秋の鎌倉散策

鎌倉散策

横須賀まで

本年最後の通院は11月28日であった。
この通院の日が決定したのは先回の診察の時で、それ以降会社の健保組合から保養所の案内が届いた。
その案内を見ていたら鎌倉に保養所があるということがわかり、家内と「一度此処を利用してみようか!」という事になり、早速申し込んでおいた。
その日を通院の前日に設定しておいた。
鎌倉を見て回ってから通院しようという事で、この日を設定したわけであるが、ここまで来たならば、長男夫婦の家にも寄らないわけにはいかないだろうという事で、又その前日を長男夫婦の家に行く事にした。
長男夫婦は横須賀に居を構えたので、結局横須賀、鎌倉と回る事になった。
長男夫婦の住まいに行けば車を留めるところは確保できるというわけで、今回は車で行く事になった。
普通のただの通院だけならば新幹線を利用するのだけれど、今回は家内と二人連れであるし、車を安心して留めておく所もあるので、26日の朝、二人で出かけた。
ところが春日井で高速に乗った途端渋滞に嵌り込んでしまった。
時間帯が朝の9時前後で、方々の会社の始業時間とかちあっていたので、そういう関係の車であろう、岡崎までのろのろであった。
岡崎を抜けたら比較的スムースに流れたが、途中浜名湖と足柄で休憩し、厚木を過ぎたら再度渋滞に嵌った。
この辺りは年中渋滞しているので、覚悟はしていたが、この東名高速も第2東名の建設が危ぶまれているが、実際問題としてもう既に許容のキャパシテーをオーバーしているように思う。
渋滞があるということがそれを照明しているわけで、その解決策として第2東名の構想が起き、それに基づいて工事が始まったに違いないが、それを採算性の面から見直すというのは、今までの道路行政の愚策以外のなにものでもない。
道路というものは社会的インフラの最たるもので、これから金を取るということは基本的に間違ってまいると思う。
私有地を通り抜けるのに、利用者の便宜に見合う金を取るというのならば理解できない事もないが、国家の縦貫道路を利用するのに、利用者から通行税として金を徴収するというシステムは大昔の関所と同じ感覚だと思う。
人間の移動する手段としては鉄道という手も有るが、鉄道はそれを専門に運転する人がいる。
しかし、道路というのは個人が個人の責任において移動するわけで、基本的に東海道53次の街道と全く同じなわけである。
そのためにこそ我々の税金と言うものが使われて然るべきである。
その建設にも維持にも金がかかることは理論的には理解できる。
けれども、それを克服してこそ人間の英知というものではなかろうか。
一日に何台も通らない田舎にも、都会並みの高速道路が要るかどうか、という問題を突き詰め、道路としての需要と供給を考える事が人間の英知というものである。
昔の国鉄も今はJRになってしまったが、国鉄の使命というのも基本的には如何なる田舎でも国民の足を確保するという大きな問題を内包していたにもかかわらず、それが採算性の問題の陰に隠れてしまって、忘れ去られてしまった。
渋滞に巻き込まれると非常に腹が立って、こういうくだらない妄想が頭の中を駆け巡るが、ようやく横浜町田インターにたどり着いた後は比較的スムースに流れた。
此処を出ると横浜横須賀線という有料道路になるが、この辺りを走るのは全く初めてというわけではない。
とはいうものの、何しろ地理不案内な事に変わりはないわけで、家内にしっかりナビゲーターを勤めさせ、標識を見落とさないように監視させて走った。
ところが先回来た時に、横須賀のもう一つ奥からこれに乗って帰った記憶があるので、そのつもりで横須賀を越して衣笠というところで降りたが、これが大間違いで、大失敗であった。
