050714  PART3         EXPO見聞録PART3

EXPO2005見聞録・part3

コーカサス共同館

 

平成17年(2005年)7月14日、3度目のエキスポ見学に出かけた。

21世紀の最初の万博は1度だけの見学ではとても見切れるものではなく、2度目3度目でも尚完全というわけにはいかないと思う。

3度目と思いつつも、そう簡単には行ことができず、この日になったが、この日も家から出かけるについてはオーソドックスな手法によった。

家から名鉄電車と、地下鉄と、リニモに乗り継いできたが、この日はどういうわけか非常にスムースに到着できた。

先回の時は、地下鉄の終点、藤ヶ丘で非常に混雑して、次のリニモに乗るのに大勢の人がつづら折れに行列をなしており、入場する前から行列に並ばされたが、この日はそういう行列もなく、むなしく混雑よけの柵が立っていた。

それで待ち時間もほとんどなく、万博会場駅に着いた。

駅を出て入場門前の広場も案外空いており、荷物検査も案外スムースに通過した。

ロンドンでのテロ騒ぎで、万博の警備も厳しくなったと報じられていたので、少なからず心配していたが、それも杞憂に過ぎなかった。

今回も特別にあれを見てやろう、これを見てやろうという魂胆は無かったが、とにかく入れるところから順次制覇していこうと考えたいたので、入ったら一目散に一番遠いグローバルコモン4に馳せ参じた。

先回は、手元の方から攻めたが、今回は一番遠いところから攻めてみようと思ったまでの事で、ほかに他意はない。

それでグローバル・ループをひたすら歩いてみた。

途中、遊歩道に掛かった日よけの梁からは、暑さよけのドライミストと称する霧が吹き出ていた。

このドライミストと称する霧の名は、翌日の朝日新聞、天声人語の中に出ていたので、借用したわけであるが、本当にドライミストと言っていいのだろうか。

暑さ除けに霧を噴霧するというのならば、本来ならばウエット・ミストでなければならないのではなかろうか。

霧が瞬時に蒸発することで、気化熱を奪って涼しくなるという発想であろうが、結果を引き出す意味から想像すれば、ウエット・ミストであろうが、その結果から想像するとすればドライ・ミストなのかもしれない。

この時点で11時であったので、まだかんかん照りというわけでもなかったが、そういう気配は十分に感じられる空模様ではあった。

で、真っ先にグロバル・コモン4に着き、目の前にあったコーカサス共同館に入った。

此処は共同館だけあって、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャン等が共同でパビリオンを出しているところであるが、我々日本人には左程馴染みのある国々ではなかろうと思う。

コーカサス地方というのは、黒海と地中海に挟まれた地域を指すものらしく、共同でパビリオンを出しているという感じがした。

内容的には絵や写真による展示が多くてあまり印象に残っていない。

ただグルジアではワインを売りつけようとの魂胆であろう、ワインの宣伝には力を入れている感じがした。

しかし、私にはグルジアという言葉から真っ先に頭に思い浮ぶものといえばスターリンであるし、リトアニアとくれば真っ先に頭に思い浮かぶものは杉原千畝である。

この言葉とイメージは条件反射的につながってしまっている。・

これらの諸国は、1990年のソビエット連邦の崩壊がないことには、此処で共同パビリンオンを出展することさえ不可能であったに違いないが、この場にはそういう深刻な面影は何一つ感じられなかった。

グルジアのワインなどというものは、まことに平和的なもので、かってはこの地に粛清の嵐が吹きすさんでいたことなど全く思いもよらないことだ。

その粛清の根源は、この地の出身のヨシフ・スターリンが革命の完成と共に政権を掌握した結果として、自分の出身地においても粛清の嵐が吹きすさんだわけである。

我々の発想ですと、政権を取った暁には、自分の出身地には何かと便宜を図るものであるが、彼の場合は、そういう魂胆は微塵も存在しておらず、自分の政権安定のためには、自らの属する民族や、自分の故郷なども一切お構いなく、政権延命のためにはあらゆるものを殺し続けたということである。

グルジアという言葉で、こんなことを連想するのは、この会場を訪れた人の中で私ぐらいのものであろう。

この一角にあるアゼルバイジャンという国は大理石の産地らしい。

10cm四方に切り取った様々な大理石のサンプルが並べてあったが、それは全くコースターによく似ていて、今この文章を作っているPCの前にも、コーヒーカップを置くために同じ様なものが置いてある。

