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去年、レイ・チャールスが没して、その追悼番組がNHK BSで放映された。
そのときのテープを引っ張り出して何度も見ているが、実に良いものだ。
グラミー賞だかアカデミー賞だか知らないが、どんな賞でも彼の場合は惜しくない。
盲目にもかかわらず、あの首を振り振り歌う姿は、実にエンターテイメント精神に尽きると思う。
日本の餓鬼タレントとはわけが違う。
しかし、彼と日本の餓鬼タレを比較すること自体酷なことかもしれない。
日本の興行は餓鬼タレントを「儲かればいい」というわけで、タレント性の有無、才能が開花していようがいまいが、受けている間に出来るだけ稼ごうという魂胆が見栄見栄だ。
そういうタレントを使うほうにも問題があるわけで、エンターテイメントの何たるかを知らないものの所業だと思う。
やはりエンターテイメントでも、その基礎の部分の修行というか、蓄積されたものが根本的に違っていると思う。
歌に対する思い入れというか、音に対する執念というか、口先だけの技巧ではない何かを感じることが出来る。
彼の生涯を描いた「レイ」という映画が日本でも公開されたが、私は見逃してしまった。
だがしかし、ある日、家内をエスコートして近くのスーパーマーケットにいったら、CDやDVDの投売りのコーナーにレイ・チャールスのDVDを売っていた。
先に記述したように、「映画を見逃した」という例の作品である。
題名も実直そのもの「Ray」と言うものである。
公開がつい最近のことなので、DVDで出るにしてもかなり先のほうになるのではないかと思っていたし、まさか目の前に転がっているとは思っても見なかった。
仮にDVDで出るにしても4千円も5千円もするのではないかと思っていた。
投げ売りコーナーに無造作に置いてあるので、そう高くはないだろうと思ったが、それがたったの
980円である。
商売屋が値札をつけ間違えたのではないかとさえ思える。
この買い物だけは迷わずにした。
夕方それを居間のDVDプレイヤーに掛けてみていたが、全身がぞくぞくするほど感動、感銘した。難をいえば、音楽が途中でフェイド・アウト、フェイド・インしなければもっと良いと思った。
DVDプレイヤーの操作がよくわからず、生の英語のままで見ていたが、どうにも内容が分からないので、途中で日本語の吹き替えに変更したが、こういうものを日本語で見ると言うのもなんだか不思議な気がしてならない。実にしまりがなく違和感が漂っている。気の抜けたビールだ。
やはり、音は英語のままで、字幕で見なければ洋画を見るという雰囲気にならない。
しかし、前の日にビデオで撮ったものとはいえ、「レイ・チャールス・フォーエバー」と言う番組を見ているので、それとオーバーラップさせて考えてみると、テレビで放映されたほうはエンターテイメントとして完全に商品化されたものの寄せ集めであったが、映画の方はその商品化される過程が描かれているので、そういう意味で非常に面白く、興味深いものがある。
こういう映画も以前は沢山あった。
たとえば、「5つの銅貨」、「ベニー・グッドマン物語」、「グレン・ミラー物語」というのがあったが、これらは単純にそのサクセス・ストーリーを展開しているだけである。
だが「Ray」の場合はどうしても黒人ということから、人種差別と公民権運動というものを抜きには考えられないわけで、そのあたりの背景を考えながら見ていると頭が重くなり、そばで見ている家内にもその重苦しさをいちいち解説しなければならない。
その問題を抱えつつこの作品を見ていると、ずいぶん長生きしているような気がする。
アメリカにおける大戦後の人種差別の撤廃と、その元となった公民権運動というのが理解できないと、この映画を見ていても意味不明な部分が付いて回るのではないかと思う。
またゴスペルとロックを融合させた彼の作品に対して、黒人の側から「賛美歌を冒涜するものだ」という怒りの声が出るという背景も考えさせられる。
現代のアメリカの音楽にはその基底のところに賛美歌、つまり宗教との関わりがあるということを我々も知らなければならない。
演奏している人々が奇妙奇天烈な格好をしているから、破天荒で退廃的なものだという考え方は払拭しなければならない。
この部分が日本の餓鬼タレの音楽と根本的に違う部分だと思う。
しかし、これはアメリカだからこそそういうムーブメントが成功し、民主化が一歩も二歩も進歩したわけであるが、同じことが中国やイラクで実現可能かといえば決してそうではないと思う。
民主化も富の蓄積があるからこそ実現しうるものだと思う。
そういう小難しいことは脇に置いといて、レイ・チャールスの音楽は実に素晴らしい。