051105 慰霊碑

慰霊碑を見て思う

ナゴヤドームの東側の三菱技術研修所の東側隅に一つの慰霊碑がある。

これは61年前、戦時中にアメリカのB―29による爆撃で亡くなった人の慰霊碑である。

碑文には約300名が亡くなったと記されているが、この地はもともとが日本の軍需産業の発祥の地というか、戦時中は日本の戦闘機のエンジンを生産していた場所である。

当時の国策に沿って広大な敷地を擁していた。

その爆撃の日は昭和19年12月13日のことである。終戦の半年前ということになる。

このころは戦局も相当傾いており、軍需工場の工員もすべて出征してしまい、それを補完すべく学徒動員の生徒や、女子挺身隊の女生徒で生産がなされていたのではないかと思う。

こういう年端もいかないものまで動員しなければならない状況というのは、勝ち目は完全に遠のいてしまったということであろう。

それでも彼らは健気に働いていたものと想像する。

この慰霊碑に祭られている人の中にも、そういう人が大勢いるものと思う。

B−29が名古屋の軍需工場を爆撃に来るということは、日本の制空権が完全に失われていたということで、この地でいくら飛行機のエンジンを生産していても、戦局の悪化はどうしようもなかったに違いない。

彼らの攻撃は敵ながら天晴れで、工場の外に漏れた爆弾は非常に少なかったと聞く。

その横には「昭和の鐘」と称するモニュメントがある。

これは戦後、爆撃の跡に財閥解体で分割されて三菱名古屋機器製作所として、鍛造部門と鋳造部門の工場が出来た。

それが高度経済成長後のバブル崩壊で、文字とおり崩壊してしまって、昭和61年にこの地から撤収した。

そのときの建物廃材を利用して建立された記念モニュメントである。

戦後の財閥解体で広大な敷地も細分化され、周囲は住宅地になってしまったにもかかわらず、その中で鋳造や鍛造という工業製品を作るということは完全に時代錯誤ではあった。

それで必然的に消滅ということになったわけであるが、その跡地はナゴヤドームになっており、その上尚空地は有り余っているが今ぺんぺん草が生い茂っている。

今ある三菱技術研修所は昔のエンジン試運転場の跡地に当たる。

これを我々はエンジン・テストセルと呼んでいた。

今年(平成17年)は沖縄に行き、戦跡めぐりもしてきたが、あの戦争が終わってもう既に60年以上経過したということだ。

その間、我々は戦火を交えるということはなかったが、これは我々が平和を希求していたから、その結果だとはいえないと思う。

戦後の我々が平和を希求していたことは事実であるが、平和というものは念じるだけでは維持できないはずである。

沖縄の戦跡を巡ると、あの戦争の悲惨さが特別に強調されているが、「惨めで悲惨な戦いだから、我々はもう2度とああいうことはいたしません」、といくら言ったところで、戦争には相手があるわけで、一方的な平和宣言だけで防止できるものではない。

最上で最高の戦争防止策は、やはり外交交渉であることは論を待たない。

主権国家というものが相手と実力を伴う諍いを避けるには、外交しかないが、そういう状況下に置かれたとなれば、国民の一致した意見の集約がなければ効率的な外交もありえない。

我々は戦後60年、ホットな戦争をせずにこれた、といっても主権国家としての国益が十分に維持されていたとはとても言い切れない。

我々・日本が非力なるが故に相手に言いようにあしらわれている。

たとえば北方4島の問題、北朝鮮の拉致問題、中国との海洋開発の問題等々、主権国家として国益が明らかに犯されているにもかかわらず、我々は実力による解決を先延ばしにしているだけのことで、このことを忘れてはならないと思う。

ただこれらの問題は、その大部分が日本の内地に住む人にとっては直接的な被害意識が薄いだけで、北方4島の問題でも、拉致被害者の問題でも、海洋開発の問題でも、大部分の日本の国民、特に東京を始めとする都会の住人にとっては、ぶっちゃけて言えばどうでもいい問題なわけである。これが東京湾に北朝鮮の工作船が入ってきたとなれば、国をあげての大騒ぎになろうが、所詮は北海道の北の端の問題であり、沖縄の南の端の問題であり、日本海側の過疎地の問題なわけで、そんな僻地の問題で血を見るのが嫌だというのが本音であろうと思う。

我々が戦後60年、ホットな諍いから免れていたということは日本に米軍が駐在していたからに他ならない。

日本の周辺諸国が日本に諍いを吹っかけようとしても、日本にアメリカ軍がいるから、その反撃が恐ろしくてそれが出来ないのであって、我々が平和を祈願していたから戦争がなかったというわけではないはずである。

この現実を素直に受け止めなければならないと思う。

その証拠に日本が単独で2国間交渉しても、相手はテーブルに就こうともしないではないか。

諍いを避けるべく努力しようと2国間交渉をしようとしても、相手は2国間だけの話し合いには乗ってこないではないか。

ということは、日本にアメリカ軍の存在というものがなければ日本の周辺諸国は実力行使で日本の国益を侵しかねないということである。

沖縄の慰霊碑にしろ、三菱の慰霊碑にしろ、今の我々はそういう人々の犠牲の上に今日の繁栄があるわけで、そういう人々のためにも我々は美しい日本というものをこれからも維持していかなければならないが、それは平和を念ずるだけでは達成できないと思う。

平和というのは相対的なもので、相手の言うことに何処までも際限なく妥協したとすれば、それは平和ではないと思う。

平和を念ずることは言うまでもないが、それとあわせて内側では刃を磨くことも忘れてならない。

先の大戦は国家総力戦であった。

しかし、これから先の21世紀の代では国家総力戦というのも時代遅れになっていると思う。

21世紀は極めて正確なピンポイント戦略だと思う。

平和なときほど万が一のことを考えておかなければならないはずだ。

「備えあれば憂いなし」というが、戦後の我々は、その備えを考えるだけでも好戦的な人間としてレッテルを貼りがちである。

その結果として、またまた慰霊碑を建立することにならなければいいのだが。

 

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