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家族旅行・グアム島

まえおき

またまた海外旅行に行ってきた。
今回はグアム島である。
毎度のことであるが、今回も出掛けるにあたり、行く行かないでひと悶着あった。
私も海外旅行に行きたくないわけではない。しかし、自分の行きたいところは行けず、家内の行きたいところに付き合わせられるところが大いに不満なわけである。
その実、行けば行ったで、最大限、楽しまなければ損だ、という浅ましい貧乏人根性がわが身に宿っていることも素直に認めざるを得ない。
私が家内に「タクラマカン砂漠やオリエント急行の旅がしたい」というと、「そんな金が何処にある!」と言いかえされるとグーの音も出ない。
しかし家内の方は「今度、グアムに行くからお父さんもついてくるのだよ」といえば、当然、私は「そんな何にもないところの行きたくない」ということになり、言い合いが口げんかになり、家庭崩壊にまでなりかねないので、最期は私が折れるという形になってしまう。
亭主の貫禄も、男の沽券も私には全くない。
「女、賢しゅうして牛売りそこなう」という見本のようなものだ。
女房の尻に敷かれていれば、一応外見の家庭平和は保たれている。br> こういうわけで、今回も事前の準備は何一つしておかなかった。
今回の旅行はパック旅行ではなく、自由旅行である。
クレジット・カードのポイントがたまって、航空券がただになると言うものらしいが、その辺のところは私は全くタッチしていなかったので、よく理解できていない。
何しろ今まで買い物したポイントがたまって、グアムまでの航空券がただで、向こうの宿泊費のみ負担すれば良い、というものらしい。
その辺りのことは娘が全部手配して、私は何もタッチしていなかった。
私たち夫婦と娘の航空運賃がただだそうで、どうしても私についていけというものだから、仕方なしに腰を上げたわけである。
私は留守番しているから誰か他の人を連れて行ってやれといっても、私本人でなければいけないそうだ。
それで我が夫婦と、嫁いだ娘と、その赤ん坊の4人連れでの出発となった。
1歳半にも満たない赤ん坊がついていくとなれば、結果は行く前から大体想像できる。
当日、平成14年10月20日、朝、娘婿が名古屋空港まで送ってくれた。
例によって荷物を預け、出発ロビーで待っていたが、今は赤ん坊連れの旅行でも非常に便利のなったことはありがたい。
トランクは預けなければならないが、折りたたみ式のベビー・カーは搭乗間際まで手元に置いておけれるので、これはありがたい。
孫も1歳半前ではなんとも致し方なく、一番手のかかるときで、ベビー・カーが手元に置いておけれるということは非常にありがたい。
飛行機はマクダネル・ダグラスDC-10で、これも名機の一つであろうが、いかんせん席が中央の席で、窓から外を見ることが出来ず、まことに残念であった。
しかし、席はエコノミー席よりも上等な、ゆとりのあるビジネス・クラスの席であった。
赤ん坊連れということで航空会社が気を利かせてくれたのかもしれない。
けれども、この機は客席にGPSのモニターがないので、私としては全く面白くなかった。
こうなればなったで自分のおかれた状況に順応するほかない。
出された機内食を食べて、新聞をむさぼり読んで、時の過ぎるのを待つほかない。