降りてしばらくそのまま走っていたら先方から横須賀行きのバスが来るではないか。これは方向が逆だと気がつき、早速Uターンしてバスの後について走ろうとしたが、バスが停留所で止まってしまい、已む無く追い越して後は道路標識を頼りに横須賀市内まできた。
それでも長男夫婦の家に着いたのは午後3時前には着けた。
その日はそこで休憩を取り体を休めたが、この横須賀という街も本当はゆっくり歩いてみたい町である。
先回来たときには午前中に三笠公園に行ってみた。
この公園には戦艦「三笠」が地上に安置されて、一種のモニュメントとして飾ってある。
ところが時間が早くて公園の扉が閉まっており、その傍にも寄れなかったので、一度ゆっくり見てみたいと思っていたが未だにそれが実現できていない。
戦艦「三笠」と言っても、我が家内も、我が長男夫婦も、家族のうちで誰一人この意味を知っているものは居ないであろう。
「本日、天気晴朗なれども波高し」、「皇国の荒廃この一戦にあり、各員一層奮闘努力せよ」の言葉を知る者も、もう我々の世代を最後に死語となるのではなかろうか。
そこまで行くには自転車で30分ほど漕がなければならないので、この日もあきらめて次の機会にし、この日は此処でおとなしく休養した。
長男が19時少し過ぎに帰ってきて、全員で夕食をしてゆっくりと休むことが出来た。

鎌倉散策・鶴岡八幡宮

翌日は6時にはもう長男が出勤したが、我々はもう少しゆっくりして鎌倉に足を伸ばした。
長男宅から徒歩10分程度で、京浜急行安浦駅というのがあり、ここから電車で2駅行ったところに汐入という駅がある。
ここで電車を降り、徒歩10分程度歩くとJR横須賀線の横須賀駅である。
この途中の道路から海上自衛隊の横須賀基地というか、フリゲート艦が係留された光景が見る事が出来た。
日本海海戦の戦艦「三笠」も大きさからいえば今のフリゲート艦と同じ程度で、太平洋戦争でアメリカと互角に戦った応時の戦艦と比べると実に小柄である。
海を見ながら歩いてJR横須賀駅から4つめぐらいが鎌倉であった。
私はこの鎌倉という地をゆっくりと歩いてみたいと前々から思っていた。
それでここで家内や長男の嫁、孫達と一旦別れ、12時に再びこの駅前に集合する事を約し、私は単独行動に移った。
JR鎌倉駅の東口に出て、駅前をまっすぐ10mほど直進すると大きなスクランブル交差点に出た。
駅を背にして左の方を見ると直線道路のはるか向こうに大きな鳥居が見えた。
右の方にも同じように鳥居が見えた。
これらの鳥居は鶴岡八幡宮の参道にある鳥居で、1の鳥居から3の鳥居まである。
駅は1の鳥居と2の鳥居の真ん中に位置していたわけである。
この鶴岡八幡宮の表参道というのはかなり長い一直線の道路で、その両側にはしゃれた店が多く、やはり大都会に近い観光地なのか、センスが違うように見えた。
田舎臭くなく、都会的なセンスにあふれていたが、中でも目を引いたのが人力車である。
香港観光でも目にした人力車とは完全に趣が違って、香港の人力車というのは、貧困の象徴という感じがしていたが、ここのはまさしく観光の道具としての人力車で、遊び感覚があふれており、車全体が新しく、車輪も大きく、軽快そうで、引く人の労力の低減に気を配っているという感じがした。
それを粋でいなせな若者が車夫の格好で曳くという寸法になっているが、私はどうも乗る気にはなれなかった。
人力車というものは、昔の支邦の苦力を連想して、革命前の中国大陸の日本支配の事が頭をよぎり、どうにも素直な気持ちで見ることが出来ない。
そういう思い入れのない人は、ただ単に遊園地のゴーカートにでも乗るような軽い気持ちで乗っているようである。
けれども私には、人を乗せて人力で走る道具というものは、万物の霊長としての人間を、馬か牛のように扱っているとしか見えない。
それが観光の道具と化している現実も理解しがたい事であるが、金儲けとなれば、そんな倫理は何処かに吹き飛んでしまって、儲かれば良いわけであろう。
