051211005 あるテレビ番組

あるテレビ番組

 

本日(‘05・12・11)、民放で日高義樹のワシントン・リポートという番組を見た。

この番組は私にとって非常に興味ある番組なので知りえた限り見ているが、今回もアメリカ太平洋空軍に取材した番組で興味の尽きないものであった。

以前、アメリカ海軍の潜水艦を取材したものを見たが、これも非常に興味あるものであった。

が、しかし、元航空自衛隊員としては、空軍に興味を持つのは当然のことである。

この中で彼はKC−135に搭乗して取材していたが、このKC−135は、私がまだ現役であったころから使われていた機体である。

私がまだいたころからもうこれとP3Cオライオンが闇夜の海上でランデブーして空中給油をしていた。

35年以上前の話である。

しかし、同じKC−135でも中身は相当進化しているようだ。

彼の言うところでは、昔はナビゲーターの座る位置がシステムの進化で要らなくなったので、そこに座って取材しているということであったが、当時はナビゲーターが綿密に計算しなければ闇夜の海上、北海道の襟裳岬沖で夜中の2時、3時にランデブーすることなど到底不可能なことである。

それが今は電子機器の発達で、そのナビゲーターが要らないというのだから隔世の感がする。

この番組では、空中給油を受けるのがF15であったが、この機体ももうすぐF/A22に変わるというのだから技術の進歩はとどまるところを知らないということだ。

/A22という機体は、以前、スミソニアン航空博物館で見たことがあるが、その機体の前で家内の写真を撮った。

家内は、この機体の意味する本質が何もわからずにのんきに写真に納まっているが、私はおかしくてならない。

アメリカの、いや世界の最新鋭の戦闘機ということも知らずに、その前にたたずんでいる、というミス・マッチがおかしくてならない。

番組の基調になっている主張は、アメリカ空軍は規模を縮小しつつあるが、その内包する能力は以前と変わるものではなく、むしろ強化されているということである。

ただ戦略思想の変化で、戦う集団として、機能を向上しつつ、拠点を次から次にと移動させる、という戦略思考に変化したということが語られていた。

こういうアメリカ人の柔軟な発想は大いに見習うべきだと思う。

技術の進歩に合わせて、それに見合う柔軟な発想でことに当たるという思考は、我々としても大いに学ばなければならいと思う。

時代の状況にあわせるということは何事においても大事なことではないかと思う。

失敗から学ぶということはよく言われることであるが、本当は、成功からも大いに学ばなければならないと思う。

「何故失敗したのか?」という考察も極めて大事だが、「今の成功はなにがそうなさしめているのか!」という考察も、それと同じ程度に大事だと思う。

成功したからそれと同じことをすれば同じ結果が得られると思うことほど危険なこともないと思う。

我々は往々にしてそういう発想に陥っているのではなかろうか。

一度成功したからといっても、その間に物事は次から次へと進歩しているわけで、その進歩のことを忘れて、手法のみ前と同じことを繰り返しても、同じ結果が得られるとは限らないのが当然だ。

昔から「勝って兜の緒を締めよ」という諺があるが、我々は成功すると慢心してしまって、兜の緒を締めることを忘れがちである。

日高氏も日本人であるから、日本人的な発想で質問していたが、戦争というものを勝ち負けで論じる癖がある。

しかし、戦争というのは鉄砲の撃ち合いや爆弾の投げ合いだけではないはずで、それは最後の最後の何とも打開の余地のない最後の手段であって、それまでは手の内を見せずに、こちらがどういう態度をとり、どういう切り札を切るか、ということ自体が国益の伸長ということに絡んでいるわけで、「中国や北朝鮮がアメリカにとって脅威かどうか?」という質問を軍の司令官にぶつけること自体愚問である。

自分で自分の発した愚問に気が付いていないところが日本人的である。

それだけ我々日本人から戦争というものが遠くなったということであろう。

しかし、この平和ボケは喜ぶべきことではないはずで、戦後60年余りも我々は戦争音痴でいるから、肝心なときに頓珍漢な判断、決断をする危惧が極めて高いと思う。

しかし、誰もそれを恐れてはいないようだ。

戦争の本質を知らないものが、誤った判断をすると、再び我々は奈落の底に転がり落ちる危険がある。

戦争というものは鉄砲の撃ち合いや爆弾の投げ合いばかりではない、ということを肝に銘じて知るべきだと思う。

 

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