060820002
8月19日に横田基地に行ってきた。
この日とその次の日の2日間横田基地のフレンドシップ・フェステイバルというわけで基地が開放される日のようだ。
米軍の基地開放というのは基地の町小牧で育った私としてはさほど珍しいことではない。
そのアメリカ占領軍の伝統を引き継いで、日本の自衛隊でも基地開放というのを盛大に行っているが、世が世ならば信じられないことであろう。
古い話ではあるが、この小牧の飛行場がまだ進駐軍に接収されていた頃、ここでも基地開放があった。
それで出かけて見たら当時の輸送機、グローブマスターを見てその大きさに圧倒された思いがある。
そして小牧基地の隅、正確には大山川の左岸堤防とランウエイがクロスするあたりには、自動追尾装置つきの機銃、いわゆるレーダー追尾の機銃が土嚢を積んだ中に設置してあって、それを黒人の兵隊が操縦していた。
レーダーのパラボラアンテナがせわしげに回転していた。
こういう記憶があるのでアメリカ軍の基地開放という行事そのものにはさほど違和感を感じているわけではないが、この横田という基地は私にとって特別な思い込みがある。
ウン十年前、北海道のレーダーサイトで勤務していたとき、アラスカのエレメンドルフから横田を経由して沖縄の嘉手納に行くC141とか、フライングタイガーの飛行機を毎日追尾監視していたからである。
レーダーでいくら機影を見ていても、それが横田や嘉手納に行くという実感が全くわかなかったものだ。
YOKとかKDNという基地の記号だけが飛び交っているだけで、全く人事でしかなかった。
基地開放そのものは戦後のアメリカ占領軍の影響であろう、航空自衛隊の場合も年に何度か市民に開放されている。
それで小牧の基地のみならず各務ヶ原の岐阜基地なども何度も訪れたことはあるが、横田となるとやはり遠いし、情報も不足していたので今回が初めてと言うことになった。
しかし、世の中、実に便利になったもので、今回も旅行会社の企画に便乗するかたちの参加であるが、旅行会社がこういう基地開放をビジネス・チャンスとして企画を組み、それが実施されるということが一種の驚きである。
もともと基地開放というのは地元住民へのサービスではなかったかと思う。
基地の存在そのものが周辺に住む人には迷惑なことは何処でも同じなはずで、少しでもそれに恩返ししようという、苦情を緩和しよう、軍の立場も理解してもらおうというのが、基地開放の目的ではなかったかと思う。
ところがそれに対して、地元とは何の関係もない人間が遠方からバスを連ねて見学に来るということは、これほど平和なこともないわけで、まことに結構なことだと思う。
で、今回は家内が旅行社の広告を見てあらかじめ参加を申し込んでおいてくれたので、私は上げ膳に遠慮なく食らいついたという感じである。
私は、こんな企画は当然参加者はごく限られたマニアだけで、バスはきっとがらがらではないかと思っていた。
ところが、私の思いは見事に裏切られて満席である。
半分ぐらいはマニアのような人もいたが、後の半分は、この人たちが何故にアメリカ軍の飛行機を見に行くのかと不思議に思うほどの人たちであった。
中年の女性、はたまた栄の繁華街や名駅前でとぐろを巻いていそうな若い女性、アホな大学生とか、およそ軍とか、基地とか、戦争とか、平和とか、規律とか、というものに縁のなさそうな人たちが乗っているではないか。
たまたま隣に乗り合わせた人は私と同じ様な定年過ぎの人で、話がするともなく進んで、お互いの身の上話をしたりして、狭いバスの中も退屈はしなかった。
しかし、遠かった。
名古屋駅の西口への集合が6:45分で出発が7:00である。
例によって遅刻してきたものがいたので出発は5分ばかり遅れたが、団体行動だとどうしてもこういうことがある。
出発地が名古屋駅であったので高速道路に何処で乗るのかと思ったら、春日井インターから乗った。
これは以外であった。
われわれ、地元民からすれば名古屋インターか、一宮インターから乗るのかと思ったが、春日井とは実に以外である。
