050620   老人党への投稿

老人党への投稿

 

精神科医 なだ いなだ氏が老人党というHPを立ち上げているので、それに靖国神社に関連して投降したものを再録してみました。

なだ いなだ氏がもともと左傾した人なので、そこに集まってきている人もそういう傾向の強い人達ということはある程度想像していた。

蓋を明けてみるとやはり想像していたとおりで、頭から思考のベクトルが逆向きの人もいたが、そうでなく真面目に答えてくれた人もいた。

 

投稿「靖国神社」

 

6月3日の朝日新聞の靖国神社の記事を見つつ、ふと思ったのだけれど、ここには約260万柱の遺骨が奉られているとされている。
私は昭和15年生まれで、戦争体験はほとんど無い世代ですが、大人たちの話や書かれたものを読むと、戦争でなくなった人々は、死ねばこの靖国神社に奉られることを願いつつ、それを信じつつ、「靖国神社で会おう」と言って逝った人も多いと思う。
又、そうして逝った人々の言葉として、「この恨みをきっと晴らしてくれ」と、後世に託して逝った人も大勢いると思う。

こういう言葉を60年後の今、我々はどう受け止めたらいいのであろう。
260万柱の尊い御霊は、21世紀の日本で、この靖国神社がこれほど同胞から蔑ろにされ、外国から干渉され、一国の首相が自由に参詣も出来ない有様を見てどう思うのであろう。
中曽根元総理を始め、多くの総理大臣経験者が現職の総理大臣に、「中国の言うことを聞いて、靖国神社参詣を止めよ!」といっている状況をどう思うのであろう。
戦後60年間、我々は戦争というものを経験していないので、戦争というものが何かのイベントのようなつもり、例えばオリンピックとか万博のようなイベントのような見方をして、安易に戦争反対と唱えているが、そんなことは赤ん坊でもわかっていることである。
ところが、戦争というのは相手があって、政治・外交の延長線上にあるわけで、いくらこちらが回避しようとしても相手にその気がなければしたくなくてもせざるを得ない。
今生きている人たちは、豊穣の世の中にのうのうと生きているわけで、この260万柱の御霊に対して、「これらの御霊は国難に殉じた人たちだ」という見方をする人と、「為政者によって死に追いやられた可哀相な人たちだ」という見方があると思う。
それはそのまま政治に対する見方に現れるわけで、「日本人として毅然たる態度をとるべきだ」という側と、「日本の為政者は信用ならないから中国の言うことを信じよう」、という二つの相反する考え方に集約できると思う。
そしてA級戦犯が合祀されているからいけない、という論議が姦しいが、我々日本人がA級戦犯などと言うべきではないと思う。
この言葉は、戦争に勝った側が使う分には致し方ないが、我々の側から犯罪者と言う必要はさらさらない。
政策の失敗、政治の失敗、外交の失敗、作戦の失敗という言い方ならば許されるが、犯罪者という言い方は成り立たないと思う。
適対していた相手から見れば、彼らの同胞を沢山殺した者は犯罪者といわれても仕方がないが、A級戦犯と言われている人たちが、開戦の前にはどれだけ戦争を回避しようと努力していたか少し資料を読めば一目瞭然とわかることではないか。
結果が敗戦だったから、勝った側の言い分を丸呑みして、開戦当時の為政者を犯罪者と言ってはあまりにも可哀相だと思うし、同胞を見捨てる行為だし、水に落ちた犬を叩く行為だと思う。

 

投稿 2

 

私の問題提起に対してコメントを戴き非常に嬉しく思いますが、お二方(?)が管理人様より警告を発せられ、削除された方もいるようで申し訳ありません。
この老人党の掲示板に投稿されている方々は非常に真面目で、純真な方々だと推察いたします。
ところが、この真面目だとか、純真ということは人の織り成す世間を渡るには逆に障害になることも多々あるように思えてなりません。
何も悪いことをするように奨励するつもりはありませんが、例えば管理人さんの出す警告というのも、あまりにも真面目すぎて、狭量に過ぎるように見えてなりません。
戦前には治安維持法というのがあったことはここに投稿されている方々は皆ご存知だと思いますが、これは左右に関わらず、過激な思想を取り締まるのが目的であって、必ずしも共産主義を目標としていたわけではない。
ところが結果的にはそういう目的で使われて、その結果、犠牲者がたくさん出たことはいうまでもありませんが、この法案の成立からそれを実施する段階で、あまりにも純粋に、真面目に国のことを考えていたからこういう結果を招いたのではないかと思います。
立場は違っても国のことを思う真面目さ、純真さというのは非常に高潔で、かつ熱意がこもっていたが、ベクトルが反対向いていただけだと私は考えます。
双方でベクトルの反対向いたものの数が多くなると、どうしても枠からはみ出すものが現れるわけで、反体制の側で枠からはみ出るものが多くなると、取り締まる側にも過剰な行為に走るものが現れるのが現実ではないかと思う。

