05072801  夜の万博

EXPO2005見聞録・part4

JR東海超電導リニア館

 

平成17年7月26日、この日は台風が来るということで、マスコミは朝から警告を発してしていた。

午前中2、3の用事を済ませたら昼からは暇が出来た。

それで前々から一度家内に孝行しなければと思っていたので、この日は家内と一緒に夜の万博に出かけることにした。

そのため昼から1時間ぐらい、うとうと昼寝をして英気を養って準備万端整えてから出掛けた。二人で出かけるとなれば、それぞれに交通費を払うよりも名古屋空港の駐車場に車を止めて、シャトルバスで行ったほうが安かろうと思ってそうしてみた。

名古屋空港が常滑に移ってから始めてここに来てみた。

空港の敷地内に入ってみると、前の国内線の駐車場が万博用の駐車場になっていた。

入るときに係員が懇切丁寧の教えてくれたので、難なく車を止めることが出来た。

元の国内線のターミナルに入ってみると、ローカルの便が運行しているので、まだ現役のターミナルーからであろう、大した変更は見受けられなかったが、搭乗カウンターの反対側には万博用のカウンターが出来ており、ここでは入場券を買うことが出来た。これは便利だ。

夜間用の入場券を買ってバスに乗り込んでみると、確かに速い。

わずか30分で、万博会場、東ゲートに着いてしまった。

空港から国道41号線に出て、すぐの都市高速に乗り、東名阪を経て、東名に出、万博専用道路へと走るわけで、その間総てETCで、ゲートで止まることもなく通過するので早いわけだ。下道を走れば1時間は掛かるであろう。

東名から会場への導入路、空港から41号線への連絡路など、万博のために出来たといわれているが、10年前に出来ておればどれだけの人がその恩典に浴せたであろう。

そんなことを今愚痴っても始まらない。

会場入り口、東ゲートに着いてみると40分ほど余裕があった。

台風の影響で雨が降るような降らないようなはっきりしない空模様の中で待っていた。

時間になり、例によって持ち物検査を済ませ場内に入ってみると、ここから北ゲート、メインゲートまで歩く途中の両側は実によく手入れされた植え込みが、来た人を歓迎してくれる。

色とりどりの花や木々が雨に濡れて、来る人を迎えてくれる。

この誘導路をほんのしばらく歩くと、左側にトヨタ館が現れてくるが、そのまえにはこの日が台風だというわけで、モリゾー・ゴンドラのゴンドラがみな一箇所に固めて収納して合った。

これを見て疑問が湧いた。

ロープウエイのゴンドラというのはロープに固定されているものではなく、かってに付けたり離したり出来るもののようだ。

私は浅薄なものだから、あれはロープに完全に固定されていて、間隔を縮めたり離したりすることは出来ないものかと思っていたが、このようにそれを全部収納することも可能のようだ。

この日はゴンドラも、3輪自転車も、トラムも、運行中止となっていた。

この辺りに来ると進行方向の左側にトヨタ館や日立館が見えたが、その前はこのような日でも黒山の人だかりがしていた。

これは素直には入れないと悟って、なおも進むとメインゲートを越した辺りにJR東海超電導リニア館というのが目にはいった。

行列の長さも程ほどだったのでその行列の後に並んでみた。

ブルーと白の新幹線のような大きな車体をこれ見よがしに展示しているので、前々から見てみたいとは思っていたが、その行列の長さに辟易して敬遠していたところだ。

入ると子供のおもちゃのようなちゃちな眼鏡を渡されたが、これは3D映像用のめがねということで、その時まで使うなと説明していた。

その待ち時間の間にも大きな液晶デイスプレーで注意事項をこまごまと説明していたが、館内のシアターに入って、映像の上映が始まると鉄道の歴史を一くさり説明していた。

その中で、鉄道は鉄の粘着力を利用したものだということを言っていたが、この事実は私の生涯65年の間に考えたこともなかった。

そういわれて見れば確かにそうだろうと思う。

そこでふと思ったのだけれど、粘着力と摩擦係数はどういう関係にあるのであろうか。

この二つは同じものだろうか。

確かに機関車の動輪が最初にゴロンと動き出すときに、レールとの摩擦がなければ動き出さないわけで、摩擦係数がゼロであるとするならば、車輪は空転するだけで前に進まないということになる。