それと言うのも、国道19号線の大曽根あたりの道路が拡幅されて車の流れが良くなったからかもしれない。
名古屋駅の西口を出発して50分あまりで高速に乗った。
道中は取り立てて言うべきことはないので、隣の人と取り留めのない話をしていたが、途中しばらく眠ったようだ。
何しろ朝が早かったから。
若いときには昼寝だとか居眠りなどということは人事だと思っていたが、加齢とともに知らないうちのそういうことを繰り返すようになってしまった。
バスは八王子で高速を降り後は一般道、16号線をしばらく走ったが、相変わらず関東は車が多く渋滞で身動きも取れない有様であった。
基地の前のゲートの近くにきた時は12時を回っていたように記憶している。
横田基地No5ゲートは16号線の脇にあって、そのあたりは人と車でどった返していた。
ゲートの数百メートル手前で降りて、人の波にくっついてゲートに入った。
ゲートでは当然厳重な警備体制が敷かれ、金属探知機は言うまでもなくリュックの中身まで調べられたが、危険なものを持っているわけではないのですぐに通過が認められた。
この時、迷彩服を着た警備員というのは理解できるが、私服の警備というのは一体何なのか不思議でならなかった。
私服なら私服でも良いが、この写真のように実に様々な服装というのは一体どういうことなのであろう。
まるでリゾート地ではないか。
彼らのマニュアルで、on dutyとoffの状態で、off dutyにボランテイアーで仕事についているということであろうか。
中に入ると意外なくらい施設が古びており、それは無理もないことかもしれない。
何しろ戦後だけでも61年もたっているわけで、その間ずっとアメリカ軍に接収され続けているとすれば、占領当初は新築であっても築60年以上経っていることになるわけで、古くても当然かもしれない。
それと、こういうところにも日米のものの考え方の相違が現れていると言うことかもしれない。
彼らにしてみればモノというのは所定の目的さえ達成すればそれでいいわけで、見栄とか外見とか面子ということは眼中にないわけだから、所定の目的さえ達成していれば、作り変える必要はないと考えているものと推察出来る。
ゲートを通って奥のほうに歩いていくと、そこはもうお完全に祭り広場である。
飲み物の屋台やら、ホットドッグの屋台やら、ステーキの屋台やら、おみやげ物の屋台やら、それぞれに業者なのか部隊の出店か知らないが、とにかく人であふれかえっている。
日本人やら、アメリカ人やら、分けのわからない格好の人間やら、老若男女、人種を問わず、とにかくテンヤワンヤという感じである。
そして、どういうわけか自動車の展示場まであって、スポーツカーやら、ハーレーのオートバイやらホットロッドのような車まで並べてあったが、これは一体どういうことなのであろう。
家に帰ってから、ゲート前もらったパンフレットを見てみると、この町は福生というまちで、アメリカ進駐軍がいることによって周辺がアメリカナイズされてしまって、こういう類の店が近郊近在には沢山あるようで、それらがこのフェステバルに協賛して出展しているようだ。
私は車にも興味はあるがここまできて車と言うわけにもいかず、まず飛行機というわけで奥のほうに進んだ。
入り口に近いところはこういう類の店で大賑わいであったが、飛行機の展示は滑走路の奥のほうで、人もまばらであった。
あの暑いかんかん照りのランウエイをとぼとぼと汗をかきながら歩くのを敬遠したのであろう。
こちらのほうにはあまり人はいなかったように見えたが、エプロンがあまりに広いので人がまばらに散ってしまい、そう見えただけかもしれない。
ここでは飛行機を見る前に腹ごしらえと思って、車中でもらった弁当を食べた。
建物の日陰に入って、弁当を空にしてからボツボツとそれらを見ることにした。
このエリアでは広いエプロンの両側に機体が展示してあったので、順を追ってみて回った。
