人間の盾に殉ずるバカ 2003・05・06
本日(平成15年5月2日)の朝日新聞にこの度のイラク戦争の際、人間の盾としてイラクの発電所に立てこもった人のコメントが掲載されていた。(ジャーナリスト松崎三千蔵)。
しかし、私に言わしめれば、こう言う人は一体どういう神経をしているのか、いささか疑問に思う。
イラク戦争というのはテロの輸出を非ともおもわないサダム・フセイン大統領を懲らしめるために行われたわけであって、サダム・フセインが政権の座から降りて、誰か他の人が政権につき、テロの輸出とか大量破壊兵器の国連査察を受け入れれば決してああいう事態にはならなかったはずである。
物事には総て因果応報があるわけで、そのもとのところに目をつぶって、結果としてアメリカのやることには総て何でもかんでも反対する、というのは公平なものの見方ではないと思う。
イラクのサダム・フセインを信奉する人が自爆テロをするというのならば、まだ整合性を理解することが出来るが、この飽食の日本からわざわざアメリカの攻撃の目標になっているかもしれない場所に人間の盾としていくなどということはバカとしか言いようがない。21世紀における地球上にはアメリカのようなスーパー・パワーの超大国と、吹けば飛ぶような弱小国家が混在していることはまぎれもない事実である。
この状態を「総てアメリカ悪いからこうなったのだ」という論法はあまりにも人間というものを知らないものの知見だと思う。
超大国と低開発国、近代国家と発展途上国の対立の原因を、総てアメリカの所為にするという論法はあまりにも論理の飛躍だと思う。
アメリカがイラクを攻撃するので、イラクのために人間の盾になるのだという発想は、論理的になんら整合性があるようには思えない。
アメリカのイラク攻撃を止めさせる最良の方法は、イラクのサダム・フセインが政権の座から降りれば、それは実現するわけで、それは本来イラク国民がそれをすべきである。
ところが現実にはイラクの国民の側、つまりイラクの内側からではそれが出来ないので、外圧としてアメリカのイラク攻撃があるわけである。
主権国家の首脳を、他国が、外側からその首のすげ替えを画策することが国際道義にかなっていないことが重々わかっている。
ならば「先にその国際道義を踏みにじっているのは誰か?」と問うた場合、答えは自ずからわかってくるはずである。
テロの輸出は国際道義にかなっているかと問えば、答えが否である。
サダム・フセインが先にその国際道義を遵守し、国際テロ組織を自ら暴き、アメリカ国民からテロの脅威を取り除く努力をすれば、決してアメリカはイラクを攻撃することはないはずである。
このあたりの成り行きというのは、それほど難しい問題ではないはずで、普通のマスコミに普通に接している限り、容易に想像が付くことである。
にもかかわらず、「アメリカのイラク攻撃は罷りならぬ」という根拠は一体どこから来るのであろう。
アメリカ国民はテロの脅威に晒されても仕方がないが、イラク国民を戦争の脅威に晒してはならない、という論拠は一体どこから来るのであろう。
アメリカの攻撃に晒されるイラクの人々が可哀相だという感情は、人間としては当然の感情であるが、それならばなお更、部外者としての人々は、イラクのサダム・フセインに国際道義に従い、テロの輸出を止め、大量破壊兵器は公開し、民主的政権を打ち立てるように督促ないしは勧告をすべきではなかろうか。
言うまでもなく、そういう努力は今までになされてきたわけである。
しかし、それでもなおサダム・フセインはそういう勧告、諫言、忠告というものを無視し続けてきたからこそ、こういう結果を招いたわけである。
アメリカの攻撃に晒される人々が可哀相だというのは人間誰しも同じだと思う。
ならばこそ、それだからこそ、本来ならば、イラクの最高統治者としてサダム・フセイン自身がそれを回避する努力をしなければならないはずである。
彼自身が政権の座から降りる気がないとすれば、次善の策として、国民をアメリカの空爆から守る手立てをしなければならないと思う。
それが国の統治者として当然の行為であるし行動であると思う。
にもかかわらず、彼の取った手法というのは、イラク国民がよりアメリカの攻撃で犠牲になるように仕向けたわけである。
つまり、一般市民の居住区域の中の高射砲陣地を作り、病院を攻撃拠点にしたり、というふうに、イラク国民がより多く犠牲になるように仕向けたわけである。
こんな統治者であったとすれば、その国の国民はたまったものではない。
事実、戦争が終わって見れば国土は大混乱に陥ったわけで、これらは基本的にイラク国民自身の問題のはずである。
この程度のことは日本にいてマスコミの報道に接していれば自明のことであるが、こういう状況下において、飽食の日本からアメリカの攻撃目標に、イラクのために人間の盾として出向くという神経は我々には理解しがたい面がある。
