050829

EXPO見聞録・PART5

アメリカ館

 

万博もいよいよ会期があと1ヶ月と迫ってきたので、買ってある入場券をなんとしても消化しなければならない、というわけで9月6日、台風14号が九州に接近しているという不安定な情況にもかかわらず出かけた。

前日は猛烈な雨であったので、この日も雨に祟られるのではないかと心配したが、曇り空ではあったが雨には最後まで降られることはなかった。

この日は家内と一緒に出かけることにしたので、車で元の名古屋空港に行き、そこの駐車場からシャトルバスで出かけた。

我が家から万博会場に行く手段は色々あるが、この方法が一番楽なことは確かだ。

楽だからといって毎度同じ方法に依存するというのは私の信念に反する。

私は天性の天邪鬼なものだから、楽だからといって常に同じ方法で行くということは好きではなく、たまには違った方法をとりたいと思いつつも、この時は天候のことも頭の隅にあったし、家内も一緒だからというわけで、一番常識的な手段に頼ってしまった。

わずか30分の行程であるが、この間に高速道路を3つも乗り継ぐことになる。

それが全部ETCで通過するので早いのも道理であるが、このETCというのは実に便利なものだ。

人間は何処まで便利さを追求するのであろう。

万博、万国博覧会というのも、人類が過去に発明した、その便利さのアピールの場であることから考えれば、もう万博会場に入る前からそれを享受していることになる。

しかし、この場合の便利さというのは、地理を十分の知ったものでなければ判らないだろうと思う。

同じ愛知県内に住み、自分の住む家と、会場の位置が頭の中でイメージとして出来上がっているものでなければ、その便利さが実感できないのではないかと思う。

遠方から来た人は、元の不便さが判らないだろうか、これが当たり前だと思っているのではないか、と勝手に想像している。

こういう便利さを地元民とはいえ享受できるということは、ひとえにこの地で万博が開催されたからだと思う。

万博の波及効果というものであろう。

で、この日は比較的早く家を出たものだから、会場前のゲートに着いたのは

9時半頃であったが、入場ゲートの前に来場者が一番集中しているときで、ここで入場するまでに30分ほど要した。

この日はどうしても今まで見残していたアメリカ館に入りたく早速そこに進んだ。

グローバルループを歩み、グローバルコモン2の一番奥のアメリカ館に行って見たら、朝早かったせいかすぐに入れた。

このアメリカ館ではベンジャミン・フランクリンの映像と彼の説明が大部分であったが、バーチャルな映像でフランクリンを登場させて、彼が凧で雷の研究をしたという因縁から、その彼に雷を落雷させるときの光と音響は床が振動するぐらいの迫力があった。

そこで天邪鬼の私は考えた。

今、何故に、アメリカがこの博覧会にベンジャミン・フランクリンでなければならないのか、ということを。

そこで私の考え抜いた答えは、これはアメリカのコンプレックスの表れではないかという結論である。

ベンジャミン・フランクリンは、今日のアメリカの中核的精神基盤としての、希望、勇気、博愛、前向きな心、冒険心というものを具現化した人物として、現在のアメリカに根付いているのではないかと思った。

ヨーロッパにはアリストテレスから、ソクラテスから、ミケランジェロというような古典的な偉人というものが存在していた。

ところがアメリカにはそういう意味の古典的な偉人が居ないわけで、それでベンジャミン・フランクリンをそういう類の偉人として崇め奉ることで、西洋文化に匹敵する文化があるのだということを強調したいのではないかと考えた。

アメリカはあくまでも新大陸なわけで、旧大陸のヨーロッパを始め、他のアジアにも古典的な偉人というのは数限りなく排出しているが、新大陸なるが故に、そういう意味の偉人が居なかったものだから、そこで彼をそういう部類の人間に仕立てあげたのではないかと想像する。

しかし、アメリカの文化は、いわゆる旧大陸の歴史としての旧弊がなかったからこそ、芽生えたわけで、旧大陸で旧弊に縛られた人々からはアメリカの物質文明を越える発想はありえない。