最初は不発弾処理のブースであって、ここではいわゆる防弾チョッキの様なものの展示してあったが、傍らにあったバズーカ砲のような筒は一体なんであったのだろう。
ベトナム戦争でもアフガン戦争でも戦後の処理として地雷の除去が大きな問題になっていたが、地雷など敷設した側が除去すればよさそうに思うが、それがどうしてそうならないのであろう。
地雷の敷設ということは図面も何も無しで行うのであろうか。
戦争中でお互いの殺し合いなのだからルールも何もないと言うことなのであろうか。
不発弾処理というのもある意味では地雷の除去と同じような意味があるように見えるが、地雷とか機雷というのはまことに困った兵器だと思う。
そもそも国と国が戦争すること自体が困ったことなわけで、お互いに戦争をしなければ地雷も機雷も不発弾もありえないのだけれども、それが現実にはありうるところが人間の悲しい面である。
不発弾処理という仕事も誰かがしなければならないわけで、そのための防護服が展示してあった。
これから先、おもにヘリコプターが自衛隊のものも取り混ぜて展示してあったが、ヘリコプターと言えばベトナム戦争での活躍である。
しかし、ヘリの泣きところはあの騒音だろうと思う。
いくら空中停止とか、ホバリングが出来たとしてもあの騒音では敵に探知されないということはありえないわけで、その存在をあの音が示してしまっている。
ベトナム戦争ではヘリで密林の上から地上を攻撃していたが、非常に効率が悪かったのではないかと想像する。
イラクのように砂漠の戦いならば上からのヘリ攻撃ということもありうるが、ベトナムの密林では意味をなしていなかったのではないかと思う。
しかし、ここでベトナム戦争に深入りするつもりはないが、あの戦争は実に意味のない戦争であったことは否めないと思う。
もともとは、北からの共産主義の浸透を防ぐというのがあの戦争の動機であったが、ベトナム戦争に対する反戦活動というのは、この共産主義の浸透という面には目をつぶって、アメリカの軍事行動のみを糾弾する論法で叫ばれていた。
共産主義の浸透に目をつぶるということは、中国の覇権主義に対して何もアクションを起こさない、起こしてはならないという論法になるわけで、アジアに共産主義の国がもう一つ出来ることを認めよということにつながる。
日本の知識人も、世界の知識人も、そういう認識の下、アメリカのベトナム戦争を糾弾していたのである。
結果としてアメリカはベトナムの地から追われて、ベトナムは共産主義の国になったが、その後は一体どうなったのかという責任は一体誰がどう取っているのであろう。
アメリカのベトナム戦争は、アメリカの若者を数限りなく死なせてしまった、という大きな犠牲を払った割には、ベトナムそのものは元の木阿弥にもどってしまったわけで、社会体制は共産主義社会になったとしても、彼らの意識は旧態依然としたままなので、結局は誰も得したもののいない不毛の戦争であったということになる。
苦労して共産主義の国になったとしても、すぐにソビエット連邦という共産主義の本家本元が消滅してしまったので、南北ベトナムは指針を失ってしまったに違いない。
日本の知識人も、世界の知識人も、「国家の体制を選択するのはその国の人間がすればいい」と、奇麗事を言ってアメリカの行動を糾弾し続けていたが、結果としてベトナムに対する彼らの責任は一体何処に行ってしまったのであろう。
アメリカは国策としてベトナムに共産主義が浸透してくることを阻止しようとしてそれに失敗したわけだが、それを批判していた勢力は、その後のベトナムのあり方に満足しているのであろうか。
会場内にはあまりにも沢山の機体が並んでおり、その一つ一つを解説する能力は私にはないので、主だったものをかいつまんで書いてみることにする。
その筆頭に来るのがKC135という空中給油機である。
日本の航空自衛隊にも導入が決まったが、飛行機が空中で燃料を補給するなどということは私には信じられないことだ。