この大きな道路は若宮大路というものらしいが、この途中から道路の中央にもうひとつ一段と高くなった遊歩道が出来ていた。
その道路は昔ながらの土の道路で、農家のタタキ(土間)のような按配であったが、これが案内書によると段蔓というものらしい。
その両側はつつじが植えられ、大きな桜並木にもなっていた。
この段蔓について説明書にはこう記されていた。
「寿永元年(1182年)源頼朝が正室政子の安産を祈願して作ったもの。
最初は1の鳥居から3の鳥居まであったが、明治初期に取りこわされ、現在は2の鳥居から3の鳥居まであるときされている。」
この道をのんびりと2の鳥居まで歩いてくると、そこには大きな石の狛犬が一対安置されていた。
そして、この鳥居のすぐ傍には石で出来た太鼓橋があった。
登れないように木で柵がしてあったが、お宮さんには往々にして太鼓橋が有り、その太鼓橋というのは全く実用になっていないが、これは一体どう言う事なのであろう。
ただの池の飾りというものであろうか。
この太鼓橋の右側には池があり、鬱蒼と木立が繁り、奥には牡丹園がある旨記されていたが、今は牡丹の季節ではないと思い割愛した。
案内書によると左側にも池があるように記されていたが、こちらは見落としてしまった。
というのも、左側には木立の間に無粋な近代美術館の案内広告があり、その看板に不快感を覚えたので気がそれてしまったからである。
この太鼓橋の右が源氏池で、左が平家池とは妙な命名である。
この太鼓橋を過ぎて少し進むと拝殿が有ったが、この拝殿というのも、朱塗りの実に立派なものであった。
案内書の説明によると
「下拝殿、本宮の階段下から祭神を遥拝する下拝殿。
義経の愛妾で白拍子の静御前は、文治2年(1186年)吉野の山中で源頼朝に捕えられ鎌倉に連れてこられる。
その静が頼朝夫妻のたっての願いで若宮の回廊で舞いを披露したという故事から下拝殿は毎殿の名で親しまれている」となっている。
この説明を髣髴させる代物である。
この拝殿から急な階段で本宮になるわけであるが、これはもう立派と言う他なく、筆舌に尽くしがたさがある。
お参りするのみである。
この階段の左側に実に大きなイチョウに木があり、それが見事に紅葉しており、皆がそれぞれに思い思いの位置からカメラに収めていた。
1の鳥居とこの拝殿の中間辺りで道がクロスしており、その角のあたりに幼稚園があり、その脇を通ってもう少し奥にはいると鎌倉国宝館なる建物があった。
その脇の鬱蒼たる木立の中に白旗神社なる社が有った。
これも説明書によると、
「正冶2年(1200年)源頼家が父頼朝を祭るために建てたもの。
後の3大将軍実朝も祭られている。
現在の社殿は明治30年の改修で黒味がかった灰色塗りの御霊屋造り。
屋根は銅板葺きの入母屋作りで厳粛な雰囲気が感じられる。」となっている。
ここにはどういうわけか人がおらず見捨てられた感じがしていた。
ここから再び若宮大路を駅に向かって歩いてくると、左側に立派なコンクリート立ての教会があった。

鎌倉散策・円覚寺

雪ノ下カトリック教会となっていたが、建物には蔦が絡まり、如何にも教会で御座います、という雰囲気を醸し出していたが、この鎌倉という土地は文化人の多い土地柄で、そういう意味からも街にマッチしているという感じがするから不思議である。
確かに、街行く人達も何処となく垢抜けしており、文化人の街という感じがする。これは私のコンプレックスであろうか。
我々と同世代ぐらいの人が、画板を抱えて行き交ったり、カメラを持って撮影旅行をしている風情が漂って、如何にもリタイアした人が余生を楽しんでいるという感じが街全体から漂っている。
ある意味では高齢者の街という感じである。
再び段蔓の道を鎌倉駅まで戻ってきたら、まだ家内と孫達は指定の場所に戻っていなかった。
それで私は適当な場所で昼飯を食べてしまった。
