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先日(平成18年5月11日)に町内の旅行会で伊勢志摩に行った。
翌日は伊勢神宮を参詣してきたが、この伊勢神宮、俗にお伊勢さんとも言うが、これは我々日本人にとって一体なんなのであろう。
普通は神道の総本山ともいわれて日本神道の総元締めのような言い方をされているが、ならば日本人にとって神道とはいったい何なのであろう。
神道は宗教なのだろうか。
日本には八百万の神というのがあって、山や川、畑や田んぼ、井戸や便所にまで神様がいるといわれている。
神様が八百万もいるということは一体どういうことなのであろう。
神様というからには一つでなければならないのではなかろうか。
それが八百万もあれば一体本物はどれだということになるではないか。
その八百万の神の代表が伊勢神宮ということなのであろうか。
ならば経典は何処にあるのであろう。
しかし、この神社は何時来てもその雰囲気の神々しさは変わらない。
境内は自然林のようでもあるが、そうでもなさそうで、手入れがなされているようでそうでもなさそうで、実に不思議な雰囲気が漂っている。
この参道を歩いている人を見ると、実に不思議な気がしてならない。
式年邊宮の奉仕団体の白い装束はなんとなく納得がいくが、幼子を引き連れた老若男女、ヘソだしルックで妙なサンダルを履いたアベックなどの姿を見ていると実に不思議な気がしてならない。
彼らが本当に信仰心で来ているのかどうか実に疑わしいが、我々も敬虔な信仰心で行くわけでもない。
何となく「伊勢神宮でもお参りにいくか」という漠然とした気持ちで行くわけで、敬虔な信仰心で行くわけではない。
これは一体どういうことなのであろう。
若いアベックがお参りに来るというのも、そういう気持ちで来るのであろう。
つまり我々と同じように、安易というか、安直というか、敬虔で深い信仰心に導かれてくるわけではない。
それでいて何かのついでに寄るというわけでもなければ、改めて綿密に計画を立てて何年ごとに律儀に参詣するというわけでもない。
マホメット教の巡礼などという敬虔な信仰心に導かれてここに集まってくるわけではない。
これは一体どういうことなのであろう。
敬虔な信仰心でくるわけでもないから、ご利益のほうもさほど期待できないわけで、来る人もそれは皆承知の上で、ご利益を期待してくるわけでもなさそうだ。
そういうことを考えると、我々にとって伊勢神宮というのは信仰の対象でもあり、そうでもないという妙なことになる。
日本のキリスト教徒というのは非常に偏狭なようで、彼らは決してこういうところにはこないだろうか。
創価学会もその偏狭さにおいてはキリスト教徒と似たところがあるので、彼らはどうなのだろう。
そこにいくと西洋人で日本に興味を持っている人は、宗教とは別に日本文化の起源、ないしは真髄としてここに来る人も大勢いるのではなかろうか。
この神社の様々な建物は日本古来の伝統をそのまま引き継いでいるわけで、その意味でも実に不思議なところだと思う。
我々、日本人の宗教というのは一体どう考えたら良いのであろう。
正月、神社に初詣に行くときは神道になり、結婚式やクリスマスのときはにわかキリスト教徒になり、葬式のときは仏教徒になるわけで、これでは世界の人たちからすれば日本人は無神論者と思われても致し方ない。
そもそも仏教と神道が同じ場所に並立するということからしておかしなことだと思う。
だとすれば我々は何を信じたら良いのであろう。
結局は自分自身を信ずるほかないということであろう。