ところが、これが、私がまだ若くて、レーダーサイトで勤務していた40年ほど前よりなされていたわけで、真冬の真夜中に勤務交代でサイトのオペレーションルームに上がる道を歩いているときは猛烈な吹雪で一寸先も見えないような時でも、襟裳岬の南側でこの空中給油が行われていた。
KC135とP3Cオライオンが30分ほどランデブー飛行をしてお互いに分かれていくのをレーダーのスコープ上で監視していたが、このときは世の中一体どうなっているのかとさえ思ったものだ。
真冬の真夜中の真っ暗な荒れた北の海上でのことである。
テクノロジーの驚異とでも言うほか言葉もない思いをしたものである。
その後、映画とか他のメデイアで空中給油の映像を見る機会もあったが、いつ見ても不思議で不思議でならない。
そもそも空中で給油する側とされる側がランデブーするということが私にとっては納得できない。
通信機器の発達がそれを可能ならしめているということは理解できるが、今でこそ車にもカーナビと称する自動追尾装置というかGPSというべきか、位置情報を明確に示す機器が安易に使われているが、それにしてもあの広い空の中で、2つの飛行機が出会うということが今一納得できない。現代の科学技術、いわゆるテクノロゾーのあまりにも顕著な発達に私の頭がついていけない。
ランデブーするだけでは給油そのものはまだ出来ないわけで、空中を飛行しながら、受けるほうはノズルを連結しなければならないわけで、そのあたりのテクニックというものを考えると私の思考能力をオーバーしてしまう。
だから不思議で不思議でならないということになる。
そういう思いがあるものだから、この空中給油機は詳細に観察してきたが、給油する側はする側で、ノズルを微調整するためののぞき窓があったりして多少は納得できる部分も見つかった。
この機体の元の機体がボーイング707と思われるが、考えてみると実に古い機体である。
40年前に私がまだ航空自衛隊の現役でいた頃の花形機であって、当時は日本とアメリカを大圏コースで行き来していたものだ。
この機体はエンジンの効率が悪かったため世代交代したと記憶しているが、それは民間機ならばこその措置で、軍というコスト管理をあまり意識しなくてもすむ組織ではいまだに使っていると言うことは逆の意味で驚きである。
このあたりにもアメリカの合理主義というものは息ついているのであろう。
使えるものは徹底的に使う、多少のランニング・コストは無視して、使えなくなるまで今あるものを使うということは一種の合理主義だと思う。
われわれの発想ならば、コストがかかれば次を考えて、新しいものを採用するという発想になるのであろうが、こういう合理主義は大いに見習わなければならないと思う。
しかし、反面、次から次へと更新していくものもあるわけで、それは第一線の戦闘機などは実に更新のテンポが速いように感じる。
これも私の頭の中の発想がさび付いている証拠なのかもしれないが、去年だったかアメリカ海軍ではF14戦闘機がもう退役になったと聞いたことがあるが、これなどは実に更新のテンポが速いといわなければならない。
そもそもアメリカでは戦闘機もヘリも消耗品と考えている節がある。
ベトナム戦争の最後にサイゴンが陥落したとき、避難民を輸送してきたヘリが空母の上から海に突き落としているシーンを見て、われわれには決して思いもよらない光景だとつくづく思ったものだ。避難民を空母の甲板まで運んできたら、次のヘリが着くのに支障があるので、先に着いた役目を終えたヘリを海に突き落として着艦のスペースを確保していたが、われわれならばとてももったいなくてそこまでは仕切れないと思う。
戦中の特攻隊員の突撃というのは、敵艦を沈めるという意味で、航空機の消耗に目をつぶっていたわけで、あの当時のわれわれの発想ならば人の命よりも飛行機のほうがよほど大事であったに違いない。
KC135は私にとって昔レーダー・スコープ上でしか見たことのなかった幻の飛行機である。
尚、今回特別に興味を引いたものにU2があった。
この機体も実に有名な機体で、遠くキューバ危機の時代までさかのぼる。
