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『船の科学館』

 

平成18年2月22日に東京・築地の国立がんセンターに通院した。

今月は2度の通院ということで、先回は8日に検査日があって、血液検査とX線検査を受けた。

この日は、その結果を聞くための受診ということで、今月は2回来院することになった。

検査の結果は、どこも異常なしということで実にありがたいことだと思っている。

今でも世間ではガンというと死の病という感覚が普遍的であるが、これも最近はかなり克服されてきていて、必ずしも死に直結しているわけではない様に思われる。

所詮、人間の人生というのは運しだいだと思う。

ガンで亡くなる人はそれだけの運命だったと思わなければならない。

私は、生母を昭和28年に結核で亡くしているが、これも時代が時代であったわけで、今結核などという病気は完全に克服されているが、50年も前ならばそれも致し方ない状況であり、そこはやはり運命という言葉でなければ説明がつかないと思う。

とは言うものの、人間は早かれ遅かれ一度は死ななければならないわけで、死ぬ前に何をなしておくべきか、ということが生きている人間皆に共通する大命題だと思う。

この大命題に如何様に関わりを持ち、それがどこまで達成されたかで人生の価値が大きく違ってくるのではないかと思う。

まあ、小難しいことはさておいて、病院で「あなたはどこも悪いところがないですよ」と言われたときには本当に心が安らぐものである。

受診する前は、どこかにガンが潜んでいるのではないか、という不安にさいなまれているが、その恐怖から融きほどかれたときは本当に心が平安になる。

それで支払いを済ませて病院の外に出たときには心から一服吸いたくなる。

先生の前に座るときには、匂いを消さなければならない、と思ってチューインガムを噛み、少しでも誤魔化そうとするが、きっと先生はもうお見通しだろうけれど、「この馬鹿は言っても直らない」とあきらめているに違いない。

それで、一服くゆらせて、気持ちを整え、今日一日を如何に行動するか考えるのがいつものパターンである。

この日は最初から目的が決まっていたので迷わず行動できた。

最初、病院から出て、浜離宮のほうに戻り、新しく再開発されたビルの間を通り抜けて、「ゆりかもめ」の汐留め駅に向かった。

この「ゆりかもめ」というのは、小牧市のピーチライナーと全く同じようなものだが、その繁盛ぶりは雲泥の差である。

まさしく大都会・東京という環境の違いであろうが、この路線はいつも満員で、閑古鳥の泣いているピーチライナーとは同じような交通システムでありながら、全く人の混み具合が違う。

これに乗って、「船の科学館前」という駅に行った。

「ゆりかもめ」に乗った高い位置からこの「船の科学館」を眺めてみると、北側からコンクリートの船の形をした建物と、南極観測船「宗谷」と青函連絡「羊蹄丸」の三つが並んで見える。

駅の階段を下りて、コンクリートの船の形をした施設の傍に行ってみると、人はほとんど居なかったが、屋外用の展示物がもう施設の脇にあった。

それは双胴船、といってもおそらく実験船であろうが、そのまま保存してあった。

しかし、まだ本館に入る前ではあったが、船の歴史の中でもこの双胴というアイデァはどうしてもっと広範に広がらなかったのか不思議に思えた。

素人考えでは、双胴にしておけば、荒れた海での活躍が期待されるのではないかと思うのだけれども、実際にはそのメリットが顕著でなかったから実用化されなかったのではないかと思う。

今でも双胴船というのが全くないわけではないが、やはり数の上では少数派に過ぎないのが不思議でならない。

素人では判らない何かしらのデメリットがあるに違いない。

建物の中に入ってみても人はほとんど居ない。

今日は平日なので子供が居ないからというわけでもなかろうが、見学者はほとんど居なかった。建物のエントランス・ホールに入ってみると、入り口の受付があるのに切符を売るところがないと思ったら、自動販売機になっていた。

で、その入り口から中に入ってみると、最初には実物大のものであろう、大きな帆掛け舟、和船、広重の絵に出てくるような和船の展示があった。

展示品を文字でくわしく表現することは出来ないので、大雑把な感想を述べると、最近の船は船首の水を切り開く舳先の下が大きく膨らんで、まるで飲み屋の前に置かれた、大福帳を持った狸の金玉のようになっているのが不思議でならなかった。