食べ終わって出てきたら孫達と再会したが、彼らはまだ昼飯前であったので、そこらの適当なところで食事を済ませ、ここで別れる事にした。
別れたあとで我々はもう一駅JRで移動して、北鎌倉というところに行った。
この駅はこの近辺では非常に珍しい駅で、全くローカルな駅であった。
うなぎの寝床のような長いホームの先に小さな駅舎があって、そこを出るとすぐに円覚寺であった。
線路脇からいきなり岡になっており、山に登らねばならなかった。
この階段を登ったところにあった山門というのは実に立派であった。
この山門というのは、私は普通に山門と思い込んでいるが、案内書では三門となっているものもあり、果たしてどちらが正しい書き方なのであろう。
出版物は校正がしっかりしておれば早々間違う事はないわけで、三門と書くほうが正しいのであろうか。
とにかく12本の太い柱が立ち、その上に荘厳な屋根が乗っかっているという感じである。
しかし、日本建築の門というのは全く不思議なものである。
門といっても全く防御の用を成していないわけで、城の門と違って、全くの飾りでしかない。
まさしく形式そのものである。
形式といえば、山門を入った先にある仏殿の横の選仏場という建物は、座禅道場ということらしいが、そこは弓道場になっていた。
この弓道というものも実に形式に則った武術で実用に供さない。
武術というものは要するに殺傷のテクニックなわけであるが、剣道にしろ、なぎなたにしろ、戦闘のテクニックを精神性を重んずる形式に仕立てたのは日本人の心であろう。
この日本人の心というものは、平和な折にはその存在意義があるが、戦乱の時期においては全く実用にならなかったのではないかと思う。
剣道にしても、弓道にしても元は殺戮のテクニック、戦闘のテクニックであったはずで、それから最も大事な「如何に効率よく人を殺すか」というものの本質をスポイルしてしまったのがこういう形式美として残っているわけである。
スポーツというものが、こういう戦闘の業から転用されたものが多いというのも実に不思議な事である。
その意味からすれば、日本の武術というものが、戦闘行為を形式化したものであっても不思議ではないということになる。
しかし、人殺しのテクニックを形式化しただけではなく、それに精神性を持たせようとしたところに、日本独特の考え方が潜んでいるような気がしてならない。
いわゆる日本の「和を以って尊し」とする精神であるが、人を殺傷する弓矢の使い方を形式美にまで持っていった挙句、それを通じて仲間内の和を大事にしようという発想は、自己欺瞞だと思う。
俗な言葉で言えば、良い子ぶっているわけで、矢を的の中心に当てれば、素直に喜んでもいいように思うが、そういう行為ははしたないと咎められるのではないか、と想像する。
この自己欺瞞に満ちた精神性というものを私は好きになれない。
和弓と洋弓を比較すれば、和弓の方が明らかにその殺傷能力に見劣りがするわけで、戦いの為の武器ということを素直に認めれば、洋弓こそその本来の目的にかなうわけである。
本来の目的において能力の劣るものを、形式美で以って儀式ばった立ち居ふるまいをして、自己満足をしながらお互いの傷を舐めあうような競技は、私は好きになれない。
日本の形式美の中の作法というものは、非常に合理的に出来ているわけで、それを突き詰めれば、極意を授かるということになるわけであるが、極意を授ける側の存在が問題なわけである。
「強い者が一番」という、自然観の原則を素直に認めないところが不純である。
ここで弓道場という物を見て、むらむらと敵愾心が湧いてきた。
この選仏場というのはかやぶきの屋根で非常な趣があるが、今時この辺りでかやぶきの屋根を葺こうとしたら大変な事になるのではないかと要らぬ心配までしたものである。
この反対側は方丈になっており、若い坊さんがかいがいしく働いていた。
