ガイドレールバス

今日(平成14年2月26日)久しぶりに大曽根の三宅眼科に通院してみた。
この日、視力検査の時、カルテを見ていた看護婦さんに、「私の初診は何時からになっていますか?」と聞いて見たら、平成6年の1月と教えてくれた。
もう7年も通っている事になる。
この時から緑内障がある事はわかっていたので、それ以来というもの点眼薬を欠かさないように気を付けてはいる。
この日は久しぶりに三宅先生の検診に当たったが、「もっとマメに検診を受けてください」と言われてしまった。
大いに反省している。
この病院は何時も何時も非常に混んでいるので困ったものだ。
年寄りが掃いて捨てるほど来ており、その上要領が悪いものだから、同じ患者同士とは言うもののこちらまでいらいらしてしまう。
年寄りの病院通いというのも非常に困ったものだ。
「体が悪いのだから来るのだ」言われると返す言葉がないが、自分もそろそろ年寄りの中に入りかけているにもかかわらず、こういう光景に出くわすと腹立たしく感じる。
この日は最初から、少々寄り道して帰るつもりだったので、診察が終わったら、大曽根のガード下の店で食事をした。
こういうガード下で、列車の音を聞きながら食事をする雰囲気というのは大好きである。
何となく終戦直後のガード下の闇市の感じがして、青春時代を髣髴させるものがある。
築地のがんセンターに通うときは、その帰りには新橋駅のガード下の立ち食いのうどん屋で、うどんを啜るのが楽しみの一つになってしまった。
大曽根のガード下で腹ごしらえをして、向こう側に出ると、この辺りも知らない間にすっかり様変わりしてしまっていた。
JRの東側に立派な高架の駅が出来ており、ここからガイドレールバスなるものが出ているはずなので、この日はそれに乗ってみようと家を出るときから構えてきた。
ガイドレールバスと言うと、何か特別な仕掛けがあるように聞こえるが、所詮は路線バスである。
ところがである。
この路線バスなるものは専用の高架の道を走るわけで、私は工事中から馬鹿なものを作っている、と思いながら見ていたので、その馬鹿さ加減をこの日は検証してみようと思って来て見たわけである。
その駅の立派な事と言ったらない。
たかだか路線バスの駅が高架で、エスカレーター付きエレベーター付きで、確かに腰の曲がった年寄りや肢体不自由な人にとっては至れり尽せりの施設にはなっている。
こういう高架の駅というのは、地上の駅に比べると障害者にとっては、不自由極まりないと思う。
それを補うためにエレベーターやエスカレーターの施設を付けざるを得ないが、最近は福祉の充実ということが世間の大儀になっているので、そういうものには惜しみなく金が投じられている。
ところが我々は資本主義社会に生きているわけで、資本主義社会に生きるということは、国民一人一人がコスト管理の意識を持たねばならないということでもあるわけである。
資本主義と福祉というのは決して交わる事はないのではないかと思う。
福祉というのはいわばマイナスの投資である。
すればするほど原資は返らず、財政は圧迫し、景気は落ち込み、人間の社会生活は尻すぼみになるものである。
このガイドレールバスの大曽根駅のターミナルは、非常に身障者に便利なように出来ている。
福祉都市名古屋にふさわしく、身障者や年寄りに親切な設備が施されている。
ならばその恩典に浴している身障者や年寄りは、健常者の倍の料金で利用しているのかと問えば、答は逆に特別割引で利用しているわけである。
受益者負担という言葉があるが、福祉に関してはこの言葉は禁句になっているわけで、身障者や年寄りからは金を取るよりもむしろ金を与える方向に向いている。
身障者や年寄りにはドンと金を投げ与え、その金を使わせるように仕向け、受益者負担で、手間の掛かるだけ特別料金を取るようにしなければ、日本の経済は尻すぼみになるのではなかろうか。
既にこの10年来と言うもの、福祉の充実と共に、日本経済は失速状態になっているではないか。
今の年寄りというのは、かっての日本の高度経済成長を支えてきた人達であったわけで、そういう人に対して、よく頑張ってくださったから老後は運賃も安くしておきますからせいぜい遊びまわって下さい、という趣旨は理解できる。