常夏の国の第一印象

グアム島というのは日本の真南の島である。
何故、この島が日本人の観光地となってしまったのであろう。
私ほどのものならば、グアム、サイパンとなれば、遊びに行くような場所ではないという意識が先に立ってしまう。
鎮魂の旅とか、巡礼行脚というイメージが先にたってしまう。
戦後57年も経つと、もう誰もそういうことを忘れてしまうのであろうか。
我が家の家内も、娘も、全くそういう意識を持っていない。
大体、ここで日本が戦争をしたということすら知らないに違いない。
彼らのイメージとしては、ただ単なるリゾート地以外の何物でもなく、ダイビングやサーフィンのできる場所というぐらいの感覚でしかない。
名古屋を9:40に出た飛行機は14:25にはグアム国際空港についてしまう。
約3時間半のフライトであるが、この地はまさに日本人のリゾート地である。
我々の父や祖父が血みどろの戦いをしたこの神聖な場所をリゾート地としてしまっていいものだろうか?
後にガイドの説明によると、この地のホテルは大部分が日本人の経営だということであるが、我々は、父や祖父が血を流して戦った土地で、今、享楽にふけっていることになる。
私としては、とても心が痛む問題である。
我が家の家内も娘も、大方の日本人と同じで、この地で日本とアメリカが熾烈な戦いをしたことすら知ろうとせず、享楽を求めてきているわけであるが、こういう状況を、中国や朝鮮の人々から見れば、さぞかしアホに見えているに違いない。
私は、この島に着いたときから離れるときまで、常に頭の隅にそのことが離れなかった。海を見ても空を見ても、60年前はどうだったのだろうか、という思いが駆け巡っていた。グアム国際空港について、入国審査を通過し、空港の外にでると、これは正真正銘の南洋であった。
照りつける太陽は皮膚を刺すような強さを感じた。
今回は娘が同行しているので、田舎のおのぼりさんよろしく、空港でうろうろするようなことはなかった。
娘はさすがに旅なれており、今回の旅程も、すべて家にいながらインターネットで手配しており、空港を出たらさっさと迎えの車に乗ってホテルに直行した。
この車というのが、この島のタクシーには違いないが、これが又フルサイズのアメ車、キャデラックであった。
私ほどの年齢のものは、アメ車というと、なんとなく畏敬の念を拭い去れない。
なんだか触ってもいけないような戦慄を覚える。
ところがこちらではこの程度のタクシーはざらにあるようで、特別目新しいものではないことがその後わかった。
車に乗って一歩町の中に入ると、此処はミニ・アメリカか思ったが、それも慣れてくると、アメリカそのものだということが判った。
ホテルにチェック・インすると私はもう動きたくなくなった。
部屋は8階であったが、ホテルそのものは15,6階まであったようだ。
8階の部屋からもフイリッピン海が一望の下に見渡せた。
このグアム島というのは南北に細長い島で、東側は文字通り太平洋であるが、西側はフイリッピン海になるわけである。
日本からは、小笠原諸島の一番南の硫黄島のさらに南というわけである。
北緯13度30分、東経144度30分ということだから 東経では根室あたりとおもえばいと思う。
赤道直下ではないが常夏の国には違いない。
今は10月ということで太陽は南半球に行っているので、日没も多少早くなっているにちがいないが、ホテルの窓から見えるものといえば水平線しか見えなかった。
もっともホテルの前の海は湾になっているので、厳密に言えば両側に岬らしきものはあるが、真正面は海と空しかなかった。
ホテルに着くと、ドア・マンというのか案内係というのか知らないが、普通ならば制服に身を固めたドア・マンがいるはずであるが、ここでは制服がアロハ・シャツになっているので、なんとなく貫禄がない。
キャバレーの呼び込みのようなものであった。
しかし、彼らも接客業であるので、それなりに人当たりも柔らかく、親切ではあったが、大都市のホテルのようなわけには行かなかった。
家内と娘が手続きをしている間、私は子守りである。
家内と娘がいる限り、私は何もすることがない。もっぱら子守り専門である。
部屋に入るとベットが3つ用意してあった。
ツインの部屋に、エキストラ用の素朴なベットがしつらえてあった。
これはこれで可もなく不可もなしというところであろう。
ホテルは当然日航系列である。
滞在中おいおいと判ってきたことであるが、このホテル・ニッコーというのはグアム国際空港からは一番近い、タモン・ビーチのという湾の一番はずれにあった。
国際空港そのものが、グアムの一番くびれた真ん中あたりにあって、そこから一番近いビーチであった。
ビーチというと砂浜を連想しがちであるが、確かに砂浜もあるにはあるが、そのほとんどをホテルが占拠してしまって、ホテルの専用ビーチのようなものである。
ビーチにあわせてホテルが建てられたようにも見える。
このホテル・ニッコーのビーチも、特別に柵がしてあるわけではないが、両側には自然の岩があって、簡単には行き来できないような状態であった。
必然的にプライベート・ビーチになっている。
そのビーチの手前には当然プールがあり、泳ぐ人はプールでもいいし、海岸で水遊びに興ずることも出来るという仕掛けになっている。
これも後になって判ったことであるが、ホテルの高い部屋から海岸を見ると、きれいな白浜に見えたが、これが実際は砂ではなく、サンゴの破片ということで、「裸足では歩くな」と注意書きがしてあった。
この砂浜の周囲には当然のように椰子の木が植わっており、よく雑誌等のグラビア写真にある常夏の国のロケーションそのものであった。
今回は赤ん坊連れであるので、そうそう機動的に動くことが出来ない。
車の旅行ならば自由の動けるが、今回はそういうわけには行かない。
ホテルの部屋に入ったものの時間が中途半端になってしまった。
それで所在無げに部屋の中で赤ん坊と戯れて時をやり過ごすほかなかった。
赤ん坊のほうは、いつもいつも爺婆が相手してくれるので上機嫌である。
部屋の中をあっちに行ったりこっちに行ったり何度も同じことを繰り返して歩き回っていた。

最初の晩餐

そうこうするうちに夕刻になり、食事をしようという段になると、なんとなく衆議一致して、部屋の案内書にあった寿司の食べ放題に行こうということになった。
それで下におりて、その「弁慶」という店に行ったら、カウンターに案内された。
私は正直言ってカウンターでの寿司というのは好きでない。
寿司を食べる楽しみというのは、基本的には、寿司を握る職人との会話をしながら食べるということは理屈では理解できる。
ところが私はこれが嫌いだ。
私にとって、食べるということは餌の供給以外の何物でもないわけで、その意味で、食文化というものにはまったく無関心で、ただ単なる栄養補給以外の何物でもない。
それなのに、見ず知らずの人と話をしながら食す、ということ自体苦痛そのものである。食べることが苦痛なのではなく、見ず知らずの職人と、とりとめのない話をしなければならない、というところが苦痛なわけである。
だから寿司屋のカウンターというのは好きになれない。
しかし、此処の場合、食べ放題というシステム上、そういうお客にはカウンター席にならざるを得ないようであった。
内心不快感を秘めながらも、目の前にあるガラスのウインドウ越しに、適当に注文しては、一応空腹を満たした。
実に窮屈であった。
回転寿司のほうが精神衛生上よほど上等である。
ここを出てロビーまで来ると、ロビーの下の吹き抜けになっている部分でバンド演奏をしていた。
ここでは当然のことハワイアンであるが、厳密に言うとミクロネシア音楽とでも言うほうが正確なのかもしれない。
音楽というのも進化するから面白い。
日本の民謡でも、この地のミクロネシア音楽、ハワイアンというのでも、我々が普通に接しているのはまさに進化した後のもので、もともとの音楽というのは、もっともっと素朴なものに違いないが、それを電気の力で強力なサウンドにしているので、素朴さというものは微塵も感じられない。
赤ん坊と一緒に此処でデイナー・ショウを見ている間に、娘と家内は、私のために翌日の潜水艦ツアーの予約をしておいてくれた。
というのは、ホテルの備え付けのパンフレットに、いろいろなツアーを紹介したものがあって、それを見ているときに、「お父さんこれはどうかね!」というわけで、私一人が子守りから解放されて、そのツアーに参加することになったからである。
というわけで、着いたその日は早々と部屋に引き上げて部屋の中での一家団欒となった。