キューバ危機といえば1962年昭和37年のことである。
米ソの冷戦華やかりし頃中国領域でソ連軍に打ち落とされたことで有名になった。
しかし、この飛行機がキューバにミサイルが設置してあることを世界に証明して見せたことも確かである。
徹底的な忍者の任を帯びた機体で、この開発はCIAがしたというのだからその意味からでも非常に特殊な機体だと思う。
今では高空からの偵察、写真撮影などは人工衛星の役割になっているが、それまではこういうもので、敵情査察が必要であったと言うことであろう。
最初の開発が1955年と言うことはもうすでに半世紀を経過しているわけで、その間いろいろな手直しはされているであろうが、それでも半世紀間も使うということはまさしく、驚異だと思う。
われわれの場合YS-11をいまだに使い続けるということが考えられるであろうか。
厳密にいえば今でも元気に飛んでいる機体もあるようだが、世間からは完全に忘れ去られてしまっている。
このU2 の前には机をひとつ出してその上に飛行服と携行食を並べて日本語の出来る係官が説明していた。
それでこの飛行服があまりにも物々しいので、「この飛行機には与圧装置がないのか?」と質問してみたが、与圧という意味が通じなかった。
参考書によると高度2万メートルまで上るということなので、当然、与圧装置があったとしても尚特別な飛行服が必要なのであろう。
そして携行食に関しては、ごく普通の食事をミンチにして、ゲル状にしてチューブに詰めているということであった。
一回のミッションが非常に長時間にわたるので、飛行服にはオシッコを排泄する特別な管があるというようなことを説明していた。
以前から様々なメデイアで写真だけは見たことがあるが、実物は今回が始めてである。
ところがこの機体何故あんなに真っ黒なのであろう。
素材が黒いのかそれとも何か特別な意味を持った迷彩なのであろうか。
そうたいして大きくはない機体であった。
飛行機というのもそれぞれの目的に合わせて、様々な格好をしている。
それぞれの姿かたちにはそれぞれに意味があるのであろう。
次はA6に目がいった。
もともとこの機体は艦載機であったがこの文を書くにあたって参考書を見ていたら、A6をベースにしてEA6Bプラウラーと記載されていた。
この機体、最初は複座の攻撃機であったはずであるが、それが今では前後2列で4人乗りということらしい。
非常に変わった機体だと思う。
1971年、昭和46年頃からA6から改修がなされたと記されているが、どうりで私はその前歴から知っているわけだ。
ベトナム戦争では敵側のジャミング、いわゆる電子戦に悩まされて、それに対する処置を講じたとなっているが、ベトナム戦争の敵といえば当然中国かソ連ということになるが、この頃からソ連のテクノロジーというのは非常に侮りがたい能力になっていたということであろう。
いうまでもなくミサイルの開発ではアメリカの先を行っていたわけで、そういう意味で軍事技術の面ではアメリカとソ連は互角の戦いをしていたということになる。
この機体も小牧の航空際か何かで見たわけだが、艦載機である以上海軍機なわけで、海軍機というのは空母から離発着させるため、特異な形状になりがちで、これもその例に漏れず一風変わった形状をしている。
機能がデザインを決めるということであろうか。
艦載機であるためあまり航続距離が見込めないのであろう、空中給油のノズルが見えるが、このノズルは非常に使い勝手がよさそうに思える。
もうひとつ私の目を引いたのはA10である。
この機体は明らかにベトナム戦争の中から必要に迫られて開発されたという代物であろう。
まさしく「必要は発明の母」と言われるだけあって、あのベトナムのジャングルに潜むべトコン、いやベトナム人テロリストたちを、上からピンポイント攻撃するにはヘリの方が本当は便利なのであろうが、ヘリでは前にも言ったように音がするのでその存在が知れ渡ってしまう。
そういう不利を克服するために、こういう機体が考案されたのであろう。
