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34丁目の奇跡

 

ある先輩のHPの中の掲示板に、サンタクロースの話の中でこの映画の話が出ていた。

だからというわけでもなかろうが、ある日、家内が外出したついでにDVDを買ってきた。

「Miracle on the 34th street 34丁目の奇跡」という作品だ。

その大筋は以下の通りである。

夢を忘れた大人たちへ、そして夢を知らない子供たちへ、小さな冬の奇跡をプレゼント。

キャリアーウーマンの独身ママと、サンタクロースを信じない6歳の少女の前に、謎の老人が現れた。

彼の名はクリス・クリングル。自分は本当のサンタクロースだという。街はクリスマス商戦たけなわ。

ニューヨークのある有名デパート、コールズは彼を客寄せパンダとして雇い入れる。

たちまちクリスは街の人気者となるが、コールズのライバル会社の陰謀によって逮捕されてしまう。

気のふれた哀れな老人か、あるいは本物のサンタクローズか前代未聞の裁判が始まった。

6歳の少女は彼がママの会社に雇われているという内情を知っているのでサンタクロースはいないと思っているが、それでも彼に3つのお願いをしてみた。

一つは大きな家と、両親と、弟がほしいと頼んでみるが、結果的にはそれが全部かなえられるというものである。

が、その裁判の過程で、裁判官にクリスマスカードと1ドル紙幣を渡すと、それにはIN GOD WE TRUSTと書いた部分に赤丸がしてあって、それを見た裁判官ははたと気が付いて、「仮に目に見えないものでも信じるべきだ」というわけで、傷害の罪を着せられそうになった老人、クリスを勝訴に導くというものである。

ある意味で子供向けの善意に満ち満ちた作品ともいえるが、それはそれとして、この作品の台詞の中には大人にとっても非常に示唆に富んだ言葉が出てくる。

ただただ子供向けに教育効果だけを強調した作品といいつつも、その中に大人にとっても示唆に富んだ言葉がちりばめられているわけで、その辺りに良心の琴線に触れた感じがする。

しかし、芸の上手さというのは何に左右されるのであろうか。

顔の表情だろうか、それとも人の仕草であろうか。

その両方が一致してはじめて芸の上手さ、芝居の上手さになるのではなかろうか。

舞台演劇であれば、観客はその舞台全体を見ているので、一人一人に演者は小さくなってしまうが、映画とかテレビという媒体は顔のアップということが安易に行われるので、顔で演技するということも非常に大事ではないかと思う。

顔の演技にしろ、体全体の演技にしろ、表現の面白さの中にはウイットというものがなければならないと思う。

さて、そう考えると、このウイットというものはどう解釈し、どう定義したら良いのであろう。

私は軽薄な西洋かぶれの人間なもので、我々日本人の行動の中にはこのウイットということが非常に少ないのではないかと思う。

たとえば茶目っ気たっぷりにウインクするとか、軽くお知りを触るとかいう行為が昨今ではセクハラとなってしまう。

それがセクハラといわれるのは、その行為そのものにウイットが欠けているからで、相手に不快感を与えてしまうからであろう。

つまり、するほうもされるほうも、ウイットという感性とか感覚がないので、露骨になってしまうということだと思う。

双方が真面目すぎて軽い遊び心というものを受け入れていないからだと思う。

この映画のように子供向けに面白おかしく物語を展開しようとすれば、それをウイットでつなげていかなければならない。

たとえば、6歳の女の子がサンタクロースを信じないという理由などというものはウイット以外の何物でもない。

 

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