翌日の朝

翌日は同じホテル内の別のレストランで朝食となったが、ここも例にもれずバフェ・スタイルの朝食で、この方式は私にとっては非常に好ましいものだ。
自分の好きなものを好きなだけ取ってもいい、という点が非常に気に入っている。
「好きなだけ食べてもいい」と言われても、そう無闇に食べれるものではない。
金を払う側としては、当然、勘定割れしているに違いないが、それでも自分の好きなものを自由に取れる、という点はありがたい。
赤ん坊が一緒だと、母親たるもの、自分の食事さえ満足に取れないので、早食いの私は、赤ん坊の食事を先に済ませて、その後べビー・カーに乗せて、プールの周りの庭園に、散歩に連れ出した。
朝の7時頃だったと思うが、一日の始まりで、ホテルの従業員がプールの周りの整備をしていた。
イスを直したり、ごみを拾ったり、海岸の砂を馴らしたりして、お客のために準備をしていた。
この時、部屋の窓から見えた海岸の白浜にも行ってみたが、確かに砂ではなくサンゴの粉である。
このサンゴの粉というのは、分かりやすく言えば、貝殻の粉と思えばいい。
だから砂のように角が丸くなっておらず、角が立ったままなので、「裸足で歩くな!」と至るところに注意書きがあった。
私は日本を離れると、どういうものか大地、地球の大地に非常に興味がわく。
この海岸のサンゴの粉というのは十分に理解できるが、少し丘のような小高いところに行ってみると、土の色が真っ赤なところがある。
以前、アメリカの西海岸に行ったときに見た、ザイオン国立公園の赤い大地と同じ色の土があったし、日本で普通に見かける断崖絶壁の岩もいたるところにある。
この島も、おそらく環太平洋火山帯の中に位置しているので、火山活動で出来たとしても不思議ではないが、日本の小笠原列島から引き続き転々と南に小さな島が並んでいるということは、その一つ一つは噴火の跡とみなしていいのではなかろうか。
噴火で島が出来て、浅くなったところのサンゴが繁殖し、この島の特異な地層になったものと勝手に解釈してみた。
ホテルの前の海岸には、水際は急に深くなるところがあるから、と注意書きが添えてあったが、それは部屋の窓から見ても一目瞭然とわかる。
海の色が違っているのでそれと判る。
このほんのわずかな散歩スペースでも結構面白い発見があった。
というのも、この地はやたらとトカゲが多い。
我々の身近に見るものとほとんど変わらないが、砂浜というか、珊瑚の粉のうえを走り回っていた。
植わっている植物といえば、ハマユウとハイビスカスと、椰子の木ぐらいしかない。
しかし、珊瑚の粉のような土地にも植物を育てるに十分は栄養があるものだろうか。
そして地面にはいたるところに小さな穴が開いていた。
これも生き物がいる証拠であろうが、我々の眼には、それが何かわからなかった。
ベビー・カーを押して、この小さな庭園をふた周りして、朝の空気を胸いっぱい吸い込んだが、この部分は午前中は日陰になっているので非常に快適であった。
けれども、日陰でない部分は強烈な太陽である。
娘と家内が食事を終え、全員で部屋に戻り、くつろいでいたら私の出かける時間になった。

