平成13年1月4日
この名古屋地域には小さな鉄道会社というものがかなりある。
以前は国鉄と名鉄とそれともう一つ加えるとしたら近鉄という私鉄2社しかなかった。
もっとも名古屋市の市営の交通機関というものもかなり前からあった。
ところが国鉄というものが民営化されると同時に、末端の採算性の悪い路線が切り捨てられてしまい、それが第3セクターという形で別の事業主体となったため、小さな鉄道会社の乱立という形を呈している。
我が家の近辺でその第3セクターの鉄道として運用されているのがピーチライナーと称するモノレールの線である。
このラインは小牧市の桃花台と、名鉄小牧駅を接続しているが、出来た当初から赤字路線ということが明白であった。
このピーチライナーというモノレール線は全く設立コンセプトが悪く、どうしてこんな線を作ったのか全く不可解としか言いようがない。
この作文は学術論文でもないし、私の主観のみで、思ったままのことを思った通りに記述するつもりなので、細部にこだわることなく、非常にアバウトな論旨であるが、そういう断りの上で、このピーチライナーというものを考察してみると、このラインの設立のコンセプトは最初から間違っている。
このラインの設立の案が何時頃出来たか定かに知らないが、おそらく高度経済成長の波に押されて浮上してきたものと思う。
その当時の小牧市長というのは桃花台の建設とあわせて、小牧市の将来の発展を思い、この桃花台というのが大阪の千里ニュータウンと同じようにしたいと思ったに違いない。
桃花台の建設というのは、これが完了した暁には4,5万の人口増が見込まれていたわけで、その人口を全部小牧市という枠の中で吸収しようとたくらんだに違いない。
そうすれば小牧という街がより以上の発展が見込めると思ったわけである。
こういう欲張りな発想が根底にあるものだから、このラインを周辺の自治体にまで伸ばすことを遺棄したわけである。
その後、高度経済成長が破綻し、バブル経済が破綻すると、この桃花台の計画も縮小され、最初の計画通りの人口増は見込まれなかったわけである。
しかし、ラインの計画はそのまま変更されることなく進められたものだから、出来上がってみれば、人を運ぶより空気を運んでいるほうが多くなってしまったわけである。
あのラインがせめて今のJRのどこかの駅に接続していればもう少し採算性は上がるに違いないが、今のように盲腸のような有り様では今後とも利用者の増加は見込まれない。
あのラインがせめてJRの春日井、乃至は勝川と接続していれば、利用者は増えるものと思う。
ところが名鉄小牧駅にしか出れないということであれば、小牧に用のある人しか乗らないということである。
素直に考えて、あの桃花台に住んでいる人が買い物をしたり、気晴らしに街を歩いてみたいと思った時、何処に出るだろうかと考えた場合、又あそこに住んでいる人達の職場はいったい何処だろうか、と考えた場合、小牧という自治体のウエイトはかなり低くなることは素人でもわかることである。
確かに、小牧という自治体に工場が進出してきた時期もあり、小牧には工場がたくさんあることは認めるが、工場というのはその敷地面積の割りに雇用する人数は少ないわけで、地域住民の中で職場を名古屋に持つ人というのはかなりの数のはずである。
そういうことを考えると、あの桃花台の住民の足を小牧にだけ向けさせるということは、最初から無理なことであった。
それともう一つ不都合な事は、あのラインが高架で、駅そのものも高い位置にあるということである。
ホームに出るのに高い階段を登らねばならないということは、既にそれだけで利用者に嫌われる。
すべての駅にエレベーターなりエスカレーターなりを設置したとしても、階段のある駅というのは、それだけで嫌われるわけである。
東京都内の主要駅でも、利用者というのは、乗り換え時の階段の上がり下がりのことまで考慮に入れて、毎日の通勤をしているわけで、その事は鉄道を利用する人が、もっとも労力を要しない駅の出現を望んでいるということである。