これは2、3年前、家内が台所をリニューアルするさいに、その台所の天板のサンプルとしてもらってきたものをコーヒーカップのコースターとしてデスクトップの脇に置いてあるものだ。

我が家のものは人工大理石であるが、此処に展示してあるものは本物に違いない。

これも磨けば実に美しい文様が出るものである。

その磨き方というのはやはり伝統が左右するのではないかと思うが、それを機械でするとなれば逆に日本の出番ではないかと想像する。

昔は御影石の墓石に字を彫るのに石工がノミとハンマーでこつこつとしていたものだが、今では機械で一瞬のうちにぴかぴかに仕上げてしまう。

そのことから想像すれば、大理石の加工も恐らく同じ様な技術革新がなされていて、昔ながらの伝統では太刀打ちできないのではないかと勝手に想像している。

このコーカサス地方というのは、人類の歴史の十字路だと思う。

色々な民族が此処を東に西に、北に南に通ったところではないかと思うが、我々から見るとあまりにも遠いというか、馴染みの無い地域に変わりはない。

パビリオン内も、これといって印象に残るものはないが、これは私のいい加減な性格がそうなさしめているのであろう。

本来ならば、こういう国々も自己PRに知恵を絞って挑戦してきている筈なのだから、写真や文字で書いたパネルをじっくり読み込んでみれば、それなりに新しい発見もあるに違いなかろう。

ところが凡俗な私は、そこまで深く考察しきれず、先を急いでしまうので申しわけない思いがする。

オランダとポルトガル

次は隣のオランダ・パビリオンに進んだが、此処もあまり意表を突くような目新しい発見は無かった。

オランダは云うまでもなく水の国なのだから、多少はそれに関連したものがあるかと思ったが、そうでもなかった。

凡俗な私がオランダと聞いて真っ先に連想するものといえば、チューリップと水車であるが、これは完全に当てが外れて、チューリップなどひとかけらも出てこない。

水車もスーベニア程度のものでしかない。

ところが、この国には陶器として日本の染付けに似た陶磁器の生産が有名らしい。

パビリオンの中央の地面が大きなスクリーンになっていて、その上につるしたこれも真四角なデイスプレーとあわせて、その両方に映像が投影されるようになっていたのはいいが、その映像というのがあまりにも前衛過ぎてよく理解できなかった。

ただ日本の「古池やかわず飛び込む水の音」という俳句から始まっては見たものの、水と環境をテーマにしているとはいえ、さっぱり理解できず、何が言いたいのか苦慮してしまった。

オランダといえば、私には大航海時代のことと、国土が海面よりも下の国ということが頭をよぎるが、そういうものを連想させるようなものは何一つない。

オランダが、国土の4分の1を埋め立てたということは、その費用はアジアからの富の収奪でそれがなされたということであろうか。どうも意地悪な発想になってしまう。

この国の特産である陶磁器も、私にとっては猫に小判の類で、染付けに似ているなというぐらいの関心しかない。

オランダといえば、我々の世代のものからすれば、大航海時代から、東インド会社の時代を経てアジアの植民地経営ということに思いが飛躍してしまうが、国家というものが栄華盛衰するということに何とも言えぬ哀れを覚える。

人間としては、自分の族する国家が、右肩上がりの興隆を極めているときよりも、右肩下がりで衰退をしている時のほうが安定した生活が出来るのかも知れないと思う。

確かに、右肩上がりのときは、生き生きと活気はあるかもしれないが、その分殺伐としているわけで、それに反して右肩下がりの衰退期というのは、人々は焦らず落ち着いて生活そのものを楽しむ心の余裕を感じるのかも知れない。

そして、さきのコーカサス共同館にしても、このオランダのパビリオンにしても、それぞれの国があまりにも小さすぎるような気がしてならない。

万博のパビリオンに関していうのではなく、地球規模でものごとを考えた場合、このようにそれぞれに小さな国に分かれて居なくても、もっとEUのような大きな枠組みで協力し合ったほうが人の生き方としてはベターなような気がしてならない。

しかし、人間というのは自分の国を持ちたい、独立し、自立した国にしたいというのが人としての潜在的願望のようで、それが為、旧ソビエット連邦も見事に分裂し、元のように自然回帰したのではなかろうか。