ホワイト・サブマリン

ホテルのロビーで待っていると呼び出しがあり、それについて行くとワゴン車に乗せられて、2,3軒他のホテルにも立ち寄って客を集め、さらに車を乗り換えて港まで行った。
知らない土地で、人の運転する車に漠然と乗っていると、何処をどう走ったかさっぱりわからない。
後でゆっくり案内書を見てみると、アプラ湾というところで、その湾の一番奥にアトランテイス・サブマリン発着所というのがあった。
要するに、このアトランテイス・サブマリンという会社が、ここを拠点として観光客を集め、潜水艦に乗せて水中を見せることを業務として行っているわけである。
それで迎えの車を降りると、そこは日本でいえば釣り船の発着場と思えば間違いないロケーションであった。
そこは発着場であると同時にギフト・ショプにもなっていて、小さなみやげ物も扱っていたが、メインはTシャツであった。
車を降りると、すぐに船に乗るようにせかされたが、この船が又すばらしく立派なもので、さすがアメリカである。
日本人観光客は総勢25,6名というところであった。
乗ったときは気がつかなかったが、この船はカタマラン船であった。
ちゃちな桟橋から乗って、もやい綱が解かれると、早速、案内係の黒人の女性が船長の紹介やらスタッフの紹介を始め、同時に救命胴衣の使い方をデモンストレーションした。
それは飛行機のスチュアーデスのしぐさと全く同じであった。
あのしなを作ったオーバーな立ち居振る舞いは、なんとなく愛嬌があり、憎めないデモンストレーションである。
それでこの渡し舟、正確には「フリッパーU」は沖に向かって走り出したわけであるが、すぐに右側に大きな豪華客船がみえた。
船名は「リーガル・プリンセス」となっていたが、3万トンは優に超えるのではないかと思う。
白い大きな巨体を静かに横たえていた。
家内は、「こういう船で船旅をしたい」といつも言っているが、「お前はダンスが出来るか?ダンスが出来なければ、こんな船に乗っても惨めな思いをするだけだぞ」と戒めている。
田中耕一さんのノーベル賞の受賞式と同じで、ダンスとなると、我々は頭を悩ませなければならない。
豪華客船の旅は良いに決まっている。
掛ける金が違っているのだから、それは当然であるが、我々のようにダンスも出来なければ、英語も不十分なものが、こんな船に乗って一週間も陸から離れていれば、コンプレックスに陥ることは目に見えている。
下から眺めるだけにしておいたほうがよほど無難だ。
この「フリッパーU」の行くて左側には、これも同じくらいの大きさの船で、こちらは「ピーターバーグ」と命名されていたが、この船はどう見ても海底電線敷設の船のように見えた。
素人判断だから間違っているかもしれないが、甲板に並んでいた大きなドラムのようなものは電線ではないかと思う。
電線といっても、昔のように銅で出来たものとは限らないわけで、今ではそれがグラス・ファイバーなり、光ファイバーに進化しているかもしれないが、とにかくそういう類のものを海底に敷く船ではないかと思う。
そして15分も走ると、先のほうの静かに凪いだ海面上に、小さな白い潜水艦が漂泊していた。
潜水艦といえば、我々よりも若い世代はどうしてもイエロー・サブマリンを連想するだろうけれど、私たちの世代はやはり原子力潜水艦を連想してしまう。
ハワイ沖でぶつかった潜水艦や、東京湾口で釣り船とぶつかった潜水艦を連想してしまう。しかし、此処の白いサブマリンは全く平和そのものである。
「フリッパーU」のキャプテンは、見事に一発でその潜水艦に横付けした。
潜水艦のデッキというのは、やはり狭くて、ほとんど身動きできないぐらいで、前後の2箇所に中に入るハッチがあった。
このハッチのはしごを降りると、中はそれぞれ外の景色が見えるように大きな丸窓のついたキャビンになっていた。
中央に長いすがあり、それに座って外を見るように出来ていた。
それに座って窓の外を見ると、今乗ってきた「フリッパーU」の船底が見えた。
スクリューが回ると、スクリューの端から後方に一直線の筋が出来るのがよくわかった。
黒人女性のガイドがハッチの蓋を締めると、いよいよ潜水開始であるが、別にどうということはなかった。
最初のうちはガイドが水深何mと言っていたが、何のことはない、前の運転席のそばに、デジタル表示で赤いダイオードで記されているではないか。
水深10mぐらいになるといろいろな魚を見ることが出来た。
実にさまざまな形と色をした魚がいた。
窓の脇には図鑑というかそういう魚を図示した敷物がぶらさげてあったが、いちいち見比べる時間が惜しくて、窓に顔をくっつけていた。
サバやアジ、キスぐらいはわかるが、後はどんな名前の魚かさっぱり判らなかった。
中でも熱帯魚というのは実に美しい色彩を帯びている。
赤、黄、ブルーという色が、染料も使わず天然のままであれほど綺麗に出るというのが不思議でならない。
あの魚の一つ一つに名前があるのだろうけれど、こういうことを研究している学者というのは実に偉いものだと思う。
そんな魚が窓の周りをうろうろしていた。
この水深10mという深さは、まだ太陽の光が差し込んでいるので、窓の周りは魚が手に採るように見える。
そのうちに大きな真っ黒の体長1m近い魚が現れた。
ガイドは名前を言ったが聞き漏らしてしまった。
すると今度はどこからともなくダイバーが窓の周りに近寄ってきて、一つ一つの窓に手を振った挨拶していた。
腰には何かを入れた袋をぶら下げていた。
しばらくすると、ダイバーはその袋から何かを出して、窓の前で放すと、黒い大きな魚がすばやくそれを取って食べていた。
要するに、一種の餌付けであるが、それが一つの見世物になっていたわけである。
この海の中、静寂の海の中で、魚に餌付けするということは一種の自然破壊ではなかろうかと、ふと思った。
そしてこの下にある珊瑚というのも、実に不思議なものである。
丁度、シイタケ栽培の原木にシイタケがいっぱい群がって出来ているような光景である。
あれが一本一本の木ではなく、面の広がりを持ったまま、高く低くうねっているような光景である。
そして、フジツボのようなものや、イソギンチャクのようなものをついばんでいる色とりどりの魚を見ていると実に不思議な気がする。
そして海がめの遊泳や、ウミヘビの顔を出した光景など、テレビで見る映像と全く同じである。
我々が潜水艦に載って海の中を見るということは、本来ならば未知との遭遇でなければならないが、我々は既に未知というものをテレビで見て知ってしまっているというところがなんとも不思議でならない。
テレビで見たことの確認に過ぎない、というところがなんとも不思議である。
そんなわけで、潜水艦はさらに深く潜って、水深30mまで潜ったが、ここまで来るともう太陽の光は届かないと見えて、周囲の色が変わってきた。それから急浮上した。
旅客機が飛び立つような角度で水面に向かって浮上したが、これで愛媛水産高校の生徒たちが犠牲になったに違いない。
その間、ガイドが我々の目の前の窓に填まっているガラスの見本を見せてくれたが、それは厚さ約10cm弱の分厚いものであった。
珊瑚というものが生き物であるということは、いまだに理解できない。
ジェット機がなぜ空を飛ぶのか理解できないのと同じで、いまだに自分自身納得できない。
この地球上には、自分自身で納得できないことはまだまだ一杯あるようだ。
あの魚の色だって、なぜこの熱帯の魚が原色で鮮やかな色を持っているのか不思議でならない。
そして弱肉強食の自然界で、大きな魚と小さな魚が共存しているのが不思議でならない。浮上した潜水艦から再び「フリッパーU」に乗り移った後は、一目散に港に引き返したわけであるが、この釣り宿のようなギフト・ショップのある辺りの入り江には、沈船が放置してあったが、海の男というか、海を生業の場としている人たちは、どうして身の回りの海を綺麗にしようとしないのか、これも又不思議なことだ。
沈船を何時までも放置しておくということは一体どういうことなのであろう。
これは日本だけのことかと思ったが、ここでも全く同じで、水の入った船が赤さびたまま海の中に放置してある。
洋の東西を問わず、処理をするのに金が掛かるからそのままにしてあるものと思うが、それではあまりにも不道徳だと思う。
海を生業の場にしてきた人ならば、余計、海を綺麗にする意識があってもいいのではないかと思う。

メイン・ストリートの散策

その後、来たときと逆のコースでホテルまで送ってくれたが、この時点で12時半ぐらいになっており、食事をしようと思ったが、ホテル内のレストランではべらぼうに高いので、町の見学がてら外で食べることにした。
日差しは猛烈にきつそうであったが、思い切って外に出てみると、日差しはさして変わらないが、風があってさほど苦痛には感じなかった。
ホテルを出てほんの少し歩くとワイルド・ウエスト・ガン・クラブというのがあった。
近寄ってよくよく見てみると射撃場である。
日本の射的とは違って、本物の銃で実弾射撃をさせてくれる射撃場である。
やってみたい衝動に駆られたが、今更、ダーテイ・ハリーを気取っても様にならないだろうと思い直して素通りした。
空港に降り立って最初に感じたことは、ここはミニ・アメリカだと思ったが、こうして自分の足で歩いてみるとアメリカそのものである。
行き交う車も、街の有り体も、アメリカそのものである。
こちらの人々はチャモロ人が55%、アメリカ人が25%となっているらしいが、このチャモロ人というのは、どうも音には鈍感なような気がしてならない。
というのも車のエンジン音からクーラーの音まで、全く気にしていない風に見える。
こういう常夏の国では、涼しさが一番のもてなしという認識があるようで、人の居るところを最大限涼しくすることが客に対する最大のサービスと思っている節がある。
だから大きな車体のバスが、大きなエンジン音のまま、エンジンをかけてクーラーを動かしている。
そんなのがあちらにもこちらにもいるわけで、うるさくてかなわないが、それを一向に意に介していない。
そして、島なるがゆえに結構起伏がある。
その起伏は、ゆるい勾配を取ることが出来ないので、急な坂道が多く、大きなバスがあえぎあえぎ登っている。
こんな小さな島ならば、バスも小さくすればよさそうに思うが、それがアメリカ本土と同じ大きさの、どでかいバスが急な坂を上り下りしているわけである。
こんな調子で、午後からはタモン・ビーチの繁華街のようなところを散策した。
その間、娘と家内たちはただのバスでショッピング・センターのようなところを見て回っていたらしい。