ところが今回その謎が解けた。

あれは球状船首、バルバス・バウというもので、船が前に進むときには造波抵抗がおきて大きく波打つが、その造波抵抗の波の形状と球状の形状を一致させることによって造波抵抗を押さえこむという仕掛けらしい。

戦艦大和には既に採用されていたということだ。

又、ボギング、サギングという言葉も知った。

ボギングというのはうねりの上に船体が載ってしまって、船首と船尾の真ん中で折れるような力が働くということらしく、その反対にサギングと言うのはその逆だというようなことを知ったが、要するに船には水中でそういう力が加わるということのようだ。

しかし、テレビで放映されるヨット・レースの映像などを見ていると、荒れた海というのは如何にも恐ろしいように見える。

テレビや映画で船の舳先が波の中に突っ込んでいく映像を見ると、あれでよく船が沈まないのが不思議でならない。

船の横揺れ防止の装置なども、実験で納得がいくよう説明がなされて、中でも驚いたのが3階建ての建物に相当するような船のエンジンと、それを格納している船底の隔壁というか船腹の様子を表した鉄の形状である。

実に大きな物だということがわかるが、私も最近まであまり意識したことがなかったが、日本には造船会社というのは実に沢山あるようだ。

私は、重厚長大と一時馬鹿にされた大企業しか船は作れないと思っていたが、日本の造船会社というのはほとんどが中小企業が大部分を占め、中でも特に重厚長大なものに限って大手の大企業が作っているということらしい。

船の科学館といっても実物をそう安易に展示できるものではないので、館内には模型が多く展示してあったが、船の発達というのは飛行機の進歩とは一味違った発展のしかたのようだ。

たとえば、冒頭に述べた双胴船のようなものはもっともっと研究され、大きなものが登場してもよさそうに思うけれども、現状はそうなっていないようだ。

現時点ではテクノスーパーライーナーという船が開発されているとのことであるが、何時ごろ実用化するということは判っていないみたいだ。

戦後だけを見ても、飛行機の進歩はアメリカ占領軍の意向で飛行機の研究さえ禁止された時期があったとはいえ、その後ジェット機の研究やらロケットの研究としてめまぐるしく進化したような印象を受けるが、船のほうにはそういう進化が見られないように見受けられる。

最も実験的な規模でならばさまざまな研究がなされ、一部実用化されたものもあるであろうが、それが今までの概念を覆すような大規模なものではないというだけのことかもしれない。

球状船首などというものは今建造される船は皆これであろうが、他の面には飛行機や車のような技術革新が見当たらないように思えるが、これは私の無知ということだろうか。

船がいくら進化しても、飛行機と速さを競うわけにはいかないが、運ぶ物量の量の大きさでは極めて有利なわけで、その意味ではもっともっと技術革新があってもよさそうに思う。

船の進化という点で我々が忘れてならないのは原子力船の「むつ」だと思う。

資源小国の日本で、原子力の利用というのは必然的なことだと思うが、その日本で原子力船の「むつ」を廃船にしてしまった、ということは非常に憂うべきことだと思う。

これは日本民族の実に卑しいところだと思う。

我々は原子力という言葉そのものに生理的な嫌悪感を露にしがちであるが、これは実に嘆かわしき問題だと思う。

我が日本民族が世界で一番最初に原子爆弾の洗礼を受けたので、それ以降というもの、原子力に対する嫌悪感というのは抜きがたいものとなって、エネルギー節約のための原子力の利用、そのための開発といっても人々は納得しないでいる。

我々は原子力という言葉を聞くと生理的は拒否反応を起こすきらいがあるが、日本が資源不足の国であるということは自明なわけで、ならば大局的な見地に立って、原子力利用ということを真剣に考えなければならない筈である。

この世のすべてのものにメリットとデメリットがあることも自明なわけで、原子力利用のデメリットといえば放射能漏れを如何に防ぐかということも自明であるが、100%の完全な安全でなければ作ってはならない、使ってはならないでは進化というものを否定するに等しい。

