テルマ&ルイーズ   04・10・28

テルマ&ルイーズ

ある日徒然なるままにNHK BSを見ていたら、江守 徹がこの映画を推薦していた。

それまで私はこの映画の存在を知らなかった。

それでBSでこの映画を見ることになったが、やはり江守徹がほめるだけの値打ちのある良い映画であった。

ある種のロードムービーともいえるものであるが、数あるアメリカ映画もその大方のものは男性社会を中心にし、男性が主役をほしいままにしている中で、これは女性が主人公となっているところがいかにも現代風に感じられた。

ロードムービーといえば、我々の世代では当然テレビ映画の「ルート66」を思い浮かべるはずであるが、この映画のジャンルもアメリカならではの物語であり、映画だろうと思う。

日本やヨーロッパではこういうものは現実味が薄れ、物語もなんとなくわざとらしく見えてしまうのではないかと思う。

ところがアメリカという土壌ではそれが実に生えている。

物語はアリゾナのある町のしがないレストランでウエイトレスをしているルイーズと、平凡な専業主婦のテルマが山の別荘で週末を楽しもうとバカンスに出かけた。

出発して最初に休憩した店で、テルマがはしゃぎすぎてしまい、調子に乗って男と戯れたところ、この男にレイプされそうになったので、それをルイーズが射殺してしまった。

このことで、楽しかるべきバカンスがとんでもない逃避行になってしまう。

後はこの逃避行の中での様々な出来事がストーリーを盛り上げるわけだが、この時のピストルの扱いが非常にも白かった。

テルマがキャンプ用品を積み込むときに、恰も汚いものを摘まむようなしぐさで、それをハンドバックにしまいこむシーンが興味深く、その映像がさも非暴力を強調しているかのように見えた。

ところがそうではなく、使うべきところでは躊躇することなく使うという点が非常にアメリカ的というか、刀狩りの日本では考えられないところである。

アメリカライフル協会というのはあの有名なチャルトン・ヘストンが会長を務めており、それを話題作「華氏911」を作ったマイケル・ムーアがインタビューで問い詰める映像を見たことがあるが、アメリカ人にとって銃というのは我々の庖丁と同じくらいの感覚でしかない。

マイケル・ムーアは青臭い平和主義を前面に押し出して、アメリカにおける銃規制に関してチャールトン・ヘストンに食い下がろうとしていたが、彼は世論の支持をバックに軽くあしらっていた。

この映画、女性が銃をめった矢鱈と振り回すというものではないが、アメリカ社会に潜んでいる銃の弊害ということは随所に出てくる。

それは途中でパトカーに追われて、巡査の職務質問の最中に巡査の銃を奪ったり、卑猥なしぐさでからかったトラック運転手を打ちのめす、という形で表現されており、社会的なモラルには反しているが、そこが又物語を面白くする要因でもある。

アメリカ映画の中では巡査というものがある種の滑稽さで以って描かれている。このあたりの事情を考えて見るとそれこそが非常にアメリカ的な心象風景なのかもしれない。

アメリカの警察制度に精通しているわけではないが、アメリカ映画で警官が多少滑稽さで以って描かれる背景というのは、彼らが一人勤務で、荒野の真っ只中で、たった一人で悪人と立ち向かっているので、災難にあうというケースが多い。

日本ならばどんなケースでも二人乗務だと思うが、パトカーに一人で乗務しておれば災難にあう確率も当然高いと考えなければならない。

とはいうものの映画である以上面白くしなければならないので、多少現実とはなれた場面もあるかと思う。

テルマは専業主婦で、夫に対しても正面からはっきりとものをいうことの出来ない内気な性格であったが、その夫から解放された非日常の中で、徐々に自分の本来の奔放性に目覚め、逆に何事にも積極的に振舞っていたルイーズをリードする立場になってしまう。

ところがこの奔放性も警官に追われてグランドキャニオンの絶壁に追い詰められるまでのはかない時間でしかなかった。

アメリカ映画というのはストーリーは案外粗野なものが多いが、バックに流れている背景に私はどういうものか限りなく惹かれる。

これは一体どうしたことだろう。

西部劇などに出てくるインデアンとの攻防などもある種のロードムービーのような気がしてならない。

車と幌馬車の違いだけであって、あの背景、あの大地、あの赤い土地というのは変わらないわけで、私はあの光景に限りない興味を持っている。

だから生まれて始めてアメリカを訪れたとき、真っ先にザイオンを見、モニュメントバレーを見、グランドキャニオンを見、その次にイエローストーンを見た次第だ。

この光景を見てから見る西部劇やロードムービーは、一段と興味が高まったことはいうまでもない。

 

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