人が生きるということは、生きる効率のみを追求しているわけではなく、誇りと祖国愛、自愛の中に身を置いて、自己陶酔に浸るという面があるのかもしれない。

「北のオアシス」とスイス

次は道路の反対側の北欧共同館「北のオアシス」に入ったが、此処は以前半端な時間に入ったことがあった。

入るまで気がつかなかったが、入ってみて始めてそのことに気がついた。

ということは最初に入ったときあまり印象が強くなかったので、入ったことすら忘れていたということであるが、確かにこれといった強烈な印象はない。

此処は、デンマーク、フインランド、アイスランド、ノルーエー、スエーデン等の共同パビリオンであったが、これらの国は明らかに先進国であり、工業国であると思う。

我々、東洋の国からすると非常に遠い国のようで、その上北極に近い国ということであまりにも環境が違うので馴染みは薄いが、明らかに先進国であり、工業国だと思う。

我々日本人は、島国に住む人間なるが故に、すぐに他の国と比較して物事を考える癖が抜けないが、社会福祉の面でもこれら北欧の国と比較して「遅れている」という印象で語りたがるが、我々とこれらの国というのは比較の対象にはならないと思う。

文化そのものが異質だと思う。

一年の半分が冬の国と、四季折々の風物をかもし出す我が国とでは、同じ基準値であらゆるものを比較することが出来ないと思う。

工業製品にも素晴らしいものがあるが、それをそのまま我々の住む環境で使うとなれば、様々な不具合もあるのではないかと考える。

又、逆のこともありうると思う。

この中のアイスランドのコーナーでは、溶岩を立て横それぞれ30cmぐらいの大きさに切り出して並べたものがあったが、この溶岩なるものも実に奇妙なものである。

原始、地球というべきか、地球そのものというべきか。

赤茶けた色をして中には気泡を含んでいるのであろう、スポンジのように一見ふわふわして、いかにも柔らかそうに見えるが、これが完全に岩そのもので、硬くて、硬くて、その切り出した表面は刃物の影響であろうか、まるで羊羹のようにすべすべしている。

とても地下から噴出した溶岩には見えない。

溶岩と言えば、私は浅間山の鬼押し出しの溶岩を思い浮かべるが、あれは表面が空気にさらされて奇岩となっているが、あの表面の下はこのようなものかもしれないと思いつつ触ってみた。

冷たくて、ひんやりとした感触であった。

しかし、この北極に近い北海には、アイスランドとアイルランドがあって、我々にはどちらがどちらかさっぱりわからないが、このアイスランドは火山国らしく、そのためにこのように溶岩が売り物としてこの場にあるのであろう。

火山があるとすればアイス・ランドよりもホット・ランドのほうが我々にはその国の雰囲気が伝わりやすいのではないかと思いつつまわった。

アイスランドと、アイルランドという二つの国は、名前は知っていてもさて何処にあるのかということになると地図で探さなければならない。

此処を出て次はポルトガル館に入ったが、此処も左程意表をつくような展示物には出会わなかったが、薄暗い中で係員が30cm四方、厚さ3cmぐらいのものを手にかざしてもっていた。

「それは何だ?」と聞くと「コルクだ!」というではないか。

「コルク栓のコルクか?」と聞き返すと「そうだ!」という。

確かに周囲にはコルク栓にしたサンプルが陳列してあったが、コルク栓がこういうものから出来ているとは思ってもみなかった。

さすが万国博覧会である。

係員が手に持っていたのは、30cm四方、厚さ3cmぐらいもので表面はつるつるした艶のあるように見えたが、それはまだ加工前だからそうなっていたのであろう。

あれの表皮を取り去ればきっと我々の見慣れたコルクが現れるに違いない。

このポルトガルというのは、このコルクの生産で世界で何割かのシエアをもっていると言っていたが数字は忘れてしまった。

その傍らに大きな木が立っていて最初は薄暗い中でそれがよく理解できなかたが、要するにコルクというのは、この木の表皮ということであろう。

パビリオン内に展示するためには実物を持ってこれないので、それに似せた模造品ではあろうが、高さ3m太さ30cmぐらいの木が薄暗くした場内に立っていた。

この木の表皮を剥がしたところで、とても係員の持っていたサンプルには及ばない筈で、きっと実物は天をも突くような大きな木ではないかと想像するが、その木の表皮を剥ぎ取ったものが恐らくコルク栓のコルクというものであろう。

