東京そして横須賀

国立がんセンター中央病院にて

5月22日久しぶりに上京した。
この日は新幹線の自由席で上京したので、かなり早くつけた。
早く着けばそれだけ早く診察券を出す事が出来るので、その分早く終わる。
この日は、前の5月1日に受けた内視鏡検査の結果を聞くのが主目的であった。
内視鏡検査については、その場で大まかな概略の説明は受けた。
それによると大きさの変化は全く無く、異常は無しということであった。
それでも以前から、粘膜下腫瘍だか、潰瘍だか、があるという事を言われていたので、それが心配で、そのことを確認すると、全く変化がないということである。
それで今回も済川先生にその点を念を押すと、先生の返事も「全く変化は見られず、1cmぐらいのものがある」ということである。
腫瘍だか潰瘍だかが、胃の中に残っているというのは、一抹の不安材料であるが、ガンの専門家が「大丈夫だ!」という以上、素人が詮索しても仕方がない。
それでその件について悩むことはやめた。
それ以外は、全く「異常はなし」といわれた。
腎機能、肝機能全く「異常なし」。腫瘍マーカー全く「異常なし」と言われれば、これ以上ありがたいことはない。
これで私のガンも5年目を無事クリアーしたわけであるが、この5年間を振り返って、こうもあっさり無事を宣告されると、なんだか本当にガンであったのかと自分の事が信じられない気持ちになる。
世間ではガンといえば悲痛な気持ちで闘病生活するのが当たり前なのに、私だけがこうものうのうと生き延びて、なんだか申し訳ないような気がしてならない。
どこか一箇所ぐらい不具合個所を抱えて、病人の振りをしなければ、お天道様に申し訳ないような気がしてならない。
それで会計に行ってまたまた驚いた。
本日の会計は金70円なりであった。
タバコの半値である。
ひとりでに笑いがこみ上げてきてしまった。
「これは一体何なんだ!」と。
ある意味でありがたく、おめでたい病院通いであった。
会計を済ませ、病院の玄関を出て、左側の車寄せにあるベンチに腰掛け、此処で一服するのが病院通いの慣わしなので、その手順に従い、ここでタバコに火をつけ、たなびく紫煙を見ながら、これから何をすべきか思案した。
この一服は至福の一服である。
診察前はいくら愚鈍な私でも一抹の不安は抱えている。
その不安が払拭された安堵感から、この病院の玄関を出た最初の一服は、本当に生き返った感じのする一服である。
それでこの日は夜に自分史の講座があるので、それに合わせて帰らねばならず、その時間に合わせて東京を出る時間が設定されていた。
よって早々ゆっくりも出来ず、東京見物も時間を繰り上げて終わらせなければならなかった。

築地中央市場と浜離宮

それで今回は築地市場と浜離宮を見ることにした。
この二つはがんセンターのまん前にあるわけで、今までにも中に入った事はある。
特に築地中央卸売市場というのは以前も見学したことはあるが、この情景を文字で表現することは非常に難しいように思われる。
とにかく雑然の一言である。
市場という以上、ある意味で整理整頓していては仕事そのものが成り立たないのではないかとさえ思えてくる。
この世の中に3Kという言葉が生まれたのが何時ころのことかは知らないが、とにかく3Kである。
きたない、きつい、危険そのものである。
汚いというのは一目瞭然である。
入口を一歩入ればもそこは汚らしいの一語である。
そして、そこでは10トントラックから手作業で発砲スチロールの箱をパレットに積み替えていたが、この作業はまさしくきついそのものである。
このときの時間が午前10時頃で、市場の中はほとんど人手はいなかった。
市が引けて、それぞれがそれぞれの店に引揚げた後であったのだろう。
店は全部閉まり、人手はまったくなかった。
閑散とした市場の中を歩き回ってきたが、やはり広さと云い、規模といい、その薄汚れた風格が歴史を物語っているようにもみえる。
そして、あちらこちらで道路工事をしていたり、冷蔵庫の更新作業をしていたり、と市場関係者以外の業界の関係者がそれぞれに自分の仕事しているという感じであった。
そんな中を、あっちに行ったり、こっちに行ったりと、30分ばかり歩き回って、もとの道に出てきた。
そして、そこからほんの少し歩くと浜離宮の入口になる。
この庭園の入り口というのは立派な石垣に囲まれた由緒正しき公園という感じがする。
敷石が敷き詰められ、手入れが行き届いた清楚で入口であった。
ここも既に何度か来ている。
がんセンターに通うようになって5年もたっているので、その折にも立ち寄ることがあったので、既に何度も入ったことはあるが、この日は徹底的に探索してみようと思った。