すると摩擦係数と粘着力というのは同じものと解釈していいものだろうか。

そんなことを考えながら画面を見ていると、いきなり超電導リニアカーが目の前に飛び込んでくるように迫ってきた。

つい身をかわしたくなる衝動に駆られたが、そこがこの3Dデイスプレーの真骨頂なのであろう。

その後、あらゆる角度からこのリニアモーターカーを映していたが、この鉄道?リニアモーターカーなるものが普及してきたとしたら、新たな公害が確実に起きると思う。

映像で見る限り、これはコンクリートの樋の中を走るもののようだが、窓はその樋の上に出ているので景色が見れないということはなさそうだが、

時速500km/hで走っているものの中から外の景色というものが見えるであろうか。

そして鉄道というものが鉄のレールと鉄の車輪で成り立っている以上、それのないこの乗り物が果たして鉄道といえるであろうか。

低速では、飛行機のように車輪が出たり入ったりするようであるが、超電導で車体を浮き上がらせて滑空するという感じの走行感覚であろうが、超電導で車体を浮き上がらせるというところまでは納得できるが、それを時速500km/hまで上げるのは如何なる理論によるのであろう。此処で上映されている映像では、その素晴らしさのみが強調されているが、その理論的な説明はほとんど無いに等しい。

万博会場への輸送手段としてもリニアモーターカーというのは実用化されているが、これが動く原理というのは私にとって未だによく理解できていない。

旅客機が空を飛ぶことさえ未だによく理解できない私だから、無理もない話しではあるが、素人なりに考えてみると、車体を浮かせておいて、地上に並べた電気磁石の磁力線によって、その車体を前後に移動させ、その電気磁石の発生元を移動させることによって、車体の方もそれにつれて移動するというシステムであろうか。

レールも、車輪も、パンタグラフも、モーターもいらないということであれば、音の出るところがないわけで、それだけ静かということであろうか。

地上で、形ある物体が時速500km/hで移動するともあれば、きっと風切り音というのは相当なものが予想されるのではなかろうか。

しかし、技術というのは終わりがないわけで、何処までも何処までも追及して止まないのが人間の夢への挑戦ということであろうが、今現在、東京名古屋間は新幹線で2時間であるが、これが仮に超電導リニアカーで1時間に短縮されたとして、我々の生活にいかほどの利便が跳ね返ってくるのであろう。

新幹線が出来たとき、名古屋の沿線の人達が騒音訴訟を起こしたが、その時にも話題になったと思う。

「速度を100km以下に落とすことが何故できないのか?」という議論に沸いたと思うが、その後、名古屋東京間2時間のものと3時間の普通列車並みのものが登場しているが、その差は1時間しかない。

しかし、それぞれに利用価値があるということになった。

新しい技術が登場すると、必ずそれには反対向きの思考も同時に現れるわけで、新しい技術に対して反対向きの思考に陥ると、文明の利器を逃しがちである。

日本で鉄道が敷設され始めたころ、「あの煙で火事になるから俺らが町を通すことは罷りならぬ」と言って、鉄道の敷設を拒んだ集落は、その後寂れてしまった例が沢山ある。

新しい技術は新しい社会を作り上げると思う。

名古屋東京間が1時間ということは、今までにない新しい社会が出現するということであろう。一方、新しい社会というのは日進源歩の勢いて退化もしているわけで、社会が新技術で進歩するということは、同時に退化でもあるわけである。

今、ITということが盛んに言われており、小学生までがコンピューターを酷使している一方で、60過ぎの老人達は、未だに活字文化にどっぷりと浸かって、それから脱出しようとする意欲さえ失っている。

コンピューターという新しい技術は、どんどん若い人たちに受け入れられているが、年老いた老人達は、ますますそれから阻害されつつあり、ある意味で退化しつつある。

その心は、名古屋東京が1時間で行き来できるようになったとして、何の得があるのか、という思考である。

こういう思考がある限り、コンピューターに触ろうともしない年寄りの発想そのものである。

人間の叡智というのは限りなき技術への挑戦だと思う。

この日、深夜打ち上げられたスペースシャトル・エンデバーのしていることも、限りなき技術の挑戦であり、それは同時に究極の安全への挑戦でもある。

このパビリオンでは、映像を見ながらそんなことが頭の中をよぎった。

 