その趣旨に沿って、こういう年寄りが自分の金で遊びまわってくれればいいが、ただの運賃で病院通いだけに外出するでは、日本経済が沈静化するのも無理ない話である。
医療費のみが膨れ上がって、儲かるのは病院だけということになる。
年寄りは病院に行っても自分の金は払わなくても済むので、国家が医者に金を払っていると言う事に無関心なわけである。
日本経済のこの10年来の低迷は、年寄りが金を使わないからだと思う。
障害者に金をドンと払えないのも、障害者なるが故に働けないので、金を与える口実が出来ないからである。
だから今ある規定の料金を下げる事で報いようとしているが、本当はドンと金を与え、その金を使うことで、経済の底上げを計る施策でなければ駄目だと思う。
春日井市の勝川から枇杷島にかけて城北線という全くローカルな鉄道があるが、これも最近(と言っても20年ぐらい前のことである)できた鉄道で、全線高架である。
こういう鉄道は自動車に乗れない人、社会的な弱者救済のための交通機関ということであるが、駅が高架では社会的弱者はそれこそ利用できない。
ガイドレールバスも全くそれと同じ轍を踏んでいる。
たかだかバス路線にこれだけ豪華な駅施設が果たして本当に要るのかどうかはなはだ疑問だ。
この路線バスは、名古屋市内の部分は高架の専用道路を走るわけで、下の一般道を走ることに比べれば比較にならないほど早いわけである。
専用道路だから渋滞もなく快適に走れることは確かである。
建設コストというものを考えない限り実に結構なものである。
しかし、コストと言うものを考えた場合、結論は逆転してしまう。
この路線が何時黒字になるかと言った場合、恐らく永久に黒字にはならないと思う。
これから先、年数が経てば経つほど赤字が膨らんでくると思う。
たかがバス停にかけられた費用と言うものは膨大な金額に違いない。
万里の長城のような専用道路にかけられた費用というのは、これから先永久に償還と言う事はありえないと思う。
階段を登ってホームに出てみると、もう客が並んでいた。
結構利用者があると見える。
その行列の後ろに立っていると、すぐにバスが来たが、バスはJR東海バスとなっているではないか。
するとこれはJRが経営していることになる。
あの万里の長城のような専用路線も全てJRの施設なのであろうか。
バスは北を向いて出発したが、すぐに東を向いて、右側には三菱電機の工場が丸見えである。
そして名古屋ドームをすぐ近くに見て、砂田橋辺りで又北を向き、竜泉寺の方に向かった。
なにしろ高いところを走っているので、景色は抜群によく見える。
この日はどんよりとした天候で、遠くまで見通せるというものではなかったが、それでも眼下の景色を見下ろしながら竜泉寺までくると、小高い丘の上で、普通の道路に降りてしまった。
もともとが普通の道路も走れる仕掛けにはなっているので、不思議ではないが、問題は高架の部分にそれだけの投資をして整合性があるかどうかの話である。
この尾張地方の公共交通機関というのは、もともとが小さな鉄道会社の林立が、社会の状況によって統合されたり離散したりしてきたわけで、名古屋鉄道などという会社はそういう小さな会社の寄せ集めにすぎない。
今でも第3セクターなどと、わけのわからない企業体でそれぞれに運営されているが、考えてみると妙な会社があちらこちらにあるものである。
先の城北線などもその中の一つであるが、小牧と桃花台を結んでいるピーチライナーなども妙な路線である。
そして愛環鉄道なども、妙な会社である。
これらの鉄道も、企画とか経営母体が一つならば、まだまだ地域に溶け込めるであろうが、それぞれが勝って気ままに運営しておれば、そのうちに何かに統合されるに違いない。
半世紀前は小牧と岩倉の間、岩倉と一宮の間に電車が走っていたことを思えば、鉄道というのも、半世紀ぐらいのタイム・スパンで考えると、結構敷設したり撤去したりするもののようだ。
名古屋市というのも妙な事をするもので、バスレーンと言うのも、考えてみるとおかしなものである。
あのレーンの中は基本的に普通の車は入れないにもかかわらず、今ではほとんどそれが無視されている。
いけないのならば徹底的に取り締まればいいが、そこが曖昧なものだから、正直者が馬鹿を見ることになってしまっている。