ここからもう少し上がると、左側に池があり、この池には虎頭岩というのがあったが、どこからどうみても虎の頭には見えなかった。
この池から左の方に入る通路があったが工事中で行けなかった。
その角のところに茶室があり、それこそ茶を飲むには最高の雰囲気であったが、日本の文化に反発を感じている私にはさほど興味あるものではなかった。
茶道、華道というものは純然たる日本的なものといってもいいと思うが、その中に完全なる極道の世界の上納金のシステムが生きていると思うと、虫唾が走る思いがする。
このシステムそのものが純日本的なのであろう。
帰りには境内の左側に沿って山を降りてきたら、尚左の方に上っていく階段が有った。
行き先表示には洪鐘(おおがね)と記されていたので、興味本位にこの坂道を登ってみると、その先にはうらぶれた鐘楼があり、そこには大きな釣鐘が下がっていた。
ところが、この鐘楼そのものは、如何にも風雨に晒されて、節くれだった年月を感じさせるもので実に良い按配であった。
その脇では甘酒を提供していたが、どうせ金を取るのだろうと思って敬遠した。
この階段を登っている最中、近くでがさがさと枯葉のすれる音がしたので、そちらを見たら、小さなリスの姿を見た。
こんなところで野生のリスに出逢えるなどとは思っても見なかった。
写真に撮りたかったがすぐに姿をくらませてしまった。
後はだらだらと線路まで降りてきた。
もう一度鎌倉に出るつもりでJRのホームに立ったら、ホームの向こう側に小瀧美術館というのが目に付いた。
それを見た家内が、「どうしても見てみたい」というものだから、再びホームから出てそこに行ってみたが、小さなビーズのようなガラス球を扱っている美術館らしい。
これも私の興味を引くものではない。
少しばかりお義理で家内に付き合ったが、すぐのその隣りの喫茶店に入ってしまった。
この喫茶店は粋な作りで、戸外でお茶が飲めるよいうになっていた。
大きな雑木林の中の木漏れ日の中で戴くコーヒーというのも実に乙なものである。
ここで一休みして再び鎌倉に戻り、そこから又バスで大仏を見に行った。
此処まで来て大仏を見ないというテはないということで、出掛けたわけであるが、この町の交通渋滞というのも話にならない。
バスを降りて人の後についていったらすぐにわかったが、此処は案外殺風景な場所で、秋空にぽつねんと大きな大仏が鎮座していた。
大仏が大きすぎて、周囲の景観から突き出ているという感じがした。
型どおり一応お参りをして、大仏の周りを一回りしたら、胎内に入る入り口が有った。
興味本位に入ってみたら、中は真っ暗で、実質何もなかった。
ただ像を作る時の鋳物の継ぎ目のようなものが目に付き、型を取ったときの跡がはっきりとわかったが、それ以上のものは何もなかった。
大仏というのも人間の作った大きな造営物であるが、人は何故あのような大きな像を作るのであろう。
日本だけのことではなく、遠く中国においても敦煌の石像などを考えても人があのような大きなものを何故作るのか不思議としか言いようがない。
人は太古から人間の能力を越えた大きな自然に力の前にひれ伏していたわけで、そういう自然の力に対抗するかとでも言いたげに大きな像を作ったに違いないが、自然力に対抗しようとする心が偉大というか、偉大を通り越して馬鹿というか、何とも人知では計り知れないもののような気がしてならない。
ここを見てしばらく前の通りのみやげ物をひやかしてぶらぶら歩いた。
この近くにはもう一つ長谷寺というのが有るはずだと思いながら歩いてきたが見落としてしまった。

保養所・鎌倉荘

それでそのまま再び駅にきてしまい、この頃になると少しばかり疲れも出てきたので、もう今夜の宿に直行することにした。
この日は三菱の直営保養所に泊まるわけで、そう大層なホテルというわけにはいかないので、多少の覚悟はしてきたが、これが案外優れもので、部屋も広く、浴室も大きく、食事も案ずるよりも易くそれなりに結構なものが出た。