それも我々、同胞の真面目さがそうさせると思います。
取り締まる側が真面目であればあるほど犠牲者が増えるということだと思います。
取り締まる側は権力をバックにしているので、自分は正しいことをしているのだという思い込みにより、過剰な行為になかなか気が付かず、一生懸命、非人間的行為に精を出すという結果になる。
この掲示板の管理人さんのなさっていることもそれに似ていませんか。
日本軍がアジアに出向いたときも、現地でこういう逸脱した行為が全く無かったとは言い切れないと思います。
日本軍は世界でも最も軍律の厳しい軍隊とされていたが、それでも現地の状況によっては指令官の判断に委ねなければならない状況が多々あったわけで、司令官の資質次第で、相手の持つ感情が大きく左右されることは大いに考えられると思います。
ただ同じことをしても、相手も生きた人間である以上、その評価が相反するものとなることも致し方ない。
戦後60年経って、「日本のお陰で独立できた」とする評価と、「日本軍は暴虐の限りをつくした」という評価に別れることは致し方ないが、今、我々に問われていることは、事実を事実としてはっきりさせることだと思います。
今の我々にとって負の評価を何も検証しないまま受け入れることは、普通の人間ならば自尊心がゆるさないと思う。

中国との関係からすれば、この負の評価はただの認識ではなく、外交カードとしてその評価が使われているわけで、外交カードとしてそれが使われているとすれば、国益が絡んでいることになり、そう安易に相手の言い分を丸呑みするわけにはいかない、というのが極々普通の人間の感覚だろうと思う。
ただし、こちらがいくら歴史的検証をしても相手がそれを受け入れなければ、そのカードが消滅することはありえない。

 

投稿 3

 

靖国神社に関連して多くのスレットが立ち上がっていますが、私は個人的に惣佐衛門さんの歴史認識が妥当な線かと思います。
この場で、口角泡を飛ばして議論なさっている方々は総じて真面目な方々だと思いますが、歴史というものを、善悪、正邪、良し悪しという価値観で見ると見誤るのではないかと思います。
昭和の初期に日本が大陸に進出したことは否定のし様もない事実であろうが、そうせざるを得ない事情が我が方にもあり、先方にもそういう現実を引き込む状況があったものと考えます。
我が方の事情というのは、いわゆる貧乏からの脱出であり、彼の地の事情というのは中国内の政情不安、中国共産党と国民党の確執に代表さように、どれが正式の政府かどうかも定まっていない沌著した状況があったわけで、こういう状況を見るにつけ、これを何とかしなければならない、という思いが我が方の軍隊の一部にあったものと推察します。
彼の地のことは彼の地の人々に解決させればいいという発想はあまりにも理想主義的なもので、便宜的な思考だと思います。

現実にそれが出来ていなかったから我々がしゃしゃり出たわけだ。
しかし、そういう一連の動きの中で、日本の政府、つまり統治する側は常に戦線不拡大の方針であったが、軍部というのが政府の意向を無視してのめり込んでいったことは皆様ご承知のことと思います。
軍部の行動を抑えきれなかったということ、つまりシビリアン・コントロールの不備・未整備・認識不足ということは、明治憲法にその元凶が潜んでいたわけで、憲法の欠陥ともなると、これを善悪、正邪、良し悪しで規定できないと思います。
日本の軍隊、特に軍隊の高級官僚というのは陸軍士官学校、あるいは海軍兵学校という特殊な教育機関で、特殊な教育を受けた方々がなっていたわけで、ここに入学することは極めて平等に民主的な手法で入学でき、在学中も極めて民主的な教育が施されたと聞いている。
問題は、その民主的な教育を受けた方々の出生・出自がどうであったかということである。
四民平等で、階級制度が否定されて、身分の卑しさは否定されてが、心根の卑しい者を選別することはできないわけで、そういう者達が立身出世の近道としてこういう選択肢を採ったとしても、それを排除することは出来ない。
もともと心根が卑しいので、中で素晴らしい教育を受けたとしてもそれが実を結ばず、そういう人たちが立身出世をして高位高官に就くと、軍部の、軍部による、軍部のための政治ということになってしまったものと考えます。
それがいわゆる貧乏からの脱出いうことになったものと考えます。
こういう特殊な学校は官費で運営され、貧乏人が立身出世の手段とするには、もっとも手っ取り早く有効な選択肢であった。
人間はいくら立派な教育を受けても、もともと心根の卑しい人には、ノブレス・オブリッジは育たない。
これは昭和初期の軍人ばかりではなく、今日においても脈々と生きているわけで、大企業のトップの犯罪や高級官僚の醜態に表れているではないか

 

 

 

投稿 4

 