ポルトガルという語から我々が連想するのは、やはり大航海時代の植民地経営であろうが、その関連で香港のマカオを連想する。

ところが20世紀という時代は、もうポルトガルにとっては過ぎ去った時代で、世界にその威力を示す機会が全く与えられない情況になってしまっている。

過去の威光で生きているという感じさえする。

次はスイス館に入ったが、此処はやはり一種独特の雰囲気を漂わせた場所であった。

入場のための行列もかなり長くて30分は待たされたような気がしたが、此処では入ると最初に妙な懐中電灯を持たされた。

係員の説明によると、この懐中電灯はスイス陸軍が昔実際に使っていたもので、日本の製品でいえば、昔のウオークマンぐらいの大きさであった。

表にはシェード付きのライトがあり、裏には取っ手があって、手に持ったりベルトに通したり出来るようになっていた。

係員の説明によると、この懐中電灯のシェードを上げて、光を展示場のセンサーに当てると、手に持っている器具の裏側から日本語の音声で説明が聞けるというものである。

確かに説明のとおりであったが、問題は舞台のデイスプレーにある。

どういうわけだか知らないが、展示場の前面に透明のビニールシートが掛けてあって、センサーの位置もわかりにくかったし、その前にこのビニールシートの存在がいかにも五月蝿く醜くしている。

内容的には目下、掘削中の総延長57kmにも及ぶ大トンネルの掘削機械の模型の展示があったが、模型であるからにやはり迫力に欠ける。

シールド掘削機の模型であるが、スイスといえばいわずと知れた山の国で、山の景観を損なわずに人々の移動を可能にする手法としてはトンネルが必要不可欠なことは論をまたない。

イギリスとフランスのドーバー海峡もトンネルで繋がったが、これにも日本のトンネル掘削機の活躍があったといわれている。

このトンネル掘削機というのは目立たない存在であるが、人間の生活向上には極めて貢献していることになる。

最近の東京では地下鉄が縦横に走っているが、このトンネル掘削にもこのシールド型トンネル掘削機が大いに活躍しているのではないかと思う。

この掘削機についてよく知っているわけではないが、素人が素人なりに想像するに、先端の刃先で土や岩盤を引っかいて、それを自分の体内を通って後送し、同時に壁面を補強しつつ、前に進むというシステムだと思う。

昔は、削岩機で穴を開け、そこにダイナマイトを仕掛け、発破作業をしたあとで、土を運び出すという作業手順であったので、トンネル掘りといえば人海戦術でなければならなかったが、シールド工法が出来てからは、この工事も大きく様変わりしたに違いない。

この模型の横には古びたコンピューターが陳列してあり、これはインターネットのwwwシステムを構築した最初の機械だという意味の説明であったが、内容的には不可解な部分が多々あった。

その反対側のコーナーには大きなセントバーナード犬が展示してあったが、これはいわずもがな人命救助犬としてのアピールである。

セントバーナードが首に小さな樽を括りつけたポーズというのは、雪山の人命救助ということであまりにも有名になりすぎていると思う。

しかし、このセントバーナードという犬はあまりにも大きいように思う。

とても日本の家庭では飼いきれないように思う。小牛ほどあるのではないかと思う。

パビリオン内の展示に関して言えば、天上から下がっているビニールシートは何とも不器用なものであるが、スイスという国が、軍隊の廃棄物というか、古くなったものをこういう形で再利用するという精神は大いに見習うべきことだと思う。

我々の場合、軍隊(自衛隊)の古くなったものは形の残らないように廃棄処分しなければならないと思い込んでいる。

民間に横流ししてはならないことになっている。

予算を完全消化するということは、姿かたちが残らないようにすることだと思い込んでいる節がある。

使えるものでも徹底的に使えないようにしないことには、予算を消化したことにはならないと思い込んでいるので、古いものを再利用するという発想が全くでてこない。

この展示場を一渡り見て、2階に上がると、トンネルを抜けて山頂に出た、という雰囲気に出来ていたが、そこからはイミテーションの山々が見渡せるという具合になっていた。

しかし、昔からこのスイスという国は不思議な国である。

2度にわたる世界大戦にも巻き込まれることもなくきたということは、その影で国民の努力は相当なものではなかったかと思う。

我々、戦後の平和主義者というのは、自分の方さえ戦争を仕掛けなければ平和は保たれると思い込んでいるので、スイスの国民皆兵という実態を理解することができないと思う。

地球上広しといえども、スイスのように国民の全部に兵役が義務つけられた国というのは他にありえない。

徴兵制というのは多々あるが、国民皆兵というのはスイスぐらいしかないと思う。

そういう努力のうえに、2度の大戦でも戦渦に巻き込まれることなく過ごしてこれたわけで、平和、平和と念仏を唱えるだけで、永世中立という実績を確立することはなしえないのである。