入口を入って左の道に沿って奥のほうに行くと、浅草行きの水上バスの乗り場となる。
ここは先の築地中央市場の真裏になるわけであるが、今回は逆周りで、右手の道をたどって奥のほうに入ってみると、こちらも手入れの行き届いた庭園になっており、鬱蒼と木々が繁っている。
こちら側は方向として西側になり、汐留川を挟んで向こうが汐留、新橋の方向になる。
目下、汐留の都市再開発で、高層ビルが何棟も建設中で、雨後の竹の子のように立ち並んでいる。
まるでこの庭園が外輪山に囲まれた噴火口のような情況である。
公園内の木々を潜り、開けた芝生を渡ったりして奥に進むと、妙なものに出くわした。
まるで日中戦争のときのトーチカのような掩体物があった。
まさしく掩体そのもので、銃眼のように窓もある。
しかし本当の掩体ならばコンクリートでなければならないが、これは土で出来ていた。
板囲いをして、それに土を持って銃眼のような覗き窓をつけ、その傍らにはご丁寧にも伝声菅のような筒まであった。
まるで昔の軍艦の艦橋のようなものが出来ていた。
不思議なものがあると思ってよくよく見ると説明板があった。
それによるとそれは鴨猟をするときの仕掛けというか、設備ということであった。
そういう鴨の漁場がここには2ヶ所あるということだ。
確かに同じ物が2ヶ所にあった。
このトーチカの前には細い幅1m深さ1mぐらいの溝が前の池から導かれており、アヒルを使って広い池から鴨をこの溝におびき寄せ、そこで両側から網をなげて鴨を捕獲するというのが江戸時代の将軍達の鴨猟というものらしい。
眞に以って日本的で優雅な鴨猟である。
鴨をおびき寄せて、網を投げるタイミングを計るのに銃眼のような覗き窓から覗いていたのであろう。
浜離宮に関する正確なデータは 浜離宮のサイトをご覧下さい。
そして庭内の池は「汐入の池」といわれているが、この潮入りということは、水門で海とつながっているということである。
この庭園が出来るまで日本の庭園というのは海岸沿いのものがなかったに違いない。
この庭園が江戸時代の将軍の海のリゾートであったわけだ。
そして鴨猟というのは、今で云うところのゴルフのようなものであったのであろう。
鴨猟をすることで、仲間内の親睦を深めていたに違いない。
庭園の中に池にはそれぞれに橋があったり休憩所としての茶屋があったりして、そこで親睦と称する駆け引きが行われていたに違いない。
しかし、こういう庭園が超近代的な東京という町の中に生き残るということは非常に有意義な事だと思う。
それにしても周囲の高層ビルには驚かざるを得ない。
特に旧国鉄時代の汐留貨物駅跡の都市再開発事業というのは驚きである。
がんセンターに通院しかけた当初は、まだ板囲いのままで、「こんな都心にもったいない空き地だ」と思っていたものが今形となって姿を現しつつあるわけだが、この景気低迷の時期にまたバブルの再燃になるのではないかと心配である。
この日は、いつものコースとは違って、逆周りにこの公園を一周してみたが、花の時機を逸していたので、綺麗な花を見ることは出来なかった。
それでも都心の中の憩いの場で心の洗濯をした。
そしてその後は予定通りの新幹線に乗り、予定通りの行動が出来た。

