庄内用水の探訪

庄内用水 平成13年4月13日

序章 探訪のきっかけ

先日、春の陽気に誘われてサイクリングに出かけた。
このサイクリングという言葉もいささか時代遅れの語感がある。
我々の世代だと、映画「青い山脈」のイメージが付きまとうが、MTB・マウンテンバイクというもので街中を走ることがサイクリングに当たるかどうか、大いに疑問である。
自転車で出かける、という意味ではサイクリングと言ってもいいのかもしれない。そして、私の持っているMTBというのはまがい物で、格好だけは一人前のマウンテンバイクであるが、小さなラベルが張ってあって、「不整地とか荒っぽい使い方はしないでください」と注意書きが記されている。
荒っぽい使い方の出来ないマウンテンバイクでは意味をなさないが、私が使う分には「荒っぽい」といったところで高が知れているので、費用対効果を考えれば、リーズナブルな買い物であった。
それで、春の陽気に誘われて、名古屋市の西にある庄内緑地というものを一度見てみたいと思って出かけてみた。
その公園の脇を車で通ることはあっても、一度も下りてゆっくりと回ったことがなかったので、それでそこまで出かけたわけであるが、この公園そのものは可もなく不可もないといったもので特別な印象はなかった。
しかし、ここから名古屋城に出てみようと思って市内に入ったところ、街中に立派な石のモニュメントがあり、それには噴水の水かとうとうと流されていたので、「これは一体なんだろう」と思って、興味を抱き、あちらこちら見てみると、これは庄内用水を「水辺の憩いの場」として、手を加えたものだという事が分かった。
それで名古屋城まで行くことは止めて、これを上って行こうと思い、その川伝いに上流まで遡ってみた。
川そのものは干上がっていて川底には水が流れていなかった。
しかし、両岸や橋の上は綺麗に整備されており、如何にも水辺の景観を大事にしている、という感がする。
そんなことを思いながらぶらぶらとゆっくり自転車を漕いでいると、川辺の手すりにより掛かって日向ぼっこをしている年寄りに出会い、「何故この川は水がないのか」と聞いてみた。
するとその年寄りが答えるには「これは農業用水で、今は農閑期だから水を流していない」ということであった。
「こんな綺麗な遊歩道が出来ているのだから、いつも水を流しておけばいいのに」というと、「水を流すと管理が大変で、不心得者がごみを捨てるし、水利権で難しい問題がある」というようなことを言っていた。
その時の話で、この川は先で荒子川につながっている、ということを言っていたが、後日それは間違いであることがわかった。
この時はこの川べりの遊歩道を上飯田まで登ってきて、それで終わった。
そして今回(4月13日)改めて上飯田から下ってみる事にした。