何のために行くのか、それにどういう意義があるのか、理解に苦しむ。
その目的というのは、ただ単に「アメリカがこんなにひどいことをした」という事を世界に宣伝するだけであるが、ことの経緯を考えれば、それにどれほどの意義があるのであろう。
アメリカはスーパー・パワーを持っているのだから、イラクを攻撃してはならないという理由には整合性がないと思う。
武力行使は如何なる理由があろうとも行ってはならない、という文言は一見立派に聞こえるが、それでは物事の解決にはならないということも厳粛たる事実である。
解決を先延ばしするだけで、先延ばしている間に犠牲者がどんどん増えるという図式で、それでもいいのかということになる。
アメリカの独善的な態度がサダム・フセインを硬直させたという言い方は、一見整合性のある論理に見えるが、事がここに至れば、もうイラク国民の犠牲を最小限にとどめる手立ては、サダム・フセインだけが握っているわけである。
しかし、サダム・フセインにとってみれば、イラク国民の生命などどうでも良かったわけである。
自分の国の国民が死のうが生きようがどうでも良かったわけである。
部外者としては「なにがなんでもアメリカは武力行使をすべきではない」と言い続けることは可能であるが、当事者としてのアメリカにとって見れば、そういうわけにも行かないわけである。
この状態を何時までも続けておれば、何時また9・11事件のようなことが起きるかわからないわけで、ブッシュ大統領としては、それではアメリカ国民に責任を果たしたことにならないわけである。
アメリカと日本の関係において考えれば、小泉首相の選択肢は一つしかないわけである。ところが、アメリカのブッシュ大統領にしても、日本の小泉首相にしても、こういう大きな政治的決断をするときには、当然ブレーンの意見というものを聞くわけである。
そのブレーンの意見のなかには当然、賛否両論があるはずである。
戦争をするしないの決定、アメリカを支持するしないの決定の際には、当然、賛否両論が噴出するが、それを踏まえて結論というのはどちらか一つにしなければならないわけである。
部外者は、その決定に対して異論を唱えることはいとも簡単に出来るが、統治者たるものがその部外者の異論に右往左往、心を動揺させていてはならないわけである。
日本はイラクの問題に関してはあくまでも部外者の立場でしかないわけで、小泉首相の選択肢というのはアメリカ支持しかありえない。
小泉首相というのは、日本政府の当事者として、国益というものを担っているわけで、その立場上、アメリカに対して「武力行使を止めよ」とは口が裂けてもいえないわけである。しかし、日本のマスコミや進歩的知識人というのは、国政または外交に関しては当事者ではなく、部外者として何を言っても責任をとわれることはないわけである。
一つの行動、あるいは行為に対して、必ず賛否両論があるはずで、満場一致で物事が決まるといおうことは独裁体制ならばいざ知らず普通の民主体制ではありえないことだ。
アメリカ大統領がイラクに対して武力行使をする、日本の首相がそれを支持する、という決定に対して、それぞれの国民は決定には関与しえないが、それを批判することは全く自由なわけで、それでこそ民主主義体制というものである。
国家の決定したことに対して異論を唱えることが出来る体制というのは、非常に優れた統治手法だと思う。
旧ソビエット体制、サダム・フセインのイラク、金正日の北朝鮮にはこういう体制がないわけで、主権国家が如何なる体制を採用しようとも、それはそれぞれの国民の選択に任せるべきである。
主権国家が如何なる体制であっても構わないが、その主権国家がテロの輸出や、核兵器の開発、拡散を画策しているとなれば、そうそう奇麗事は言っておれないわけである。
「主権国家の言う事だから信用できるか」というと、これがとんでもないことで、「嘘を言ったからその主権国家は抹殺してもいいのか」となれば、これも論理の飛躍になるわけで、そこに人間が戦争を排除できない最大の原因があるわけである。
イラクのサダム・フセインが自国民を抑圧し、テロを輸出し、大量破壊兵器を隠し持っているので、原爆でもってこの地球上から抹殺してしまっていいのか、ということになると、我々は答えに窮してしまって、その妥協策として通常兵器による戦争でサダム・フセインという統治者のみを挿げ替えるという手法をとらざるを得ないわけである。
自分の国の国民を空爆の盾にするような統治者を我々はどう理解したらいいのであろう。国を預かる指導者ならば、まず最初に考えるべきことは、自分の国の国民の安全でなければならないはずである。
それをよりによってわざわざアメリカの攻撃の前に晒して、殺傷させようという指導者をどう理解したらいいのだろう。
こういうイラクの指導者に対して、飽食の国の日本からわざわざアメリカの攻撃目標に出向いて死に行くという神経は計り知れないものがある。