私のスレットに対して大勢の方々から批判があり、様々な示唆を受けましたことを感謝いたします。

尚、私の用いました文言、「軍人の出自」とか「心の卑しさ」という文言に対して、「国難に殉じた人を冒涜するものだ」という指摘に対しては、心から申し訳なく思い、お詫び申しあげ、深く反省しております。

私は靖国神社に祭られている英霊達を冒涜する気は毛頭ありません。

「靖国神社で会おう!」といって散華していった若人達に共感を覚えることはあっても、貶める気はさらさらありません。

こういう言葉を残して散っていた若人達の遺書を読むとき、涙なしでは読めません。

しかし、一方で、昭和の初期の陸軍内部の皇道派と統制派の確執。

敗色濃くなった時の関東軍の高級官僚が、開拓農民や民間人を置き去りにして遁走したこと、これなど作戦といえば誰一人反駁できないのではなかろうか。

沖縄戦で、「子供の泣き声で敵に見付かるから」といった将兵の存在。

サハリンでは12名(?)の電話交換手に青酸カリを渡して先に引き上げた軍人。

戦い済んで、日が暮れて、巣鴨プリズンに収容されて、米軍の監視兵の面前で殴り合い演ずる元将軍たち。

こういう同胞をどう理解したらいのでしょう。

 

投稿4は此処までで、以下は未投稿である。

 

こういう感覚のままで、朝鮮の人々や中国の人々に接していたとなれば、今日先方から糾弾されても致し方ないような気がします。

一枚の紙幣にも裏表があるように、物事にはあらゆる見方、視点、立場の違いがあるのが当然で、「これが唯一正しい」という保証は、自然科学では兎も角、人文科学では言い切れないものと考えます。

我々はともすると「黒白はっきりさせよ」ということを言いがちであるが、グレーのゾーンというのもあるに違いないと思います。

しかし、事実というのは一つしかない筈ですが、事の成り行きを1から10まで明確に再現するとは多分不可能だと思うので、真実の事実というのは極めて確定しにくいものと考えます。

それで歴史というのは、状況証拠のみを組み立てて、「多分、事実はこうではなかろうか!」というものではないかと考えます。

だがこれにも真実の事実とは言い切れないわけで、仮に真実の事実だったとしても、それを解釈するのは、その人の勝手であって、一枚の紙幣を裏から見るか表から見るかの違いだろうと思います。

だから歴史的な事件の解釈を確定的に他に押し付けることは出来ないと思います。

しかし、国際間に渡る事件を解釈する際には、それぞれの国益に沿った線で解釈されるわけで、その意味で歴史認識を当事国同士で一致させるということはありえないと思います。

21世紀の地球上のあらゆる主権国家は極めて複雑な相互関係の中で成り立っているので、これを単純化して原始社会に置き換えてみたとき、Aの集落とBの集落があって、天候の関係でAの集落の食べ物が欠乏しだしたとき、Aの集落が徐々にBの集落のテリトリーに擦り寄ったとすると、皆様方はこれを「侵略」といわれるが、私の認識ではこれを「歴史の必然」というふうに考えたいと思います。

「侵略」という言葉を使うと、「侵略は悪いこと」という概念が頭から抜けないので、「してはならない」という精神的な抑止力が働いてしまうが、ならば食糧不足に陥ったAの集落は座して死を待てということになってしまう。

食糧不足でAの人々がBのテリトリーに入りかけたとき、Bの人々がそれを追い返すか、それともされるままになっているかはBの選択なわけで、これを正邪、善悪、良し悪しという価値基準では計りきれないと思います。

このときAの代表とBの代表が話し合いをして、食糧を融通しあえれば万事めでたしめでたしであろうが、お互いに利害得失があればそう上手い具合には事が運ばないのが常だと思います。

話し合いが延々と続いていればAの食糧はますます切迫してくるし、Bの不安はますます高じてくるものと考えます。

それを早急に解決しようとすれば必然的に実力行使、武力行使ということになってしまうわけだが、今の日本はそれを禁じられているわけで、国益の擁護ということは何一つ出来ていない。

しかし、国益など少々犯されても直接死に瀕しているわけではないので、放って置けばいいというのが今の日本の大部分の意見だと思う。

21世紀の地球上に住む人々は、191もの主権国家、つまり191個の区画で分けられた中で生きているようなものと考えなければならないと思います。

その区画を全部採り払ってしまえば、皆仲良く、戦争などせずに済むのではないかという発想も当然出てくると思います。

しかし、いくら区画を取り払ったところで、人々は地域に根付いて、地域を主体として、地域から離れることなく、自分の生まれ育ったところを意識して、生きていくと思います。

そして、宇宙船地球号の乗り組員の一人として、それぞれの任務と責任を果たさなければならない状況に陥ったとしても、その責務と責任の比重に対する不平不満というものが新たに出てくると思います。