三菱未来館

 

そこを人の流れと共に出てきて、次はその隣の三菱未来館に入ってみた。

ここでもそれなりに人の後ろに並ばされたが、そうそう腹を立てるほど苦痛でもなかった。

外で20分ほど待たされて、エントランス・ホールのようなところで、ロボットの動きを見ていたが、このロボットもこのパビリオンのコンセプトをしきりに繰り返していた。

このパビリオンは全体の建物は一風変わっていた。建物全体としては円形であるが、人間の背丈ほどの高さまでは蛇篭のようにザルの中に石を入れたものが壁になっていた。

そして上部はそれにツタが絡ませてあって、今回の万博のテーマである「自然の叡智」を身を持って実践しているという感じがした。

蛇篭というのは、今考えて見ると、きっと素晴らしい効用があると思う。

本当の蛇篭というのは、竹篭に石を入れて川の堤防の補強に使ったものであるが、それを建物の壁に利用するというアイデアは優れたものだと思う。

もともとが川の堤防用の工法の一つなのだから、そういう場面で使うのが一番的を得たやり方であろうが、今の日本の川の管理というのは、何でもかんでもコンクリートで固めればそれでよしとしている。

コンクリートで固めた護岸工事というのは味も素っ気もない。

行政が、ただただ住民保護という目的のために、「やれば良いだろう!」という投げやりな行政の結果でしかない。

あの川の護岸工事のコンクリートを総て蛇篭にしてみたら、日本の川ももっともっと多様な自然を育むに違いない。

しかし、素人なりに考えると、コンクリートよりも蛇篭のほうが金が掛かるのではないかと想像する。良いものは高いに違いない。

蛇篭は籠の中に石が入れてあるわけで、その石の隙間が自然にとって非常に有効に機能していると思う。

コンクリートでは、この隙間が全くないわけで、如何なる生物もそこでは生育しきれないが、蛇篭ならば、その隙間に小さな生物の生活圏が出来るわけで、それが自然再生に大きくつながるに違いない。

三菱未来館の「もしも月がなかったら!」というコンセプトは非常に判りつらいと思う。

ここではエントランス・ホールでのロボットの説明から最後の超大型デイスプレーまで、同じことを3度も繰り返していたが、地球誕生は理解できるとしても、もしも月がなかったら我々はどうなるのか?という結論の部分があまり強調されているとは思われない。

確かに、南極の氷が解けて今の地上面は水没するということは判るが、だからどうするのか、という答えが示されていない。

だからもっともっと地球を大事にしよう、ということを暗に表しているのであろうが、大きなスクリーンで、人の度肝を抜くことには成功しているが、コンセプトの周知徹底という点では少々説得力に欠けていると思う。

JR東海のパビリオンでも、この三菱未来館でも、そして後に入ったグローバルハウスの大スクリーンでも、スクリーンの大きさでは一流であるが、昔、シネマスコープの映画館で映画を見た経験のあるものにとってはそう驚くべきことではない。

最近の映画館のことはよく知らないが、一つの建物の中に4つも5つも映画館が入っているということだ。

当然、画面もそれなりにこじんまりしているに違いないし、それとPCのデイスプレーを見慣れてしまっている若者にとっては驚異かもしれないが、我々かすればそう驚くものではない。

ただ映像の鮮明さという点では現代の科学技術の勝利であろう。

ただし、このパビリオンのスクリーンは、状況に合わせてスクリーンが天上一杯にまで大きくなる点は流石に万博用のものといわざるを得ない。

これをデイズニーランドやユニバーサルジャパンで見せれば、大うけ間違いないと思う。

音響効果も抜群で、隕石が衝突する場面など、イスが振動するぐらいのド迫力である。

 

グローバルハウス

 

ここを出て中国館を見たいと思っていたのでそちらに移動中、グローバルハウスの前を通りかかったら、待ち時間なしということであったので早速人の後にくっついて並んでみた。

広いエントランス・ホールの様なところに固まって並ばされていたら、右上の方から強い照明に照らされて「ハイビジョン撮影が行なわれるので、皆さん手を振れ」と指示された。

