>

富士総合火力演習

出発までの成り行き

去る8月31日、富士総合火力演習を見学してきた。
前々から一度は見たいと思って各方面に声を掛けておいたので、最初は自分史の仲間の斉藤さんから声がかかった。
この時点ではまだ再就職する気がなかったので、のんびりと幸運に浸っていたが、その後再就職の話が持ち上がって、急遽仕事につくことになった。
そうなるとスケジュールがきつくなって、かなりのものを犠牲にしなければならなかった。そうこうしていると、小牧隊友会のほうから、「31日の演習を見に行かないか」という誘いがあった。
その後のいろいろな折衝の中でわかってきたことは、8月の最後の週、25日、27日、31日と演習があるらしいが、当然前のほうはリハーサル的なもので、本番は最後の31日ということらしかった。
斉藤さんからのお誘いは25日の分であったが、結局これは「枠が取れなかった」ということでお流れになった。
それで隊友会のほうから話があったとき、早速斉藤さんに連絡したら、そちらにも同じ話が行っていたようだ。
それで旧友の谷に話してみると「是非とも行きたい」ということで、後は小牧隊友会と直接話しをするようにした。
私はこの時点で再就職したばかりで、導入教育を受けていた最中で行けるか行けないか非常に曖昧な時期だった。それで自分ではあきらめていた。
そしたらやはり小牧隊友会の仲間から再度連絡が入り、結果的に参加できるようになった。
しかし、この日のスケジュールは非常にタイトなもので、心身ともに疲労するかと思ったが、根がもともとこういうことがすきなので、たいした疲労は感じなかった。
しかし、朝の出発が早くて、これには参った。
最初にスケジュールを見たときに、これはきついなということは覚悟していたが、朝の3時半の集合というのは少々常識はずれである。
しかし演習会場の雰囲気からすると、こういうスケジュールにならざるを得ないという事は、現地についたときに始めて理解できた。
演習そのものは10時に始まって12時には終わるので、たった2時間のことであるが、見物人の数と、それらの席取の関係で、これぐらいの時間的余裕は致し方ないという現地の状況に納得さざるを得なかった。
そういうわけで、目覚まし時計を夜中の2時半にセットして、起きてみるとテレビでは「朝まで生テレビ」を放映していた。
それで3時半に家を出て、集合場所の陸自春日井駐屯地に行ってみると、真っ暗な正門前で既に係りの人が来て受付をしていた。ご苦労様と言いたくなる。
案内にしたがって、真っ暗な運動場のようなところに車を止めて、既に待機しているバスのほうに歩き始めたら、谷夫妻が車で着いたところであった。
この駐屯地は始めて入るところなので興味津々というところであるが、何しろ暗くて何も見えなかった。