いよいよチャレンジ

我が家を出て上飯田の3階橋まで自転車でわずか20分でした。
途中までは裏道を走ったが、味鋺から3階橋の間はどうしても旧道を走らなければならない。
この間の庄内川の堤防と矢田川の堤防というのは、自転車泣かせの堤防である。
登りがあれば下りもあるわけで、その意味では苦楽半々という事ではあるが、人間というのは、楽したことは忘れてしまい苦労したことのみ覚えているので、ある意味で厄介者でもある。
名鉄電車で名古屋に出られる人は、この庄内川から矢田川の間に桜並木の川があるのを見られたと思うが、あれが導水路である。
そして、矢田川の下を暗渠で潜ってこのポンプ場に出た水は、一つは南の方に流れて御用水となり、名古屋城のお堀に流れている。
この御用水の両岸の桜も見事であるが、今回は少々時期を逸してしまって、もう既に散ってしまっていた。
もう一つは、このポンプ場から西に流れ、3階橋の上飯田の坂ノ下を潜って、矢田川の堤防の下を西に流れている。
川幅もごく小さく、我が家のそばの西行堂川の半分かそれ以下の川幅である。
川幅は狭いながらも、その両岸は綺麗な遊歩道となっており、桜並木となっている。
この桜ももう時機を逸して、その付近が花吹雪の感を呈し、既に若葉も出てしまっていた。
付近の道や、そばに止めてある車には桜の花びらがいっぱい降りかかっており、これを「汚い」と受け取るか、「優雅」と受け取るかは、その人の感性の問題かと思う。
この水門の脇には庄内用水に関する掲示がなされていた。
それにはこう記されていた。
庄内用水緑道
    水と緑が結ぶふれあいの道。
  庄内用水路について
庄内用水路は1570年に開削されたと伝えられています。
そして現在の用水路は1876年、明治9年黒川の開削と同時に新設された用水路です。
現在、庄内川より取水された水は、北区、西区を通り、荒子川にいたる間に農業用水、工業用水として利用されています。
総延長28kmにも及ぶ庄内用水の将来は、地域に密着した水と緑のふれあい場となることでしょう。
この1570年という年は、織田信長が浅井長政を降した年で、この案内板も断定をしていないところを見ると、定かには分からなかったに違いない。
先回、堀川を探索したとき、やはり出発点として、この上飯田のもう一方の用水・御用水を調べた時の銘文というのがある。
これは3階橋を名鉄上飯田駅のほうに下りていくと、橋の右手に小さな公園があり、そこのモニュメントに記されている銘文であるが、それにはこう記されている。
                  御用水跡
寛文3年1663年頃、庄内川の水を名古屋城内堀に引き入れる目的で掘削された用水路で辻村用水とも言った。
その頃は志賀、田端村の南を経て、御深井(おふけ)御庭の東北隅から城内に入り、さらに幅下堀川に達していた。
明治9年この用水に平行して黒川が切り開かれた。
となっているところを見ると堀川よりもこちらのほうが古いことになる。
ちなみに1663年という年は、徳川家綱が日光に参詣した江戸時代である。
90年という時差があることになる。
今の現状から見るととても考えられないことである。
庄内川から取水して、そこから用水路で上飯田までもってくるところまでは理解できるが、矢田川を暗渠で潜らせて、ここで2つに別れさせ、双方に水を引くということは不思議でならない。
矢田川から取っているというのならば何ら疑問の余地もなく整合性があるが、わざわざ川の下を潜らせて遠いところか水を引いている、というのがどうにも不可解である。
現在の姿になるにはそれだけの理由があったに違いないと思うが、そこが解らないところにミステリアスな面白さがあるともいえる。

3階橋から国道41号線まで

そんなわけで、橋の下を潜って西側に出てみると、こちらはもう民家の並んだ住宅地となっており.川べりの道は生活道路になっているが、綺麗に整備され、桜の並木もあり、遊歩道がきちんとつけられているので、散策するにももってこいの場所である。
それで、生活道路となっているため、川にも当然細かく橋が渡されていた。
川といっても川幅2,3mという小さな川ですので、生活に溶け込んでいるといってもいい。
よって数ある橋にはすべて名前が記されていた。
先の案内板には橋の名前が列挙してあったが、それらの橋は、この看板を作った当時のものと見えて、実際に歩いてみるとそれ以上に橋があった。
生活道路として、人々の生活が複雑になると、それにつれて橋の需要も増えてきたのではないかと思う。
案内板に記されていたのは次の通りであった。
3階橋、東白山橋、安井橋、萩野橋、光音寺橋、桝形町橋、中央橋、地蔵橋、木戸新橋、東岸橋、児玉橋、できれていた。
ところが実際に歩いてみると、辻新町橋、辻堀橋、東白山橋、白山橋、薬師橋、西薬師橋、本郷橋、安井橋、新安井橋、新於福橋、於福橋、鶴岡橋、鶴岡西橋、萩野東橋、萩野橋、ここまで来ると新しい国道41号線になるわけで、車に載っている限り、この萩野橋というのは全く気がつかずに通り過ぎているに違いない。
ここまで来る間に、橋そのものが小さな公園になっているものもあり、橋の袂に公園が作られたものもあり、水辺というものを有効に利用し、整備し、人々に憩いの場を提供しよう、という行政サイドの意欲が感じられるのは非常に結構なことである。
この中で、新於福橋というのは、何の変哲もない鉄製の橋であったが、その橋の真中で老人が一人、日向ぼっこをしながら何か仕事をしていた。
よく見ると、どんぐり(木の実)の独楽に色をつける作業をしていた。
この年寄りは不思議な人で、首から下げていた大きな数珠も全てどんぐりで出来ており、どんぐり細工で食っているという感じがした。
本人に聞くと、どんぐりに関する相当なベテランで、小さいものや大きいもの、細長いものやちびたもの、と色々と説明してくれたが、一度聞いたぐらいではこちらが覚えきれなかった。
橋の袂に家があったみたいで、その家も実に不思議なことに、全てどんぐりで装飾が施され、まるで仙人の住む家のように見えた。
そしてそれらのどんぐりは全て市内の公園から集めてきたといっていたが、優雅な人が世の中にはいるものだ。