よく見ると、そこには赤や黄色やブルーのサッカー・ボールぐらいに玉が団子のように立ててあった。

場内に入ると、ここで映された映像がそのまま再現されるということで、その色のついた玉は、その時に見つけやすいように目印になっているということだ。

確かにその通りになっていた。

このグローバルハウスというのはブルー・ゾーンとオレンジ・ゾーンに分かれていて、その違いは中で映写される映像の違いらしい。

我々の入ったのはオレンジ・ゾーンであったので、中で上映された映像は総て日本の風物であったが、ブルー・ゾーンの方は外国の風景らしい。

このグローバルハウスというのはNHKの主催のか、NTTの主催なのか、読売新聞が主催なのか、一体どこがスポンサーなのであろう。

各社の宣伝が出ていたが、このNHKのハイビジョン、スーパーハイビジョンというのも、先のリニアと同じで、技術者の技術者のための夢の挑戦という感じのものだ。

基本的には、人間の生活にとってあってもなくてもかまわないという代物であるが、技術者としては、もっともっと奥を極めたいというものだと思う。

技術者が、ただ自分たちの夢を追っているだけでは説得力に欠け、整合性に欠けるので、一般大衆を巻き込んで、それが実現すればさも日々の生活が一変するかの様な宣伝をしているが、基本的にはあってもなくても構わない範疇のものだと思う。

こうあけすけに言ってしまうと実も蓋もないことになってしまい、そういうことは彼らにしてみれば口が裂けても言えないであろうが、テレビなどというものは、そうそう鮮明さを要求するものではないと思う。

ハードの面では技術者が頭を集めて、次世代の技術革新ということが可能かもしれないが、問題は、それを使いこなすべきソフトの面にあると思う。

NHKと朝日新聞の喧嘩のように、いくら技術的に優れていても、放送すべき内容、メデイアに載せるべき内容のほうに問題があるわけで、 こちらの方は人間の煩悩から逃れきれないわけで、いくらテレビの画像が鮮明であったとしても、映されるコンテンツが内容のないものであったとしたら意味がないことになる。

技術というものは、いくらでも夢を追いかけることが可能であるが、人間の煩悩のつかさどる領域においては、有史以来それを超越することは不可能のようだ。

そこが人間の人間たる所以であろう。

NHKがいくらハイビジョンで映像を流していても、それを編集するのは人間なわけで、その編集の段階で、人間の煩悩が入り込んでしまうわけである。

まして、朝日新聞のように、活字のメデアイならば、もっと顕著にそれが出るわけで、逆にいえば記事に独断と偏見があるからこそ、社のポリシーを強調することができるものと考える。

ところが我々はマス・メデイアに公平中立を期待し、メデイアの方も、それに応えようと奇麗事をいうから、中立と言いながら偏向しているからおかしくなるのである。

朝日新聞も共産党の「赤旗」や、公明党の「聖教新聞」のように、自分の立場を毅然と表明すれば、それに接する読者の方は、最初から割り引いて読むけれども、あくまでも公平中立という奇麗事をいうからおかしくなるのである。

事実は一つであったとしても、その一つの事実を見る視点というのは、千差万別であって、ここに人間の煩悩が克服できない難しさがある。

朝日新聞のように、最初から左よりのスタンスで眺める事実と、NHKのように忠実に中立たらんとする立場では、同じ事実でも報道の仕方が変わるし、それに伴って受け取り方も変ってくる。おのずと映像なり記事の事実に対する重みが違ってくるわけで、そういう意味で、人間の煩悩を克服できないということになる。

このパビリオンの内部では読売新聞が面白おかしく擬似新聞を発行していた。

そして、ここで上映されていた映像というのは、日本の風景の最も美しい場面をピック・アップした映像であったが、映像というのは実に面白いもので、実際の場面よりも映像としてデイスプレー上で見ると、数段と奇麗に美しく見えるもののようだ。

我が家で、デジタルカメラや、デジタルビデオを、茶の間のテレビにつないで、デイスプレーを通して眺めてみると実に奇麗に撮れている。

我が家がこんなに奇麗なのかと驚くほど奇麗に映る。

そのことから考えると、大きなデイスプレーで、もともと奇麗な風景を映したところで、度肝を抜くような技術革新とはいえないのではなかろうか。

技術者としては夢の実現であろうが、一般大衆からすれば、今までの大型テレビで十分なわけで、そこに盛り込まれた先端技術よりも、価格を安くしてもらって、誰でもが薄くて大きい画面のデイスプレーを持てるようにしてもらいたい、というのが本音ではなかろうか。

