東京の散策

病院と癌との付き合い方

この日(平成13年3月28日)、久しぶりに東京に出た。
3月も終わりの頃合なので、新入学や新入社のための移動が多く、新幹線は混雑しているに違いないと判断し、少なからず緊張気味であったが、何時もと大して変わりはなかった。
但し、春休みという事もあって、子供連れのお客が目立った程度で、さほどの混雑でもなかった。
よって新幹線の中では図書館から借りてきた本を読んでいたが、私はどういうものか、本を読んでいても感情がすぐに体に現れてしまって、泣いたり笑ったり、人中で自分の感情を抑えるのに四苦八苦の状態であった。
昨日、小牧駅の名鉄観光で座席の指定券を受け取りに出向いたが、何時もの7:27分発のものは取れず、その7分前の列車しかなかった。
何時も国立がんセンターへの通院の際に思うのだけれども、この東海道新幹線というのも実に便利なものだと感心する。
名古屋から東京の病院まで、日帰りで診察が可能なわけで、私の子供の頃では考えられないようなことである。
私が東海道線というものの恩恵を最初に感じたのは18,9の頃、中央貿易という会社からの転勤で東京生活をはじめたときである。
当時、東海道線には「東海」という準急列車があった。
東京・名古屋を往復するには、一番リーズナブルな値段で運行されていたが、今から思うとかなり時間がかかっていた。
この頃、いくら無理なスケジュールを立ててみたところで、東京・名古屋を日帰りでこなすということは不可能であった。
それが今ではらくらくと行えるわけで、技術の進歩というものは実に素晴らしいものである。
例によって、国立がんセンターに検診に出かけたわけであるが、この日は発病後3年を経過し、4年目に入ったので、再度精密検査を受けることになった。
普通の診断の後、斎川先生が「本日は血液検査とレントゲンを受けて下さい」といわれたので、その指示の通り受検したわけであるが、この巨大病院というのも実にシステマチックになっており、血液検査とレントゲン撮影というのは、実にスムースに進み、11時半頃には会計まで済ませてしまった。
この国立がんセンターというものに通うようになったのも「舌がん」という病気に取り付かれた所為であるが、近代医学と良心的な医師(斎川先生)に恵まれ、今では一病息災というか、病気を楽しむというか、「災い転じて福となる」というか、残りの人生を如何に充実させるか、という課題を負うようになってしまった。
昨年、小学校のときの同窓会に主席したが、私ががんを患ったことを言うと、皆同情してくれた。
そして現在何一つ薬を飲んでいない、ということをいうと、全員驚異の眼差しで見返していたが、まさしく自分でもこれほど生き長らえるとは思っても見なかった。
命そのものはもう2、3年は生き長らえるかもしれないが、人生のQOL・(クオリテー・オブ・ライフ)、いわゆる人生のQC・品質管理において、寝たきりの人生では意味がないわけで、そういう意味で元気ハルラツと行動できる人生が約束されているかどうかは自分でも疑問であった。
しかし、今、自重しつつではあるが、健康という範疇で生かされているわけで、これほど有りがたい事も又とない。
4年前の夏、柏の国立がんセンター東病院で手術を受け、身も心もぼろぼろで退院し、最初の通院の診断で、「リンパ節に転移している」という診断が下された時には、それこそ「目の前が真っ暗」という表現に匹敵するほどのショックだった。
一番最初の診断のときは、自分でもある程度の自覚というか覚悟というものがあったのでそれほどのショックではなかったが、二度目のときは本当にショックだった。
そのショックを受けた建物は今はない。
その代わり前以上に立派な建物になったわけであるが、このホテル並の立派な病院は、それなりに合理的、かつシステマチックになっており、診察を受ける側も能率よく移動できるようになっている。
そうなさしめた裏側には、コンピューターの存在が大きくのしかかっているわけで、コンピューター無しではこれだけの巨大な病院は一日足りとも機能しないに違いない。