横井ケーブ

二日目はこんな調子で終わったが、三日目は私一人で グアム島一周のオプショナル・ツアーに参加することにした。
このツアーは出発の時間が早く、ロビー集合が8:00であった。
この日我々を乗せて運んでくれたバスは、アメリカ本土のスタンダード仕様のどでかいバスであった。
グレイ・ラインというバス会社のバスであった。
ガイドは60歳ぐらいのおばあさんで、めっぽう陽気な人であった。
例によって他のホテルを2,3軒はしごして人を集め、それから島内観光となったが、一番最初に横井さんが隠れていた穴というところに案内された。
これは島の反対側に出て、太平洋岸を南に下ったところで、まさしく熱帯のジャングルというロケーションである。
ターザンでもでそうなところである。
横井庄一さんはまさしく日本のターザンであったが、あのターザン映画のように格好が良ければいいが、そうでないところがいかにも日本的というか、東洋感覚なのであろう。
映画に出てくるターザンは、弱きを助け、強きをくじく、正義の騎士という感じがするが、日本版ターザンは穴の中でちまちまと自分の衣服をつくろったりはしても、外敵が来ると一目散に逃げてしまう非常に不甲斐ないターザンであった。
幹線道路から外れて、横井さんのいた洞窟なるものに近づくと、そこは本当にターザンでも出そうな雰囲気で、川があり、滝があり、椰子の木は茂っており、熱帯の果物の木が一杯あるわけで、自然採集生活をするには十分生けていけそうなロケーションであった。
横井さんのいた穴に行くには、大きな段差を超えなければならないので、そこにはちゃちなロープ・ウエイがかかっていた。
横井庄一さんの発見という事が、世界的に大きな反響を呼んだので、それに便乗して観光地として売り出そうという魂胆が見え見えの場所であった。
バスを降りると、小さな休憩所というか、ロープ・ウエイの切符売り場というか、とにかく寂れた遊園地のような施設があり、実際にその周りには模型に毛の生えたような幼児用の列車の乗り物があった。
この施設の壁には、横井庄一さんの生活ぶりを図示した絵が壁に書いてあったが、まるで熊の冬眠のような絵であった。
このわけのわからない施設の向こう側に、例のちゃちなロープ・ウエイがあり、これに乗って崖を下りると川があり、滝があり、そのあたりが散策できるようになっていた。
横井庄一さんは、この辺りにいくつも穴を掘って生活していたらしく、この辺りが彼のテリトリーであったようだ。
無理もない話で、素彫りの穴だから、長い月日の間には、それがつぶれたり埋まったりすることもあるわけで、その意味で彼がこの辺りいくつも穴を掘ったということはうなずける。
彼の発見は1972年、昭和47年のことである。
戦争が終わったのが1945年、昭和20年のことだから、彼は27年間もこのジャングルで生活していたわけである。
まさしく20世紀のターザンである。
彼も最初から全く独りでいたわけではなく、途中までは仲間というか、同僚というか、戦友というか、そういう者がいたが、最終的には一人になってしまったわけである。
あのロケーションから察すると、逆説的であるが、一人であったからこそ生き延びれたといえるかもしれない。
常識的に考えると、人間は全く一人では生きられないと思いがちであるが、横井正一さんの隠れていた場所、背景、ロケーションから考えると、あの場所では逆に大勢の人間が生きて行くということは出来なかったに違いない。
たった一人だったからこそ生き延びれたということがいえると思う。
川があって、滝があって、密林があって、野生生物が一杯いる中で、たった一人だったから、そういうものを最大限利用しえたが、これが50人100人というマスとなると、あの森は人間の生命維持のキャパシテイ―を超えてしまうと思う。
昨今、利口ぶった人たちが、自然破壊とか環境保全ということを声高に叫んでいるが、私に言わしめれば、人間の存在そのものが一番の自然破壊であり、環境破壊だと思う。
このグアムの密林も、横井さん一人だったから彼を生きながらえさせることが出来たが、これが50人もいれば、到底それらを生きながらえさせることはできなかったに違いない。
ならば他の島民はどうして生きているのか、ということになるが、彼らは隠れて生きる必要がないので、他との交易をすることによって生きていけるわけである。
横井庄一さんたちは、日本とアメリカの戦争という状況下で、隠れて生きていかなければならなかったわけで、そういう状況下で50人100人という単位で、自己完結的な生活は無理であったのではないかと思う。
この横井ケーブの周りには、誰が安置したか知れないが、金ぱくのお地蔵さんというか、仏像がところどころに安置してあった。
やはり日本人が安置したものではないかと思うが、このグアム島というのは、紛れもなく太平洋戦争の戦跡以外の何物でもない。
この横井ケーブから引き上げるとき、道路の右側にはNASAの人工衛星追跡基地があった。こちらはいかにもアメリカの施設らしく、白亜の平屋建てで、質素ではあるが必要かつ十分な機能を持った施設である。