会場の状況

バスは全員そろったところで出発した。スケジュールよりも5分ほど早かったようだ。
車中では世話役が気を利かせて眠るようにということで、発車した途端に車内を暗くして眠るように勧めてくれた。
こういう場所で眠るといっても、そうそう眠れるものではない。
夢うつつのうちに浜名湖サービスエリアについて、ここで30分の休憩を取り、夜も明けてきたのでここを出発すると、挨拶やら、注意事項やらと、こまごまとした指示があった。
裾野インターチェンジを下りると自衛隊関係の車両も多くなって演習場が近くなったという雰囲気が漂ってきた。
演習場のバス専用の駐車場に着いたのは8時頃だったと思う。
所詮、陸上自衛隊の訓練区域の中の駐車場で、舗装などされておらず、平らながれ場という感じで、密生したススキの中の空き地という感じのスペースであった。
そこから演習会場に行く道も、それこそ登山道と同じである。
でこぼこのがれ石と、身の丈を越すススキの林である。まさしく富士山の裾野である。
この道を目印の旗を先頭に20分ばかり歩くと演習会場に着いた。
ここは本来人が大勢来るような場所ではないので、あらゆる施設が仮設のものばかりである。
この道を上り詰めたところにさらに階段があって、そこには工事用の足場材で大きなスタンドがこしらえてあった。
このスタンドから右のほうに同じようにスタンドが並び、その前がシート席となっていた。
我々は車中で「シート席の前のほうが見やすい」ということを聞いていたので、そのアドバイスに従った。
車中で配られた切符には「E席」となっていたが、これはなかなか良い席でよく見れた。
スタンド席の前に迷彩色のシートが敷かれており、そこに靴を脱いで座るようになっていた。
なんだか古い芝居小屋に入ったような感じであるが、そうは言うものの、その開放感は素晴らしいものであった。
正面の会場広場を散水車が何台も出て水をまいていた。
富士山の肥沃な黒い土を水で湿らせていた。きっと乾燥すると砂埃がひどいのであろう。天気はまったくの上々天気で、雲があるとはいうものの流れが速く、一時的に富士の姿を隠してもすぐにその全容をあらわした。
会場の前方左手には、大型トラックに巨大なスクリーンを取り付けたものが置いてあり、それが自衛隊の歴史の概略を流していた。
少々気になるのは、それの音量があまりにも大きくて、耳障りであったが、これも演習が始まるとその説明には有効に機能していたようだ。
陽のさんさんと降り注ぐ、何も太陽光線をさえぎるもののないところでの2時間の待機というのはいささか苦痛であった。
しかし、それにもかかわらず、それを見に押し寄せてきた人の群れには正直言って驚きである。
中には乳飲み子を抱えた若いお母さんまでいるし、小学生から中学生ぐらいのものまで、社会のあらゆる階層が、この演習を見に来ているので一種のお祭り騒ぎに近いものがある。
この演習を見る切符というのは公募で募集しているが、なかなか当らないという事である。
最近の自衛隊員の募集状況というのは、昔と比べると大きく変わってきて、昔はなり手がなくて東京の上野公園の浮浪者を引っ張り込んで入隊させた、などという話もあったぐらいであるが、今では入りたくても入れない状況らしい。
不況ということもあろうが、その前に絶対に戦闘に行かない自衛隊というイメージもあると思う。
あくまでも戦争ゴッコの枠から出ることはない、という安心感もあるに違いない。
公務員として給料をもらいながら、戦争ゴッコだけをしていればいい、というイージーな思考もあると思う。
けれども、そうは言うものの、この演習というのはやはり戦争のための訓練であるわけで、それを見に来る人がこれだけ多いということは、どういう風に理解したらいいのであろう。