この機体の機首に据えられた火力のすごさといったらない。
F4も同じようなバルカン砲を搭載しているが、対地攻撃ではこちらのほうに分があるように素人なりにも言える。
ヘリでは水平移動に時間がかかるが、この機体ならばその点も十分だろうし、ヘリのホバリングの効果は、その旋回性能の良さで相当にカバーできているのではなかろうか。
アメリカのすごさは失敗から素直に教訓を得る態度であろう。
ベトナムのジャングルに潜む敵に、有効に攻撃する機種がないとなると、その目的にあった機種を開発するというすごさだと思う。
このA10という機種はそういう必要性から考え出されたということが一目瞭然とわかる機体である。
後はF14とか、FA18という機体で、これが今空軍の間では主流になっているので、特別に目新しいというものでもなくなった。
私がまだ現役であった頃は、日本の航空自衛隊ではF86とF104が主力であったが、その後F4が導入されたものの、実に遠い昔の話になってしまった。
いまではそのF4もボツボツ退役して新世代の戦闘機に変わろうとしているが、これこそ技術革新というものであろう。
あのF104を導入するとき、日本のメデイアは「人類最後の有人戦闘機」と言いふらしていたものだが、その後も次々と新しい機体が開発されてきた。
そして、昨今の湾岸戦争やイラク戦争ではピンポイントの攻撃ができるようになってきたものの、戦争でピンポイントの攻撃ということに何らかの意味があるのであろうか。
これらの現代の戦争では犠牲者が10人、100人、1000人単位で報じられており、これはまさしくピンポイント攻撃の成果であるが、ならば東京大空襲の10万人、広島原爆の16万人、長崎の7万人という犠牲者はどう説明したらいいのであろう。
私に言わしめれば、「戦争するならもっとまじめに殺しあえ」と言いたいぐらいだ。
この場に展示されている技術革新の成果としてのあらゆる機体は、戦争をするためのものであるが、その戦争がピンポイント攻撃で済ませるぐらいなら、最初から戦争などしなければいいということになる。
実際、世界中の人がそう思っているに違いないと思うが、今の戦争というのは国と国が総力を挙げて戦うというパターンは消滅して、いわゆるテロとの戦いに終始している。
テロリストを対象としたときには明らかにピンポイント攻撃でなければならない。
過去の戦争のように、お互いに国家総力戦ならば、相手の国を消滅させるほどの攻撃も整合性を持つが、敵がテロリストとなれば、そんなわけには行かないのも当然である。
それにしても、あのベトナム戦争というのは一体なんであったのであろう。
あれも完全なテロとの戦いであったわけで、ベトナム人はアメリカ人をベトナムの地から追い出したとは言うものの、あんなものは「勝った」うちには入らないと思う。
アメリカは追い返されたという意味から、「負けた」ということは言えるが、「負けた」というよりも意味のない戦いから手を引いたという程度のものでしかないと思う。
それもこれも、あのベトナムの地を共産主義の国にせんがためのことであったわけで、その意味では、あの国は共産主義の国となったが、あの地の住民はそれで幸せになりえたのであろうか。
その後の地球では、ベトナム以降も、アフガン、イラクとうとうアメリカが関わった戦争があまたあるが、これをわれわれはどう考えたらいいのであろう。
アメリカが世界の警察官ぶるのは面白くないのは当然であろうが、ならば共産主義の浸透に、共産主義者の覇権主義に、何も異議を唱えずに放置しておけ、アルカイダのテロに対しても、なにも措置をとらず放置しておけ、ということであろうか。
放置しておけばアメリカの対応の不備を糾弾し、すればしたで「アメリカ反対」というということは、一体知識人の精神の状況というのは一体どうなっているのであろう。