旧大陸の旧弊に囲まれているうちは、どんな世界、どんな民族、どんな国家でも、人々は「出る杭は打たれる」式の習慣からの解放はありえない。

伝統の名の下に旧弊を壊すことは人々が許さなかったに違いない。

人間の考えることは、人種が違っても、民族が違っても、考えることは基本的には同じではないかと思う。

伝統とか、歴史とか、因習とか、習慣とか、常識という名の下に、年老いたものほど現状打破を嫌い、その度合いが強いほど未開の文明に自己陶酔し、新しい革新を嫌うのではないかと思う。

小泉首相の郵政民営化政策を遺棄する信条もこれに通じていると思う。

アメリカにはそういう過去の文明の残滓、過去の歴史の澱がないので、人々は常に前に進むことが許されていたからこそ、今日のアメリカの物質文明があるものと考える。

戦後の日本の進歩的文化人と言われる人々は、アメリカに留学したような人でも、平気でアメリカの物質文明をけなしてはばからない人が多いが、こういう人こそ恩義を知らない人間だと思う。

恩義を知らないというよりも、人間の作っている文化というものに対する無知だと思う。

人間の心を知らない、知ろうとしない傲慢な人だと思う。

日本の小泉首相でも、アメリカのブッシュ大統領でも政策を誤るということは多々あると思う。

最初から間違った政策をするつもりではなかろうが、結果として失敗だったということは多々あろうと思うが、だからといって、日本とかアメリカという国家を全面否定することにはならないわけで、そういう国家を批判できる自由というものは非常にありがたい、という自覚を持たなければならない。

国家や政府の批判を言い放して、自分は何等責任を負おうとしないところに彼らの傲慢さというものがある。

アメリカのもつバイタリテイーというものは、やはり伝統という歴史の呪縛にとらわれない自由さにあると思う。

旧世界では、若い者が何か新しいことをしようとすると、必ず旧世代からの反発があるわけで、それが結果的には「出る杭は打たれる」という現象になるものと思う。

このアメリカ館では次のコーナーにはライト兄弟の作った最初の飛行機、エンジンの載せる前のグライダーのレプリカが天上から下がっていたが、グライダーにエンジンの載せるという発想は極めて革新的な思考で、こういう発明が新大陸のアメリカでなされたということは、非常に人類の発展にとって意義の深いことだと思う。

我々が明治維新で文明開化に目覚めたといっても、そこで出来上がった革新的な発想は、人力車意外なかったではないか。

我々も、長い長い日本文化の伝統というものを持っていたが故に、革新的な思考の芽は、長老とか、守旧派とか、既定概念から抜けれない先輩達にさえぎられて、片っ端から摘まれてしまったわけで、つい最近に至るまで物まね文化と蔑まれていたではないか。

小泉首相の郵政改革でも全く同じ轍を踏んでいるではないか。

話が横道にそれたが、このパビリオンには他に火星探査車の模型の展示と、車の模型であったが、この火星探査をする車の開発ということはやはりアメリカならではのことだと思う。

目下、イラクに派遣されたアメリカ兵の犠牲者が千人をはるかにオーバーしていると思うが、我々の同胞の文化人は、単純にアメリカのイラク派兵を非難しているが、アメリカが世界の警察官として毅然とイラクに立ち向かうということは非常に大変なことだと思う。

日本も含めてアメリカならずとも、イラクなどに派遣などせずに済ませれば、どれほどありがたいか知れない。

しかし、彼らは困難を承知で、苦難を恐れることなく、自らを犠牲にしてイラクの復興に賭けているのである。

イラクなどさっさと引き上げて、ハリケーン「カトリ−ヌ」の復興に勢力を傾けたほうが、世界もアメリカ人も人道的にどれだけ有益かわからない。

こんなことは誰にでも判っていることである。

日本の進歩的知識人ならずとも普通に常識のある人ならば誰でもわかっていることである。

日本の自衛隊も、イラクなどに行かずに、日本国内で災害派遣したほうがどれだけ良いかわからない。

しかし、こういうあまりにも判りきったことだけをしているとすれば、それは自己中心主義・ジコチュウと言われるわけで、世界中に191カ国もある主権国家、中でも先進国といわれる諸国家が、自己中心主義で凝り固まってしまったら人類の発展というのはその時点でとまってしまうと思う。