ルーマニア館

此処を出てから対面のルーマニア館に入った。

此処もパネルの展示が主であったが、正面のステージでは丁度演奏が始まろうとしていたので、しばらくそれを見ることにした。

2本のバイオリオンとチェロを持った人が、現地の男性の衣装で登場して演奏を開始した。

3人による室内楽という雰囲気のものであったが、なんとなくそれを聞いているとアメリカのマウンテン・ミュージックに似ているなあと思いつつ耳を傾けていた。

最初の曲が終わり次の曲になったら、もう一人背の高い男性が現れて、これが曲にあわせて踊りだした。

その踊りがまさしくタップ・ダンスで、足でタップを踏みながら、両手で自分の大腿部を叩いたり、長靴のすねを叩いたりして、それが妙に調和していて実に面白い踊りであった。

彼ら現地の人々は、長い歴史から来る経験で長靴、皮の長靴を履いていたが、足を跳ね上げたさいに、その長靴のすねの部分を手のひらで叩いて調子をとりながら妙な踊りを展開していた。

タップ・ダンスというのは決してしゃがんだり腰をかがめたりする動作はないようで、姿勢は常に立ち姿であって、足を跳ね上げたときにタイミングよく自分の大腿部や長靴のすねというか長靴の胴の部分を叩いてリズムをとっていた。

3曲目になると女性も登場して、普通の踊りを披露していたが、ここでもお互いに離れたときには男性は同じ様なことをしていた。

アイルランド

次に訪れたパビリオンはアイルランドのパビリオンであったが、此処ではしばらく待たされた後で、やはり音楽の演奏と踊りが披露された。

この館に入ったら中央にベニヤ板3枚をテープでつないだものが敷いてあったので、最初は何だか皆目検討もつかなかったが、踊りが始まってみれば一目瞭然と理解できた。

ここでは30分程待たされたが、その間には涼しく薄暗い会場内で居眠りをして、英気を保存できた。

で、時間になると、それぞれに楽器を持って演奏者が登場してきた。

ハープは女性、バイオリンはそれぞれ持ち替えていたが、フルートが一人、アコーデオンが二人、最初、曲が始まるとこれもなんとなくアメリカのマウンテン・ミュージックに似ているなあと思いつつ聞いてたが、2曲目になると女性のダンサーが登場して踊りだした。

途端に、下に敷いてある3枚のベニヤ板の存在を理解することが出来た。

アイルランドはアイリッシュ・ダンスの本場であることを思いだした。

二人の踊り子はアイリッシュ・ダンスの名手なのであろう、下に敷いたベニヤ板はそのダンスの音響効果を高らしめる小道具であった。

実に小気味よくその音が響き渡る。

アイリッシュ・ダンスというのは完璧なタップ・ダンスで、恐らくフレッド・アステアもマイケル・ジャクソンもこの二人の踊り子には勝てないのではないかと思う。

前に見たルーマニアのダンスもある意味ではタップ・ダンスであるが、それとはまた一味違うアイルランド独特のものを持っている。

実に素晴らしい実演であった。

アイルランド民謡というのは日本の唱歌にも取り入れられていると思ったがこの時は私たちの知っている曲はなかった。

つま先と、かがとと、底の部分を上手に使い分けて、それに強弱を加味することで、えもいえぬリズムを導き出すテクニックというのはまさしく神業に近い。

以前テレビで、このアイリッシュ・ダンスの特訓をしている光景を見たことがあるが、確かにこのダンスはワザを競い合うには最適なものであろう。

レベルがそうとうの幅広い間隔で広がっているのではなかろうか。

その上この楽団の使っている楽器は、それぞれに伝統的なもので、アコーデオンでもアイルランド独特のものかどうか知らないが普通のものとは異質なものであったし、フルートなども普通は金管楽器であるが、この場合は木製のような感じがした。