このピーチライナーの利用者が少ないということは、設立のコンセプトが地域エゴ丸出しで、江戸時代の俺らが村の利益ということを優先させて作ったところにある。
もっと広い視野に立って、地域というものを大きな面という認識で捉えて計画すれば、もっともっと違ったものになっていたに違いない。
私は人生の大部分をこの小牧で生きてきたわけで、私の子供の頃の同級生も皆この周辺に住んでいるが、おそらく古くからの小牧の住人で、あのピーチライナーに乗ったことのある人というのは皆無であろうと思う。
だいたい小牧の市内に住んでいる人からすれば、あの鉄道を利用する理由がない。
あれは一方的に桃花台の住人にのみに価値があるわけで、それ以外の人にとっては全く存在価値がない。
別の文章にも記しておいたが、旧国鉄というのは、今は民間企業としてJRに分割されてしまったが、あの旧国鉄の理念とか使命というのは、日本のどんな僻地の人にも、都会に出る足の確保という大事な理念と使命があったはずである。
その意味からすれば、陸の孤島のである桃花台の人達に、町に出る足として、公共交通機関の確保という意味では整合性があるが、モーターリゼーションという時代変革のことを考えれば、バスでそれを賄うという選択も当然ありうるわけである。
こういう公共交通機関の敷設ということは、往々にして、政治家の手柄話に置き換えられる可能性がある。
民主政治で、民主的に選出された地方の政治家にとっては、何らかの実績を残さないことには選挙のときに票が集まらない、という事情が見え隠れしている。
これは民主主義の政治にとって一種のアキレス腱でもある。
何かの実績を残さないことには、折角選出したにもかかわらず、「あれは無能であった」という烙印を押されるのが怖くて、何らかの実績を無理にでも残そうとする。
だからこういう馬鹿げた計画が生まれ、それが実現してしまうわけである。
これが旧国鉄を消滅に向かわせた一つの理由でもある。
私がまだ在職中で、三菱のいた頃、毎日これを下からばかり眺めていたので、一度乗ってみようと思って乗ったことがある。
高架であるだけに確かに景色は最高であるが、料金が高い。
あれだけの設備投資をすれば、利用料金も高くしなければ採算が合わないことは当然であるが、その料金に見合うだけの価値があればいいが、それがないものだから車内はがらがらの状態である。
まさしく空気を運んでいるようなものである。
これは最初から第3セクター方式が取られたが、事業主体がいかなるものであれ、あのラインが黒字になることは未来永劫ありえないと思う。
だからといってあれを解体するということも出来ず、存続させればさせるほど、赤字も増えることになるのではないかと思う。
いわば小牧市における、愚かな政治の遺物として、恥を日本中にさらしているようなものである。
あれを有効に生かすには、仮にJRの春日井駅に連結させてみれば、多少は利用者が増えるかもしれない。
それと今あのラインの駅というのは、地元住民の声に応えるという形で、住民の要請にしたがって駅が出来ているが、その住民は誰一人あれを利用していないわけで、それよりも企業に擦り寄って、企業の従業員の通勤に利便を図るように駅を配置すれば、多少とも利用者が増えると思う。
例えば、東田中という駅があるが、この駅はもともと住民の住むところから離れた場所になっているわけで、家から出て、とぼとぼと車の行き交う道路を歩いて、高い階段をよじ登って、高い料金を払って、小牧まで買い物に出る人があるであろうか。
それよりも三菱重工の前に駅を作っておけば、通勤客はかなり見込めると思うのが当然である。
「一民間企業の為にあるのではない」ということは理屈では分かるが、採算性のことを考えれば、空気のみを運ぶよりも、固定客として定期券の利用者の獲得のことを考えたほうがよほど採算性があがると思う。
今のままでは明らかに20世紀の遺物として、世の哄笑を受けるのみである。