自己中心主義のある一方で、自己犠牲を惜しまない人々がいるから、人類は曲がりなりにも進歩し続けているのではなかろうか。

アメリカも日本も、イラクのことなど放置しておいて、さっさと引き上げたほうがどれだけいいかわからない。

それでも、そこでイラクのためにと思いつつ、自己犠牲を強いられているわけで、そういう環境で頑張っている同胞を支援しないというのは、残された人々のあまりにも傲慢な発想だと思う。

アメリカ館は21世紀の最初の万博にもかかわらず、アメリカの国力からいって何かインパクトに欠けているように思える。

火星探査の車も、地上で人間が乗る近未来の車にしても、USAという国家の力からすると何となくパワーに欠けているように感じられる。

先回見たロシア館では、模型とはいえ科学技術を大いに強調していたが、アメリカも次世代の戦闘機・ラプターF22の実物でもでんと並べてみたら、もっと迫力が増すと思うが、如何せん、今回の万博のテーマが「自然の叡智」となっているので、国威掲揚は極々控えなければならなかったのであろう。

しかし、アテンダントが乗り回していた一人乗りのスクーターのような車は一体なんなのであろう。

体重移動というか、人が立って捕まる支柱によって前後左右に移動する不思議な車は一体なんなのであろう。

こういうものを考えだすというのは、やはりアメリカの発想だろうと思う。

一見無駄なようにも見えるが、それでいて非常に役に立つものではないかと思う。

カナダ館

ここを出て次はカナダ館に行ってみた。

ここも今まで入りたいと思いつつも何時もいつも長蛇の列でしたので、ついつい敬遠して後回しにしておいたが、今回は是非とも入らなければと思って勢い込んで入ってみたが、案外期待はずれで、思い込みが激しかった割にはあまり印象に残るものではなかった。

カナダは移民の作り上げた国家ということを強調していたので、6人の人間の生き様というようなものを大きなスクリーンに投影していたが、そのミニ・ストーリーがあまりにも抽象的過ぎて、意味がよく理解できなかった。

しかし、アメリカ合衆国にしろ、このカナダにしろ、不思議な国だと思う。

というのは、ヨーロッパ人から見れば新大陸であろうとも、そこにはもともと先住民がいたにもかかわらず、その先住民達が今日の国家に対して何等貢献していないという点が実に不思議だ。

現在の国家の運営に、もともとこの地に住んでいた先住民が何一つかかわりを持たない、国家の首脳に誰一人なっていない、という点が不思議でならない。

ブッシュ政権になってからアメリカでは黒人の国家首脳、例えばパウエル国務長官とかライス国務長官という人物が出てきているが、これはあくまでも黒人、いわゆるニグロであって、アメリカ先住民のインデアン、いわゆるネイテイブ・アメリカンではない。

これはアメリカ、カナダばかりではなく南北アメリカ大陸の全般に同じことがいえると思うが、一体全体ネイテイブ・アメリカンというのは何処に行ってしまったのであろう。

アジアも近世にはヨーロッパ系の白人に植民地支配をされ、被支配者としてのヨーロッパ人、いわゆる白人からの抑圧はあったが、20世紀の後半には、それぞれに自分達の民族国家というものを作った。

ところがアメリカ大陸ではそれがないわけで、ネイテイブ・アメリカンというのはこの世から消えてしまったようにしか見えない。

数年前アメリカを旅行したさい、ネイテイブ・アメリカンの生活ぶりというのも目の当たりしてきたが、これでは致し方ないと思わざるを得なかった。

ネイテイブな人々は、自治領内で、自治が認められている、などとガイドはネイテイブな人々がさも優遇されているかのような説明をしていたが、それはある意味で白人からの隔離政策という面があるわけで、自治区内で自治が認められているからといって喜んでいては駄目だと思う。

自治区の存在そのものが一種の差別だと思う。

アジアの例からすれば、アメリカ政府内にも、カナダ政府内にも、ネイテイブな人の政府高官が何人かいないことには、入植者としての立場と、ネイテイブな人々の間に、本当の意味の平等が確立されているとは言えないのではないかと思う。