41号線から名草線の間

国道41号線は真中に中央分離帯があるのでそのままでは渡れず、すこし大回りしなければならなかったが、これより西になると川が惣部衛川となる。
なると言っても部分的なもので、橋の欄干に記された字が変わるだけのことで実質はなに一つ変わらない。
それで、これをなおも西に行くと、水草団地に出た。
この「水草」という命名も、何かこの川にいわくがありそうな気がする。
この水草団地の脇の橋は大光橋となっていたが、この辺りの右岸にはそれなりの公園になっており、橋の袂には水車がこしらえてあり、水も流してあった。
前にも述べたが、今の時期は、この庄内用水というのは干上がっており、水が流れていない。
川底はからからに乾いており、一滴も水はなかった。
ところがこの水車の周りには水が張ってあり、あやめまで咲いていた。
「いづれがあやめかかきつばた」という言葉にもあるように、あやめかかきつばたか定かには知らないが、ああいう形の花は、全部一括りにしてあやめと私は信じている。
しかし、大きな団地の傍らで咲くあやめというのも、なんだか場違いな感じがする。
ここを過ぎると次は旭橋という橋であったが、この左岸の遊歩道には陶器で出来た丸いすのようなものがあって、それには茶色の塗料で、それぞれに昔の童謡がイラストと供に書かれていた。
次の橋が新旭橋となっていたが、この橋はコンクリートで出来ているにもかかわらず、木造に似せてあり、その細工が如何にも下手糞で、誰が見てもコンクリート製という事が見え見えであった。
それから旭新橋、光音寺橋となり、ここではごみを取り除く設備が設けてあり、先は暗渠になって、あさっての方向に出ていた。
川下に向かって90度の方向転換をこの暗渠の下で行っている。
そして、それをなお進むと、山王橋というのがあり、その次に宮前橋というのがあった。
この橋は字の通り、橋の右側は神社の鳥居の正面になっていた。
この神社は「伊奴神社」となっていたが、最初これをなんと読むか分からなかった。
多分、「イヌ」と言うのだろうと想像したが、それではあまりにもストレートすぎるので何か違った呼び方があるのではないかと、境内を掃除していた若い神官に聞いてみたら、やはり「イヌ」と読んで正解らしい。
鳥居の脇の案内板には
伊奴神社  
「延期式神明帳」に山田郡伊奴神社とあり、「尾張本国帳」には従三位伊奴神社とある。
素蓋鳴尊その子大年神と妃、伊奴姫を主神とする。
天武天皇の時、この辺りから稲を献上し、それに合わせて神を祭ったのが創始と伝えられる。
又、稲生町の地名の起こりとも言われている。
このお宮さんには先回十分にお参りをしておいたので今回は省略しておいたが、街中のお宮にしてはなかなか奥ゆかしく、奥も深い。
先回来たときに名前からして安産の神様でもあり、「伊奴」と「犬」を引っ掛けて、そういう意味のお参りにも大勢が来る、との話であった。
このお宮の前の川の上、つまり橋というか暗渠の部分が、小さな公園になっており、休憩所なども設置されて、年寄りが固まって話し込んでいた。
その脇に、ぴかぴかの竹輪を斜めに切ったようなモニュメントがあり、それにはこう記されていた。
庄内用水のあゆみ  
庄内用水は名古屋市の南西部の肥沃な農地に水を引き入れるための灌漑用水として作られたもので、元亀・天正年間(1570−1592)に尾張候が開削されたと伝えられている。
庄内用水は「尾張徇行記」の中で、西井筋、東井筋などの名前で登場し、稲生村、現西区の辺りでは稲生川とも、惣兵衛川とも呼ばれていた。
後段は今までの案内板とほとんど同文であった。
ただ水運にも利用されていた、という点が目新しいものであるが、車もない時代ならば川といえば当然水運にも使うことは想像がつく。
しかし、この尾張というか、名古屋近辺にこういう用水が6つもあったとは知らなかった。
この日の最後の行程で、八田の駅周辺でうろうろ探し回っていたら、稲葉地用水というのに出会ったので、案外人々の気がつかない用水があちらこちらにあるのかもしれない。
ここを過ぎると、宮西橋、中央橋、前並橋、秋葉橋、大江橋となり、ここにはごみ収集の大きな装置があった。
そして、この次の橋は名草線の道路とクロスしていたが、橋といっても欄干もなければ何一つ橋と分からせるものがなかった。
ただ道路の脇に縁石を並べただけ、というまるでどぶに板を渡した、という感じで、無愛想そのものである。
ここでは橋を渡る人よりも、車のほうが多いわけで、ある意味で生活道路とかけ離れているという感すらある。
この用水という小さな水の流れが、幹線道路とクロスしているこの場所というのは、もうそれだけで人々の生活が分断されてしまっている。
しかし、この名もない場所に、小さな社が3つ並べて置いてあり、それらが手入れされているところを見ると、近所の誰かがこれをお守りしているに違いない。
こういう場面を見ると、人の暖かさが感じられる。
遊歩道として、所々にモニュメント置くのもいいが、本当はこういう古いものを大事にする人々の住む町のほうが人情味がある。