まず受診者が病院に着くと、診察券を入り口の受け付け機に挿入することで、自分のカルテが先生の手元に集まるようだ。
先生はそのカルテを見て、新しい診断をしたり、検査をしなければならないとなると、コンピューターのキーボードに向かって入力すると、その結果が再び先生の手元に戻ってきて、次の診断日と検査のスケジュールが確保できる、というシステムになっている。
今回の場合、血液検査とレントゲン撮影であるので、これはこの日にも受診できたが、内視鏡検査は予約が必要なわけで、再度通院しなければならない。
これはそれだけ手間のかかる検査なので致し方ない。
前の建物の時は、地下室に汚い食堂があって、最先端の医療を司っている病院にしてはいささか不衛生ではないか、と危惧したものであるが、この汚い地下食堂がなかなか美味で、私はこういう雰囲気が大好きであった。
庶民的というか、下町情緒というか、如何にも「高級で御座います」ということを売りにしている店よりも、こういう肩肘張らない、打ち解けた雰囲気のほうが好きである。
血液検査の採血を終え、レントゲン撮影も終え、会計を済ませたら、この日は金3880円という診療費であった。有り難い事である。
これでもこの日は金がかかったほうで、通常ならば180円というのが普通であった。
新幹線代に往復2万円弱を掛け、一日無駄にして180円の診療代というのもなんとなく漫画チックであるが、これも有り難い事である。
会社に在籍していたときは、この不合理に疑問を抱いていた仲間も多かったに違いない。
交通費に2万円も掛けて東京まで行かなくても、近くで診察を受ければもっと安上がりにできるのではないかと思っている人が多かったに違いない。
しかし、私に言わしめれば、この交通費など安い物だと思う。
近くの医者に掛かって、わけもわからない薬を飲まされたり、放射線をあてられたりするよりも、交通費は掛かっても何の治療もしない医者の方が信頼がおける。
もともと人間の体というのは、自然治癒の能力を持っていると思う。
自分の体がこの自然治癒の力を喪失したとき、それは私の人生の幕を下ろすときでもあるわけで、それが来ればどうあがいた所で寿命を伸ばすことは早期にあきらめたほうがいいと思っている。
医者がなにも治療しないということは、本当に有り難いことで、本当の医療を施しているのではないかと思う。
民間の医療機関というものは、基本的には利益追求する営利企業と同じなわけで、儲けということが前提に有るわけであり、そこに雇われている医師というものはその利益追求に協力せざるを得ない。
当然、利益追求の為、そこには余分な検査や、余分な投薬や、余分な治療というものが必要になってくるわけで、そういうことが一切なく、1分間診療とはいえ「180円ですよ」という治療は、最高の医療だと思う。
私の病気は担当医の斎川先生が「立派な癌ですよ」と、太鼓判を押した正真正銘に舌癌であったわけで、それが手術の結果、今まで以上の健康を取り戻して、日夜生活しているわけであるが、これ以上の治療というものは私に不要である。
ただ心配な事は、その癌のかけらが何処かに潜んでいるのではないか、という危惧だけで、そのために2万円という交通費を掛けているわけである。
この日も、会計を済ませて外に出て一番最初にしたことといえば、やはりタバコを一服吸うことであった。
これは毎度のことであるが、タバコは癌ばかりでなくあらゆる病気、健康な体そのものに害があることは十分に承知している。
しかし癌になっても止められない。家内がやかましく禁煙を迫るものだから、その気になったことも有り、又自分でも止めなければと思い悩んだこともあったが、止められないものや止められない。
斎川先生は多分気がついているに違いないが、今のところ何も言われない。
「言ってもしょうがない」とあきらめているのかも知れない。
しかし、誰がなんと言おうと、止められないものは止められない。
で、ここに通院しだしたはなから、診察が終わったあと、病院を一歩出た最初にすることといえば、やはり紫煙をたなびかせて深呼吸をすることであった。