しかし、そうならない背景にはインデアンの人々の生き様と考え方があるものと推察する。

彼らは、もともと近代文明というものを否定しているわけで、彼らの価値観からすれば、食って糞して寝るだけの欲望で満足しているのである。

奇麗な家も、立派な車も、高性能なコンピューターも全く欲しがらないのである。

家はテントで十分であり、車は動けばいいわけで、キーボードを叩くよりも編み物でもしていればいいわけである。

そして、時々ゲームとして戦争・部族の抗争をして、若者に刺激を与えれば、それで天下泰平なわけである。

我々の価値観からすれば実に気楽なものだと思う。

今の日本でいえば、ホームレス願望のようなものだろうと思う。

我々は、今、飽食の世の中に生きているので、こういう人々を救い上げ、我々と同じような欲望を持つように仕向けなければならないと思いがちであるが、これは先進諸国民の思い上がりだと思う。

彼らは決してそんなことを望んでいないと思う。

善意の押し付けは彼らにとって迷惑だと思う。

カナダには、そういう人々にとって、まだまだ彼らの生活を維持しうる広大な面積が領域として残っているのではないかと思う。

彼らも近代文明を全く拒否しているわけではない。

便利なものは誰にとっても便利なわけで、そういうものは遠慮なく使うが、それは生活の道具としてであって、我々のようにそれを得ることが生きる目的になっているわけではない。

カナダ館に入って、わけのわからない映像を見ていると、多民族国家というのは、こういう人々をも容認する寛大さではないのかと思った。

私は定年を機会にアメリカ大陸に三度旅行をしたが、いずれも西海岸と東海岸の両方で、その真ん中を知らない。

真ん中は大穀倉地帯といわれているが、果たしてそれがどういう姿かたちをしているか知りたい。

このカナダ館の入り口では、背中に17インチぐらいの液晶テレビを背負ったアテンダントがいたが、それがどういうものか聞きそびれた。

一体あれは何なんだ。

そしてカナダの軍隊だか警察だか知らないが、あの真っ赤な制服と云うのも不思議なものだが、これも見慣れてしまうと違和感が薄れてしまう。

カナダもアメリカなみに近代的な物質文明の発達した国家のはずだけれども、今回はそういうものはあまり強調されているようには見えなかった。

グローバルコモン1

 

今回はこの二つを見れば大体の目的は果たしたことになるが、それではあまりにももったいないのでグローバルコモン1に戻った。

ここはアジアのエリアで、今まで見ていない部分だったので、入れるところから片っ端から制覇した。

で、最初は一番手前にあったサウジアラビアから入ったが、私が元来持っていたサウジアラビアのイメージといえば映画「アラビアのローレンス」に出てくるべドウインの国というものであったが、ここは石油で成り立っている国で、医療も、教育も、皆無料ということには驚かされた。

しかし、石油燃料というのはいづれの日にか枯渇するに違いないと思うが、その時はどうするのかということまではこのパビリオンではわからない。

またベドウインの生活に戻るとすれば何も問題なかろうが、一旦現代的な生活をしてしまったら、もうべドウインの生活には戻れないのではないかと思う。

そして例のアラーの神から脱出できずにいるわけで、片一方でアラーの神の呪縛にしばられながら、片一方では近代的なテクノロジーを享受しようなどとは欲が深すぎると思う。

けれども、このような砂漠の中でも人は何千年も生き抜いてきたわけで、中世以前はこの地が地球上のあらゆる文明の発祥の地であったわけだから、砂漠と文明の起源とはどういう関係が成り立つのであろう。

つい最近までは「アラビアのローレンス」の映画の通りで、西洋の近代から比べると足元にも及ばない後発の地域であったわけである。

このアンバランスというのは一体なんであったのであろう。

人類の文明の発祥の地でありながら、それをヨーロッパ人に皆取られて、彼らに牛耳られてしまったというのは一体どこに原因があったのであろう。

私が独断と偏見で考えるに、それは宗教、つまりイスラム教が人々の思考の発達を押え込んでしまったのではないかと考える。

砂漠の地での毎日の生活は、飛躍的な発想の転換ということを要求されないが、西洋の文化というのは、幾何級数的な思考の飛躍なわけで、そういう飛躍はアラーの神の教えに対立していたのではないかと思う。