名草線から東枇杷島の間

先回、庄内緑地公園に来たときは、ここからさかのぼって上飯田まで行ったわけである。
道路を渡った対岸は、用水の上に「水辺の造形」と称して、大きな石の門から水が流れ落ちているモニュメントがあり、その水が約100mほど用水の上の川を流れていた。
つまり、用水を暗渠にして、その上に更に川がこしらえてあったわけである。
下の川は一滴も水が流れていなかったが、上の川は30cmぐらいの川幅で、左右にうねりながら流れていた。
けれどもここにはそれを説明するものが何もなく、いささか不親切な感がある。公園としては立派すぐるぐらい立派であるが、何も説明がないというのも不親切極まりない。
この辺りまでは北区と西区の行政区域であろうが、区によっても環境美化に関する認識の違いというか、センスの違いというか、そういうものが大いに関係しているような気がしてならない。
ここを過ぎる又空堀となって、助上橋、江又儀橋、井令橋、大金橋、島江橋、等々あったわけであるが、こうして橋を一つ一つ調べていくと、橋の欄干、橋の4隅の支柱に、それぞれ橋の名前や竣工が書かれた銘板がはめ込まれている。
しかし、それらには全く統一性がなく、それぞれ好き勝手につけているという感じがする。
それは漢字の橋の名前、ひらがなの名前、川の名前、竣工月日と、この4つの表示の位置が全くまちまちである。
橋を一つ一つ見て回る馬鹿、調べて回る暇人も世の中にはそう多くないので、どうでもいいことではあるが、当人にとってはこれが非常に苦痛であった。
そして才戸新橋、名棟橋、鳥見橋、笈瀬橋、黒部橋、違間瀬橋、笠取橋となり、ここでは小さな水門があったが、この地点で名古屋と岐阜をつなぐ国道22号線とぶつかるわけである。
右側に東レの大きな工場を見ながら歩道橋を渡ったわけであるが、この歩道橋というのも、登るときは自転車を押して上がるが、下りる時は乗ったまま下りてくるので、少々スリルを味わうことができる。
まあ60を過ぎた人間のすることではない事は確かである。
で、ここを過ぎると川は22号線の10mぐらい西側を、道路に沿って流れており、藤田橋、琵琶里橋、児玉橋、白菊橋、惣兵衛橋とつづき、ここで再びごみ排除の機械があって、暗渠にもぐってしまう。
もっとも、その先は東枇杷島スポーツセンターという大きな施設になっているので、その下をくぐらせているわけであろうが、私はこういう施設の建設というものには大いなる疑問をもっている。
こういう施設の建設は、行政機関、つまり自治体間の競争の場となっているような気がしてならない。
各行政機関や自治体が、「あそこも作ったから、こちらも負けないように作ろう」という競争心だけで作っているのではないかと思う。
利用者がいようがいまいが、建設費用は税金か補助金なわけで、自分の財布から出るわけではないし、作れば自分の実績として目に見える形で残るし、それは又名誉にもつながるわけで、同時に票にもつながるわけで、各自治体というのは競いあってああいう箱物を作っているのではないかと疑ってみている。
それよりもその資金を減税にまわすべきではないかと持っている。