ハープシコートは極見慣れたものであったが、これもあの音色には耳をそばだてずにはおれない。

2、3曲終わった後で、アコーデオン奏者の男性が踊りだしたが、これまた実に見事で、最後は3人で肩を組んで踊っていたが、実に見事に息が合っており、わざわざ外国の万博にまで来てその技を披露する値打ちがあるというものだ。

館内は割れんばかりの拍手で、何度も何度もアンコールの拍手が鳴り止まず、彼らも引っ込みが付かず、そのたびに演奏と実演を繰り返していた。

アイルランドにはこのような素晴らしい芸術があるにも関わらず、私のイメージとしては、血なまぐさいテロが先に来てしまう。

例のIRAのテロである。もうかなり下火になったというか、アイルランドとイングランドの間で何らかの話し合いがついたのかどうか知らないが最近はテロという話もないようだ。

ウクライナ館

此処で音楽に酔って次に入ったところがウクライナ館であったが、ここでも音楽の実演に遭遇して、しばし歩みを止めて聞き入ってしまった。

前のアイルランドの興奮が冷めやらぬままできたので、少々見劣りするが、ここでもそれなりのものではあった。

ウクライナといえばコザックの音楽を連想する。

コザックの音楽といえば、「五つの銅貨」という映画で、ダニー・ケイ扮するレッド・ニコルスが、放送局のアルバイトでコザックの真似をして演出をめちゃめちゃにするという場面が思い出される。

そういう先入観で見るせいか、何となく親しみが湧くと同時に、昔の歌声喫茶を思い出させる。

昔、我々の若かりし頃、巷には歌声喫茶というものがあり、そこではガリ版で刷った小さな歌集を渡され、その中にはロシア民謡というものが数多く含まれていたことを思い出す。

こういう音楽の実演に遭遇すると、それに聞きほれてしまって、他の展示がどうなっていたのかトンと記憶にない。

記憶に残らないということは、それだけインパクトに欠けているのかもしれないが、ある意味では勿体ない話だ。

しかし、此処を出た時点でもう既に3時を回っていたので遅ればせながら腹が減り、腹ごしらえすることにした。

近くで一番手っ取り早そうなレストランに入って腹ごしらえをしたが、その時飲んだビールが五臓六腑に沁みわたる感じがして、体の中に吸収されていった。

しかし、すぐに汗となってまた体外に出てくるに違いないが、それでこそ健康というものではなかろうか。

ロシア館

腹越しらえをした後はロシア館に入ったが、此処の目玉も例によってマンモスである。

通常、人間でも動物でも骨といえば白いのが相場であろうが、この化石化したマンモスの骨は黒っぽい茶色という感じがした。

大きさもそう驚くほど大きいというものでもなかった。

しかし、骨そのものは完全に化石化しており、骨というよりも石という感じがした。

その傍らには小象のマンモスがあったが、こちらは毛がふさふさしており、今の象とはやはりそうとうに異質なもののように見受けられた。

このロシア館、他にはほとんど見るべきものはなく、模型で展示してあるところがしみったれている。

宇宙技術に関しても、その総てが模型であるが、その中で宇宙往還機の模型にアントノフ225という飛行機の模型があった。

ロシアの飛行機というのは私には非常に興味ある。

アントノフを始め、ミグにしろ、ツポレフにしろ、スホーイにしろ、これらの呼称は全部設計者の個人の名前というところが実に不可解である。

個人の業績を称えて、その設計者の名前を冠するというのは判らないでもないが、これらの設計者というのが、それぞれに囚人としての扱いのまま設計をさせられていたというのが通説のようである。

そのあたりの事情というのが実に不可解千万だと思う。

現代の飛行機の設計などというものは、個人のひらめきに頼る部分というのはありえないわけで、組織として有効に仕事をしないことには効果的な設計というのはありえないと思う。

だから、一つの設計チームの組織の創始者という意味での呼称ならば理解できるが、それにしても、そういう人が囚人としての立場で仕事をしていたということは一体どういうことなのであろう。

勿論、旧体制、旧ソビエット連邦の時代の話であるが、旧体制の中では、最先端の科学者や技術者をも国家として彼らを信用することができず、オリの中で国家に奉仕すべく、監視下においていたということなのであろうか。