壮大な戦争ゴッコ

この2時間というのは流石に辛かったが、谷夫妻や斉藤氏と雑談して気を紛らわせて何とかしのいだが、演習が始まってしまえば、それもどこかに吹き飛んでしまった。
演習開始の前に、陸上自衛隊音楽隊のブラスバンド演奏があったが、この隊員の中には女性隊員も混じっていた。
演奏が始まって3番目か4番目に、軽いタッチのJポップ系の音楽がかかったとき、クラリネット奏者の女性隊員がボーカルを歌った。
この音楽隊員の服装が全員迷彩服というのもいただけない。
やはり礼装用の制服でないことには違和感がある。
こういう式典にも迷彩服で通すという風潮は、あの湾岸戦争で勝利したシュワルコフ将軍が凱旋パレードのとき迷彩服のままでしたことから始まったのではないかと、勝手に想像している。
迷彩服というのはあくまでも戦闘服で、戦いが終わって凱旋するというような場合は、制服に着替えてするものというのは、古いタイプの認識なのかもしれない。
ところがそういう古い認識が今曖昧になりつつある。
音楽隊が観衆の前で演奏するというのは、彼らの仕事には違いないが、それは土の上を這い回る戦闘行為ではないわけで、ならば礼服としても通用する制服でするのが本当ではないかと思う。
ああいう状況下で、ブラスバンドの演奏を聞いていたら、昔見たグレン・ミラー物語という映画を思い出した。
これが終わると防衛庁長官や統幕議長、演習統括者等の入場があり、国旗掲揚があり、演習の開始となった。
久しぶりに正式な国旗掲揚にめぐり合えた。
自衛隊在職中も、あまり国旗掲揚とか国旗降下をまじかで見ることはなかった。
サイトにいたときは規模が小さかったし、術科学校のときは今度は規模が大きすぎて、それをまじかで見た記憶はない。
それが終わって10時20分になると、航空自衛隊の対地攻撃と称するものがあった。
これはまったくの子供だましである。
場内放送では百里基地といっていたように思うが、要するにF4ファントムの改良型、F4改が2個フライト計4機、演習会場の右手から高度100mあたりをローパスするというだけでのものであった。
実際の地上攻撃は危険だからというわけで、実施されず、タイミングにあわせて地上で爆薬を破裂させるというものであった。
何のことはない映画のトリックである。
この日本で災害等に備えて危機管理の意識高揚のために行われる訓練とか演習というのはある意味で芝居である。
防災訓練にしても、消防の訓練にしても、シナリオを作ったうえでの芝居に過ぎない。
シナリオどおりにいったときには「成功」といって脚本家ともども喜んでいるが、実際の災害なり危機と言うのは、事前のシナリオとは無関係にやってくるわけで、シナリオからはみ出したことから学ばなければならないと思う。
この爆弾投下から、敵の上陸部隊を阻止するという想定で、演習が始まったわけであるが、私はやはり航空自衛隊出身であるがため、陸自の兵装については不案内である。
戦車一つ見ても、それの細かい差異はほとんどわからない。
火器についても、小銃と機関銃ぐらいの区別は出来るが、それ以上の相違はさっぱりわからない。
しかし、現代の地上戦というのも、航空兵力なしではありえない、ということだけは理解できる。
これは陸自ばかりではなく海自においてもいえることで、この演習でもヘリコプターの活躍は目を見張るものがある。
AH-10の機関砲の射撃なども始めて目にしたわけであるが、やはりここでも日本独特の傾向が現れている。
というのは弾薬の節約ということである。射撃の時間が非常に短く感じられた。
あの太平洋線戦争のときの米軍の戦いぶりというのは、弾薬の節約などということは眼中になく、弾薬などというものは無尽蔵にあるという認識であったように見受けられる。
これは現在でもアメリカ軍には生きているわけで、弾薬は無尽蔵にあるが、ただ手元にあるかどうかは状況によるわけである。
補給線が延び切ってしまうと、弾の消耗がそのまま敗北につながりかねないので、その意味では弾の温存という意味で節約をしなければならない状況に陥るが、基本的には弾薬は無尽蔵にあるという思考である。
ところが我々の側は、最初から節約精神が染み付いているわけで、1分間に何十発も出る機関砲、つまりバルカン砲は、発射時間を制限することで弾薬を節約しよう、という発想になるわけである。
これは日本人のあらゆる階層に染み込んだ潜在意識になっているようだ。
それと陸上自衛隊の車両が昔とは大いに変わっていることに気がついた。
昔はウイルスのジープであった。
アメリカのウイルス社のジープを三菱自動車がライセンス生産したものが主流であった。しかし、これが今はパジェロの軍用型になっている。
そして昔ウイポン・キャリアーといっていた車両がトヨタのメガクルーザーになっている。
この車両の変換は、アメリカ軍がジープをハマーに変えたことに足並みをそろえた、という感がぬぐえない。
ハマーとメガクルーザーは実によく似た形状をしている。
湾岸戦争でシュワルコフ将軍が凱旋したときに使用された車で、アメリカでは既に機種交代がなされていたわけである。
それに追従するかのように日本でも機種交代がなされたようだ。
戦車が実際に主砲を撃つ場面というのは始めて見たわけであるが、その音の大きいのにはいささか度肝を抜かれた。
私などは航空自衛隊に在籍していても実際に火器を扱うセクションではなかったので、こういう経験はまったくなかった。
戦車の主砲でこれだけの音だとすると、昔の日本海軍の軍艦の大砲を発射したときにはどんな音がしたのであろう。
何しろ次から次と展開する場面に見とれて、写真を撮る間もなかった。
第一あまり会場が広すぎて、私の持っていたデジカメでは入りきらなかったので、写真はあまり撮れなかった。
写ったとしても米粒ぐらいにしか映っていないはずだったので、写真はあきらめた。
その代わりスクリーンの解説をしっかり聞いて、まぶたに焼き付けてきた。
その中でも落下傘部隊の降下訓練というのは圧巻であった。
このときは部隊を搬送したヘリコプターがチヌークと案内された。
バートル107よりも一段と大きい機体であるが、高度3千mから降下したといっていたが、機体が雲の中に入ってしまって、機から出る瞬間は見れなかった。
そのうちに雲の中から糸のように落下するものが見え、それがだんだん大きくなり、一つ二つ三つと落下傘が開いていった。
このときの落下傘というのは、昔のようなまたっけの頭のような円形のものではなく、パラグライダーと同じものである。
何事も大きく変わって、昔のイメージではついていけない部分があまりにも多い。
そして全員訓練会場の広場に着地すると、会場から大きな拍手が沸きあがった。
その点に関してはもう芸術の域である。