イナラハン・チェモロ文化村

ここから少し南に下ると、ひなびた村に着いた。イナラハンという村である。
ここは観光の拠点になっているらしく、バスはここで停車してガイドは皆を降ろして、椰子の葉っぱで葺いた小屋の中に案内した。
その小屋というのは、広さは6畳ほどのもので、屋根も壁もすべて椰子の葉で出来た掘っ立て小屋である。
そういう小屋が5つ6つあった。
この小屋の中では原住民の実演があったが、その実演というのは椰子の実を如何に利用するかというものであった。
そもそもここの原住民と言われている、チャモロ族という言葉そのものが目新しい。
ポリネシアとかミクロネシアという言葉ならば聞きなれているが、チャモロ族という言葉は、聞きなれない単語である。
南太平洋には数多くの島があるので、その島の一つ一つにそれぞれ違う部族が住んでいたのかもしれない。
そしてグアムにもともと住み着いていた人達のことをチャモロ族と言うのかもしれない。
文化人類学がだんだん発達してきて、昔は大雑把な呼び方をしていたものを極めて正確に呼ぼうとした結果ではないかと思うが、あまり細分化すると逆に差別を助長することになるのではなかろうか。
ここの原住民達が椰子の実を如何に上手に利用するかというのは一つの驚きであるが、いかんせん、そういうものは近代科学の陰に隠れてしまうので、ある意味では非常に気の毒な存在である。
椰子の実からは非常に優れた油が取れ、それは何にでも効くということであるが、近代文明に毒されていない人には効くかもしれないが、薬つけの現代人には素直に効かないと思う。
近代科学から隔離された人たちには、メンソレタームでも歯磨き粉でも効くのと同じで、椰子の実からとった油というのも、そういう状況では何にでも効いたにちがいないが、今ではここで実演し、実際に椰子の実からとった油の効用も信用されていないに違いない。
椰子の実というのは、真っ二つに割ると、真ん中は真っ白なたんぱく質がたまっているものらしい。
それをビールの栓抜きのような器具にこすり付けて、そのたんぱく質のような白い部分をそぎ落とすという実演を、年端もいかない若い土地の娘がしてくれた。
そのそぎ落とされた白い粉末を集めて、それを煮詰めると油が分離するらしいが、この油は万病に効くとガイドは言っていたが、現代人に果たして本当に効くかどうかは定かでない。
ガイド氏の話を総合すると、椰子の木というものは全く捨てるところがなく、全部利用できるものらしい。
そのことがこのチャモロ族の文化というわけで、それがこのチャモロ文化村というところに展示してあったわけである。
椰子の葉っぱの利用方法などが実演つきで披露されていたが、それはそれなりに民芸品としては価値あるものだと思う。
ところが今回のガイドさんも、どう見てもチャモロ族の後裔という感じがするが、彼女は60過ぎのおばあさんのようで、彼女の話を総合して推測すると、彼女はどうも若い頃、海女として海に潜っていたのではないかと思う。
その後、ギフト・ショップで売り子として働いていたが、これは人間関係が嫌になって再びガイドとして、人と接する仕事についたということを言っていたが、その彼女が言うには、チャモロ人というのは一次産業につく人がおらず、農業、漁業の従事者は一人もいないということである。
太平洋戦争のとき、日本軍はここでサトウキビを栽培し、米を栽培し、野菜を作ったと言っていた。
だからここでも「作れば出来る」と言っていたが、チャモロ人はそれをしようとはしないということである。
チャモロ人というのは、食べることと寝ることは好きだが働くことは好きではないと言っていたが、これほど自分たちの所属の民族性を赤裸々に言う人もいないのではないかと思う。
イナラハンのチャモロ文化村というのは、日本で言えば北海道のアイヌ村のようなもので、原住民の生活を再現することで、それが観光資源になっていたわけである。

ウタマック村

ここを見終わって、さらに海岸線に沿って進むと、ウマタック村々というのがあって、ここはスペインとのかかわりのある場所であった。
1521年、スペインのマゼランがこの地に上陸したということであるが、織田信長が天下統一する半世紀も前に、スペインがこの南洋の島々にまで足跡を残していたということは、まさしく驚異そのものである。
私は、太平洋戦争で日本軍がここまで侵攻したことを感嘆の目で見ていたが、スペインのしたことを考えれば、そんなものは物の数のうちに入らないようだ。
織田信長が天下統一しようとしたその半世紀も前から、ヨーロッパのスペインは、この南太平洋を我が物顔に行き来していたわけである。
このウタマック村の高台には3門の大砲と見張り小屋があったが、これはスペインがメキシコとフイリッピンの間を行き来していた頃の施設だということである。
この頃のヨーロッパ人のバイタリテイーには本当に感心させられる。
スペイン、ポルトガル、大英帝国の覇権主義というものには、本当に驚かざるを得ない。
それに引き換え、アジアの人々、ポリネシアの人々というのは実に不甲斐ないわけで、インドから中国、そして朝鮮と、アジアの人々はヨーロッパの人々に散々踏みにじられてきたにもかかわらず、それに反発をした民族がいない。
それを成しえたのが、不肖、日本だけであったわけである。
このウタマック村というのは、かってはスペイン風の繁栄した町であった、ということになっていたらしいが、今は寂れて見る影もない。
そしてここを通過してほんのしばらく行くと、日本対アメリカの決戦の場が現れるわけである。