記念艦「三笠」を見て思いに耽る

この日から中一日を置いて(5月24日)、今度は長男宅に行かねばならなかった。
長男の嫁が体調を崩し、2、3日入院する嵌めに至り、留守居番を兼ね子守り、孫の守に行かねばならなかった。
家族がピンチのときはお互いに助け合わねばならないので、これはこれで致し方ないが、今回は家内が同行してくれたので、私はある程度一人で行動するゆとりがあった。
長男は横須賀の新開地に居を構えているので、今までにも何かにつけて来る事はあった。
この長男宅から自転車で20分足らずのところに三笠公園というのがある。
言うまでもなく、あの日露戦争で勇名をはせた戦艦「三笠」が保存してある三笠公園である。
以前来た時も、それを確認するまではしたが、時間がなくて中を見学する事は出来なかった。
それで今回改めて中をじっくり見学してきた。
この日露戦争というものを、今の小学、中学、高校ではどのように教えているのであろう。
不思議な事に、この日露戦争というのは、我々同胞よりも外国人に知られているのではないかと思う。
そもそも、この戦艦「三笠」を保存するという案件も、太平洋戦争の敵の海軍の高官、つまりアメリカ海軍のニミッツ提督の熱意で実現したと記されていた。
我々同胞は、自分達の歴史を自分達で踏みにじろうとしていたところを、アメリカの誠意で以ってこの歴史的意義の深い日本の近代化の象徴が今保存されているのである。