するとこの理想も元の木阿弥に戻ってしまう。

結局、人間はいがみ合ってでなければ生きていけないということになってしまうものと考えます。

こういう状況下になってみると、ここではじめて真の人間の真価というものが問われるものと考えます。

 

玉砕の意味

 

1940年7月、リトアニア領事館代理であった杉原千畝は本国の訓令を無視して、ユダヤ人にビザを発行し続け、数千人の命を救ったとされているが、その時点では処罰を受けたが戦後名誉回復された。

人の生き様として、これこそ価値ある行為というものではなかろうか。

これこそ真の人間愛であり、博愛というものではなかろうか。

あの戦争中を通じて、このような人間が他にありえたであろうか。

1945年、沖縄戦でも米軍が上陸した時点で、我が方に勝ち目、勝利の目処がないことは十分認識されていたと思う。

にもかかわらず、自殺行為に等しい戦闘を繰り返したことの意義を我々は真摯に考えなければならないと思う。

我々は、兵站が十分でもないにもかかわらず、「よく闘った!」という評価をしがちであるが、この認識の根底には戦陣訓の「生きて俘囚の辱めを受けず」を忠実に守ったという意味で賞賛されているが、それは人間の命の軽重を無視した発想だと思う。

米軍は墜落したパイロットを懸命に救助したようだが、これは人命尊重と同時に、高度な教育訓練を受けた人間を再度戦線に復帰させようという思惑もあったわけで、人命尊重と合理主義が合体した思考だと思う。

我々の場合は、人命をも消耗品と考えていた節があるのではなかろうか。

本当に同胞のことを思うのならば、誇り高い死を選択するよりも、戦陣訓を無視してでも、上官の命令に背いてでも、民間人に対しては生き延びる選択をさせるべきではなかったかなかと思う。

これはその場にいた個々の人間に問うよりも、司令官としての立場のものに対していうべきことではあるが、司令官が「責任は俺が取るから民間人や女子供は白旗をもってこの場を去れ、投降せよ」と命令したとすれば、無意味な死というのは避けられたのではなかろうか。

杉原千畝のした行為とは状況が多少違っているが、突き詰めればこれと同じことではなかろうか。

誇り高い死を選択するということは、我々、大和民族の最も共感を伴う思考で、そういう行為を称えることが美徳とされているが、裏を返せば人命軽視の最たるもので、それにも増して民間人まで巻き込んで、無意味な死に追いやったということは大いに考えなければならないことだと思う。

先の戦争では至るところで、こういう誇り高い死を選択せざるを得ない状況があったわけで、戦艦大和が単独で沖縄戦に出撃していったのも、突き詰めると、こういう誇り高い死に場所を求めての出撃ということがいえる。

人間が究極の絶望の淵に追い込まれたとき、何がなんでも生き延びる、という選択をするよりも、自ら死を選択するほうが楽だと思う。

死んでしまえば後は何も残らないが、生きるということはあらゆる試練を一人で背負い込まなければならないわけで、それは死ぬよりもつらいことだと思う。

現在、平成17年の時点で、日本中で自殺する人が3万人もいるということは、生きて試練に立ち向かうよりも、死んで楽をしたいという心の表れではないかと思う。

そういう試練を乗り越えてでも、尚生きようという思う心は、非常に挑戦的な生き様だと思う。

グアム島で発見された横井庄一氏や、ルパング島で発見された小野田寛朗氏などの生き様にもそれが如実に現れていると思う。

それで戦後60年もたった時点で、あの戦争を省みるとき、我々は何故あれほど名誉ある死を選択したのか、ということを深く深く考察しなければならないと思う。

学徒出陣で出征して行った若人の言葉に、「我々はいやしくもインテリであるから、この戦争の先行きは想像できる、しかし、それでも尚逝くということは、民族の誇りのためだ、この誇りは後世に残される人々のためだ」という言葉があった。

まさしく当時の大学生であったインテリでさえも誇り高き死の選択を自らしているわけであるが、あの戦争中に日本全国の人々がこう考えていたことを今どう考えたらいいのであろう。

これがいわゆる軍国主義というものであろうか。

軍国主義の結果というものであろうか。

軍国主義の結果として人命軽視が横行して、国家のために死を選択することが美徳として認識されてしまったということであろうか。

国家の危急に際して、その国の国民の一人として、自らの死を省みず奉仕するということは、ふつうの主権国家ならば名誉なることに変わりはない。

如何なる主権国家でもそれは称えられるべき行為である。

平成17年の6月の時点で、北朝鮮に亡命したジェンキンス氏がアメリカのふるさとに帰って母親に面会したことが報じられているが、アメリカの市民、ジェンキンス氏のふるさとの人々は彼に悪態をついていた。