日米決戦の地

ここはもうフイリッピン海に面しているわけで、島の西側に当たるが、アメリカが上陸作戦をするには、この西側からでなければ出来なかったわけである。
それは必然的に海岸線で決まるわけで、断崖絶壁の海岸からは上陸作戦は出来ないわけで、当然、遠浅の海岸となると条件は絞られてくることは致し方ないと思う。
その場所を今はアメリカ流にガン・ポイントと称しているようであるが、ここを地図上ではアガット湾と言っている。
そして、ここから海に突き出たオロテ半島を挟んで、アサン湾というのがあり、このあたり一体がアメリカ軍の上陸地点であったということだ。
アメリカ軍のことだから、狭い一点に集中することなく、面の広がりをもって、面として制圧する気で押しかけて来たに違いない。
もともとグアム島というのは、スペイン領であったものをアメリカ軍が占領し、アメリカ領となっていたところを太平洋戦争の勃発と同時に日本軍が進攻し、日本領となったので、今度はアメリカがそれを奪還しようとしたわけである。
それが1944年7月21日のことである。日本の終戦の約1年前のことである。
日本の戦況は、このサイパンとグアムがアメリカに奪還されてから形勢が悪くなったわけで、それは太平洋の地図を眺めていれば必然的に理解できる。
サイパンとグアムを取ったアメリカは、太平洋の真ん中に大きな橋頭堡を作ったと同じで、ここから自由に日本本土を爆撃できたわけである。
この時点で、日本側は約3千名の人員でこの島を守っていたわけであるが、そこに押し寄せてきたアメリカ軍というのは、5万5千以上というのだからこれでは勝負は目に見えている。
日本とアメリカの戦争は、まさしく物量の戦争であったわけで、我々がこのグアムでもサイパンでも敗北したということは、物量の補給に限度があったからだと思う。
そしてそれは同時に物量そのものにも大きな差があったわけで、その差を精神力でカバーしようという発想は、既に敗北をカモフラージュする言い訳でしかなかったわけである。
横井庄一さんたちは良く戦ったと思う。
しかし、3千人と5万5千人の戦いでは、如何ともしがたいに違いなかったと思う。
敵、つまりアメリア軍の方は、上陸の前から艦砲射撃で散々日本側を痛めつけておいて、それから雲霞のごとく飛行機および兵員が上陸してきたわけで、これを守る方としては、兵員の数と補給の有無によって完全に尻すぼみになって行ったに違いない。
横井庄一さんたちは、おそらく弾が一発もなくなるまで戦ったと思う。
こちらは弾がなくなっても、相手はいくらでもあるわけで、これでは最後の結果は明らかである。
しかし、日本側の3千名というのは、軍人だけの数で、実際には民間人がいたわけで、日本側の勢力を2万にとした資料もある。
戦争中の占領地や前線における民間人の扱いというのは戦後複雑な問題を呈している。
サイパン島の万歳クリフというのも、追い詰められた民間人が「万歳」と言いながら崖から飛び降りて、自らの命を立った事件であるが、これも民間人の問題である。
沖縄戦でも、民間人と戦闘員の区別というのは定かに決まっていなかったわけで、それだけ戦争というものが非情ということであろうが、それから60年を経過したいまでも心痛む問題である。
この辺りはアメリカ側の戦勝記念公園となっているが、この日のバスはあっけなく通過してしまった。
私個人としてはゆっくりと見て回りたかったが、ここを見たいという日本人の要望が少ないからだと思うが、ガイドは通り一遍の説明で通過してしまった。
しかし、あのガイドたち、すなわちチャモロ人にとっては、あの戦争はどういう影響をもたらしたのであろう。
日本が侵攻してきたときにはサトウキビを作り、稲を作り、野菜を作ったということで、そういうものも作れば出来るわけであるが、彼らチャモロ人はそういうものを作ろうとはしなかったということである。
考えてみれば無理もないかもしれない。
というのは、椰子の実がある限り、彼らは生きていけるわけで、苦労して物を作る必要はないわけである。
この辺りの浜辺をアメリカは戦争公園という施設にして保存しており、バスの窓から魚雷の展示したものや、日本軍の戦車を展示したものが垣間見れたが素通りしてしまった。
この時に使われた日本軍の戦車というのは実にちっぽけなもので、今の乗用車と大して変わらないほどの大きさである。
60年以上も前のことを思えば、それなりに大きくて壮観な兵器だったかもしれないが、今の目で見れば、実にこじんまりとしたちゃちな代物という感がする。
このアガット湾のガン・ポイントには、日本軍の立てこもった要塞と対空砲が陳列してあったが、本土から遠く遠く離れたこの地域では、砲があったとしても、それに使う弾薬が十分には補給されていなかったと思う。
十分に補給されたとしても、補給線が伸びきった以上、いつかは弾薬の切れるときが来るわけで、そうなれは風船が縮むように自然に小さくならざるをえなかったに違いない。