部屋に関して言えば、海外旅行で接したどのホテルよりもゆったりとしており、民間企業が福利厚生の一環として、本来の企業活動のほかにこういう施設まで維持管理する日本の企業というのもまことにありがたいものである。
昨今の経済状況の中で、企業側もこういう福利厚生の在り方を徐々に見直されつつあり、昔のように好き勝手に使うということも段々厳しくなりつつあるが、無理もない話である。
旅館とかホテルと実質同じサービスをしておりながら、料金は半額以下で抑え、その分企業側が負担しているわけで、企業活動からすれば、負の利益以外の何物でもない。
従業員の福利厚生を、企業側で背負い込むというのも、現在の状況から見て不合理なことは目に見えているわけで、その分従業員の給与に振り込んで、従業員の責任で以って福利厚生というものを考える時代だとは思う。
この鎌倉荘という宿泊施設で通された部屋は、和室とベッドの両方があり、実に広い部屋であった。
着いてすぐに風呂に行ったが、この風呂も旅の垢を落とすには格好の風呂で、湯はたっぷりとあふれていた。
風呂から上がって食事となったが、この食事もそれなりに結構なものであった。
民間企業の直営保養所の料理だから、そうたいしたものではないだろうと高を括っていたが、これが案外立派で、腹いっぱいになった。
皿の数も7つか8つ出て、それを全部平らげたら充分に満足した。
此処で先ほど行った中国の料理と比較することになるが、中国の料理というのは、どういうわけか煮込んだ料理が多く、素材は影も形もないものが大部分である。
出来上がった料理から素材を連想する事が出来ないようなものが主流である。
火加減、味加減、包丁裁き等のテクニックは料理を味わう側からはさっぱり解らず、ただ目の前の料理が美味いか不味いかだけの勝負である。
ところが日本料理というのは、一品毎にその素材が丸見えで、誤魔化しが効かない。例えば、活き造りなどと言う刺身は、素材そのものがそのままの形で目の前にあらわれているわけで、魚を生かしたまま刺身にして食すわけで、あまりにも残酷だという話まである。
活き造りは最も端的な例であるが、日本料理というのは、その殆どが素材をそのままの形で食するようになっている。
この日食膳に出てきた料理も全てそうであった。
これが日本料理というものである。
この違いは一体なんであろう。
有名な北京ダックは確かに鳥の形のまま蒸し焼きにされているが、あれはそのまま丸かじりするわけではない。
薄くスライスして食べるわけで、スライスするという意味では、活き造りの刺身と同じであるが、出来上がりは雲泥の差である。
中国の料理というのは、基本的に大皿に盛ったものを目の前で取り分けて食す形であるが、我々の場合の懐石料理というのは、事前に取り分けられたものを目の前に提供するという形である。
食は文化であるといわれている。
食べるということは、人間の生存にとって最も基本的な事なるが故に、文化といわれるの当然であるが、ならばそこには民族の潜在意識が秘められていると見てもいいことになる。
そういう意地悪な視点からそれを考察してみると、中国料理というのは、ホスト側が「これだけ豊な食糧があるから俺は豊かなのだぞ!」という事をゲスト側にアピールしているのではなかろうか。
だからホスト側は大皿に山盛り一杯料理を盛って、ゲスト側に「さあさあいくらでもとって好きなだけ食べなさいよ!」という事を暗示しているのではなかろうか。それに反し、我々の側の料理というのは、素材が丸見えで、旬のものと盛りのものが一目瞭然と判別できるわけである。
冬に竹の子が出れば、ゲストの興味を引くわけであるし、春に秋刀魚が出れば、明らかにゲストの興味をひきつけるわけで、そこにホスト側の粋な計らい、無粋なセンスというものが現れるわけである。