彼は祖国を裏切ったという意味で、彼の同胞、つまりアメリカ人は彼を快く思っていないということであるが、これは極々当然なことである。

自分の祖国に国難が振りかかったとき、それに対して国民が一致協力して事にあたる、身を挺して祖国に奉仕する、自らの命を賭してでも任務を遂行するということは、如何なる国においても美徳であり、褒め称えられるべきことに変わりはない。

しかし、冷静に考えれば、「身を挺して」とか「命を賭してでも」という言葉の中には、相手に何一つダメージを与えることのない自殺行為というのは含まれていないと思う。

自殺行為に等しいようなことを敢えてする、ということはその言葉の範疇には入っていないのではないかと思う。

戦争・如何なる戦いにおいても、如何なる作戦においても、勝つことが前提になっているわけで、目の前にそれが100%の確立で叶わないという現実があれば、無意味な死の選択というのはあってはならないと思う。

いくら名誉だとか誇りだとか言っても、それは死への逃避の言い訳に過ぎないのではなかろうか。

あの戦争中を通じて、日本人の玉砕というのは、官民を問わず太平洋上の島々の至る所にあったわけで、その背景には戦陣訓があって、「生きて俘囚の辱めを受けず」というのが、人々の精神面に大きくのしかかっていたといわれているが、これがあったがため、玉砕というのが至るところで現出し、沖縄戦の惨状があったものと考える。

しかし、軍の司令官たるものが軍事の専門家であるとするならば、民間人までをも玉砕させることの不合理を理解していなかったのだろうか。

民間人には、白旗を持たせて戦場から離脱させることを思いつかなかったのであろうか。

又、民間人の方は民間人として、軍の行動の巻き添えを食うことはかなわない、という発想は起きなかったのだろうか。

この狂気は一体なんであったのだろう。

一言で言ってしまえば、完全に理性というものが喪失してしまった状態であったと言わなければならない。

 

昭和の初期という時代

 

明治維新以降の日本の近代化の中で、日清、日露の戦争で我々が勝ってしまったので、国家が戦争するという意味を全く理解しきれないまま昭和の戦争に踏み込んでしまったものと考える。

日清、日露の戦争でも、我々は非常に綱渡り的に危うい状況下で戦争を始めたが、結果としてそれが勝利だったので、国家存亡の淵にいたことを忘れてしまい、一つ間違えれば奈落の底の落ちてしまいそうな危機のあったことを忘れてしまったものと思う。

世界中の人が日本の敗北を予想していたにもかかわらず、この思いもかけなかった勝利に酔ってしまって、驕り高ぶって始めたのが日中戦争であったが、これが思わしく進展しないうちにアメリカと開戦してみると、最初こそ華々しい戦果が得られたが、後は尻すぼみ的に押し捲られてしまったわけである。

アメリカとの物量の差はなんとも致し方なく、それを補うために精神主義に陥って、「成せば成る」式の非科学的な手法に頼らざるを得ない状況に陥ってしまったものと考える。

こういう兆候が現れたとき、昭和の初期の段階で、日本の、その当時の文化人、科学者、教養人、オピニオン・リーダーと言われる人々が、何故、国家が軍国主義に傾くのを阻止できなかったのであろう。

昭和の初期の段階では軍人によるクーデターまがいの反乱が頻発して、政府の要人が安易に暗殺される状態が続いたが、軍部はこれに対して毅然たる態度で臨まなかった。

反乱を起こした軍人達の言い分は、当時の国民の不平不満を十分に反映し、国民は反乱兵士達に非常に同情的であったので、その雰囲気に軍人達が悪乗りしたのではないかと思う。

そのことと治安維持法が相乗的に作用して世論というものを軍国主義の方向に導いたのではないかと考える。

青年将校たちのテロの標的にされるのが恐ろしくて、当時の文化人、科学者、教養人、オピニオン・リーダーと言われる人々は口をつぐんでしまったのではなかろうか。

精神主義では近代の戦争に勝てない、ということを何故彼らは告発しなかったのであろう。

こういう疑問を呈すると、必ず「当時は治安維持法があったので、ものが言えなかった」という答えが返ってくる。

確かに、治安維持法があって特高の目が光っていたことは確かであろう。

ならばその治安維持法から変える、という発想が当時全く出ていないというのはどういうわけであろう。

特高、特別高等警察を見直す、内務省を見直す、というアイデアが全く出でていないということは一体どういうことなのであろう。

軍人が驕り高ぶっている状況下で、当時の文化人、科学者、教養人、オピニオン・リーダーと言われる人々は、軍人のすることに迎合し、媚びていたとしかいえないではないか。

その前の大正時代には、大正デモクラシーといわれるぐらい割合素直にものが言える雰囲気であったと想像するが、治安維持法の成立は大正14年で、大正の末期、昭和の初期の時代には完全にこれが機能していたことになる。

昭和の初期に、軍人達が驕り高ぶっていたとすると、その前の大正時代には、モガ、モボなどと称した当時の文化人、科学者、教養人、オピニオン・リーダーと言われる人々が驕り高ぶって、有頂天になり、我が物顔でこの世の春を謳歌していたのではなかろうか。