中近東の人々は、アラーの神、いわゆるイスラム教に支配されたことが文明の飛躍を阻止された原因ではないかと考える。

砂漠の地での毎日の生活は、生活の知恵から学ぶことが出来るが、飛躍的な文化の跳躍というのは、それでは追いつかないわけで、常に現状の殻を破る、発想の転換、過去の超越ということをしなければならないのだが、イスラム教というのはそれを禁じてきたのではないかと思う。

この国では石油が出なければ、やはり今でもべドウインの生活がそのまま続いているのではないかと考える。

次はカタールに立ち寄ったがここもサウジアラビアとそうたいした相違はなかった。

そしてインド館であるが、インドは釈迦の誕生した地として我々にはなじみが深いが、彼らからすれば仏教よりもヒンズーが主であるからであろうか、釈迦のことよりもそれの脇役として菩提樹にウエイトを置いて、いわゆる木工品の展示が多かった。

もちろん西洋諸国がかっては競って求めた香辛料の展示もあったが、私にとっては木工品の展示とその内容のほうに関心があった。

このパビリンオンの2階はそれこそインドの町のように小さなみやげ物店が並んでいて、そこにはスカーフとか首飾りとか、小さな木工品が所狭しと並べられていた。

そして客引きよろしく「買え!買え!」と付きまとったりして、まさしくインドそのものような感じがしたものである。

なかでもビャクダンという木の細工物は珍しいと思う。

黒檀、紫檀、ビャクダンという木は名前だけはしっているが、実際に植わっている姿というのは想像も出来ない。

黒檀、紫檀というと中国の細工物のようで、上等な品物ということは理解しているが、それが果たしてどれだけの値打ちのものかはさっぱり理解できない。

こういう土産もの店を冷やかすというのは結構楽しいものである。

それでここではスーベニアを一つ買ってみた。

直系3cmぐらいの桃の種ほどのなかに、玉虫のような虫がいて、その足がぷらぷら動くというものであるが、その細工が結構荒削りであるにもかかわらず、それでいてかなり精巧に出来ているので、万博記念にと思って一つだけ購入しておいた。

こういう買い物は楽しい。

その隣のネパールに行ってみると、ここは強烈な仏教国で、正面に金色の寺院でんと鎮座していた。

日本の寺院というのはほとんど色が塗ってなくて、素材が生のまま使われているが、アジア諸国の寺院というのは、どういうものか実にきらびやかというか極彩色に塗り固められている。

これは同じ仏教国でありながらどうしてこうも感覚が違っているのであろう。

ここでは曼荼羅も実に極彩色に書かれていて、この感覚の違いは一体なんであろう。

ネパールは今でも中国との抗争が継続しているので、ニュースとして時々テレビに映されるが、あの山の中の寺院というのは実に壮大なものだと思う。

中央アジア共同館のタジキスタンには大きな涅槃のレプリカがあった。

またブータン館には正面に極彩色に仏像が鎮座していたりして、このアジアという地域もゆっくりまわって見ると非常に興味ある地域だ。

特に、中央アジア共同館というのは、砂漠の国ばかりで、いわゆるシルクロードの国々である。

同じ様な砂漠の国でも、西の方はイスラム教に支配され、東の方は仏教に支配されているというのはどういう因果関係があるのであろう。

しかし、お互いに地続きの国々だからはっきりと奇麗に区分わけできるわけでもなかろうが、大体はそのようになっている。

古来から人間は海というのを上手く利用し、人々の移動の場でもあり,生産の場でもあり、憩いの場にもなっているが、砂漠と云うのも人類はもっともっと有効活用するように知恵を絞らねばならないのではなかろうか。

確かに遊牧民というのはこの砂漠で生を維持しているであろうが、これから人口爆発で地球上の人間の数が今まで以上に多くなるとなれば、我々は砂漠の利用ということをもっともっと真剣に考えなければならないのではなろうか。

アメリカの西海岸では、砂漠にロッキー山脈の雪解け水を引いて農耕地帯に変えているが、アジアの砂漠もそういう手立てを講じなければならないのではなかろうか。

遊牧民が羊を飼うだけでは勿体ないのではなかろうか。

中近東でも、シルクロードでも、人類は有史以来住み続けていたにもかかわらず、どうしてそういうことが今まで出来なかったのであろう。

万里の長城を作る力があるとすれば、砂漠の緑化などということは出来ないはずがなかろうと思うが、人類は今までそれには全く手をつけてこなかったのは如何なる理由があったのであろう。