旧体制のソビエット連邦の技術水準というのは、アメリカとほとんど互角の勝負であったわけで、宇宙工学の分野では一歩リードしていたともいえるが、こういう国家がどうして民生品には力を注ぐことをしなかったのであろう。

今日、見てまわった大部分の国々は、大なり小なり旧のソビエット連邦の影響下にあった国々で、そういう国々が何故にソビエットの旧体制から逃れようと必死になっていたのであろう。

ソビエット共産党に無理やり併合させられた諸国が、元にもどりたいという願望は致し方ないにしても、その旧体制の中の中心的存在であったロシアというのは、あの体制の中で一体何を追い求めていたのであろう。

為政者の思惑と一般国民の思惑が完全に乖離してしまって、軍事技術だけは突出していたが、民生品は置き去りにされてしまったわけで、このアンバランスは一体なんであったのであろう。

宇宙開発や原子力潜水艦には惜しげもなく金を注ぎ込んで見たが、今それはどういう状況に陥っているのであろう。

原子力潜水艦の解体に、日本の援助が欲しいなどと、どの面さげて言えるのだといいたいところである。

ロシア、かってのソビエット連邦というのは、中国と合わせてアジア大陸を二分している。

この広大な大陸の中には、まだ開発のされていない資源が沢山あるに違いない。

だからそういうものを開発する手段として、あらゆる技術を集合させて、眠れる資源を探し出そうとアイデアを寄せ集めているようで、それの模型が所狭しと並べられていたが、それはそれで結構なことであるが、我々は上手い話に騙されないように心しなければならないと思う。

我々は国際社会を生き抜くためには国際信義を重んじ、一旦交わした約束は堅く守らなければならないと思い込んでいるが、こういう倫理が通用しない国もある、ということを知らねばならない。

約束を交わすと同時に、その約束が破られることも合わせて考えておかなければならない。

ロシアは広大な土地から、資源開発の兆候を探り当てようと様々な企画を考え、それらを模型を使って展示しているが、それは総て日本から金を引き出そうという魂胆が内に隠されているとものと考える。

ロシアから日本を見れば、相変わらず日本は猿の国と同じ程度のものでしかないと思う。

そのことは、ロシアからヨーロッパを見る時は、人として同じ価値観にたって話し合えるが、日本の場合は、普通に話し合える相手ではないと考えていると思う。

いくら日本が経済大国だとしても、ロシアから見れば、対等の立場で見る国ではないと考えていると思う。

戦後60年間のソビエット連邦の行動を見ておれば、日本にアメリカ軍が駐留しているから現状維持でこれたが、アメリカさえいなければ、バルト3国かルーマニア、はたまたポーランド並みの扱いであったに違いない。

為政者の思惑と一般の国民の思惑がこれほどかけ離れた国もないわけで、一般国民は如何にお人よしであろうとも、一旦国家の行為・行動ともなれば、通常の倫理などどこかに消し飛んでしまうのが旧ソビエット連邦、今のロシアという国だと思う。

このロシア館の展示品は、そういう方向を向いたものが多いと思うが、その中でも憎めないのがマトリュウシキアと称する人形である。

人形の中にまた同じ人形が入っていて、それが50ピースものものは1mぐらいの高さであったが、これは流石に値段も最高で、88万円という値札がついていた。

中に入る個数で値段もまちまちであろうが、これはなかなか可愛らしく、愛嬌のあるものである。

このロシア館の入り口には、プーチン大統領の写真が麗々しく飾られていたが、こういうところにロシア人の個人崇拝というか、旧体制の名残というか、そういうものが現れていると思った。

今まで見てきた中で、国家首脳の顔写真を掲げているところは此処だけでしかなかったが、この感覚こそ、ロシア人の潜在意識ではなかろうか。

リトアニア館

此処を見終わってリトアニアのパビリオンに移ったら、ここは入るや否やおかしなモニュメントがあって、ねじれたテープの巨大なものに映像が映る仕掛けになっていたが、内容的にはよく理解できなかった。

ここでも音楽の演奏があって、ステージが見当たらないと思ったら屋外でし始めた。

バイオリンとアコーデオンと、チェロとパーカッションで始まったが、途中で観客を引き込んで、フォーク・ダンスのようなものまでし始めた。

音楽には確かに国境はない。

誰でも何処でも同化することが可能であるが、それは同時に世界的な普遍性があるようで、そういうものが全部アメリカに渡って、アメリカに根ついているような気がしてならない。