戦艦「三笠」に関する詳細は 「三笠」保存会の公式ホームページを参照していただくとして、私は私なりの感想を書き残しておきたいと思う。
まず日露戦争の意義というものを考えた場合、その遠因はその前に起きた日清戦争に対する3国干渉にあったと思う。
日本は清王朝に対して正面から戦って勝ったわけであるが、これに対してロシア、フランス、ドイツがその戦後処理、つまり遼東半島を日本に割譲するという部分に反対をしてきたわけである。
日本は大国清王朝と死力を尽くして戦って、それに勝利した挙句が、傍観者としてのロシア、フランス、ドイツに「漁夫の利」を浚われてしまったわけである。
こうなる原因は、日本が非力・つまり戦力が充分でなかったから、と当時の日本人が考えた事は当然だと思う。
日本は明治維新を経て、近代化に脱皮して明治27年に日清戦争、明治37年に日露戦争をはじめている。
明治になって25年を経過した時点で対外戦争をはじめては見たものの一応勝つには勝ったが、その後の3国干渉で自分達の非力を思い知らされたわけである。
そのときの悔しさというものが臥薪嘗胆となりその10年後の日露戦争となったものと思う。
この日清戦争、日露戦争の時代の我々同胞の潜在意識というのは一体どういうものであったのであろう。
日露戦争に従軍した弟の事をおもい与謝野晶子が「君死にたまうことなかれ」という反戦歌を読んだという風にいわれているが、あれは反戦歌というよりもむしろ庶民の本音と言うべきではないかと思う。
戦後の民主教育の中ではなんでも反戦に結び付けたがるが、我々同胞が本音と建前を使い分けるという点が非常に我々の行動を曖昧なものにしていると思う。
本音では「君死に給うことなかれ」でありながら、建前では「勝って来るぞと勇ましく」である。
戦後ベストセラーになった「きけわだつみの声」でも学徒出陣生徒の手記といわれて、いかにも反戦、嫌戦気分に満ち溢れた手記だとされていたが、あの手記も編集の段階で好戦主義的な部分は削除されていたとされている。
しかし、日清戦争後の3国干渉で、折角自分達が血を流して取ったものが「漁夫の利」で浚われたとすれば、当時の日本国民としては憤懣やる方なかったに違いない。
それがその後の富国強兵のエネルギーになったものと想像する。
この時代の日本というのは実に貧弱で、か弱い国であったに違いない。
だからこそ3国干渉を受けると、闘わずして相手の要求を飲まなければならない嵌めに陥ったわけである。
その情況から脱するには、やはり挙国一致で、臥薪嘗胆に耐え、国力を増大、つまり強兵、軍事力を強化するほかなかったわけである。
3国干渉を受けたことにより、そういうことに国民的合意がえられたわけである。
平成の世の我々は、世界で1、2の豊な国である。
これが不思議でならない。
第2次世界大戦で灰燼と化した日本が、50年後には世界でアメリカに次ぐ豊な国になったということは不思議でならない。
この事は、日本が自らの内なる力でなしえたことではない、という事を我々は肝に銘じて忘れるべきでない。
これは第2次世界大戦後の世界が、お互いに解放されていたからである。
少なくとも、東西冷戦中の共産主義陣営を除いた世界では、広く経済が開かれていたからである。
これを社民党の土井たか子氏辺りは、「日本が平和憲法を持っていたから」などと言っているが、こんな間違った認識は、叉日本を奈落の道に引き込みかねない。
日本が豊かになったのは、世界がブロック経済というものを採用せずに、市場を開放していたからである。
日本が資源の無い国であることは昔も今も変わりはないわけで、その環境下で、資源を輸入し、それに付加価値をつけて輸出しえたということは、世界が開かれていたからである。
だから日本は自由に物を買え、売る事が可能だったわけである。
そして第2次世界大戦後の日本は、自分一国で自分の国を守るということを放棄して、アメリカという軍事力の傘の下で、物作りにだけ力を傾注する事が出来たからである。
これは日露戦争当時のように、自分で何もかも賄う、つまり富国強兵の強兵の部分を自分自身で成そうと思えば、GNPの何割、おそらく30%か40%は国防費に割かねばならないかったに違いない。
戦後の日本は国防費というものが、GNPの1%強で済んでいるからこそ、その分を物作りにまわせたわけである。
そこで今話題になっている有事3法案に行き着くわけであるが、こういうことは無いに越した事はない。
しかし、何時来るかわからない災害に備えるのと同じうように、何時来るかわからない危機に対しても、災害と同じような対処の仕方というものを用意しておく事は政治の使命だと思う。
日常生活をしている庶民の側に立てば、本音の部分ではそんなものは必要ないと思われる。
ところが、その本音の裏側には、やはり建前というものがあるわけで、建前をきちんと整えておくと言うことは、やはり政治に責任だと思う。
戦争を嫌悪する気持ちというのは万国共通なはずである。
戦後の我々だけが戦争反対なわけではないと思う。
アメリカ人の主婦も息子を戦場に送りたくないし、イギリス人、フランス人も、イラン人、イラク人もロシア人も皆本音の部分では自分の息子を戦場などに送りたくないと思っているに違いない。
ところが建前の部分に何所まで共感するか、という点で大きな差が生まれていると思う。
戦後の我々ならば100%建前に共感する事を拒否することが平和を愛する事だと思い違いをしている。
ところが他所の国では逆に100%建前に殉ずる事が愛国的だと言うところもあるわけで、戦前の日本もこの口であった。
この日露戦争の日本海海戦は世界史に残る稀有な史実だと思う。
その意味からすれば、第2次世界大戦の海戦の全てが歴史に残る海戦であったにちがいないが、海戦が地上戦に比べて勇壮活発に見えるのは、これがテクノロジ−の戦いだからではなかろうか。
地上戦だと、捕虜の扱いだとか、無意味な殺戮だとか言うものがついて回るが、海戦ならばそういうどろどろとした血なまぐさい確執が無いわけで、敵味方が一目瞭然と判別できるし、勝敗も目に見える形で納得できる。