日頃「タバコと止めなければならない」と潜在意識にまで、その強迫観念に犯されて、日夜それとの確執に悩まされているのに、「何も異常はない」といわれると、煙草の一本ぐらい大した影響はないであろうと、緊張感が緩和されてしまう。
「タバコを止めなければならない」という緊迫感から一時的にも開放された気分になり、ついつい煙草に手が行ってしまう。
これがどういうわけか非常にうまく、それを違う表現で言えば、命がけでタバコを吸っているという感じがする。
新築のホテルと見まごうばかりの病院内には、タバコを嗜むエリアは何処にもなく、ホテルのロビーのようなくつろぎの場所でもそれは許されず、正面玄関を外に出た、左脇のベンチにかろうじて灰皿があり、そこで火を付けるのが慣わしとなってしまった。
で、ここで一服、こころよく嗜んでから帰ることになるわけであるが、この日は丁度昼少し前に終わったし、帰りの時間までかなり待ち時間があるので、再び浅草の賑わいを体験してみることにした。

浅草界隈の散策

それで東京中央卸売り場の前の交差点を市場のほうに渡り、その正面を横切って浜離宮のほうに歩いていった。
この間10分も掛かっていないと思うが、浜離宮の入り口に来ると、もう東京の騒々しさから隔離されたような気分というか、雰囲気というか、江戸時代にタイムスリップしたような気持ちになる。
それでこの入り口で入園料300円なりを支払って園内に入るわけであるが、先回は藤川壮介君と一緒だったので、この園内を一周した。
その時も、ここが東京の真中とはとても思えない感じを味わったものだが、今回は目的がはっきりしているので一目散に水上バスの乗り場に向かった。
その途中、左側には樹齢300年とか言う松の大木があり、その雄大というか、壮大というか、高さはあまりないが横に張った姿がなんとも風情があるというにふさわしく、見事なものであった。
その松を通り過ぎると、右手に広い広場があり、そこには菜の花が満開に咲いていた。
黄色の絨毯と言っていいかもしれないが、菜の花というのはある程度背丈があるわけで、絨毯という言葉はマッチしないかもしれない。
その黄色の菜の花の中では、いろいろな人達がそれぞれに写真撮影していた。
子連れの夫婦やら、若いアベックやら、老夫婦が思い思いに写真をとっていた。
水上バスの乗り場に着くと、すぐに船が出る事が分かり、運が良かった。
切符を購入してしばらくすると、船が汽笛を鳴らしながらやって来たが、結構混んでいた。
しかし、ここでかなりの人が降り、そして新たに15,6人前後の乗客が乗り込んだ。
船の名前は見落としてわからないが、この水上バスというのは、橋げたの関係でどの船も船の高さというものがほとんどない。
この日は天気も良かったので一番後のデッキに腰掛けてみた。
汽笛一斉というわけでもなかろうが、それなりの合図をして岸を離れた船は、すこしバックして、閘門を潜り抜け、それこそ文字通り東京港に出た。
そして日の出桟橋までわずか10分足らずの航海であったが、ここで又しばし乗客の交代があり、船はいよいよ浅草に向けて出発した。
水の上から見る東京というのも又別の感慨がある。
左手にすぐ聖路加病院が見えてきたが、この病院も大きな病院で、さぞかし入院料も高いに違いないと思いつつ、下から見上ていたが、今や病院も巨大企業と化して、大きければ大きいほど収益も上がると言うわけでもなかろうが、新しい病院というのはいずれも巨大化している。
わが町の春日井においても例外ではなく、昨今開業した市民病院は、それこそホテル並である。
水面から眺める大都会というのも実に不思議な感じがする。
巨大なビルの存在が実に不思議に見える。
街中を歩いていると、上を見上げてもその全体像が掌握しにくいが、船の上から見るビルというのは、その全体像が見えているわけで、あの中で老若男女が働いているのか、と思うなんだか不思議な気がしてならない。
しかし、川辺の風景というのは心を和ませるものがある。
川から見るコンクリートの岸壁には、絵が書いてあったり、落書きがあったり、休憩の小屋があったり、遊歩道があったりして。