ここで人の波に付いて移動していたら、動く歩道に来て、それに乗っていたらマンモスの展示してあるガラスケースの前を通過した。

シベリアの凍土から出現した冷凍マンモスということで、室温はマイナス17度で維持されているようだ。

今の象ぐらいの大きさであったが、毛が体全体に密生していた。

しかし、ここでは写真を撮ってはならないということで、全く無粋なことだ。

その脇には白い塊のようなものがあったがこれがマンモスの足だそうだ。

愛・地球博覧会の最大の目玉であるが、このマンモスが出現したことこそ、我々、地球上の人類が憂うべきことといわねばならない。

このマンモスが出現したということは、地球の温暖化がすすんで、本来、凍っていなければならない凍土が溶解したからこそ、これが地上に現れたわけで、そういうことにならないように、今この愛知で「自然の叡智」を集めて地球温暖化を阻止しようという目論見がなされているものと解釈している。

しかし、マンモスが絶滅したということは実に不思議な事だと思う。

マンモスが生きたまま氷の中の閉じ込められるということは、人間の考え得ない天変地変が起きたということだと思う。

ありきたりの温暖化とか寒冷化などというものではないと思う。

もっとも、その後でもイタリアのボンベイでは、火山の噴火で人間が生きたまま埋もれて、そのまま化石になっているというのがあるぐらいだから、マンモスが凍りつけになっても不思議ではないが、人間の想像を絶する天変地変というのは一体どういうことなのであろう。

先の三菱未来館では、地球が誕生した直後に宇宙から隕石が飛んできて、それが地球と衝突して、その破片が集まって月となったということを言っていたが、それに匹敵することがマンモスの生きていた時代に起きたのであろうか。

この地球には、隕石が衝突した後としてクレ―ターらしき地形のところが方々にあるということであるが、地表にクレーターを作るほどの隕石の衝突というのは結構あったのではなかろうか。

その時には人間の想像を絶するような天変地変というのが起きた可能性は十分にあると思う。マンモスが生きたままの姿で凍土の中に埋没していたということを考えると、私の空想は限りなく広がっていってしまう。

ところが、その凍った凍土が溶けてきたという現実に、我々はもっともっと注視しなければならないと思う。

それはこの地球の温暖化が足音も立てずに忍び寄ってきているということで、それこそシベリアの氷が解け、南極の氷が解けたとしたら、海面の上昇は50mにも及ぶといわれている。

しかし、そんなことは地球の誕生から考えれば、ほんの些細なことかもしれない。

地球の誕生は56億年前といわれていることからすれば、10年や20年のサイクルの話など、細かすぎて測りようもないのかもしれない。

そういう大きな視点に立てば、地球の温暖化などクソ喰らえということになり、環境問題など自然愛好家のマスターベーション的な自己満足に過ぎないのかもしれない。

過去にマンモスが生きたまま冷凍保存されるような環境破壊があり、ボンペイでは都市遺跡が示しているように、火山の大噴火というすさまじい環境破壊があったわけで、それでも人類は生き延びてきたことを考えると、「将来の地球を救う」などということは、神に対してあまりにもおこがましい発想で、自然に対する冒涜でさえあると思う。

我々は1年後か2年後に、隕石の大衝突にめぐり合うかもしれないのではなかろうか。

そういうことは天文学で予め判っているのであろうか?

東海大地震も、来る来ると言い続けて既に20年近くなるのではないか。

「それに備える」などと称して、行政は防災訓練を盛んにしているが、地震が来るということで防災器具の需要を喚起し、経済を活性化させようとしているのではなかろうか。

「地震が来るから各家庭では防災器具を備えておきなさい」といわれると、一般大衆は素直にそれを信じて、防災器具を買いに走るわけで、そのことで経済界が潤うという寸法ではなかろうか。

一旦売りつけてしまえば、あとは買った側の責任になるわけで、仮にそれが役に立たなければ、「使い方が悪かったからだ」といくらでも逃げれるわけで、行政の責任は奇麗に果たせるということになる。

冷凍マンモスも、見てしまえば左程のこともない。

何時間も並んでまで見るべきものでもない。

ロシア館のマンモスで十分である。

しかし、今回の万博では何故2箇所でマンモスの展示があるのであろう。不思議でならない。

 