その反動として、治安維持法が制定され、昭和の時代になると軍人がそういう人々の生き様を軟弱と称して、抑圧するのに、この治安維持法というのが武器として非常に有効に効力を発揮したのではなかろうか。

大正デモクラシーでいくら能弁な弁士が理想や理念を人々に説いたところで、それでは実効を伴う実利があらわれなかったわけで、それに引き換え軍隊が大陸にわたれば邦人保護とか権益の確保とか、目に見える形で実利が得られたわけで、それに国民は心酔したのではないかと思う。

日中戦争の間の戦争は、まだまだ古典的な戦争で、軍隊と軍隊が対峙して領土を取り合うという古めかしい戦い方であった。

それよりも、中国の田舎で、日本軍が「ワー」とトキの声を張り上げて突進すると、中国人は一斉に逃げ出したわけで、それを見て我々の軍隊は「勝った!勝った!」と歓喜の声をあげている図ではなかろうか。

それは西部劇の映画で見るインデアンと騎兵隊の戦いと同じくらい古典的な戦いということではないかと思う。

そのことは、この時点でも中国側では正式な軍隊というものが確定しておらず、中国そのものに主権国家という概念そのものがあるのかないのか定かでない情況に陥っていたものと考える。

今日、中国側から日本に対して歴史認識が足りないといよく言われるが、彼らは自分の都合で都合のいいところだけ切り取って、それをカードとして日本を非難してくるが、この時点、昭和の初期の段階、1920年代において中国の地が果たして本当に近代化された主権国家であったかどうかははなはだ疑問である。

だから勝手に侵略して良いか、という議論にはならないことは当然であるが、あの時代の驕り高ぶった軍隊では、中国を懲らしめることは必要不可欠だ、という思いがあったことは否めないと思う。

問題は、あの当時、昭和の初期の時代に、大日本帝国陸軍の専横を当時の国民がフォローしていたということだ。

政府は常に不拡大方針であったものが、軍が突出すると、それは領地の拡大ということを意味していたわけで、仮にそれが点と線の拡大であったとしても、実情を知らない国民としては眼に見る形の国益の拡大と映っていたので、人々は陸軍の行動に納得していたものと推察する。

政府は常に不拡大を願っていたにもかかわらず、軍が行動すると「勝った!勝った!」という印象を受け、「政府は軟弱だ!」という印象を更に強くしたのではないかと想像する。

政府は常に外国、周辺諸国の、つまり西洋列強がどう出てくるかということを慮っていたので、そういうものの手前、常に軍の暴走を引きとめようとしていたが、「勝った!勝った!」という実績は、国民を十分に納得させ、浮かれさせてしまった。

対米戦に関して言えば、この日本の中国大陸における行動がアメリカの参戦意欲を掻き立ててしまったわけで、アメリカの政府においては日本をこの辺りで懲らしめなければと思っていたが、アメリカ国民がそれを許す気配がなかったので、ルーズベルトはアメリカ国民と日本の双方を罠に嵌めたわけである。

日本を経済的に封じ込めておいて、先制攻撃をさせるように誘導しておき、その罠に嵌って我々が先制攻撃をしたので、そのことによってアメリカ国民に対日戦の大儀を悟らせることに成功したわけである。

戦後の我々は未だにこのアメリカの遠謀術策に気がついておらず、自虐史観に凝り固まっているではないか。

考えても見よ!!!アメリカは対日戦を始める前から日本占領の青写真(オレンジ・プラン)まで作って、対日戦に備えてきたのに対し、我々は開戦の間際まで戦争回避の方策を練っていたではないか。

我々の政府は中国に対しても常に不拡大の方針であったし、アメリカに対しても開戦の直前まで戦争回避の方策を懸命に探っていたではないか。

そういう政府の努力を見事に踏みにじったのが大日本帝国軍隊・軍部・軍人達であった。

 

人命軽視の元は?

 

本日、6月23日は沖縄戦が終結した日ということで、小泉首相も沖縄の「平和の礎」に参詣されたと報じられているが、この日に組織的な日本軍の抵抗が終焉したとされている。

それに関して民間人が数多く犠牲になったことを我々は今どう解釈したらいいのであろう。

これはアメリカ軍に殺されたというよりも、日本人・日本の軍人・軍部・軍隊に殺されたという部分の方が大きいのではなかろうか?

沖縄戦の司令官牛島満ほか他の参謀は、明らかに不利な戦闘から民間人を排除して、非戦闘員の生を長らえさせる、女・子供の命を救う、という配慮が何故出来なかったのであろう。

民間人には白旗を持たせて壕から出してやる配慮が何故出来なかったのであろう。

こんな馬鹿な話はないと思う。

自分は名誉ある戦死、誇り高い死の選択などといわれるかもしれないが、巻き添えを食った民間人はたまったものではない。

これこそ戦争犯罪ではないのか?