この日清・日露の戦いというのは、世界史的に非常に大きな意義をもっていると思う。
特に日露戦争というのは、有色人種が白色人種に勝った戦争なわけで、その意味からしてヨーロッパ系の白色人種から見た歴史的意義は大きなものがあったに違いない。
おそらくジンギスカンのヨーロッパ席捲にも匹敵するものだと思う。
そのことは逆に、彼ら白色人種に日本人に対する恐怖感というものを植え付けたに違いない。
特にアメリカは、日本に対する警戒感をこのときから秘めていたに違いない。
それがおそらく太平洋戦争への道であったのではないかと思う。
アメリカとの戦争は、この時から約35年後である。
それまでにアメリカは日本に対する警戒感を徐々に強め、段々と真綿で首を締めるように、日本に対する締め付けをしてきたわけで、我々は戦争に勝った勝ったと思っているとき、海の向こうでは日本に対する警戒感が夏の入道雲のように湧きあがっていたわけである。
有事3法案を審議している最中に、「今、日本を攻めようとしている国があろう筈が無い」という馬鹿なことを言っている同胞・国会議員がいる。
何所に「今、仮想敵国の軍事的脅威を研究しております」と言う馬鹿が居るかと言いたい。
日本は第2次世界大戦で完全に敗北して国民は途端の苦しみを味わった。
だから金輪際、再び戦争をしたくないという気持ちは当然である。
だから戦争というもの、主権と主権の衝突、事象、政治の一形態としての覇権争い、に関して全く無知でいて、念仏さえ唱えていれば、それは向こうが避けてくれるなどと思っている節がある。
戦争をしたくなければ、より戦争というものを研究し、口先3寸で如何に戦争を交わすか、という事を研究しなければならない。
日露戦争でロシアを破った日本をアメリカは内心苦々しく思い、それから35年間日本を真綿で締め付け、最後に日本が真珠湾攻撃をしたから、アメリカは大手を振って真正面から日本に戦いを挑んできたわけである。
それが太平洋戦争である。
大日本帝国海軍の仇敵、アメリカ太平洋艦隊の二ミッツ提督が、太平洋戦争中の様々な海戦を制して、その結果として、勝利者として、戦艦「三笠」の保存を推し進めたという事は、そういう歴史を象徴しているのではなかろうか。
それにしても、敵将からその存在を崇め奉られたその本体を、我々の同胞が全く省みなかったという事はどういうことなのであろう。
ここに日本民族の本質があるのではなかろうか。
太平洋戦争の前から戦中にかけて、日本の子供の大部分、特に男の子は大なり小なり軍国主義者であり、軍国少年であった。
これは当時の大人の影響を受けていたわけで、子供が大人の影響を受けるということは当然であり、それが世情というものである。
然るに、戦後は、小学生から中学生に至るまで悉くが平和主義者で、戦争はいけないということを言っている。
これも大人の影響を受けているわけで、明らかに世情を見事に反映しているわけである。
すると、世情に流れて、その世情に身を任すと、再び奈落の底に身を落とす嵌めに至るのではなかろうか。
戦前の軍国少年にとって、日本が負けるなどということが信じられなかったと同様、戦後の平和主義者にとって、日本が他国の支配を受けるなどということがありえない、と思われているのではなかろうか。
戦争というのは、何も鉄砲を撃ち合うだけが戦争ではないわけで、日清戦争の後で、日本が3国干渉で戦わずして、一度勝ち取った遼東半島を手離さなければならなかったということも立派な戦争であったわけである。
平成14年5月8日に起きた瀋陽総領事館における中国側の官憲の北朝鮮亡命者の強引なる拉致事件も、完全に戦争であるが、日本側にはあれを戦争と見る人は誰もいない。
国と国が主権を賭けて争おうとしているときに、戦線布告をして争うという古典的な戦争というのはかなり時代遅れでもある。
湾岸戦争のようにあからさまな武力行使の戦争というのは、いわば時代遅れの戦争である。
北朝鮮が日本海沿岸から、乃至は、外国から日本人を拉致するというのも、明らかに日本の主権が侵害されているにもかかわらず、日本の知識人というのはあれを戦争行為とは見なしたがらないわけである。
韓国が日本の教科書に文句をつけるのも明らかに主権の侵害であるし、中華人民共和国が日本の首相が靖国神社に参詣するだけで文句をつけるのも明らかに主権侵害である。
主権侵害ということは、完全に戦線布告の口実になり得る行為である。
日本はこういう風に、戦争の口実が先方にあるにもかかわらず、戦争をしないということは、相手から完全に舐められても致し方ないわけで、それでも「金持喧嘩せず」で居れると言う事は、有り難いというべきか、不甲斐ないというべきか、評価の分かれるところである。
相手から舐められるということは、苛めの問題と同じで、これからも何度となく同じことが繰り返されるということである。
それでも尚、金持喧嘩せずで通そうというのならば、それは我々の側の選択であるわけだから致し方ない。
戦艦「三笠」を見て、明治の魂をいくらかでも省みる事が出来た気がした。
中でも誰の言葉だったか忘れたが、「一発の命中弾は、砲百門に匹敵する」という訓話は、その後の日本の軍隊の基本の精神となったが、この精神主義と敢闘精神というのは、その後に起きた近代戦争、大東亜戦争から太平洋戦争というものを間違った方向に導いたようだ。
日本は物量に乏しい国で、物量の乏しさを訓練と敢闘精神でカバーしようとしたが、これは所詮絵空事で終わったわけである。
つまり理想を掲げ、理念で現実を回避しようとしても、現実というのは情け容赦なく弱いものを襲うわけで、そこに我々は注意を払わなければならない。
世の中というのは独り善がりではすまないわけで、常に現実というものを冷静に観察する必要がある。
冷静に観察した結果から、将来の成り行きを判断しなければならないわけである。
この戦艦「三笠」というのは約100年前の日本の象徴であったわけである。
そういう思いで艦内を見学した。
感無量というか、100年前の日本人の気概をいささかでも知ることが出来たような気がした。
艦内の詳細は公式ホームページを参照されたし。