我々が人類で最初の原爆被害者ということと、原子力利用とはまったく別の次元の問題なわけで、それを同一のものとして、人類の最初の被害者だから同じ被害をこうむる危険は避けるべきだ、というのは理屈が通らないはずである。

又、国の目指しているものと、一般国民の利害が直接かみ合わないということも十分理解できるが、国の目指すものとても国民に被害をもたらすことを想定して推し進めるわけではなく、国民の安全を最優先にしてことを推し進めても、国民の側が納得出来ないというのはある意味で国民の側の我侭だと思う。

子供の口喧嘩ではあるまいし、100%の完全なる絶対的な安全性を要求するなどということは反対のために反対としか言いようがない。

その我侭をフォローアップするのが我々の同胞の中の有識者という人達である。

こういう有識者といわれる人々は、原子力の危険性を誇大の喧伝するが、そういう主張を声高に叫んでいるにもかかわらず、ならば今後のエネルギー対策をどうするんだ、というとそれは政府が考えるべきことであって我々には責任がないと逃げるわけである。

しかし、原子力というのは船のエネルギーとしては最高のものだと思う。

だからこそアメリカは空母にも潜水艦にも原子力エネルギーを使っているわけで、エネルギーを全く自給できない我々、日本民族は原子力エネルギーにこそ活路を見出さなければならないのに、その研究を止めさせてしまったわけだから、全く困ったものだ。

動力源としての原子力の利用をもっともっと研究すべきであったのに、それを立ち切ってしまったので、残された道は他の動力源を模索するという方向に流れるのは致し方なく、その方向では様々な研究がなされているようではある。

船の形状も含めて様々な研究がなされているようではあるが、どうも我々の眼には素直にその成果が入ってきていないようだ。

船の歴史は飛行機の歴史よりは古いわけで、その分進化の度合いが我々の眼に留まらないのであろうか。

最近浸水した世界でも最上級の豪華客船でも、太古の丸木舟の形状と基本的には全く変わらないわけで、その意味からすれば、飛行機だとて主翼と尾翼と垂直尾翼の3要素を欠いた形状というのがありえないのと同じことなのであろうか。

この施設は科学館というだけあって、ただの博物館ではないわけで、その意味からすれば非常に面白いところがある。

高いところのフロアーには船のブリッジが再現してあり、あたかも大きな船を操船している気分が味わえるようになっているが、これはこれで結構面白い。

この展望台をかねたブリッジの脇には現役の海上保安庁の航路監視施設があり、保安庁の職員が勤務していた。

私はこの日はどうしても青函連絡船の羊蹄丸が見たかったのでそちらに移動した。

一旦地上に降りて、海岸に沿って迂回しなければならなかったが、羊蹄丸の入り口は船腹に2箇所についていたがこれはおそらく就役していたときのままのものを利用しているのであろう。

それで、このブリッジを渡り、受付を通過して一歩船内に足を踏み入れると、驚いた。実に驚いた。まさしく昭和30年頃の青森やら函館の町の風情にタイム・スリップしたような気分になった。

薄暗い中に、青森や函館の町が再現されている感じだ。

等身大の人形に当時の風俗、風習、身なりが実にリアルに再現されており、そのリアルさといったらまさしくタイム・スリップである。

担ぎ屋の小母さん、物売りの姿かたち、郵便ポスト、お巡りさん、駅員の格好たるや、まさしく当時のままである。

又、それらを演出している小物、りんご箱、鮭の干物、魚屋や八百屋の店頭、籾殻に包んだ鶏卵、リヤカーを引く犬、駅の待合室のストーブ、露天商の持ち込んだ七輪、船内に搭載されデイーゼル機関車、客車、そしてその室内のイスの様子等々、まさしく当時のままで展示されていた。

案内の若い娘にこちらが説明したくなるようなものばかりであった。

私が最初に北海道に渡ったときは、列車から降りて暗い桟橋をこういう人々と一緒になって駆け足で渡ったものである。

昭和40年の冬、2月であった。

石川さゆりの「津軽海峡冬景色」はその後出来た歌であるが、あの情景が全くそのままあてはまる。しかし、この一事は強烈に私の記憶に残っているが、その後は何度も北海道に渡ったが、青函連絡船を利用したのはこれが最初で最後だったようだ。