東枇杷島から八田駅の間

このスポーツセンターの隣にも大きな公園があり、暗渠に入った用水は、この公園の脇に出てきていた。
出たところが入会橋で、目の前をはしっている道路が名古屋祖父江線で、その橋が開運橋といい、この橋の袂には妙なモチーフが置いてあった。
とういうのは、石の台座の上に大きなかぼちゃを半分に切って、それを少しずらした配置になっていた。
かぼちゃの中の種まで見える仕掛けになっているが、その意味するところは不可解そのものである。
この辺りに来ると、名鉄電車とJRの線路が高架になって並んでおり、その上新幹線の整備工場行きの線路まであるが、一応地表に出たままでこれらの下を通り抜けていた。
この辺りは岸の護岸もしっかりしており、凝りに凝って、その護岸が石積みになっていたが、美観という観点ではいささかセンスに欠けており、整備の重点が安全第一の方に移っているのではないかとさえ思えてくる。
この辺りまで来ると、民家というものが俄然少なくなり、両岸は企業ばかりなので、美観という点で誰も注意を払わないに違いない。
安全第一といっても、川の護岸には完璧な防護が成されているが、川を渡る人間の方には一向に安全が考慮されておらず、この辺りの橋には欄干が一切ついていなかった。
人が足を踏み外す危険はいっぱいある。
そして、このガードを潜った辺りから、用水は道路の下になってしまって、これから先はさっぱり行き先がつかめなかった。
仕方がないのでマンホールをたどって行ったが、途中如何にも「この下に川がありますよ」という感じの所はたどるのに楽であった。
中学生の頃、この辺りに友達が住んでいて、よく遊びに来て、泊めてもらったりもしたことがある懐かしい場所であるが、今はすっかり変わってしまって、その当時の面影は全くない。
左側に見えた球形のガス・タンクは昔からあった様な気がするが、新幹線の車両整備工場というのは未知の建築物である。
今思うと、40年以上も前によくもこんなところまで自転車で遊びに来たものだと感無量である。
当時は庄内川の堤防を走ったが、今回ほんの少し堤防に上がってみたが、とても危険で走れたものではない。
岩塚の手前では消防派出所に飛び込んで、用水の話をして、聞いてみたが、若い隊員では知らないのも無理はない。
それでマンホールをたどって今度は南のほうに手繰っていったが、近鉄と関西線が平行して走っている八田駅の南側で、とうとう見失ってしまった。
途中、三菱重工岩塚工場の脇を通ったとき、自転車屋の年老いた人に用水の話をして、「知らないか」とたずねたら「知らない」と言いつつ、「この道の下には人の背丈ほどの菅が埋まっている」ということを相手が言ったので、ここを通っていることは間違いないと思った。
ところがこの八田駅周辺というのが工事中で、線路を渡った先で同じような用水があったので、「しめた!」と思ってよく見たら、これが稲葉地用水となっていた。
これは本来探しているものとは違うので、この辺りにあるのではないか、と探し回ったが、どうしても分からず、そうこうするうちに下水処理場に突き当てってしまった。
「ここならわかるかもしれない」と思って、2階の事務所に入って行って聞いて見たら、年配の係官が親切に教えてくれた。
奥のほうから専門の図面を持ってきて調べてくれたが、ここで今までの案内板に記されていた「荒子川につながっている」という話は間違いという事がわかった。
もう少し下れば暗渠から出て、地上に顔を出すということであったが、そのきっかけが分からなかった。
それでこの日はここで折り返すことにしたが、来るときにあまりあちこち探し回ったので、方向感覚が麻痺して、庄内川の堤防に上がってしまったが、堤防上は車の往来が激しく、とても自転車に乗る事は不可能な状態であった。
で、街中に戻ってきたのはいいが、ここでも道に迷って、反対の方向に走り、時間と労力をロスしてしまった。
八田の駅から自転車で帰るのだから、自分でも「思えば遠くに来たもんだ」と、帰りのことを考えたらいささか嫌になってしまった。
それで自販機でビールを買って、それで元気をつけてペダルを漕いで走って来た。道中の行程の半分ぐらいは手放しで乗っているので、無茶といえば無茶であるが、爽快といえば爽快である。
いい気になって無謀なことをした所為か、天罰が当たって、この日から強烈な下痢に襲われ、トイレの傍から離れなくなってしまった。
重苦しい腹痛を抱え、憂鬱な日が約1週間続いた。
こういうときの気持ちというのは、実に情けないというか、惨めというか、悔しい気持ちになるものである。
何が原因か自分でもさっぱり分からないので、あきらめるにあきらめられない。しかし、それも時が経つにつれて徐々に回復して、今はもうほとんど元に戻った。

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