050903幸せ
人の人生が幸せであったかどうかは棺の蓋をするときでないと判らないといわれている。
ところが私は8年前にガンを患った時点で、棺桶の蓋を半分閉めたという思いで生きている。
そういう観点から私の過去の人生を振り返ってみると、人として大して出世せず、大いなる金持ちにもなれず、平々凡々の人生だったが、これで案外幸せな部類ではなかったかと思う。
ただ悔やまれてならないのは、小学校の6年生のとき生母を失ったが、この生母に対して、母の言いつけをよく守る良い子ではなかったのではないかという危惧である。
病身の母に対してよくお手伝いをしたと自負しているが、それと同じぐらい言いつけを守らなったのではないか、という不安である。
下の弟は、体が弱く、その分与えられる仕事も、体力に合わせたこまごまとした用事であり、本人も非常に人の気持ちを汲む才能に恵まれていて、その意味で生母から頼りにされていた。
それに引き換え私は体力があったので、体力的なことは私の役割であったが、私は人の気持ちを汲むことが非常に不得手というよりも、私自身が我儘であったので、やらなければ、手伝わなければと心の中で思いつつも、それをせずに逃げまわったことがたあったよう思えてならない。
全くしなかったわけではないが、言いつけられたことのいくつかはサボったに違いない。
若くして逝った母に対して、そのことが何となく心に引っ掛かる。
生母が逝って、継母が来たとき、私は、これからはこの母に頼るほかないと心から悟った。
そうと決まれば100%本音で話をしなければならないとも思った。
この本音で話をするということは、聞こえはいいが、それには言葉のアヤが含まれているわけで、言い方を変えれば自分の我儘をモロに出すということでもあった。
その時はこういうことを考えたり思ったりしたわけではない。
これも継母が逝って、時の経過と共に継母のことを深く考えて見ると、改めて、私のような我儘な人間を一応なりとも成人にまで育ててくれたな、という感謝の気持ちと共に、我々が何時もいつも諍いをしていたのは一体なんであったのかと思いを巡らせた結果、思い至ったのが、我々は本音でぶつかり合っていたのではないかという結論である。
しかし、私と継母は何時もいつもいがみ合っていたので、それを目の当たりに見た周囲の人は、継子苛めと映っていたらしいが、この評価は継母に対して少々可愛そうだ。
継子苛めの前に、私の方がそうとうの「悪」で、我儘であったようだ。
下の二人の弟は、やはり私よりも思慮深かったのであろう、母のいうことには比較的素直に従っていたようで、私ほど諍いはなかった。
しかし、継母も逝った後になってみると、私は母に申し訳ないという気持ちがふつふつと湧いてきた。
結局のところ産んでくれた母にも、育ててくれた母にも、本当の親孝行ということをせずに、親不孝だけをしてきたように思われてならない。
親をすべて失ってみると、そのことが悔やまれてならないが、今更そんなことを思っても始まらない。
「孝行したい時には親は居ず」という俚諺のとおりである。
こういう我が家の状況、私を取り巻く状況を親戚の人や周囲の人は非常に哀れんでくれたが、私は生母にも、継母にも孝行の足りなかったことを悔いても、自分が不幸などと考えたことは一度もなかった。
根っからの楽天家なのか、それとも限りなく馬鹿に近い存在なのであろうか。
この性格は社会生活をするうえでも非常に有利に作用していると思う。
自衛隊でも、会社でも露骨に苛められたということがない。
ただし、何処にいても人と喧嘩をしたことがあるので、苛めにあったときは、それに対して正統な反発をしていたのかも知れないが、私自身はそれを苛めなどと考えたこともなく、一過性の感情のもつれだと考えていた。
65年も生きておれば、その間に嫌なことも多々あっただろうと思うが、今振り返ってみると、それが一向に思い出せない。
ガンを患った時は、まだ現役だったので、せめて定年までは生き延びたい、せめて息子と娘を一人立ちさせるまでは生きたい、という願望があった。
ガンなどに負けてなるものかという強い思いはあった。
幸なことに、今それも曲がりなりにも実現して、孫が4人も出来たことはありがたいことだと感謝の気持ちで一杯である。
今ならば何時棺桶の蓋をされても悔いはないという心境に至っている。
家内と二人になってしまった家で、こころおきなく夫婦喧嘩ができている状況は幸せそのものだと思っている。
「夫婦喧嘩は犬も食わない」とはよく聴く言葉であるが、我が夫婦の間には喧嘩が耐えない。
新婚の前から、新婚旅行中から、老い先短くなった今日まで、喧嘩が絶えないというのも私の不徳のいたすところであろうが、生みの母にも、育ての母にも、妻に対しても、この喧嘩ということが付いて回るということは一体どういうことなのであろう。
それは私自身が非常に我慢だということに他ならない。
相手の気持ち、身の回りの人の心を慮る配慮と優しさに欠け、我のみ押し通したということだと思う。
考えてみれば、私は好き放題のことをしてきたようだ。
父親の期待は踏みにじり、母親の言い付けは守らず、世間の常識は無視し、自分で自分の墓穴を掘り、その中から「葦の髄から天を覗く」ように、その狭い世界に満足しきっていたようなものだ。
自分が幸せかどうかは、自分がどう思い、どう考えるかということだと思う。
自分がどんな状況に置かれたとしても、自分が幸せと感じれれば幸せなわけで、そう思われなかったならば不幸せなわけだ。
自分の身の回りのワールドが極めて小さいので、幸福も小さなものですんでいるということだろうと思う。
俗に「立って半畳、寝て一畳」という言葉があるが、これは人間が生きるためのミニマムの欲望ということだと思う。
又、「上見りゃきりなく、下見てもきりない」という言葉もあって、人が生きていくためには立っている場合ならば半畳あれば十分であるが、それを10畳も20畳もなければ生きて行けれないと思い込んでいる人はそれこそ不幸な人だと思う。
人間の欲望と言うものには際限がないわけで、それだからこそ「上見りゃきりがない」ということになるのである。
上を見るとか下を見るということは、そのこと自体が既に人と比較していうということである。
人と比較することがそもそも不幸の始まりだと思う。
自分のことを人と比較する必要は最初からないわけで、人は人、自分は自分という信念をしっかり持っておれば、人と比べて一喜一憂することもないわけである。
しかし、小泉首相ではないが、自分の思ったことを思ったとおりに貫こうとすると、どうしても回りとの軋轢を避けて通れない。
私の65年の諍いの歳月も結局はそこに落ち着くようだ。