後は全部飛行機になった。

この船に関して言えば、だいぶ改造がなされているみたいだ。

大体、当時は3等船室があって、雑魚寝の出来る大部屋があったはずだし、1等、2等はイス席であったように記憶しているが、そういうものが見当たらないし、列車を乗せる部分にも入れないし、機関部にも入れないので、そういう意味では興味が削がれる。

しかし、ブリッジは広くて立派であった。

これを昔は国鉄が運営していたわけだ。

これを見た後で、初代の南極観測船宗谷を見たが、こちらのほうは小さいだけに羊蹄丸のような豪華さは全くなく、質素というか、機能的というか、船の使命としての目的が違うので、一概に比較は出来ないが、しかし、このそう大して大きくもない船で南極まで出かけていったのかと思うとなんとも不思議な気がする。

この船を見て回ると、船内の各部屋にプレートで部屋の名称が記されていたが、実に階級制度がきちんとなっているのには変な違和感を覚えた。

それぞれの部屋には、人形でその人達の仕事振りや生活状況を示していたが、その部屋というのが各人の任務と、船のキャパシテイーから制約を受けて、小さくこじんまりとしているのは理解できるが、どの部屋にも下士官用とか課員用とか厳密に表示してあるのには驚いた。

130人程度の人間が共同生活しているのならば、そんなことをことさら強調しなくてもいいのにと思った。

しかし、船の上の長い生活ではそれがきっと要求されるのであろう。

此処を見終わって、再び最初の場所に戻って見ると、深海観測船が2台屋外展示してあったが、その脇に笹川良一が母親を背負った銅像があった。

これと同じものは銀座を歩いているときにも見つけたが、笹川良一という人は相当に自己顕示欲が強い人ではないかと思う。

自分の銅像というだけで、顔をしかめる人も大勢いると思う。

自分の銅像なんて小恥ずかしいと思っている人が相当いるのではないかと思うが、その逆に、そういうものが欲しくて欲しくてならない人もそれと同じだけいるに違いない。

この船の科学館も今は日本財団の管理運営となっているが、その前は日本船舶振興会であったと思う。

日本船舶振興会といえば日本の競艇の総元締めのはずで,競艇で儲けた金でこういう事業が行われているのであろうか?

その総元締めであるところの笹川良一という人物は評価が二分されていると思う。

こういう建設的な社会事業は大いに共鳴を覚えるが、その反面には日本のフイクサーとしても取り沙汰されているわけで、右翼の親玉という思い込みを誰しもが持っていると思う。

彼が母親を背負っている像というのは、基本的には恥ずべきことではないはずで、大いに率先垂範を示すべきことだとは思うが、それを銅像にまでしてこれ見よがしに見せびらかせば、ある程度の反感を受けることも致し方ないと思う。

彼のこの信念を古い言葉で言い表せば、教育勅語の実践ということになり、それを身をもって表現していることであろうが、此処に新旧の世代の輻輳が潜んでいると思う。

彼のこの信念が右翼に通じるものと思われている部分であろうが、そのことはこの世に生まれてきた人間ならば当然のことであるはずである。

ところが戦後の日本の教育では、そういうものが一切合財否定されて、個の尊重とか、個の自立だとか、親も子も平等だとか、人権だとか、民主主義などという進駐軍の価値観をそのまま受け入れてしまったので、それに迎合した進歩的な知識人からすれば、彼の信念は古い封建的な考え方と映っていたに違いない。

しかし、私が思うに、生きた人間は謙虚でなければならないだろうが、謙虚に生きようとすれば、彼のこの自己顕示欲にはついていけない思いがするのもあながちわからないわけではない。

仮に、功成り名を上げたとしても、自分の銅像を作るとなれば、躊躇するのが謙虚な人でないかと思う。

金のあるなしにかかわらず、自分の銅像ともなれば小恥ずかしい気持ちになるのが普通の神経の人ではないかと思う。

 

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