演習の本旨は?

訓練は前段と後段に分かれて行われたが、後段は戦車部隊の攻防というスタイルで展開された。
しかし、仮想敵のほうは目に見えるところに現れないので、ある意味では一人芝居という感を免れない。
けれども、素人目に見てもあの戦車の黒煙というのはいただけないと思う。
そして騒音である。
騒音対策というのは軍需品のみならず民需品でも克服されているわけではなく、いくら戦闘車両としての車高を低くしても、あの黒煙を撒き散らして移動すれば所在がわかってしまうはずである。エンジン音も同様である。
今は赤外線探知機が発達しているので、夜昼関係なく索敵できるとはいえ、デイーゼル・エンジンの煙と 音は克服すべき課題だと思う。
この日は、模範演技という意味合いでも、急発進、急停止という場面で、演習を盛り上げねばならなかったので、特にそれが目に付いたのかもしれない。
この演習は一見に値するものではあるが、真に仮想敵国の「上陸作戦を阻止する」という現実にあるかもしれないシュミレーションにはなっていないと思う。
ある意味で、演習のための演習という感がする。
仮に、今の日本に敵の機動部隊が上陸してきたとしたら、その対応に戦車を投入するというシナリオはありえないと思う。
富士山山麓というのは、今の日本の海岸線とはあまりにもかけ離れていると思う。
戦争ゴッコには最適な場所であたっとしても、敵の侵攻を食い止めるための演習の場としてはふさわしくないと思う。
今の日本の現実では、戦車が自由に動き回れるスペースというのは、この富士の裾野しかないのではないかと思う。
よって現実の侵攻阻止ということになれば、航空機による空中から阻止行動以外にありえないのではないかと思う。
物理的に非常に威力の大きい戦車よりも、AH−1sのようは航空兵力に比重をシフトしていかければならないと思う。
道路の問題、民家の問題、農地との関係、海岸線の問題、どれ一つとっても、戦車の行動を縛るものばあかりで、これでは宝の持ち腐れということになってしまう。
それと隊員の安全という問題も、非常に興味ある面白い問題を含んでいる。
というのは、機動偵察隊の総輪式の車両からオートバイに乗った偵察隊員が偵察にでるとき、オートバイを降ろすのにステップをかけていた。
オートバイの偵察隊員といえばモトクロスの選手並みのテクニックをもった人たちに違いないが、それが橋を渡さなければオートバイを降ろせない、というのはあまりにもマニュアル・チックである。
車両が止まると同時にオートバイに乗ったまま飛び出てくるくらいの機動性というか、合理性というか、そういうものが必要だと思う。
安全、無事故、怪我のないように、という配慮は当然であるが、それがためチャンスを逃がすようなことがあってはならないわけで、この日は演習ということでマニュアルどおりにしていたのかもしれないが、自衛隊員というのは入隊したときから多少の危険は承知しているはずである。
それをあまりにも安全第一というのは陳腐な感じがする。
この会場での2時間の演習というのはあっという間に終わってしまった。
毎年見に来ても良いとは思うが、幸運に恵まれないことにはなんとも仕方がない。
帰りは焼津の観光魚市場に立ち寄って、ここでお土産を買う人はいっぱい買い込んでいたが、私は何も買わなかった。
それで帰りの車中は、ビンゴ・ゲームとカラオケでにぎやかに騒いできた。
朝早かったので、もっとくたびれるかと思ったが、それほどでもなかった。
途中ところどころで居眠りをしたせいかもしれない。
2002・9・3

Minesanの大きい旅小さい旅に戻る