つまり、自分の安全保障には労力と財力を投じても惜しくはないが、皆が安易に食糧を確保して、皆が安逸な生活をするようなことに金を掛けることなどアホらしいという発想があったのではなかろうか。

こう考えてみると、何となくそれは人間的な思考のような気がしないでもない。

「自分さえ良ければ他人の事など知るもんか」という発想は、極めて人間の根源的な思考だろうと思う。

飽食な世に生息する我々は、これを「野蛮」と称するに違いないが、それは文明の名に溺れて人間の根本的な本質を忘れたものの思い上がりだと思う。

我々が飽食な世に生きれるようになったのは、わずかに戦後の60年に過ぎないが、人類は何百年何千年と生きてきたわけで、その中では奇麗事では生きてこれなかったに違いない。

万国博覧会の根源的な意義というのは、人々がそのことを考える動機になれば、というのがその最大の目的ではなかろうか。

これらの諸国は今の日本とくらべると確かに文化的に遅れていると思うが、これも先のネイテイブ・アメリカンについて述べたように,彼らには我々と同じ様な欲望が最初から存在していないのではないかと思う。

価値観が根底から違っているわけで、それぞれのもつ価値観というものは、どれが悪くてどれが良いということはないわけで、自分達の価値観が犯されない限り、それを克服しようという欲求が起きないだけの事で、それはそのまあ認めざるを得ないと思う。

飽食の世に生きている我々の価値観に無理に合わせよう、ということこそ思い上がった発想だと思う。

アフガニスタンの復興もいまだに軌道に載っていないが、あそこの民は、我々のような近代的な民主主義を受け入れない、彼ら自身の価値観を持っているに違いないと思う。

問題は、それをアルカイダといようなテロ集団がそこに紛れ込むことであって、彼ら自身がアルカイダの進入や潜伏を自らの力で排除しさえすれば、アメリカもすぐに引き上げるに違いない。

イラクでも同じことがいえると思う。

中近東でも中央アジアの人々でも、この日本で、21世紀の日本で開かれたEXPO2005に参加することで、彼らの欲望が刺激されて、何とか追いつき追い越せという気力というか、価値観に目覚め、新しい国つくりに貢献できるようになれば万国博覧会の意義が大いに上がるというものではないかと考える。

それが勢い余って覇権主義になっては困るが、先進国の技術を結集すれば、砂漠の緑化などということは実現可能だと思う。

環境問題の見地から砂漠であろうと何であろうと、人口の力を加えてはならない、という発想は、人の幸福を意に介さない思い上がった思考だと思う。

モンゴル館ではパオというのかゲルというのか知らないが、移動式の組み立て住宅の展示があった。

これは実に便利そうであるが、やはり彼らの土地にあってこそ価値を生ずるものだろう。

昨今はテレビの発達で、世界各地の情報が居ながらにして得られるが、オーストラリアでも、ニュージランドでも、蒙古でも、牧畜を追うのに昔は馬でしていたものが今ではオートバイでするようになったらしい。

またカナダのエスキモーでも、昔はそれこそトナカイの橇であったものが今はスノーモビルに変わっているらしい。

だからいくら遊牧民だからといって、何時までもテントのような住宅を使っているわけでもないだろうと思う。

そのうちにキャンピング・カーに変わるのも時間の問題ではないかと思う。

しかし、それではEXPOの展示にはならないわけで、少なくとも万国博覧会で展示するには、昔ながらのテントでなければならないことはいうまでもない。

このテント、骨材はなんだか知らないがいやに白い木が使ってあったが、素材は一体なんであろう。

その中では蒙古民族の衣装で記念撮影が出来るようになっていたらしい。

それをしていた女性がいた。

けれどもさすがに寒いところの衣装だと見えて、色は鮮やかであったが、キルテイングのように地厚なもののように見えた。

次にはスリランカ館に入ったが、ここも実に偉大な仏教国で、パビリンオンの正面には極菜色の仏像が曼荼羅を背景にして鎮座していた。

そして、ここも手工芸品の産地だと見えて、色鮮やかな手工芸品が並べてあったが、その中でも特に私の気を引いたのが、オードリー・ペップバーンの肖像がモノトーンで織り込まれた作品であった。