話し変わるが、正月中の日和の穏かな日に城北線というものに乗ってみた。
城北線と、言葉だけ聞いても分からない人がいるのではないかと思う。
これはJR勝川駅とJR枇杷島駅を結ぶ鉄道で、これも先に述べたピーチライナーと同じく、その建設のコンセプトが理解に苦しむ代物である。
どうもマスター・プランとしては、愛環鉄道とリンクして、岡崎、高蔵寺、勝川、枇杷島と名古屋を循環する鉄道を作るというもののようである。
即ち、それは東京や大阪の環状線と同じコンセプトを狙ったもののようだ。
しかし、これが完成して、きちんと整備され、本格的に稼動すれば立派なものが出来るに違いない。
目下、首都移転が取り沙汰されているが、これが完成すれば、名古屋に首都移転する条件が立派に整うことになる。
けれども、現状ではあまりにも無残に尻切れトンボになっている。
この日、私はこの城北線に乗って枇杷島に出、そこからJRで岡崎まで行き、岡崎から愛環鉄道で高蔵寺に出、多治見経由太多線で鵜沼を回って帰ってきた。
まあ一種の遊びで、暇つぶしに乗ってみたのであるが、この城北線というのも全く不合理な鉄道で、何のためにこれが出来たのか、さっぱり理解に苦しむ。
国鉄解体で民営化されたときに、たくさんのローカル線が廃線、乃至は第3セクターに身売りされたが、その時そういう憂き目にあったローカル線でも、出来た最初は、それなりのコンセプトがあり、使命を持ち、存在理由があったにもかかわらず、時代の変化に取り残された、という運命を背負っていたに違いないと思う。
しかし、この城北線やピーチライナーには全くそういうものが見当たらない。何の為にこれが作られたのか理解に苦しむ。
JR勝川駅というのは、最近、駅前の再開発が完成して立派になったが、この城北線のホームというのは、その再開発の輪の中に入れてもらっていない。
城北線の勝川駅に行ってみると分かるが、どうしてこんな馬鹿なあり方なのか本当にあきれてしまう。
勝川のJRのホームからかなり離れた場所に、高架で、かなり高い階段を登ったところにそのホームがあるが、あれでは年寄りや、足の悪い人はこの鉄道に乗るな、と最初から言っているようなものである。
乗り換えるにしても、従来のホームのすぐ近くで、JRを下りてすぐ乗り換えれるならまだしも、JRの駅を一旦出て、屋根のない道をかなり歩いて、更に高い階段を登らなければホームに出られないでは、利用者にそっぽを向かれても致し方ない。
ただ単なる不合理を通り越して、馬鹿げているとしか言いようがない。
私がこれに乗ってみようと思って出かけたのは、正月とは言うものの、平日の昼間の時間帯で、公共交通機関としては一番利用者の少ない時間帯であったが、お客というのはたったの3人であった。
私以外には、買い物に行く小さな子連れの親子が一組で、その話し振りからすると、小田井のスーパーに買い物に行くということである。
そして車両は一両編成のデイーゼルカーで、もちろんワンマン運転である。
車体の色は、うすい赤土色の地にオレンジの帯を入れたもので、日本のローカル線のデイーゼルカーとしてはありきたりの塗装である。
ワンマン運転であるから、乗り口に整理券を発行するボックスが備えられているのは不思議ではないが、始発から乗った者にもその整理券がいるかどうか分からなかった。
しかし、たった3人しか乗っていないのだから、後で何とでもなると思ってそのままにしておいた。
この路線も高架を走っているので眺望は全くすばらしかった。
濃尾平野が一望できるという感じである。
で、勝川を出ると、次は味美に停車したが、ここはいつも車でその下を走っているわけで、いまさら目新しいものも無いだろうと思っていたら、いつも通っている県道の西側に、もう一つ古墳らしき物があるのが分かって、それは新しい発見であった。
この名犬県道の東側には二子山古墳があることは周知していたが、その反対側にも古墳らしきものがあるというのは意外であった。