この日、「平和の礎」に参詣した多くの人々は、「もうこのような悲惨な戦争は2度としてはならない」という平和祈願の思いで参詣されている。

その思いは当然のことであるが、この犠牲者達が同胞の無思慮な判断で無意味な死に追いやられた、という視点に立つものがほとんどいないということは一体どういうことなのであろう。

あの戦争では、日本の軍隊は敵の兵隊を殺す以上に、祖国の民間人を死に追いやっている場面があまりにも多いと思う。

本来、守るべき同胞を死に追いやるということは一体どういうことなのであろう。

兵站が不十分で、敵を攻める有効な手段がなった、ということはいえると思うが、ならばそういう現実に対して、如何に民間人の犠牲を少なくするか、女・子供を非難させるか、という方向に思考が向いて然るべきだと思う。

敗色濃くなった時の関東軍の高級官僚が、開拓農民や民間人を置き去りにして遁走したこと。

これなど作戦といえば誰一人反駁できないのではなかろうか。

沖縄戦で、「子供の泣き声で敵に見付かるから」といった将兵の存在。

サハリンでは12名(?)の電話交換手に青酸カリを渡して先に引き上げた軍人。

サイパンの「バンザイ・クリフ」、「スイサイド・クリフ」の悲劇等々枚挙にいとまがないぐらいこういう悲劇があるが、本来、その国の軍隊というのは同胞を守るように機能しなければならないはずなのに、それを死に追いやる方向に機能するということは一体どういうことなのであろう。

それでいて、その遺族は「もう2度とこういう悲惨な戦争をしてはならない」といっているが、「悲惨な戦争をしてはならない」ということは当然なことで、戦争というのは相手があることで、こちらだけ「悲惨な戦争をしてはならない」といったところで意味を成していない。

それよりも、悲惨な事態を誘引したのが自らの同胞であったことには意外と無関心なところがあるような気がしてならない。

この当時、この場に居合わせた民間人は、案外、軍隊とともに名誉ある死を選択することに嫌悪感というか、忌避の心というか、逃げて自分一人生き延びたい、という願望を持っていなかったのかもしれない。

ここに我々、大和民族の根源的な信条が生きていたように思う。

つまり、俗な言い方をすれば、「バスに乗り遅れるな」、「あいつがやれば俺もやる」、「赤信号、皆で渡れば怖くない」という、付和雷同的というか、群集心理というか、一人異端になることを忌み嫌うという心境があったのではないかと想像する。

名誉ある死の選択というのも、案外そういう深層心理から生まれたのではないかと思う。

これは明らかに人命軽視の発想であるが、これが日本民族の一人一人にあるとすれば、我々はこういう価値観を共有しているということになるわけで、こういう価値観、つまり我々の民族に刷り込まれた人命軽視という価値観を当時の日本人が皆普遍的に持っていたとすると、その価値観でアジアの諸国、諸民族と接したとき、そこで価値観の衝突が起きることは必定であろうと思う。

戦争中に大東亜会議というものが開催されて、中国、フイリッピン、ビルマ、タイ、インドの首脳が東京に集合したが、その際、これらアジア諸国の首脳は、日本がこれらの国々を西洋列強の呪縛から開放したことに対しては謝意が述べられたが、その一方で、日本軍の現地における不行跡、乱暴狼藉を相当槍玉に上げている。

これを端的に表現すれば、大東亜会議の理念は立派だが、現地の日本の将兵の資質が全く人間的に劣っていたということを指し示しているということである。

日本軍が、アジアから西洋列強を追い払った功績を認めつつも、その後釜に坐った我々同胞の行為は、現地の期待を裏切るに等しいものであったということである。

それは全部、我々、同胞の軍隊の行為であったわけで、これが今日の反日運動の根底に流れている利と思う。

ここに我々、当時の日本の価値観と、アジアの人々が自立を目指す時の価値観との衝突が潜んでいたが、我々はそれをまったく理解しようとせず、自分の方の価値観を何が何でも押し付けようとしたことが先方から顰蹙を買ったのである。

問題は、現地に進駐した日本軍の不行跡にある。

アジアの諸国に進駐した日本の軍隊、つまり軍人達の資質が如何に劣悪であったかということである。

つまり、昭和の日本軍の将兵というのが如何に人間性に欠けていたかという問題に突き当たると思う。

ところが、こういう負の評価というのは我々の内側からは非常に出にくいわけで、我々の、同胞の醜さというのは内側からは暴きにくい問題なわけである。

そして、戦争の経過と共に、現地でそういう不行跡を記した将兵達も、戦場の露と消えてしまった後では、なお更、負の評価がしにくいということになってしまうのである。

戦前には、日本の政府もことさら戦争を避けようと努力し、戦争回避の方策も練っていたが、中国大陸では旧日本帝国陸軍が政府の不拡大方針を無視してどんどん深みにはまり込んでいったし、それが遠因となってアメリカをも戦争に引き込んでしまったが、こうした軍の行動は当時の日本国民の支持を得ていたことになるし、当時の日本国民はそれをフォローしていたとも言えるのではなかろうか。