最初見た時はとても織物には見えなかった。写真かなと思った。

しかし、これが手で織った物だということが判ったときには実に驚いた。

こういう作品が所狭しと並べてあり、傍らでは実際に手織り機で編んでいた。

その糸が実に美しく、織り上がった布も実に色鮮やかなものであった。

我々が子供の頃は、日本でも田舎の各戸で、おばあさんが納屋で機織をしている光景があちらこちらで見受けられたものであったが、このような色鮮やかな織物というのは見たことがなかった。

しかし、我々も同じ様な仏教文化の中に生きているわけだが、どういうわけか色彩感覚というのはアジアの人達とは大いに異なっているようだ。

アジアの人々は仏像でも実に色鮮やかなものを作っているようだが,我々の場合は実に質素というか、単色というのか、色彩を塗らないものが多い。

建築物にしてもそうで、我々は建物に色を塗るということをほとんどしないが、アジアの人々は実に赤や青という色を建物に使っている。

この違いは一体どういうことなのであろう。

文化が違うということは、その文化を担っている人々の何かが、我々と違う感覚があると思う。

その違いは、恐らく毎日の生活の違いが、そういうものを醸成させているのではないかと思うが、それは一体なんであろう。

仏像の色彩一つとっても、我々とアジアの人々では、文化の基底に流れている感覚の違いというものがあるはずだと思う。

最後の感想

 

このグローバルコモン1というのはアジア地域が集合しているわけで、アジアは多様性に富んでいるといわれるだけあって、実に見ごたえがあることは確かだ。

家内はドイツ館をどうしても見たいということで、それのあるグローバルコモン3の周辺をうろうろしていたが、ドイツ館に入るには140分の待ち時間があるということで、少しでも行列の短くなるのを狙っていたが、最終的にはそれをあきらめた。

折角高い入場料を払って駆けつけて、140分も並ばなければ見れないなんとことは人を馬鹿にしていると思う。

当然、この批判は他のパビリンオンについても言えるわけで、高い入場料を来場者に払わせておいて、尚且つパビリオンに入るのにも何時間も並ばなければならないなどということは、来場者を馬鹿にしていると思う。

入場料というもの取らなければ、それはそれで仕方がないが、入場料を払って見に来た人には、誰でも並ばなくてもすぐに見えるように陳列手法を考えるべきであって、一つのパビリンオンで2時間も並んでいれば、その間何処も見れないということではないか。

こんな馬鹿な話もないと思う。

いわゆる、「やらずぶったくり」というものではないか。

企業館の整理券というのもおかしなことだと思う。

整理券を発行するならば、入場の前に発行して、入場したならばすぐに見れるという方法でなければおかしいと思う。

高い入場料を取っておいて、入場してからあちらで2時間こちらで2時間も待たされては見れるものも見れないではないか。

今までは人が大勢並んでいるパビリオンはさっさとパスしていたのであまり意に介さなかったが、自分の見たいものを何が何でも見ようとすると、2時間も2時間半も並ばなければならないとなると、無性に腹が立ってきた。

盛り場の映画館のように、趣向を凝らしたパビリオンでは入場料を取るが、そうでないものはただで見せるというシステムならば、いくら行列が出来ていても腹立たしさは感じないが、高い入場料を取っておいて、いざ自分の見たいものを見ようとすると、人の後について並んで、何時間もロスしなければならないでは、遠くから来た人は納得がいかないと思う。

ドイツ館に入った人の話によると、入ると6人一組でゴンドラに乗って、それに乗って見学すると云うことらしいが、このゴンドラの部分で時間がかかるのであろう。

あまりにも手が混みいり過ぎて、凝り過ぎているということらしい。

万国博覧会というだけあって、ここに出展しようとする各国とも、知恵を絞りきって応じてきていることはよく判るが、あまりにも凝り過ぎて、却って逆効果になっている節がある。

今回の万博では、あちらこちらのパビリオンで何時間も並ばなければならない現象が起きたのは、映画館のように来場者を一つの塊として映像を見せようとしたため、その都度入場制限をしたからこういう事態になったものと考える。