今まで、この下の県道を何度となく通っていながら、その道のほんのちょっと西側に入ったところに、もう一つ古墳があるとは思いもしなかった。
これは古墳ではないかもしれないので後日確かめておかなければならない。
そんなわけで、日ごろ見慣れた光景でも、高いところから見ると、又格別の感がある。
そして枇杷島の手前には「尾張星の宮」などという優雅な駅があった。
この駅は枇杷島のキリンビール工場のそばで、車で行けば交通渋滞がひどく、ねっちもさっちも行かないところである。
そんなところに「星の宮」などというしゃれた駅名をもらっても、利用者がいなければなんともならない。
この路線は、勝川を出ると味美、比良、小田井、尾張星の宮、枇杷島と、たった6つしか駅が無いわけである。
その間を1時間1本程度のダイヤで運行しているわけであるが、これでは利用者が見込まれないのは火を見るより明らかである。
この間は、その大部分を、東名阪というか、名古屋高速というか、高速道路が平行して走っており、その下は国道302号線として車が行き交っている。
だから名古屋市の北部で、市街地に入ることなく、東西に行き交う、人と物の流れというのは潜在的にあるわけである。
そういう潜在的な需要を考えたとき、この路線を高架にして、1時間にたった1本程度のダイヤで運行していれば、採算が合うわけがない。
こんなことはド素人でも一目瞭然と理解することである。
実に不思議な路線を作ったものである。
先に述べたように、この路線が将来的には、名古屋地区の環状線になるとしても、単線ではそうしようと思っても出来るものではない。
実際問題として、この路線は何のために作られたのかさっぱり理解し得ない。数年前にアメリカとの通商摩擦が起きたとき、アメリカ側から日本の構造改革を強いられ、公共事業の設備投資を強要されたことがあるが、それで出来たのかもしれない。
ただ単に、土建屋、建築屋、土木屋の糊塗を拭うために、不必要ではあっても、彼らに仕事を与えなければならない、という理由だけで出来上がったのかもしれない。
全く公共交通機関としての意味も意義も無いわけで、ただただ無用の長物でしかない。
ピーチライナーのところでも述べたように、高架であるということは、非常に素晴らしい事で、高架でさえあれば車との衝突という事故はありえない。
しかし、この安全性の高い路線を誰が利用するのか、乗る人があるのか、と考えた場合、乗る人が全くいないにもかかわらず何故に安全第一の路線を作る必要があるのか、と問い直さなければならない。
いくら安全でも乗る人がいないでは意味をなさない。
枇杷島に着いて、規定の料金を払って下りようと思ったら、運転手が「この切符を持っていけ」という。
最初は何故だか分からなかったが、よく考えてみたら、城北線の料金を払っても、JR線の駅に入ったという証拠は何も無いわけで、その証拠として運転手が渡してくれた切符が機能するということであった。
勝川駅では城北線の駅はJRの駅とずいぶん離れたところにあったが、枇杷島では、そのままJRの駅につながっていた。これでなければおかしい。
そのために、お客が下りるとき、「枇杷島駅で乗り継ぎましたよ」という証明として、切符のような紙片を渡してくれたわけである。
先のピーチライナーにしても、この城北線にしても、全くその存在意義がない路線である。
存在する意味がない路線である。
何のために出来た線路なのか全く分からない。
そんなことを考えながらJR枇杷島駅で待つことしばし、すぐに豊橋方面行きの快速電車がきたので、それに乗り込んで岡崎まで行った。
岡崎までの道中はさして興味ある風景は見れなかった。
お客は皆正月気分にひたり、くつろいだ雰囲気で、初詣などの土産をぶら下げていた。
JR岡崎駅というのも近代的な瀟洒な駅で、今時の駅舎としては可もなく不可もなくという感じがするが、ここでは事業主体の違う鉄道からの乗り継ぎなので、この辺りで一応清算をしておかないと後で面倒なことになるのではないかと思って、精算所で清算をした。