こういう場合、ベトナムの共産主義者もテロリストも、人の言うことに耳を貸さないわけで、誰の説得にも応じようとしないから結局がアメリカの武力行使ということになるわけで、世の知識人というのはアメリカが武力行使するのはけしからんが共産主義者やテロリストがするのは抑圧された人々の内なる爆発だからこれはよろしいというわけである。
ことほど左様に知識人というのは自分の都合に合わせて、自分に都合の良いように論理を導くわけである。
原子爆弾というのは究極の殺人の合理化策として考案されて、それが黄色人種の日本人に対して動物実験されたわけであるが、その効果はあまりにも無用の殺傷を伴うので、さすがに人種差別を容認している国々も、その使用を控えている。
それから半世紀以上経つと、戦争そのものは後を絶たないが、無用の殺傷ということを極力避ける思考が生まれた。
これがピンポイント攻撃になるわけであるが、このピンポイント攻撃が戦争の大儀になると今度はそれに向けての技術革新が起きたわけで、今では暗視装置から衛星からの地上査察というところまで行きついたわけである。
ところが近頃の戦争というのはアメリカと極めて未開発の国との戦争で、それはアメリカの西部劇と同じで、文明の代表としてのヨーロッパ系の白人と、野蛮なイスラム教徒としての土人、いわゆる未開なインデアンの対立いう構図である。
あらゆる面で土人の側に勝ち目はないので、彼らはテロという行為でしかアメリカに対抗できない。湾岸戦争からイラク戦争の経緯を見ても、日本の知識人も世界の知識人も全てアメリカの過剰防衛を糾弾してやまないが、テロをする側、テロを輸出する側に対しては何ひとつアプローチがないわけで、貧困がテロの元だと言うのであれば、飛行機から札びらを撒けばテロがなくなるかといえばそうではないはずである。
テロの奥底にイスラムの教えがあるとするならば、イスラム教徒の偉いサンはテロに走る若者を説得する義務があると思う。
この文明の価値観の相違を、日本の知識人も世界の知識人も知恵を出し合って克服しなければならないと思う。
アメリカにしてみれば、アメリカ国民、アメリカ市民を守らなければならないわけで、テロをされて傍観者として静観しているわけには行かないのは当然である。
効果があろうがなかろうが、取るべき手段は全て施して、国民の生命と安全を守るために最善を尽くさねばならないことはいうまでもない。
この日、バスがゲート前につく頃から上空をC130が旋回していた。
この日は特別の日だから何かのデモ・フライトであろうと思ってはいたが、それで中に入ってある程度状況を把握した時点で昼飯を食べようと、ある建物の日陰に腰を下ろして食べかけた頃、ちょうど13時頃であろうか、前方の広場の上でこのC130から落下傘部隊の降下の展示が行われた。おそらく空挺隊員にとっては毎日の仕事の続きであろうが、見ている側としてはすばらしい光景である。
真っ青な空にC130の開放した荷物扉の中から次から次へと隊員たちが飛び出してくる光景は実に見事なものだと思う。
彼らも訓練に訓練を重ねた結果としてあのようなことが可能になっているのであろうが、たいしたものだと思う。
しかし、考えてみるとこの落下傘部隊というのは大体どの国にもあるようで、近代国家として近代的な兵装を整えた国ならば、何処の国でもある程度は持っているもののようだ。
落下傘部隊の実績というのは、すでに第2次世界大戦で実証すみなわけで、日本もドイツもまたアメリカも同じような発想の元、同じような部隊を持っているということである。
ところがこの落下傘で降下するということはあくまでも軍事技術の一環であって、敵の前線の後ろ、つまり後背地に落下傘で下りて、敵を後ろから突くという発想の軍事的なテクニックの一端であったものが、平和な時代にはスカイダイビングと称してスポーツになっている。
今のスポーツと称せられるものの大部分は、その起源を戦争のテクニックだと思って間違いない。オリッピックの古典的な思考の中にある陸上競技の大部分は、全て戦争に絡んだ競技なわけで、スポーツを楽しむということは、戦争の競技、戦技を見て楽しむということと同義語のはずである。スカイダイビングにしろ、スキューバーダイビングにしろ、立派な戦技である。