日本でアメリカのマウンテン・ミュージックというのは、それほど馴染みのあるものではないが、今日この日に聴いた総ての音楽が皆それにつながっているような気さえした。

それも無理もない話で、アメリカという国は、この地方からの移民で成り立っているわけで、そういう人々が西部へ西部へと流れていく間に、それがマウンテン・ミュージックとなって、あちらで根付いたものとかってに推察している。

アイルランド系などという人々は、特に堅実で、そういう人々は故郷の伝統を失わないように、あちらに行っても歌い続けてきたのではないかと想像する。

リトアニアの人々も、ソビエットに無理やり吸収されるかどうかの時には、大勢の人がアメリカに渡ったのではなかろうか。

その時に活躍したのが杉原千畝であったのではなかろうか。

リトアニアといえば、我々にとっては杉原千畝が真っ先に頭に思い浮かぶが、これも私一人ぐらいであろうか。

彼は第2次世界大戦に際して、ユダヤ人の命を救ったということで有名で、彼の生家が岐阜県、八百津に在るということだがまだ行ったことはない。

その後、イギリス館、オーストリア館、チェコ館と回ったが、あまり印象に残っていない。

イギリス館は、先ほどロンドンでテロがあったばかりなので特別の警戒でもしていて厳しいかと思ったが左程のこともなかった。

此処は目下ガーデニングが盛んな時節柄、屋外の庭園に力が注がれている感じがした。

内部の展示は何も印象に残っていない。

チェコ館も今振り返ってみても何を見たかさっぱり思い出せない。

オーストリア館

オーストリア館では木がふんだんに使われていたので、環境、環境と言いながら材木を無駄に使っているような気がしてならなかった。

館内には、木で出来たスロープが作られており、そのスロープでは木で出来た橇に乗って、橇遊びが体験できるようになっていたが、その木の使い方にはおどろかざるを得ない。

そして、様々なもので楽器がこしらえてあって、それを一つ一つ体験できるようになっていたが、大きな木の板が天上から吊り下げてあって、その木の中ほどが程よく刳

り貫いてあり、それによって音が変わるというものもあった。

もっと面白いのは、スレートを両端に張ったワイヤーの上に乗せて、それを叩くと様々な音が聞けるというものがあって、そのほかにも色々な楽器に触ることができた。

中でも木で出来た大きなスピーカーは驚かされた。

オーデオ・フアンの喜びそうなツイターのお化けのようなものであった。

此処を出て、もうそろそろ帰ろうかと思ってぶらぶらしていたら、グローバルコモン4の入り口近くの広場で、ストリート・パフォーマンスを演じていたので少し立ち見をした。

フランスのシルコ・センスという男女二人組のパフォーマー達であったが、男性がアコーデオンを弾いて、女性は実にしなやかな身のこなしでパフォーマンスを演じていた。

男女とも真っ黒のタイツというか身体にぴったりとフィットした衣装で演じていたが、しょせんはサーカスの域を出るものではないので、程ほどのところで切り上げてきた。

この日はグローバルコモン4を回るだけで一日暮れてしまった。

見落としたところがあるかも知れないが、見ても一向に印象に残っていないところもあるわけで、そういうところはインパクトに欠けていたのであろう。

と同時に、私の記憶力もかなりいい加減で、見ても奇麗さっぱり忘れてしまっているのもある。

本日の展示に関して言えば、やはりロシア館であろう。

国家として力があるだけに、未来志向が強く、未来に対する挑戦の気持ちが一番前向きに出ていたし、その国土にはそれを許容するキャパシテイが十分あると思う。

他の国々は国家してあまりにも小さすぎて、単独では何事もしえないのではないかとさえ思う。

それは中の人々にとって必ずしも住みつらいという意味ではなく、成熟しているが故に、住むのには最適かもしれない。

万国博覧会という以上、此処に来て未知との遭遇こそ価値あるものと思うが、本日は色々な音楽に出会えたことは来た甲斐があるというものだ。

帰りは先回と同じ様に、リニモで愛環鉄道・八草駅に出て、高蔵寺に出、中央線で春日井駅で降りて帰ってきた。

丁度、都合が良くて、八草駅では名古屋駅まで行くエキスポ・ライナーに待たずに乗れたので、非常にラッキーであった。

 

Minesanの大きい旅小さい旅に戻る