普通ならば駅の構内の自動精算機で行うところであるが、何しろ城北線のおかしな紙切れしか持っていないので、人のいる精算所で清算した。
それで一旦構内から外に出、再び愛環鉄道の切符を買って中に入った。
この愛環鉄道のホームは岡崎駅の0番ホームになっていたように記憶する。
この鉄道の車両は如何にも軽やかな感じがするもので、クリーム色の地にブルーのラインを入れた2両連結で、さわやかな印象を受けた。
で、運行に携わっている人達も若々しい若者で、感じがよい。
この鉄道は終点の高蔵寺まで小1時間かかる。
沿線の風景はのどかな田舎の光景で、それでも小さな集落を縫うように走っているので、利用客はピーチライナーや城北線に比べるとましである。
しかし、採算ということになると収支トントンではないかと想像する。
沿線には大学もあり、両端で高蔵寺と岡崎というJRの主要駅と直接つながっているので、存在意義は前の2つの路線よりはある。
先に述べた岡崎、高蔵寺、勝川、枇杷島という愛知循環鉄道の構想も、この愛環鉄道に乗っている限り意義のあるように見えるけれど、如何せん、この路線の沿線というのは、如何にも田舎という感じで、都市化は程遠い有り様である。
東京の山手線や、大阪の環状線のようなものにしようとすれば、後100年という歳月を待たなければならないと思う。
もっとも東京の丸の内だって、最初は「虎でも飼っておけ」という状態だったことを思えば、もっと早い時期に通勤電車が3分おきに出るようになるかもしれないが、私の生きている間にはなりそうもない。
だいたい田舎だ!。のどかだ!。
駅の前にだけ、申し訳程度にビルがあるようなもので、ローカル線の名をもっとも具現化しているという感がある。
しかし、トンネルがあり、川があり、一昔前の日本ならば何処にでもある風景と同じである。
それで、この列車が高蔵寺に着く頃、車掌が切符を集めにきたかと思ったら、切符を確認しただけで回収はしていかなかった。
考えてみれば、これも当然なことで、切符を持っていないことには次のJRに乗ったとき、清算できなくなってしまうからである。
高蔵寺からは再びJRで多治見まで行った。
途中、定光寺と古虎渓という駅を通過したが、この間を中央線に乗ったのは久しぶりである。
前に乗ったのが何時のことかほとんど記憶にないぐらい古い昔である。
私の育ったところからは、この中央線に乗る機会というのはほとんどなかったことになる。
よくよく考えてみると、中学校のとき仲間と木曾の方に遊びに行ったときぐらいで、それ以来乗った記憶がない。
そのことを考えると、当時はまだ蒸気機関車だったように記憶している。
多治見に行ったことがないという意味ではなく、車ではしょっちゅう行っているが、JRでこの間を通過したことはない、という意味で、定光寺とか古虎渓の駅というのは半世紀前と少しも変わっていないように見えた。
ただ経費節減のため無人になっていることぐらいである。
それで多治見に着いてみると、駅の構内、改札口の手前にうどんの売店があった。
私はどういうものか、この駅の売店でうどんやそばを食うことが好きで、ついつい足が自然にそちらに行ってしまった。
正月ということでもあり、お客もあまりいないせいか、中年のおばさんが一人でがんばっていた。
先の岡崎では知立の大あんまきを一本食した。
前々からあの大あんまきを一度は食べてみたいと思っていたものだから、一本だけ買って食べてみたがさほどおいしいものとも思えなかった。
まあそんなことで、うどんを食べてから、ここまでの運賃を再度清算すべく、一度構外に出た。
一度駅の外に出てから、再び鵜沼までの切符を購入して、今度は太多線というのに乗った。
これは美濃太田と多治見を結ぶ線で、古くからあることは知っていたが、乗るのははじめてである。
この路線にもなまめかしい駅名があり、それは「姫」という駅である。
どうして「姫」というのか知らないが、おそらくこの土地にはそれに関する由緒あるいわれがあるに違いなかろうが、私は寡聞にしてまだそれを知らない。