今どきはインターネットで自殺志願者を募る時代なので、人間の盾になるというのも、そういう動きの一環であろうか。
それをすることによって、何をどう変ようとしているのか、全く不可解としか言いようがない。
アメリカのイラク攻撃を止めさせるには、逆説的ではあるが、サダム・フセインを暗殺するほうがよほど整合性がある。
イラクからサダム・フセインさえいなくあれば、アメリカのイラク攻撃ももうしばらく時間かせぎが出来たものと思う。
我々は戦後58年間も戦争という事を体感していないので、戦争は戦争好きな人間が趣味で好き勝手にするものだ、という誤った戦争観に浸っていると思う。
戦争は政治の延長であるという事を故意に無視し、知ろうとせず、深く観察しようとしない。
戦争という言葉のみを無意味に嫌悪していれば、平和が向こうからやってくると思い違いをしている。
ブッシュ大統領というのは、政治の延長としてイラク戦争を推し進め、サダム・フセインも、政治の延長として自国民をアメリカの攻撃に晒しているわけで、それは両方にとって政治の延長でしかない。
空母の艦載機がイラク攻撃に出撃するのは、消防署の職員が火事場に行くのと同じなわけである。
警察官が悪人を追い、捕縛するのと同じなわけである。
厚生省の失業対策の職員が失業給付金を交付するのと同じなわけである。
片一方は人を殺すのに片一方は人を助けるではないか、と思いたがるのは日本人の平和ボケの象徴的な考えだと思う。
ところが、この両極端な行為、行動は、政治的な人間の営みという点では全く同一なわけである。
これを戦後の我々は、正しいことを悪いこと、正と悪、善と悪,人殺しと人助けという分け方をするから議論が矮小化するわけである。
主権国家の国を預かる首脳者、大統領にしろ、総理大臣にしろ、自国民の安全の確保が政治の究極の目標だと思う。
それが最初にあって、次に経済の問題なり、教育の問題なり、弱者支援の問題があるわけで、国の安全保障というのはその主権国家の究極の問題だと思う。
アメリカ大統領の立場からすれば、9・11事件のようなことが再び起きては、アメリカ国民に対して市民の安全な生活を保障するという責任を果たせないことになるわけで、それは正義とか悪、善悪という言葉では言い表せない部分だと思う。
アメリカ国民だけが安全ならば、他の国々の人は不安全でもいいのか、という議論になると思うが、それはそれぞれの国の首脳者が、それぞれに国益を踏まえて施策を考えるべきで、イラクのサダム・フセインはアメリカと戦争をするという施策を選択したわけである。サダム・フセインがイラク国民の生命に危険を及ぶことを避けたいと思えば、自分が政権の座から下りれば、イラク国民はアメリカの攻撃を免れたわけである。
ところがサダム・フセインという指導者は自分の国の安全よりも、自らの権力者としての栄光を捨て切れなかったわけで、犠牲になったのはイラクの国民である。
主権国の指導者の中には自分の国の国民の安全よりも自らの権力の方を大事にするものもいるわけで、それは他の国が外から云々することは出来ないが、自国が危険に晒されるとなれば、それには敢然と戦うことは政治の延長として致し方ない。
自国民の安全を政府が保証するという点では、我々の国も非常にあやふやな立場にあると思う。
いうまでもなく拉致問題であるが、日本の国民が他所の国のものに攫われるなどということは、完全に安全保障が破壊されているということである。
それに対して我々国民の側は一向に政府に対して断固たる措置をせよ、という事を言い切っていない。
平和的な解決という奇麗事で誤魔化そうとしているが、これは政府の責任というよりも、国民の側の責任だと思う。
ところが今の我々は、武器を取って他国と戦うという気概がないので、自らの政府に対しても、そういう強いことが言えないまま犬の遠吠えのようなことを言っているに過ぎない。平和的な話し合いで解決できるようなことならば、既に解決済である。
いままで話し合いでは解決できないから、拉致問題というのは存在するわけで、このことは話し合いではなんら解決にはならない、という厳然たる事実が露呈しているに過ぎない。部外者は全く無責任で、犬の遠吠えのように政府の責任を追及しているが、ならば戦争してまで攫われた家族を取り返す腹があるのかといえば、それは話し合いでと逃げるわけである。
これだから何時まで経っても本当の解決はないわけである。
本当の解決がないものだから、国民としては政府に不平不満をぶつけざるを得ないが、政府の方も戦争をしてまで真剣に解決しようとは考えていないわけである。
だから本当の解決は延ばし延ばしになっているわけである。
これは戦後58年間も放置されている北方4島の問題でも全く同じことがいえていると思う。
主権が侵害されていても、戦争はしたくないと思っているわけで、これでは他国から舐められても致し方ない。
他所の国からいくら舐められても血を流すことは嫌なわけである。