060425001「アメリカの鏡・日本」

「アメリカの鏡・日本」

 

ブログ「反日ワクチン」に触発されてヘレン・ミアーズ女史の「アメリカの鏡・日本」という本を読んだ。実に良い本だった。

彼女は対日占領軍GHQの労働局諮問委員会の一人として来日し、終戦直後の日本の現状から、日本がなぜあの戦争にはまり込んでいったのかを考えたに違いない。

そしてよくよく日本の置かれた立場を見てみると、遅れた日本が近代化する過程で、西洋列強が日本に対して教え込んだことを素直にトレースした結果であったことに気がついたわけである。

日本の近代化を促進するに付いては、アメリカも大きくかかわっていたわけで、その結果としてパールハーバーに行き着いたという結論を導き出したのである。

すなわちヘレン・ミアーズ女史は、対日戦に勝って日本を占領支配しているそのアメリカを正面から批判しているわけで、占領中は日本で日の目を見ることはないだろうといわれるのも無理からぬことである。

まさしくここに述べられていることは日本の近代の正史、正しくて、素直な、偏りのない日本の近代の歴史である。

勝った側の驕りというものが全くない公平な視点だと思う。

あの戦争で我々は完璧なまでに敗北を喫したので、結果的には勝った側が勝者の論理で戦争を仕掛けた側を犯罪者として裁いたが、このことの不合理、不条理、裁判の不整合性というものは当初から問題にされていた。

ところがその問題は、我々の側からは占領下という状況のもとで問題提起できなかったわけで、占領が終わるまで口を閉ざさざるを得なかった。

その間に、我々の側では例の自虐史観というものが広範に行きわたってしまって、我々は戦争に負けたのだから弁解がましいことはいうべきでなく、勝者の言う論旨を真摯に反省すべきだという感情が国民の中に蔓延してしまった。

そういう人たちが今この本を読んだらいかなる感想を持つのであろう。

この本が縷々述べていることを勘案してみると、太平洋戦争、大東亜戦争というのは、突き詰めると中国問題ではなかったかと思われる。

明治維新で文明開化を目指した我々は、西洋列強を師と仰ぎ、その師を見習い、その教えを忠実に吸収し、自分のものにしたので、それを実践に移した途端に、師と思っていた西洋列強から袋叩きにあった。

この事実は、人間の自然のあり方として当然共鳴しあう部分があるし、普遍的な人間性の表れでもあるように思う。

師として、何でも素直に教えを請うている間は「憂い奴じゃ!!」と寛容に構えておれるが、弟子が師を乗り越えそうになると、先生としても心中穏やかではなくなるのも当然だと思う。

それと合わせて、西洋先進国の首脳の中には人種差別意識が歴然と表れていると思う。

白色人種優越主義とでもういうようなものの考え方が見え隠れしていると思う。

西洋列強、つまりヨーロッパの人々から見れば、アジアの黄色人種というのはどこからどう見ても野蛮人にしか見えなかったに違いない。

その野蛮人の中でも、日本人だけが白人たちを凌駕する知識と才能と技量をもっていたので、彼らは「日本人だけは芽のうちに叩いておかなければならない」と思っていたに違いない。

それが現実の政治、外交として具体的に表面化したのがパワーポリテックという帝国主義そのもので、いわゆる強いもの勝ちの世界の現出であったわけである。

帝国主義というのは、このパワーポリテックでもって維持されていたわけで、その富の草刈場が当時、昭和初期の時代には中国であった。

日本があの戦争に嵌りこまざるを得ない状況に陥ったのも、中国での日本のパワーポリテックと、中国に利権、植民地、租界を持っていた西洋列強のパワーポリテックとの衝突であった。

西洋列強から中国を見れば、その地の住民は野蛮人で、それは同時に国益と称する利権や富の草刈場であったわけだが、日本の立場はそれ程露骨なものではなかったにもかかわらず、その理念は中国の人々からは全く信用されていなかったことも事実だと思う。

中国人からすれば、紅毛碧眼の西洋人に支配されるのは天命として諦めが付くかもしれないが、夷狄の日本人が自分たちの上にくることは我慢ならないという感情があったに違いない。

韓国などは西洋列強からすれば植民地としての値打ちもなかったわけで、だからこそ日本の韓国併合もあっさり承認されたわけである。

ところが日本は中国領の遼東半島を統治しようとすると此処は西洋列強の利権の草刈場であったものだから3国干渉で日本の統治が許されなかったのである。

西洋列強もお互いに帝国主義でありながら、こと日本に対応するときになると彼らも一致団結したわけである。

ここにミアーズ女史の言う、アメリカが勝者として日本に君臨することは、日本が中国でしたことと同じではないのかという問いに行き着くのである。

これは同時に人種差別主義と捉えなければならないと思う。

ミアーズ女史はそのところに鋭い視点を差し込んでいるので、マッカアサーが一番人に読ませたくないと思っていた文書ということもうなずける。

日本の近代の正史を旧敵国の女性が出版するということは、日本のインテリたちは一体何をしていたのであろう。

知識人としての面目丸つぶれではないか。

一市井人として私の学問の不足かもしれないが、我々日本人に対する考察において図らずもアメリカの婦人の力に負う面が多すぎるように思う。

この本がマッカアサーのGHQの中のマッカアサーの膝元で、マッカアサー自身が決して日本占領中においては発刊してはならないと思うほどの強烈なインパクトを秘めたものが書かれたということは真にすごいことだと思う。

ユン・チャン女史は中国共産党下の実情をくまなく暴露したが、彼女は中国という自分の地盤を離れ、イギリスに渡って身の安全を確認してからそれを執筆している。

「ワイルド・スワン」「マオ」とも実に立派な著作であるが、彼女はそれを自分の祖国では発行できないのである。

その点、ヘレン・ミアーズ女史はそういう迫害を受けることもなく、堂々と著述をしたためているが、反体制であったことに変わりはない。

彼女も日本を贔屓にして書いているわけではない。

真実を真実としてありのままに書いているわけであるが、これが統治者からすれば非常に困るわけで、そのことは同時に統治するということは真実や正義や博愛で行われているわけではないということでもある。

政治ということは、突き詰めれば国益の追求に他ならないわけで、それは正しいことでもなければ、真実のことでもないわけで、まして真理に基づいているわけでもない。

結局のところ、強いものは好き勝手にするということに尽きるわけである。

これこそ帝国主義であり、パワーポリテックスである。

だから、そこには真実も正義も博愛もひとかけらもないわけで、あるのは弱いものをいかになだめて自分が得をするかという現実主義的な利害得失しかない。

我々、日本人というのはその点じつに正直で、礼儀正しく、相手を慮り、約束を遵守し、契約を守り、差別撤廃に熱心であったわけである。

国際社会の中で、あまりにも純真で、馬鹿正直なものがいると、彼が一生懸命善意の行動をしても、すればするほど周りから浮き上がってしまう。

周りはそれほど純真でもなく、正直でもなく、悪いことを常にして、脛に傷を持つ身なのだから、そんな悪童連の中に純真無垢なものが一人紛れ込んでみると、彼の存在そのものが周囲からいじめを受けることになる。

それがあの大東亜戦争の本質であったものと考えられる。

この本を読んでみれば、近頃の自虐史観などというものがいかに浅薄な物かがわかる。

一本筋の通った日本近代史の正史だと思う。

 

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