「大地の塔」

 

次には名古屋市パビリオン「大地の塔」に行った。

ここも何時もならば長蛇の列で、行列を見るだけで敬遠したくなるところであったが、この日は流石に行列も少なかったので入ってみることにした。

中に入ると確かに万華鏡である。

外観もそれこそ万華鏡そのものであったが中もそれそのものであった。

上を見ると、まさしく万華鏡そのものであるが、下のほうにも鏡で映された万華鏡が見える。

しかし、万華鏡はあくまでも万華鏡で、子供の頃見たものと何ら変わるものはない。

ただそれだけのものである。

しかし、この万華鏡というのは日本独特のものなのであろうか。

子供のころ見たものは、筒の中に小さな紙片が入れてあって、その紙片の形が様々なものであり、それを回転させることで尚なかの文様が微妙に変化するというものであった。

その筒を立てたものと思えばいい。

この周辺のモニュメントは、どういうわけか日本情緒たっぷりの切り絵の文様のものが非常に多かった。

ここを見終わったら夕食をとることにした。

西エントランスに3階建てのレストラン街のような施設があったが、そこで休憩しつつ夕食を取った。

自分ひとりならば、ここでビールを飲むところであるが、この日は家に帰るのに、また車の運転をしなければならず、好きなビールを我慢しなければならなかった。

「ビール一杯30万円」では、そういい加減な気持ちでは済まされない。

それからグローバルコモン1にいってみたが、まだ9時少し前にもかかわらず、店しまいしているパビリオンまであった。

この日は特別なのかもしれない。

台風で、人の入りが少々少なかったので、速めに切り上げたのかもしれないが、中国館のみはやっていた。

しかし、がらがらのパビリオンというのも全く味気ないものだ。

小さなミニチュアの人形とか、調度品が並べてあったが、1階のホールには中国の楽器が置いてあった。

人が大勢いるときならばここで器楽の演奏が行なわれたであろうが、誰もいないホールではむなしい存在でしかない。

2階には立派な紫檀であろうか、黒檀であろうか、家具が展示してあったが、買えば相当な値段だろうと思う。

中国人というのは普通の生活ではイス生活のようだが、これが私には不思議でならない。

今NHKのBSでは「チャングムの誓い」という朝鮮民族の宮廷のドラマを放映しているが、これに登場している朝鮮民族というのは、我々のように正座ということはしていないようだ。

中国人のイス生活というのは何となく理解できるが、朝鮮民族の坐り方というのは、女性も男性も日本流に言えば胡坐をかくという格好である。

我々の祖先も、昔は胡坐というのが普通であったようだが、何時から正座ということになったのであろう。

正座というのは、長い時間座っていると、誰でも苦痛になるものだと思う。

その点イスや胡坐というのはそういうことはないので合理的だと思う。

何故、我々日本人だけが苦痛になる正座すわりということをするようになったのであろう。

私は恥ずかしながら、日本人の礼式ということに詳しくないが、正座と胡坐ではきっとやかましい使い分けがあるのではなかろうか。

中国館を出たら21時を少し回ったころであったが、この時間になるともう開いているパビリオンも少なく、この辺りで引き上げることにした。

それでぶらぶらと来た時の道を辿って東ゲートまで来て、そこから再びシャトルバスで名古屋空港の駐車場に戻った。

自分の車で、空港の外周道路を元の国際線のビルのほうに回って帰ろうとして、その前の交差点で信号待ちで止まったら、暗くてよくは判らなかったが、元の国際線のビルが見当たらず、更地になっているようだ。

これは一体どういうことなのであろう。

用がなくなったら直ぐに更地にしたということであろうか。

我々の日本経済というのは、確かにスクラップ・アンド・ビルドで景気を引き上げているのかもしれない。

スクラップ・アンド・ビルドならば、壊して金になり、又作って金になるわけで、一度作ったものを50年も60年も使われては、ビジネス・チャンスは生まれないが、10年か20年でスクラップ・アンド・ビルドすれば、それだけ金が動くことは間違いない。

金は確かに動くかもしれないが、環境や資源にとっては、これほどの無駄も他にないと思う。

それにしてもあるべきものがないとなると奇異な感じがする。

 

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