普通の道路でありながら、バスだけしか入れない、と言う事はそもそも可笑しいと思う。
バスをスムースに走らせたかったら、路上駐車を徹底的に取り締まれば、かなりスムースの走れると思う。
路上駐車を徹底的に取り締まると、生活者の利便を損なうという理由で、人の乗り降りの間はいいとか、荷物の積み下ろしはいいなどと抜け穴を作るものだから終止がつかなくなるわけで、公共の道路で、人の乗り降りも荷物の積み下ろしも一切禁止すればいいわけである。
もしそれで商売に差し障るのであれば、店を奥に引っ込めて、駐車場を作ってから商売をせよ、という風にすればいいわけである。
片一方で駐車禁止しておきながら、片一方で生活者の権利を守ろうと、綺麗事で済まそうとするから交通渋滞が起きているわけである。
名古屋市内の大きな道路は昔は市電が走っていたが、あの市電の線路と言うのは市の施設であったのだろうか。
あの市電も今になってみると実に便利なものであった。
自動車がこれだけ町にあふれると、もう自動車のメリットというのは死んでしまっている。
逆に公共交通機関が見直されてきているが、そうかといって、このガイドレールバスのように膨大な設備投資をしたようなものは、その採算性のことを考えると一概に喜ぶことはできないのではないかと思う。
それにしても途中から一般道路を走るのでは、そのメリットは生かされていないように思う。
確かに一番渋滞の激しいところだけ、高架の部分をすいすいと走り抜けるという意味では大きな期待があるが、その利用者といえば、ただの人ばかりで、金を払って乗る人がいないではないか。
きちんと規定の料金を払って乗る人がおらず、障害者や年寄りのようなただでさえ金を取れない人だけが、空き空きのバスで、下の渋滞を尻目に先に走っても、社会的な意味が全くないではないか。
フルタイムで、きちんと働いて、きちんと納税して、五体満足な健常者が渋滞に巻き込まれて身動きとれないでは社会的にどれだけ損害をこうむっているのか計り知れない。
昨今のように福祉が尊重されるような社会は成熟した社会であること間違いない。自治体の首長ならば、自分が福祉の施設をより沢山作れば、それだけ地域に貢献したと胸を張って威張れる。
「福祉を削ってインフラを整備しましょう」などと言えば、落選してしまうに違いない。
「福祉はマイナスの投資だから、先に何も生まない、だから縮小しましょう」では、人のうちに入れてもらえない。
今はこういう風潮だから、福祉を声高に叫ばないものは非国民扱いをされかねないが、福祉の充実と経済成長というのは決して両立する事はありえないと思う。
福祉を一生懸命すればすれほど経済は低迷するに違いない。
経済が低迷すれば福祉に回す金もジリ貧になることは請け合いである。
そんな思いを載せて、ガイドレールバスは竜泉寺で一般道に降りてしまった。
普通の道を走るのならばメリットというのは一つもない。
道路工事のために何度も待たされて、それでも庄内川に沿って高蔵寺までたどり着いた。
途中、庄内川の左岸は、見まごうばかりの宅地造成工事が成されており、後2、3年もすれば街の様子が一変するに違いない。
つい最近まではこの辺りはまさしく田舎そのもので、何処からどう見ても田園そのものであったが、今では完全に新興住宅地となりつつある。
そうなると再びこの道路も交通渋滞に巻き込まれて、それこそ高架のバス専用道路を作らねばならないようになるに違いない。
今でさえ道といえば、庄内川に沿ったこの道しかないわけで、そういうことがわかっていながら、このバス専用道路が高蔵寺まで続いていないという事が不思議でならない。
高蔵寺の駅前と言うのも、いつもは車で素通りするだけで、久しぶりに自分の足で立ってみると、40数年前の記憶しかないので、まさに浦島太郎のようなものだ。以前は木造の駅舎が小高いところにあって、駅から出てくると坂道を下ったように記憶している。
この駅が愛環鉄道の連絡駅となり、高蔵寺駅始発の電車があるなどとは想像も出来なかった。
この日は、高蔵寺から春日井駅に出、バスで家の近くまで来て、この日の小さな旅は終わった。
2002.3.3

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