051015001  シャクナゲの花から思うこと

シャクナゲの花から思うこと

今年の気候は少しおかしかったのだろうか。

というのも、我が家の玄関先に植わっているシャクナゲが今花を咲かせようとしている(平成17年

10月15日、現在)。

シャクナゲというのは春先に咲くものではなかろうか。

このシャクナゲを何時植えたか記憶が定かでないが、実にかわいそうな扱いで、もっと小さいときは何度も何度も踏まれて、その度に枝が折れて、その後の生育が絶望視されていた。

それでも何とかしぶとく生き抜いてきたものだ。

それで近年はシーズ毎に一房か二房、マッカな花を咲かせてくれた。

ところが、それが今花を咲かそうとしている。

これは我が家にとってはちょっとした異変であるが、世界的な規模で見ていると、この地球上のあちらこちらで大変な異変が起きているようだ。

スマトラ沖の津波の件、アメリカのハリケーンの件、インドからパキスタンにかけての大地震、これらは地球規模の異変ではないかと思う。

天変地異という言葉があるが、これらの天災は人間の立場からすれば大異変であるが、地球の誕生という点から考えてみれば、これが普通なのではなかろうか。

これこそ自然というものであり、地球の本来の姿なのではなかろうか。

地球規模の異変の一端が我が家の庭にも及んできているのではなかろうか。

この大自然の地球上に人間という動物が増えすぎたので、その自然の変異というものが災害といわれているが、自然の側からすれば、ほんのささやかな変異なのではなかろうか。

太古、人類がコミニケーションの手段を持っていなかったころは、スマトラ沖の津波も、パキスタンの地震も報道されることはなく、地球のあちらこちらで何万人と死んだところで、遠隔地の人はそれに思いをはせることもなく知らないまま時を過ごしていたに違いない。

仮に自分がそういう目に会えば、神の怒りに触れただとか、天罰で済まされたわけで、それでいくら人が死のうが、それは運命とされていたのではないかと思う。

ところが昨今のように文化文明が進化すると、その運命と思われていたものがそうではなく、人災だという認識が普遍化してきたが、これはある意味で人類の奢りだと思う。

今に生きる人々は、そういう災難にあった人を助けなければならないと思っているが、それは被災しなかった人の奢りだと思う。

自分は幸せに暮らせているので、災難に会った人々に援助の手を差し伸べよう、という気持ちは善意の人々の、心からの善意には違いない。まったく以って心優しき愛情だと思う。

だから、それは万全を排しても行わなければならにと思われている。

ところが大自然はそんな人間の思いとは関係なく、自然の摂理のまま動いているわけで、大自然から見れば人間の存在などというものは野生動物の存在程度とおなじなわけで、増えすぎればどこかで自然淘汰が起きるだけのことである。

今、流行の言葉で言えば、環境破壊が進めば、その後では当然そのゆり戻しが来るだけのことである。

人が増えすぎるということも大自然からすれば環境破壊であるが、人間の側からすれば、人が長生きして子孫が繁栄することは良いことで、末永くそうあらねばならないと思い込んでおり、可愛そうな人は助けなければならない、という善意と他者を愛するという優しい心がある限り、人間の数は増え続けるということになる。

災害が起きるということは、起きそうなところにまで人が住んだということであって、人は何処に住もうとも、自然の運動からは逃れられないと思う。

この地球上には人類にとって安住の地などあるものとは思われない。

災害のサイクルが、10年単位で押し寄せるか、100年単位で起きるかの違いだろうと考える。

今、被災地に救援に行った人々も、いつかは自分が救援される立場に変わるかもしれない。

パキスタンの地震の映像をテレビでみても、昨年の中越地震の映像を見ても、人が住むにはあまりにも危険と思われるようなところまで人は住み着いているわけで、これを我々はどう考えたらいいのであろう。

道がなくて村が孤立する、というようなところにも人は住み着いているのである。

地震、津波、台風などというものは人間からすれば災害そのものであるが、地球という大自然からすれば、ごくごく普通の自然の鼓動なわけで、変異でもなければ、天変地異でもないわけで、地球という物体がその誕生以来持ち続けているごくごく普通の運動、脈動、有り体に過ぎないと思う。

科学技術がこれだけ発達し、コミニケーションの技術これだけ発達した現在においても、尚そういう場所に居を構えるということは、本人たちの選択ではなかろうか。

山の斜面にへばりついて生きているということは本人たちの選択としか言いようがないと思う。

人それぞれにそれぞれの事情があろうが、何も今の世の中において、山の斜面にへばりつくようにして生きるという選択もないと思う。

無責任な傍観者として推測するに、そういう人達は自分の生活圏をこういう危険なところにおいて、その小宇宙の中で生きているわけで、何事もなければその小宇宙はそこだけで完結している。

ところが、地震という災害が起きると、そこで人命救助という善意の輪がその小宇宙の外側から押し寄せて、その小宇宙を外側の世界とつなげてしまう。

人の命を救わねばならないという善意は、なんびとも否定しきれない。

パキスタンの大地震に各国から救助隊が駆けつけたとろで、助けられる人はごく限られた数に過ぎないわけで、大部分の人は天命なり運命で片つけられてしまうと思う。

ただただ先進国の人々が良いことをした、善行をした、人助けをしたという自己満足に浸っているだけで、それでもって、自分たちの国はこれだけ良いことをする良い国だという自己PRに過ぎないと思う。

しかし、しなければしないで、あの国は非常な国だというレッテルが貼られることも確かで、国際協力や人命救助も、被災者を仲介する国と国の善意の競い合いだと思う。

 

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