子供連れの母親がいたり、アベックがいたり、爺婆のグループがいたりして、この平和な日本の幸せな光景がそこには散見できる。
隅田川の水はとうとうと流れ、暖かい春の日差しを浴びて、わずか40分足らずで浅草に着いてしまった。
途中たくさんの橋の下を潜ったが、その一つ一つはパンフレットに記されているので省略するが、終点の吾妻橋というのは浅草の入り口にあたる場所で、この桟橋付近の人の出というのは相変わらず、それこそ芋を洗うような混雑を極めていた。
桟橋を上がると妙な交差点になっていて、何叉路になっているのか分からないぐらい不可解な交叉点である。
人の波にまぎれて、横断歩道を二つばかり渡ると、その角に神谷レストランというのがある。
ここも以前藤川壮介に案内されて来たことがある場所で、再び入ってみることにした。
その時、藤川にデンキブランという酒を薦められて賞味したことがあるので、今回もそれを味わってみることにした。
この店は角地にあり、浅草通りに入り口があり、3階になっているので、3階分の商品陳列がしてあった。
1階のレストランの入り口で食券を購入して、テーブルにつこうとしてが、結構混んでいて、合い席になってしまった。
合い席でもかまわないが、テーブルの対面にはもうかなりメートルの上がった年寄りがいた。
この店はどういうものか常連客が多いと見えて、あちらこちらのテーブルで、かなり気勢を上げている年寄りが散見された。
で、このデンキブランという酒が如何にも不思議な酒で、ウイスキーのようでもあるが、ウイスキーでもなく、なんだか薬くさい感じもしたが、少し甘い感じがする飲みやすいもので、周囲のテーブルを見ると、このグラスを2本も3本も並べている人がいた。
小さなグラスで金260円也ということだからそう高いものではないが、それを飲んでいる人というのは、いずれも年寄りで、このフロアー全体が年寄りのバーのような感じがする。
本来ならば、駅裏の屋台のような雰囲気の店だが、それがレストランという形の中にあることが不思議でならない。
中の客も年寄りばかりで、しかも常連客という事であれば、この辺りの人が日常的にここで飲んでは憂さを晴らしているのかもしれない。
とにかく私にはお気に入りの店で、食券システムであるから明瞭会計でもあるわけで、安心して飲めるところが素晴らしい。
それでここで腹ごしらえをして、浅草をぶらぶら散歩してみる事にした。
浅草というところは基本的には私の好む場所ではない。
というのも、ここは100%おのぼりさんの来る場所で、決して穴場といえる場所ではないので、好奇心が刺激されないからである。
しかし、ここに集まってくる人の姿を見るのはこれまた別の楽しみで、実に様々な人達が行き交っている。
この人達は何処から来たのだろうか、と思っていると日本語でない言葉が行き交っていたり、又、如何にも西洋人という人達が、模造品の刀を買って喜んでいたりするところがなんともいえず面白い。
その中で水上バスに乗り合わせた一団ともすれ違ったりして、そういう出会いがなんとも妙な気分にさせてくれる。
この雷門というのも、最初に見たときにくらべれば幾分感慨が少ないが、それにしても何度見ても不可思議な存在である。
あの大きな提灯と、左右一対となっている仁王像(阿吽の形)というのが日本的というか、仏教的というか、外国人にしてみれば興味深いものに違いない。
そして、それが金網の中で、埃りまみれになって、色あせたまま保存されている有り様というのは、紛れもなく日本の文化そのものである。
雷門を通り、仲見世にはいると、まさしく人種の坩堝で、ここが日本かと見まごうばかりである。
最近は東南アジアからの観光客が多く、外見だけでは日本人かどうか定かに分からないが、やはり言葉でそれとわかる。
西洋人というのは外見だけで一目瞭然と識別できるが、アジア人というのは外見だけではさっぱり識別できない。
無理に識別する必要はないが、アジアの人達が日本に観光に来る、ということは我々が考えている以上に大変なことではないかと思う。