黄色人種の挑戦

もう一つのアサン湾には、アメリカ側の作った太平洋戦争国立歴史公園というのがあって、ここではアメリカ側の資料が豊富に陳列してあり、それにまつわる書物もふんだんに置いてあった。
やはり、あの戦争というのは、アメリカ人にとっても特別なものであったのではないかと思う。
特に、黄色人種がアメリカ人に対して挑戦してきたという点で、彼らの恐怖心はいやがうえにも盛り上がったに違いない。
そしてサイパンでも、グアムでも、沖縄でも、その戦いぶりというのは、日本軍の兵力の数十倍という大きな単位でかかってきたわけで、その裏には五分五分の兵力では自分たちは負けるかもしれない、ということを知っていたからだと思う。
それが出来たということは、裏返せば、国力が勝っていたということでもあるが、それに引き換え日本のほうは、行った先々で物資を自給自足しながらの戦いぶりであったし、物資を自給自足する過程で、相手先を抑圧したり、民間人を無理やり協力させなければならなかった、という事情がついて回ったわけである。
物資を自給自足しながら戦いをする、ということは究極の帝国主義そのものであったわけである。
日本の内地で、戦争遂行のための資材・物資・弾薬を十分に造って、それを前線に送るというのではなく、敵を攻めて、攻めたところで油を確保したり、米を作ったり、サトウキビを作って食料を確保しながら戦おうとしていたわけである。
これを一言で表現すれば、泥縄式の戦争遂行と言わざるを得ない。
我々がそうしなければならなかったのは、結局は、内地の国力が十分に無かったということで、マッカーサーがいみじくも言ったとおり、戦争前の日本には生糸以外何一つ生産しうるものがなかったということである。
生糸しか作れない国がアメリカに対して戦争をしでかした、ということで彼らはさぞかし驚いたに違いない。
だから彼らにとって「日本と戦って勝った」ということは特別の感慨があったものと思う。キリスト教文化圏の白人に対して、異教徒の黄色人種が堂々と渡り合ってきたということは、彼らにしてみれば、驚天動地のことであったわけである。
彼らが過去に征服してきた、インド、中国、アフリカ、インドネシア、メキシコ、フイリッピン、南洋諸島等々の人々は、キリスト教文化圏の白人に対しては実に素直で、敬虔に帰依してきたが、このアジアの小さな島のJAPANだけは、彼らに対して真正面から歯向かってきたわけである。
そのことは同時に、彼らが我々日本人を憎む憎悪の念もより深くなったわけである。
「可愛さ余って憎さ100倍」ということわざのように、素直に屈すれば憎さもそう昂じないが、牙をむいて歯向かってくる相手には、憎さも倍増するわけで、それが戦後の占領という形に表れ、極東国際軍事裁判という形として我々の上にのしかかってきたわけである。
彼ら、キリスト教文化圏から我々日本人、日本民族というものを見た場合、人類が生存し続けている限り、日本が再びキリスト教文化に対して歯向かうことのないようにしておかなければならなかったわけである。
それが日本の戦後の民主化というものとなって具現化しているわけである。
私が民主化の具現化と言った場合、これは「日本民族は金玉を抜かれた」ということを言っているつもりである。
私の意識らすればそれは、民族の誇りも、名誉も、かなぐり捨てて、ただただ命乞いをする賎民に成り下がった、ということを言っているつもりである。
「金持ち喧嘩せず」と言うが、これは個の名誉も、誇りも投げ捨てて、ただただ命乞いをするだけのエコノミック・アニマルとして、人としての価値を喪失し、精神的な生ける屍として、単なるアニマルを指し示しているわけで、そういう道を21世紀の日本は選択しているわけである。
私自身もその中の一人だということは言うまでもないが、その結果として、今こうしてかっての激戦地を見て回り、グアムのホテルで自分の孫と寛いでおれるわけである。
日本が、この地球上にある諸国家の中の普通の国家だとしたら、とてもこんな優雅な生活は出来ない。
日本は地球上でまれに見る特異は国家だから、我々は安逸に耽っておれるわけである。
人間は苦しいことよりも楽な方が良いに決まっている。
普通の国のように、自分の国を自分自身で守ろうという気概を持とうとすれば、とても今あるような優雅な生活は保障できない。
我々は、自分の国を自分で守ることを放棄し、主権国家としての誇りも名誉も捨て去ったからこそ、キリスト教文化圏の人々は我々を受け入れているわけである。
サイパン、グアムの玉砕というのは、そういう意味があったものと思う。
この太平洋戦争国立歴史公園にはもう少し居て、感慨にふけりたかったが、ガイド氏にはそんなことは関係ないことで、どんどん先に進んでしまった。
ここを通過すると、丘の上のホテルで昼食を取り、その後は北のほうに案内された。
午後の目玉は南太平洋戦没者慰霊公苑であった。
ここは島の北に向かう道路から100mほど入ったところに白亜の塔が立っていた。
かって日本軍の司令部があったところで、終戦の約一年前、ここで守備隊司令官をはじめ主だった指揮官が自決した場所といわれている。
アメリカ軍が上陸してわずか1ヶ月も経たないうちに、文字とおり玉砕、奪還されてしまったわけである。
サイパンとグアムを制圧したアメリカは、ここで新たに日本本土を攻撃する足がかりを得たわけで、日本内地の空襲もこの頃から頻繁になったわけである。
このサイパン、グアムというのは、アメリカ側から見れば確かにリゾート地としてなんら不足はない。
しかし、我々、日本人から見れば、リゾート地として見るにはあまりにも罪多き土地といわなければならない。
我々の父や祖父が血を流した土地を、臍だしルックでちゃらちゃら歩く事は、あまりにも神を冒涜する行為に思えてならない。
このグアム島の観光案内というのは、戦跡のことなど一言も記されていない。
ショッピング・センターだとか、ゴルフ場の案内とか、ウオーター・スポーツの案内は、腐るほど散見するが、かって日本とアメリカは血で血を洗うような激しい戦いをしたことなどどこにも載っていない。
しかし、日本人の中にも、そのことを忘れないでいる人もおり、そのことを知っている人もいるわけで、横井さんの潜んでいたところにも、この戦没者慰霊公苑にも、かっての勇者を慰霊する我々同胞の跡があるところを見ると、日本人の全部があの戦いを忘れてしまったわけではない。
ここを過ぎるとバスは一目散に町に戻ってしまった。
この島の北の部分にはアメリカ軍の空軍基地があるはずであるが、金網のみは見ることが出来たが、あとは何一つ見ることが出来なかった。
後は街中のショッピング・センターに直行である。
これがパッケイジ・ツアーの限界であろう。
もっと詳しく見ようとすれば、やはり自分の足で歩くほかない。
この日はこれでホテルに帰ってきて部屋でのんびりした。
家内たちは、それぞれに買い物に行ったり、プールに行ったりして、時間を過ごしていたらしい。

最後の日・恋人岬


ホテルの8階の窓から海を見ると、右手のほうに高い崖が見え、それはさまざまなパンフレットによると、恋人岬というものらしい。
帰る日は、午前中の時間が空いているので、皆でそれを見ることになった。
娘と行動を共にすると、これが又旅慣れたというか、一般の交通機関を利用するもので、乗り換えの煩わしさといったらない。
ただのものは徹底的に利用するという風で、その分の労苦を厭うわけには行かない。
それでホテルからただのタクシーでギフト・ショップまで行き、そこで恋人岬に行くバスに乗って終点まで行った。
この岬は、やはり恋人伝説の場所で、こういう伝説は世界中でどこにでも転がっている話である。
同じようなロケーションが日本の伊豆半島の先の土肥岬にもあるそうで、それが縁で姉妹都市を結んでいるということである。
確かに、岬からの眺望は素晴らしく、前方のフイリッピン海の眺めは素晴らしかった。
目の前の海が太平洋であればなんら違和感がないが、フイリッピン海といわれると、どうも心理的にしっくりこないようだ。
地図で南洋諸島を見てみると、日本から小笠原諸島をまっすぐ南のほうに下ってくると、そこにグアム、サイパンがあり、その島の左手、つまり西側はフイリッピンにつながっている事は理解できるが、なんだか信じられない気持ちだ。
私の潜在意識の中では、海といえば、日本海と太平洋しかないわけで、それ以外の海というのは心の奥で受け入れを拒否しているようだ。
そして海の色というのは一刻も同じ色というのは無いわけで、時々刻々と変化している。この変化を高い位置から見ていると全く飽きない。
ホテルの前の海岸も、潮の満ち引きで大きく変わるのがとても面白かった。
この恋人岬というのは、若いカップルには格好の場所であるが、我々のような子連れならぬ孫連れでは、少々場違いな感がしないでもなかった。
そんなわけで、グアム島の珍道中もいよいよ幕を下ろす段になってきたが、帰りの出国検査では、またまた引っ掛かってしまって、靴の中まで調べられたが、これもこうたびたび重なると、こちらも慣れてしまってそう驚くべきことではなくなってしまった。

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