若者のスケボー

この三笠公園は京浜急行の横須賀中央駅を海の方に下りてきてすぐのところにあるが、ここから海岸に沿って、「よこすか海岸通り」という立派な道路がある。
この海岸道路は片側2車線の立派な道路であるが、その海岸寄りには公園が整備され、海釣りをしたり、小さな子供を連れた若夫婦などが散策できるようになっている。
この公園の一角にスケート・ボードが出来る施設があった。
目の細かいコンクリートで、表面を樹脂のようなもので塗装して、スケボーの技を披露したり練習できるようにスロープなどがこしらえてあった。
ここでは若い人たちがそれぞれにスケボーを楽しんでいたが、この日はどうも大会が行われていたらしい。
それでその実況放送をしていたが、このスケボーというのは服装がどういうものかじつにだらしなく、我々古い価値観の者はついていけない部分がある。
しかし、若者が一つのことに熱中するというのは悪い事ではないので、大いに見守ってやるべきだと思う。
このスケート・ボード大会も、大人が関与している節は全く見受けられず、自分達で運営している感じがした。
こういう点では今の若者は我々以上にしっかりしているわけで、今の若者の良い点は大いに大人が引っ張り出す工夫をすべきである。
こういうスケート・ボードの練習場というのは、春日井の総合体育館の脇の水道道にも一ケ所あるが、若者が自ら率先して飛び込もうとするようなものは大いにフォロー・アップしてやるべきだと思う。
今日、高校野球や少年野球というのは大人が関与しすぎて、少年や高校生の自主性や若々しさと言うものが死んでしまっている。
彼らが真に野球が好きでやっている等とは信じられない。
皆、親のためとか学校のためという感じがしてならない。
そこにいくとこの広場でスケボーをしている若者達には大人に関与されていない初々しさが残っている。
そしてその実況放送をしている若者も、参加者と同じような格好をしているので、何所にいるのかさっぱりわからない。
それが叉早口のデイスク・ジヨッキーのような語り口で、のべつ幕なししゃべっているので、一種異様な雰囲気を醸し出している。
しかし健康的な雰囲気であった。
主催している方も、観客も、プレーヤーも全て若者達であったが、この大会の最後がどうなるのか、そこが本当は一番の見ものである。
食べ散らかした飲み物のかすや、弁当の屑をどう始末するのか、そこが一番の問題点であるが、最後まで付き合ったわけではないので、そこはわからない。
若者の不道徳というのは、人類誕生以来の命題なわけで、若者の不道徳を詰るのは安易な事であるが、問題は若者ではない。
老練な大人の不道徳というのは、どう解釈したら良いのであろう。
公園を汚す大人、海で釣りをしてその始末を放置して帰る大人、こういう人たちを我々はどう処遇すればいいのであろう。
2002.5.28

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