第一お金の基準が違うわけで、我々は1ドル100円という感覚で換算できるが、日本の円を彼らアジアの人たちから見れば、1週間分の労働とか1カ月分の賃金という単位になってしまうわけで、決して無駄使いは出来ないのではないかと想像する。
そういう中で、彼らが日本に来るということは、それだけの余裕・財貨を得ており、それが使えるだけの資金力を持っているということである。
この金の価値の差があるからこそ、彼らは密航してまでも日本に来たがるわけで、その日本に堂々と正面きって訪れ、浅草を見物できるアジアの人々というのは、かなりの資産家でなければならないはずである。
西洋人となると、これまたアジアの人達は違った価値観を持っているので、純粋に好奇心を満たす旅をしていると思っていいと思う。
どういう形にしろ、旅というのは未知との遭遇を期待する行動なわけで、好奇心がなければ成り立たない行為である。
それで仲見世の賑わいを味わいながら奥のほうに進むと、本堂の前に大きな香炉があり、そこでは線香の煙が立ち上っていた。
この煙を体にかけると、その部分の病気が治癒するという迷信は知っていたので、私もそういう迷信を信じているわけではないが、面白半分で人と同じ事をやってみた。
だいたい私は正真正銘の無神論者で、神も仏も信じてはいないが、日本人が古来からやっていることは、その根拠を詮索する事無く受け入れるようにしている。
信じてはいないが真正面から否定する気もなく、先人のやって来たことは、そのまま真似てみようという気持ちはある。
で、この香炉の付近では、欲張りな人は何度も何度も繰り返しては、煙を手で体のあちこちに掛けていたが、ここでそういう行為を見ているだけでも、その人の深層心理が欲張りかそうでないか分かるような気がした。
しかし紅毛碧眼の西洋人から見ると不思議な光景に写るのではないかと思う。
まさしく異文化そのものではないかと思う。
アジア人にはなんとなくその下地が備わっているのではないかと想像する。
それから本堂に行って、何がしかの賽銭を払い、自分の体と娘の結婚生活の安泰を願っておいた。
困ったときの神頼みという方便があるが、今回の私の場合、さしあたって困っているわけではないが、ここに来た以上何かお願いをしなければならないわけで、当座の希望というものを頼んでおいた。
それにしても不謹慎な話で、癌で手術を受けながらタバコが止められない人間が、無病息災を願ったとすれば神様も処置に困るに違いない。

本屋を覗いて思ったこと

そんなわけで本堂でお参りを済ませ、地下鉄の駅まで戻って来たわけであるが、ここから日本橋に出て東京駅まで歩くつりであった。
この地下鉄に乗るという事も、何十年ぶりというもので、以前はこの路線は黄色の車両で、東京でも一番最初に出来た路線のため、車両も一番古かったが、今ではステンレス車になっていた。
しかし、ホームのほうはそう安易に変わるわけがなく、古色蒼然たる雰囲気をかもし出していたが、今時30年も40年も前の昔話をしても誰も取り合ってくれない。
それで日本橋で下りて丸善に入ってみた。
その後、八重洲口まで地上を歩いて再び八重洲ブックセンターに立ち寄ってみた。
最近は本屋さんが非常に立派になり、かつ巨大化しているのはどういう理由によるものであろうか。
テレビの普及で、日本人は活字離れが進み、誰も本を読まなくなったといわれて久しいが、この本屋さんの隆盛はどういうものなのか理解に苦しむ。
その事は、日本人が本を読まなくなった、という世評自体が嘘であったわけで、日本人というのは今まで以上、テレビがあろうがなかろうが、本を読んでいるわけで、それでなければあの本屋さんの人の混みようというのは説明がつかない。
何時も思うことなのだが、本屋で本を探す人も多ければ、その本を書く人というのもそれに比例して多いということである。
丸善でもブックセンターでも、狭い店内が人であふれている。
考えれば考えるほど不思議な光景である。
大学の生協の本屋が学生であふれている、というのならばまだ健全な社会であろうが、巷の本屋が人であふれている光景というのは、正常を通り越した異常な状況だと思う。
