないではないか。
例のアメリカで起きた9・11事件の価値観をアメリカが認めうるか?
イラク国民を空爆の盾にするようなサダム・フセインの価値観をどう認めればいいのかと問いたい。
アルカイダの価値観、オサマ・ビン・ラデインの価値観、サダム・フセインの価値観を我々がどう認めればいいのかと問いたい。
価値観というのは立場持ち場で文字通り価値が違っているわけで、スーパーパワーを持っているアメリカだけに他の価値観を受容せよ、といってもそれは無理というものである。