問題は映像で見せようとしたところにあると思う。

実物をじかに見せれば、こういうことにはならなかったかと思う。

例の冷凍マンモスなども、展示手法を変えるだけで大勢の人が見れるようになったではないか。それともう一つの問題点は、フリーパスの存在である。

いわゆる通し券というものであるが、これこそ回数券にして無制限に入場できるというのは改めるべきだと思う。

こんな通し券を買えるのは地元の人しかいないわけで、遠方から来た人が通し券を買ったとしても、メリットがなく、地元優遇という意味からしても、無制限というのは過剰サービスだと思う。

せいぜい10回程度に制限して、その分普通の入場券で来た人が並ばなくてもいいように取り計らうべきだと思う。

まあ色々愚痴ってみても始まらないが、今回はグローバルコモン1を見終わったら、後はとりたてて見るものはない。

それで家内に付き合っていた。

ドイツ館の傍で休憩しがてら、その辺りをうろうろしていたら、多分、イタリア館からであろう、大きな張子の人形が出てきて、楽団の演奏につれて妙な踊りをしだした。

張子の人形は赤ん坊と、若い娘と、大きなバストをした母親と、その旦那という具合であろう。

通路で音楽に合わせて踊りだしたが、これが滅法も面白く、母親のオッパイなどドッチボールほどもあるのが上下にゆさゆさ揺れる様は何ともユーモラスであった。

会期末も迫ってくると、もうこれからは人出も多くなることが予想され、これが最後の機会だろうと思うが、万国博覧会というのはやはりいながらにして世界旅行が出来るという点が最大のメリットであろうと思う。

そして、人類はこの博覧会に、国としての叡智と想像力を大いに発揮して、祖国の存在感を世界に示すことがもとめられていると思う。

今回の愛知万博のテーマはあまりにも地味すぎると思う。

「自然の叡智」という題目で、環境を重視した博覧会では地味にならざるを得ない。

やはり、ここに今に生きる我々日本人の平和主義というか、理想主義というか、価値観の根底に流れている優しさのようなものが感じられる。

人は皆平等でなければならない。人は皆平和な生活を希求しなければいけない。自然は大事にして、未来永劫美しい地球を維持しなければならない、という思考は非常に美しく、奇麗な考え方であるが、あまりにも奇麗事過ぎると思う。

我々、特に戦後の日本人というのは、生きとし生ける人間は皆心優しき人ばかりだと思い込んでいるが、これはある種の思い上がりと同時に、無知にも通ずることだと思う。

今の時流にドップリと身も心も浸かってしまうということは、ある意味では非常にポピュリズムに近く、このことは同時に「赤信号、皆で渡れば怖くない」という発想につながる可能性がある。

言い方を変えれば、衆愚政治になるということである。

我々の周囲を見渡せば、紛争の種は充満しているではないか。

奇麗事では納まりきれない現実が我々のまわりを取り巻いているではないか。

人間、誰しも自分の手を汚したくない。

しかし、誰かがその嫌な仕事をしなければならない状況が差し迫ってきているではないか。

「自然の叡智」だとか「環境保全」だとか、奇麗事ばかりでは世の中は回っていかないと思う。

人々、大衆がポピュリズムに流れるということは、ここで大儀のすり替えが生ずるということで、日本の過去の歴史をつぶさに見てみると、我々はその経験を十分に生かさなければならないが、奇麗事に浮かれているとそれを見失うような気がしてならない。

人間は誰でも自分の手を汚して汚い仕事するよりも、格好のいい、耳障りのいい、美しい理想や希望を語りたがるものであるが、現実の人間の生きている社会というのは、それだけでは回っていかないと思う。

誰かが何処かで人の嫌がる汚い仕事しなければ、社会というのは成り立たないと思う。

「自然の叡智」だけでは社会は前に進まないと思うし、人は生きているだけで環境を破壊し続けていると思う。

「自然の叡智」を追い求めるならば、生きている人は「食って糞して寝るだけ」でなければならない。

ミニマムそれだけのことしかしなかったとしても、「食う」だけでも環境破壊につながっていることを知らなければならないと思う。

21世紀の最初の万博は、あまりにもテーマが重すぎたと思う。

 

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