それにしても、本を買う人が多いということは、まだ理解しうるが、この本を書く人がこれほど日本のいるのかと思うと、その事はもう常軌を逸した状況といわなければならないと思う。
丸善でもブックセンターでも、棚に並んでいる本というのは、それぞれに違う本なわけで、立て積みしてある本は、店の販売方針で「如何にも売らんかな」という展示手法であるが、棚の本というのはそれぞれが違う本なわけで、それだけに書いた人も違うわけである。
それでいて自分が探している本というのは案外ないものである。
本というものの流通に関して全く素人の域を出るものではないが、本というものは再販制度で、古くなったからといって値下げして売ることが禁止されている。
これは馬鹿げた制度だと思う。
だから一度出版された本でも、買い手がないと誰にも読まれないうちに廃棄処分されてしまうわけで、ある特定の人しか興味を示さない本というのは、最初からごみを作っているようなものである。
それにしても、本の題名だけを見て回ると、誰がこんな本を読むのだろうというような本がいっぱいあって、そういう本が店頭にあるということは、誰かが買うに違いない。
その事は同時に、誰がこんな本を書くのだろうという事にもなるわけで、それは又、同じ事が出版社にもいえるわけである。
全く売れそうにもない本を書く人も書く人ならば、作る出版社も出版社のような気がしてならない。
それは悪い意味で言っているのではなく、良い意味で言っているわけであるが、あまりにも専門的過ぎて、その事柄に興味を持つ人は一体どういう人であろうか、という疑問が先に立ってしまうので、こういう言い方になってしまう。
それは本の大量生産を善意に解釈していっているわけで、良い意味で言っているわけである。
こういう状況を目の当たりにすると、私の書いている文章も必ずや本という商品になりうるに違いないという勇気が湧いてくる。
本の大量生産というものを大きく敷衍して眺めてみると、今日の日本では本というものがある意味の消費財として機能しているのではないかと思う。
数ある本の中には、必ずしも知識を切り売りするという性質のものではなく、ただたんに娯楽に徹し切っているものもあるわけで、一応目を通せば後は捨ててしまっても何ら惜しく思わない類のものが多いわけである。
従来のように、一度読んだ本は本棚に入れて保管しなければならない、という強迫観念から逸脱して、読んでしまえば後はごみにして差し支えないようなものが多々あるわけである。
こういう現況を喜ぶべきか悲しむべきか苦慮するところであるが、これも突き詰めれば、日本経済の成せる技で、日本経済の持つ力の一面であろう。
しかし、第2次世界大戦後の世界では、やはり本の普及というのは、如何なる国でも目覚しい状況であるに違いない。
恐らく世界の国々というのは、文盲の克服という事にかなり成功しているのではないかと思う。
文字から知識を得るということは、やはり人の生き方を大きく左右するものだと思うし、テレビというのは見ているその場では分かったような気がするが、知識の蓄積という事では書物に勝ものはないわけで、その意味からすると、昨今の日本のように読み切りの書物の氾濫ということは、一考を要する事かもしれない。
昔、マルクス主義華やかりし頃、インテリゲンチャとか知識人という言葉があったが、今の日本の状況を見ると、その大半がインテリゲンチャであり、知識人である。
これも無理のない話で、日本の若者の90%以上が何らかの高等教育を受けているとなれば、その大部分が昔で言うとろのインテリ、知識人であるわけである。これが地球規模で広がっているとすれば、人類にとって素晴らしい宝になっているはずである。
しかし、不思議なことに、知識があるからといってそれが善人であるとは限らないわけで、非常に高度な知識を持った悪人もごまんといるわけである。