今の主要国家の主要部隊の正式な演練科目になっているわけで、そのことから考えてみると、スポーツマンシップなどと褒め称えられているが、裏を返せば公明正大な戦士の心構えということになる。
スポーツマンシップも戦士の公明正大な心構えも立派に褒め称えられるべき事柄ではあるが、問題は、それを管理運営する側にある。
スポーツマンと戦士の公明正大な心構えというのは非常に重要なことで、昔の戦争にはルールというものがあった。
ルールの枠の中で正々堂々と争ったわけで、それがスポーツの中にも生かされてスポーツマンシップとなったわけであるが、このルールを根底から無視するようになって、無制限のデスマッチにしてしまったのが近代の、つまり20世紀以降の戦争なわけである。
スポーツの選手も、戦場に向かう戦士も、自分たちはそのルールの中で戦おうとしても、彼らを管理運営しているものたちがそのルールを無視することを薦めるわけで、戦場は無制限の殺戮の場と化すわけである。
戦士や選手を管理するものが、国家であったり民間企業であったりするわけで、こちらのほうに邪な発想があるものだから、軍人や選手、また国民も大きな犠牲を払わされることになるわけである。
この日、横田基地のフレンドシップ・フェステイバルに協力しているアメリカの兵隊たちも、結局はスポーツ選手と同じで、「お前行け!!」と言われて戦争というゲームに参加するわけで、管理する側が「行け!!」と言わない限りこうして平和を満喫できるわけである。
この日、真っ青な青空の中で、C130に乗っている空挺隊員、落下傘部隊の隊員たちも、誰かが「行け!!」と言わない限り、そのまま乗り続けるわけで、誰かが「行け!!」と言ったから、あの青空の中に飛び出していくのであろう。
先の湾岸戦争のとき、日本のテレビクルーがミッションから帰ってきたパイロットにインタビューしていた映像を見ると、彼らはまさしくゲームに参加するスポーツ選手という感じで、自分の行為が人を殺傷しているという認識は微塵もなかった。
ただ「やれ!!」と言われたから、言われてことだけをして帰ってきたという感じで、その行為の影響とか、意義とか、整合性などを考えて行動している風には見えなかった。
軍人がこういう態度をすると言うことは案外大事なことなのかもしれない。
旧日本軍では、出先の軍人が自分の判断で、自分では良かれと思って率先垂範した行為が全部裏目に出たわけで、上級者や政府の言うことを全く無視して、自分勝手な行動をしたことと比べると、言われたことだけをするということは軍人の本分に違いない。
それに反し、日本人のテレビクルーのほうは最初から感情的で、アメリカ人がこの場に居ること自体が諸悪の根源かのような言い方であったが、ならばサダム・フセインのクエート侵攻をどう説明するのかということになる。
われわれは戦後61年間も戦争というものを身近に体験したことがないので正真正銘の平和ボケにいたっている。
平和というものは、この横田基地フレンドシップ・フェステイバルのようなものが永遠に続くと思い込んでいるようであるが、こういう間違った思い込みほど恐ろしいものはない。
青空に展開する落下傘部隊の威容は、下から眺めているときはすばらしいものであるが、当事者は毎日毎日厳しい訓練を経てあのような姿を展開できるのである。
平和というのも、目に見えないところで、国民の知らないところで、隠しているわけではないが皆さんの関心がないので報道されないだけのことだが、目に見えない努力の結果があればこそ、維持されているのである。
陸上自衛隊のイラク派遣も無事任務を果たして帰還できたが、あれでも平々凡々と安逸な日々を過ごしていたわけではなく、灼熱の地で、言葉も通じない地で、様々な努力の結果として何事もなく帰還できたわけで、平和を願っていれば平和が向こうから来るというものではない。
この日のお祭り騒ぎの裏には血のにじむような訓練があることを忘れてならないと思う。