このラインの沿線は、先の愛環鉄道の沿線と比べれば、はるかに開けている。
沿線の集落が面の広がりを持っているところだけでも違う。
そして美濃太田という駅はかなり大きな駅で、考えて見れば、ここは高山線の基地になっていたわけだ。
美濃太田という街も車ではしょっちゅう通るが、車に乗っているときはいつも前を見ているので、この街にこれほど大きな鉄道の基地があることに気がつかなかった。
全く知らなかったわけではないが、ゆっくりと観察する余裕がなかった、というほうが適切かもしれない。
美濃太田の構内を見渡すと、かなり変わった塗装の列車が係留してあり、大いに興味が湧く。
不思議なことに私はまだ高山線というものに乗ったことがない。
美濃太田と鵜沼の間は厳密に言うと高山線なのであろうか。
おそらくそうに違いないが、そうだとすると今回はじめて乗ったことになる。
美濃太田の駅そのものはそう代わり映えのするものではない。
ただその脇にある操車場の広さに圧倒されただけのことで、駅そのものが特別に珍しいわけではない。
美濃太田から鵜沼の間というのは国道21号線に沿ってあるわけで、車ではいつもこの路線のそばを通っていたが、列車でこの間を通るのは初めてのことである。
美濃太田の次が坂祝という駅であるが、この駅にはセメント工場の引込み線があった。
昔は物資の輸送というのは鉄道が主であったので、大きな工場は鉄道のそばに工場を建て、引込み線で原料なり製品なりを輸送していた。
それがトラック輸送に変わってしまったので、近頃の工場は何も鉄道のそばに工場を建てる理由がなくなってしまって、鉄道が斜陽化してしまったわけである。
しかし、昨今のように、日本中の道路という道路がすべて渋滞で身動きできない時勢になれば、再び鉄道による物資輸送ということを再考してみるよい機会であるように思う。
少なくとも都市間の輸送に限って言えば、やり方によっては明らかに鉄道のほうが有利な場面も多々あるように思う。
民間のトラック業者が、個々の企業毎に、東京大阪間にトラックを仕立てて走らせるよりも、それを一括して列車で運べば、どれだけ経費節減になるのか、考えてみる値打ちはあると思う。
コンテナーの上手な使い方を考えるとか、トラックごと列車に乗せる方法を考えるとか、知恵を絞れば物資輸送の効率化、ひいては道路の渋滞解消策としての鉄道利用の道というものもあるような気がしてならない。
そんなことを考えながら列車の振動に身を任せていたら鵜沼についたので、ここで列車を下りた。
この鵜沼というところも、車ではいつも通過しているが、この日のように列車で来たことはない。
鵜沼で列車を下りて、案内板に沿って歩くと、名鉄電車の鵜沼駅に来たが、この駅の構造も利用者にとってはまことに不親切な構造になっている。
都会の駅では、会社が違っても、利用者にとって都合の良いように駅の構造がなっているが、この辺りでは全くそういう発想がない。
会社側の都合のみで駅が出来ているわけで、利用者の利便ということは全く設計の段階から考慮に入っていない風に見受けられる。
JRの鵜沼駅から名鉄の鵜沼駅には長い歩道を歩かねばならず、歩道の終わりには再び名鉄の切符売り場が構内にある。
名鉄電車にしろ、旧国鉄にしろ、鉄道というのは最初からから一社でもって線路や駅を作ったところは少なく、大なり小なりさまざまな会社を合併して今日の姿になっているわけで、出来上がった今日の姿というのは、利用者の利便ということは度外視されているわけである。
名鉄の鵜沼駅というのも妙に曲がりくねった駅で、大きなカーブを描いたホームになっている。
これもおそらく合併したときの後遺症として、そのまま残っているのではないかと想像する。
ここで名鉄に乗ったら、犬山遊園の駅では、成田山詣でのお客が乗り込んできた。
正月のことであるからそれは当然のことである。
まあこんな風にして、正月の一日を電車に乗って過ごしてみたが、これはこれなりに興味ある一日であった。