051218002 本の感想
図書館から借りてきた本で「帝国海軍『失敗』の研究」という本を読んだ。
私の歴史観は、その大部分が書物から得た知識に他ならないが、今まで読んできた本のその大部分が海軍善玉、陸軍悪玉という趣旨に沿っていた。
ところがこの本は、視点が完全に今までの世上の常識とは逆転しており、私に取っては目からうろこが落ちたような感じがした。
物の見方というのは、すべてのものが表裏一対をなしているわけで、表から見る人もあれば裏から見る人もいるわけで、我々はそれを意識して、物事を判断しなければならない。
ところが世間、特にマスコミ業界というのは、彼らも食って生きていかねばならないので、生きんがため、食わんがため、商売になる本、売れそうな本、儲けにつながりそうな本、人々が受け入れてくれそうな論説や論旨を提供する。
だからマスコミが報じていることが決して正しいわけではない。
「狼が来る、狼が来る」といって騒ぐことがマスコミの基本的な使命なのだから、彼らにとって本当に狼が来ようが来まいが関係なく、彼らは警鐘を鳴らし続けるのであって、そういう彼らの言っていることを真に受けたら馬鹿を見るのは当然のことである。
昭和の軍人たちが近代戦争、国家総力戦、情報が雌雄を決するという基本的なことに非常に疎かった、という私の論旨は間違っていないと私自身は確信しているが、そんなことよりももっと大事なことは、我々はあの戦争から学ぶべきことが何であったかということである。
軍人養成機関の中で純粋培養された人が、その小さな世界だけで物事を判断し、その枠の外には極めてワールド・ワイドで狡猾な世界が存在していた、ということに気が付かないまま政治に関与したからだと思う。
その遠因には大正から昭和の初期の政治家の怠慢、不甲斐なさが、軍人の政治的関与をセーブできなかった、という要因もあったと思う。
日清、日露の2つの戦役に勝利したことによって、軍人が慢心し、政治家が浮かれ、民衆もちょうちん行列などして浮かれに浮かれていたわけで、それを冷静で覚醒した視点から警告を出すべきが当時のインテリ、学者、マスコミでなければならなかったが、これらが共に浮かれていたが故に軍人の天下を容認してしまったものと考える。
戦前、戦後を通じて、エリートを純粋培養するという思考そのものが官僚の育成にそのまま引き継がれているように思う。
普通に常識的に考えても、18か9、ないしは23、4で国家試験をパスすることによって、その若者は国家のエリートとして軍隊という組織、官僚という組織の中で純粋培養されたとしたら、そういう限られた狭い環境の中で成長した人が、「葦の髄からを天を覗く」ような思考になったとしてもなんら不思議ではない。
海軍をぼろくそにこき下ろしているこの著者の言い分は十分に説得力のあるものである。
我々は戦後、「海軍は戦争に反対であった」という点から海軍を善玉と認識し、戦争に踏み切らざるを得なかった東条英機が陸軍であったゆえ、陸軍を悪玉と捉えてなんら疑いを持っていなかった。
しかし、言われてみると、真相、深層はどうもそうではないように思える。
戦後の日本の人々は、あの戦争の惨禍に懲りて、もう2度とああいうことはしたくない、経験したくない、という気持ちで平和志向が極めて強いが、ならば戦争の本質に付いてもっともっと思考を巡らせ、武力を使わない外交交渉で国益の擁護、ないしは増進を真剣に考えなければならないと思う。
戦争という実力行使の手段は、政治としては下の下の選択だと思う。
悲惨な状況を体験したから、悲惨な状況を目の当たりしたから、戦争反対で平和思考というのはあくまでも感情論に過ぎず、事の本質は感情論ではなく、ならばそういう状況を回避するには如何なる手法・手段があるのか、相手の要求の何を呑み、代わりに何を要求したらそれが回避できるのか、ということを理詰めで考えなければならないと思う。
それを端的に表せば、「相手を知り己を知る」ということに他ならない。
まず最初は相手を知るということから始まると思う。
相手を研究し、それに対して論理的に対抗手段を講ずることだと思う。
相手を知るということは当然のこととして、かってアメリカのルース・ベネジェクト女史がしたように、その民族の根源的なものまで掘り下げて研究するということであり、それは同時に、現在の体制おも深く考察するということでなければならない。
特に戦争という懸念があるとすれば、相手の軍事的な考察も忘れてはならないはずであるが、戦後の日本の平和ボケというのは、軍事という言葉だけで拒否反応を起こすわけで、その拒否反応こそ観念論であり、感情論であり、思い込みに過ぎないものである。
人間の歴史、人類の歴史を振り返ってみれば、人類という生き物はつねに戦争をし続けて21世紀に至っているわけで、我々は幸い戦後60年間というものホットな戦争には巻き込まれずにこれたが、今後ともそれが続くとは限らない。
それに対する対応というのは常に考えておかなければならないと思う。
そこで前の大戦の反省ということになると、血を見る抗争を回避して外交で、いわゆる口先でそういう紛争を回避するとなると、国民の結束が何よりも大事になると思う。
極端な例でいえば、中国が我々の内政に干渉がましいことを言ってきたときに、日本国民が全員一視して反発すれば、向こうも矛を収めるかもしれないのに、我々の内部に先方に迎合する言辞があるとすれば、先方により強く出られてしまう。
北朝鮮に日本人が拉致されているのに、日本の公認政党、当時の日本社会党が、「あれは日本政府の捏造だ」などといえば、敵に塩を送っているようなものではないか。
政治家が自ら国益を損ねているようでは先の大戦の反省も何もないではないか。
相手を知るということは、相手の現状をつぶさに国民に公開し、我がほうの情報は選択して情報管理し、情報公開をしなければならないということである。
何でもかんでも情報公開すれば相手もそれを利用するわけで、そのことが国益を損なうということも考えなければならない。