日本料理というのは素材を大事にしているわけで、味付けで誤魔化すという事をしないわけである。
この違いに中には、民族の潜在意識がそのまま入り込んでいるような気がしてならない。
先に悪口を述べた弓道の精神に通じるもので、要するに形式にこだわるわけで、素材を何でもかんでも口に合う物に加工して生き延びようという発想と、「武士は食わねど高楊枝」という見栄の違いではないかと思う。
保養所で出された懐石料理を前に、こんな思いを巡らしながら、出された皿を全部空にしたら、結構満腹になった。
満腹になったので館内の探検に出かけたらカラオケ・ルームがあった。
最初覗いたときには誰もいなかったが、その後すぐに同宿の夫婦がやってきて、彼らはこの施設を使い慣れていると見えて、勝手知った様子で歌いはじめた。
その後、同じように3組の同世代の夫婦がやってきて、それぞれに盛り上がってしまった。
私はカラオケはあまり得意ではないので早々に退散した。

旅の終わりの日

次の日は出来るだけ早く病院に着きたかったので早々に宿を後にした。
それでも朝食の時間が制限されていたので、宿を出たのは8時頃になってしまった。
上りのJR・横須賀線は混むのではないかと心配したがそれほどでもなかった。
私は幼少の頃からこの湘南地方というのはなんとなく憧れを抱いてきた。
田舎人のコンプレックスかもしれないが、これは明らかに親父の所為だろうと思う。
親父が若い頃、散々私にこの逗子、鎌倉、横須賀等のことを吹聴していたので、それが未だに頭の中に残っていたに違いない。
通常、国立がんセンターに通うには新幹線を利用しているので、一旦東京駅に出て又新橋まで戻らなければならないが、今回は品川で降りて乗り換えなければならなかった。
診察はそれこそ3分も掛からなかったが、診察料も140円とタバコ一箱にも及ばなかった。
有り難いと言うべきか、無駄というべきか、判断に苦しむところである。
家内が診察についてきて、先生に「タバコを吸っている」と、密告していたが、先生からの特別なコメントはなかった。
先生にしてみれば、他人の体だし、言って効くものならとっくの昔に禁煙している、ということが解っているに違いない。
今回家内が付いて来たのは特に根拠があったわけではないので、家内の一度も行った事がない浅草に連れて行くことにした。
それで浜離宮まで歩いてそこから浅草行きの水上バスを利用する事にした。
私は末に何度も利用しているので今更珍しいものでもなかったが、家内は結構楽しんでいた。
浅草では例によって浅草寺をお参りして、仲見世通りをぶらついて後、少し戻り神谷レストランで昼食を取った。
此処も今更珍しい場所でもないが、それにしてもこの店のデンキブランというのは不思議なものだ。
今回は帰り車に乗らなければならなので割愛した。
浅草から横須賀まで戻るのに上野に出て、そこでJRで品川まで行き、品川から京浜急行で帰ってきたが、理論的には浅草から一直線に横須賀まで来る方法が有ったらしい。
東京の鉄道の自動販売機というのも実によく発達しており、私鉄同士でも乗り継ぎが出来るようになっている事は承知していたが、この切符の買い方がわからない。どのボタンを押したらいいのか分からないので困る。
そんなわけで、この日は15時頃横須賀の長男宅にたどり着き、16時少し前にそこを出発、家には21時少し前にたどり着いた。
途中、渋滞情報があり、岡崎辺りで6kmの渋滞などと情報が流れていたが、時間の経過と共に、渋滞も解消されたようで、結局渋滞に巻き込まれる事はなかったが途中二度ほど休憩し、コーヒー・ブレイクをとったり、食事をしたりしたので、まあ極普通の行程となった。

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