だから沖縄戦でも何の疑問も持たずに民間人が軍と協力して戦ったわけで、民間人の中からそれを忌諱するものが出ていないものと推察する。

しかし、プロの戦争屋、つまり軍人・特に高級参謀という立場からすれば、民間人を戦闘に使うということには当然疑問を呈してもしかるべきだと思う。

あの時点で、如何にもがいても勝ち目がない、という状況下であって見れば、尚のこと当然の思考でなければならない。

「上層部の命令だったから仕方がない」というのは言い逃れに過ぎないと思う。

命令如何よりも、人命、特に、民間人の命ということを考えれば、当然命令にそむく勇気というべきか判断というべきか、人間愛、人類愛、人間性というものがあってしかるべきだと思う。

女、子供の命まで巻き添えにする、ということは軍人、特に高級軍人としては最低の思慮だと思うし、例え敵の将兵でも無抵抗な女子供を殺すようなことはしないはずである。

何故、白旗をもたせて壕から出す手立てが出来なかったのであろう。

何故、民間人にまで無意味な死の選択を迫ったのであろう。

命令云々の問題ではないと思う。

軍、軍隊というものが国民のためのものだ、という認識があれば当然のことではないか。

あの当時、軍というものは天皇のものであったので、軍の将兵も天皇の赤子ならば、女・子供も天皇の赤子であったので、一様に運命共同体の一員だから死んでも構わない、という発想ではなかったかと推察するが如何なものでしょうか。

結論・靖国神社の問題 

 

私も靖国神社とは戦争で命を落とした人々を奉るところだと単純に今まで考えていた。

60年前の戦争を戦った人達、将兵達は、自分達が死ねば靖国神社に奉られることを信じ、「靖国神社で会おう」といって散華した若人も大勢いると思う。

国難に順ずるということは立派なことだと思う。

世界中で、祖国の戦争で命を落とした人を敬う心というのは普遍的に評価を得ていると思う。

戦争とは政治の一形態であって、何処の国もただたんに人殺しのためだけで戦争をするということはありえないわけで、何らかの国益追求の手段として、つまり政治の延長として戦争があったものと考える。

国益追求というと、帝国主義的に領土の拡大を目指すというだけではなく、自国の権益を守る、自国の自由を守る、自国の主権を守る、自国の自存自衛を守る、という受身の国益ということもあるわけで、これらは総て国難といってもいいと思う。

その国難に身を挺して奉仕するということは、如何なる主権国家でも崇め奉られる行為だと思う。

そういう行為の結果として死んだものを奉るところが日本の場合、靖国神社である。

ところが日中戦争から大東亜戦争という昭和の戦争において、我々の同胞の軍隊は必ずしも人間的に名誉ある集団ではなかったようだ。

日中戦争にしても大東亜戦争にしても我々の同胞の政府は一貫して不拡大方針であり、回避すべく案を練っていたにもかかわらず、軍部が独断専横してしまった。

そして、この昭和の軍隊、軍部、将兵達の資質が実に人間的に劣っていたものと考える。

戦争中に大東亜会議というものが開催されて、中国、フイリッピン、ビルマ、タイ、インドの首脳が東京に集合したが、その際、西洋列強の呪縛から開放されたことに対しては謝意が述べられたが、その一方で日本軍の現地における不行跡、乱暴狼藉が相当槍玉に上がっている。

これを端的に表現すれば、大東亜会議の理念は立派だが、現地の日本の将兵の資質が全く人間的に劣っていたということを指し示しているということである。

日本軍が、アジアから西洋列強を追い払った功績を認めつつも、その後釜に坐った我々同胞の行為は、現地の期待を裏切るに等しいものであったということである。

それは全部、我々、同胞の軍隊の行為であったわけで、これが今日の反日運動の根底に流れていると思う。

もっと極端な例を掲示すると、沖縄戦で、あれほどの民間人の犠牲を出すまえに、沖縄守備隊司令部とその参謀達は、民間人に白旗を持たせて戦場離脱の手段を講じてやれなかったのかということである。

これは今(平成17年6月27日、28日)天皇陛下が慰霊の旅をされているサイパンでも同じことが言えるが、民間人を戦線から離脱させる手配が何故当時の軍人達にできなかったのかということである。

そういう、同胞の民間人まで玉砕の道連れにした軍人達が、同じように靖国神社に奉られているのかと思うと、素直な気持ちでお参りできなくなるのも致し方ないと思う。

 

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