昔のインテリという言葉のイメージは、金持ちのボンボンで、金に不自由する事無く教育を受け、自分の受けた知識を切り売りすることで彼らの自尊心を満たしていたが、猫も杓子も高等教育を受ける機会に恵まれると、教育を受ける側にも、邪で、心の濁った、卑しい人間も紛れ込んでくるわけであり、そういう人間が高等教育を受けた、という免罪符を持つ事によって、社会の中間層を牛耳るようになると、社会は衰退の方向に向かうことになる。
日本経済が右肩上がりの高度経済成長を突っ走っていたとき、日本の社会をリードしてきたのは、心は邪で野卑であったけれど、たまたま高等教育に恵まれた人たちが、社会の中間層に入ってきたため、その後の社会がゆがんできたわけである。
古い話で恐縮であるが、銀行の不良債権の件でも、銀行の窓口で日夜接客している下っ端の行員の仕業ではないわけで、銀行の経営者に近い位置にいた高級幹部が、そういう具にもつかない行為をしていたわけで、その高級幹部というのは、学歴はあるが心が非常に汚く、なおかつ邪で、自分の立身出世、ないしは自分の会社の業績のみしか眼中にない連中であった。
そういう連中・本来ならば学術優秀、謹厳実直であらねならないインテリ、学識者と呼ばれるにふさわしい人々が引き起こした不祥事なわけで、その不始末を国民の血税で行うなど以ての外である。
銀行の不始末は、銀行経営者が自分の資産を全部処分してでも自分達で後始末をするべきで、預金者保護という美名のもとに公金を使うなど以ての外である。
自己責任ということをもっと真摯に捉え、今まで散々おいしところを食い散らかし、良い目を見ておきながら、尻ぬぐいは国民の血税でするなど言語道断である。
そして、それを指導したのが政治家ときているわけで、この政治家というのもまたまた倫理観に欠け、自分と党にのみ忠誠を尽くす輩であるわけで、納税者の存在というものを全く意識していない。
昔の国会議員というのは、田中角栄のように、学校に行っていなくとも国民のため、地域のため、大いに活躍した人物もいたが、今や学校を出ていない政治家というのは一人もいないにもかかわらず、日本の政治というのは一向に成熟していない。
経済界にしろ、政界にしろ、あらゆる業界でも、全て高等学歴を備えた人たちばかりなのに、日本というものが何時まで経っても成熟しないのは一体どういうことなのであろう。
我々は、明治以来、人間は教育を受ければ立派な社会が実現するものと刷り込まれてきたが、一向にそうなっていないという事は、教育というものは社会の成熟に何ら貢献するものではないということだろうか。
丸善と八重洲ブックセンターという巨大な本屋さんをのぞいて、そういうことに思いを巡らせた。
結局、この巨大な本屋に本があふれていても、私が金を出して買いたいと思った本は一冊もなかったわけで、買わずに出てきた。
私の60年の人生経験からすると、若い時は本を買うとそれだけで、少しは利口になったような気分に浸れたが、今は本など一度読めば後になって再読することはほとんどないので、図書館の本で充分であるという心境に至っている。
第一保管場所に困る。
図書館の本ならば、読もうと読みそびれようと、返してしまえば保管する必要はないわけで、まことに便利である。
ところがこの図書館にも弊害があって、最近では若いお母さんが子連れで図書館に来るので、これにはいささか閉口する。
それとホームレスのような人たちが雑誌や新聞を読んでいれば追い出すわけにも行かず施設、当局の側もさぞかし困っているのではないかと想像する。
本屋を出て、八重洲口に戻ってきてもまだ時間があったので、その辺りをぶらぶらしていたら、甲府のリニア実験線のPRのイベントに出会った。
そこでは模型の展示とアンケート調査を行っていた。
このアンケートに答えると、このリニア実験線に試乗できる、ということであったので早速やってみたが、大勢の人の中から抽選で選ばれるわけで、当たる確立は全くないが、応募しないことにはチャンスもないわけだからするだけはしてみた。
そんなわけで小春日和の東京で一日を過ごし、予定の列車で帰ってきたが、帰りの道中ではすっかり寝込んでしまった。

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