EXPO PART2
6月6日、2度目の万博見学に出かけた。
この日は普通の人と同じように、スタンダードな行き方で行ってみようと最初から考えていたのでその通りに行動した。
まず、家から名古屋に出、地下鉄で本山まで行き、そこで地下鉄を乗り換えて藤が丘まで行き、そこからリニモに乗った。
ところがこの乗り換えが大変であった。
本山の駅で待っているときに、駅の電光掲示板が「乗り換えに30分以上掛かる」と報じていたが、そのうちに待ち時間も短くなるに違いないとタカを括っていた。
ところが、藤が丘で下りてみると50分と延びていた。
「しまった、これならばJRで行けば良かった」と後悔したが、ここまでくればもうあえて臍を噛むしかない。
リニモに乗る人が何重にも並んでいて、ゆっくり観察する暇も、隙間もない。
これは浮上式リニア・モーターカーということで、近未来型の電車のはずで、構造的には極め珍しいもののはずであるが、ここで待っている人たちは、そんなことなど一向にお構いなしで、恰も普通の電車に乗るような気でいる。
私はこの車体がどのように浮き上がるのかこの目で見たいと思っていたが、そんなことを詮索している暇も余裕もない。
ただただ人ごみに押されて指示されたようにもぞもぞ動くほかない。
仮に路線が違うにしてもホームぐらいは同じ動線にしておけば良さそうに思うのに、駅がそれぞれ別々になっているので、階段を下りて又上がらねばならない。
こんな不合理なこともないと思う。
公共交通機関というのは、基本的に合理性が追求されていないことには、使う側にとっては非常に不便である。
ただA地点からB地点に人を運べば済むという単純なものではないはずである。
明治時代ならばそれで済んでいたかもしれないが、今日のように社会が輻輳してくれば、当然、乗り換えの便というものを考慮に入れないことには、社会的な欠陥を内包したままということになる。
その理由として、当然、「事業体が違うから仕方がない」という論法になろうが、問題はここにあると思う。
事業体が違うから、違う企業だから、という理由で事業主体の双方に、その枠を超えて利用者の便を図ろうという意志がないので、こういう問題に突き当たるものと考える。
このリニア・モーターカーが愛知万博を機に、
ところが事業体が違っているが故に、リニアはリニア単独で路線が出来、たまたまその駅が地下鉄藤ヶ丘と、愛知環状線、八草駅の近くに出来たという按配である。
近年、
我々は、自分が利益に浴している時は感謝の気持ちをあまり表さないが、この相互乗り入れは非常に利用者にとってありがたく便利な措置だと思う。
この
このリニモ、開業した直後は初期不具合があって、人が乗りすぎたから動かないというトラブルを起こしたが今はそのトラブルも完全に克服されて立派に機能している。
すし詰めの状態で、車内に乗り込み、動く感覚を全神経を集中させて感じ取ろうとしていたが、見事にスムースに出発し、加速も体が傾きそうにスムースであった。
電車のようにレールの継ぎ目の音を拾うということも全く無かったが、ノッチ(これが正しいかどうかは定かでない)を上げるごとに段差を感じることはあった。
加速するたびに軽いショックうけ、今ノッチが変ったなということがわかるほどである。
まあ近未来の乗り物としては可も無く不可も無しといったところだと思う。
リニア藤ヶ丘でも人人人人、降りた万博会場駅でも人人人人で、乗るのに50分、下りて会場に入るのにまたまた30分以上も待たされる状況であった。
結局、家を8時に出て会場に入れたのは10時過ぎであった。
この万博を見るのに、巷間では様々なノウハウが様々なメデイアで飛び交っているが、私は混んでいる以上、入れるところに入って、出来るだけ多くのパビリオンを見ようと思っていた。
つまり、人気のないものから先に見ておこうと思っていた。
特に、日ごろ我々の生活の中で忘れられた存在で、名も知らないようなところを見てみようと考えていた。
翌日の新聞報道によると、この日は13万にも入場者があったということで、何処のパビリオンに行っても待ち時間があった。
結局、北門、メインの入場門から入って、右周りで歩いてくると、グローバル・コモン6というエリアがあり、そこから挑戦することにした。
ここならば人気も差ほどではなかろうと思ったが、やはり人の数には勝てない。
このコモン6の展示館ぐらいは全部見てやろうと思って人の後ろにくっついて待っていた。
最初オーストラリア館であったが、ここで待っている間にその前でパフォーマンスが催され、ピンク色の服を着てリーゼント風の髪をした三人の大柄な男が、パントマイムを演じていた。
このパントマイムが秀逸で、ついつい笑えてきてしまう、それが一変して観客を巻き込んで踊り狂ったりして人々を笑わせていた。
ここでは当然のことオーストラリアの自然と文化を紹介していたが、入ると目の前に巨大なカモノハシの寝そべった模型が展示してあった。
しかし、このカモノハシという生き物、実に不思議な生き物だと思う。
哺乳類でありながら、卵で子供を孵すというところがなんとも不思議でならない。
又ここでは登場していないが、おなかに袋をもつ有袋類というのもオーストラリア特産のもので、どうしてこの大陸にだけこういう特殊なものが生き残っていたのであろう。
私はそういう不思議に出会いたいという願望の元、大自然に触れる旅がしたいと思っているが、そうすると地球のプレート・テクニックスにまで話が遡ってしまう。
大陸移動説にまで遡らないことには、このオーストラリアの神秘にたどり着けないのではないかと考えざるを得ない。
この万博で人気のマンモスは推定40万年前ぐらいの話であるが、後でみたホモ・エレクトウスという人骨は150万年前のものだ。
ホモ・サピエンスが70万年前ということであるとするならば、マンモスなどまだ若い若いと言わなければならない。
だとすると、このカモノハシの出現というのはもっともっと古いわけで、これ以上考えるとただでさえ劣悪な私の脳がパンクしてしまいそうだ。
地球上の大地が今の大陸と形成する以前に既にカモノハシや有袋類というのはオーストラリア地方に住んでいたということだろうと思う。
しかし、以前カナダ館を見たときにも思ったのだけれども、カナダにしろ、オーストラリアにしろ、そこには白人が来る前から現地人、原住民、ネイテイブな人々がいたにもかかわらず、この万博ではそういう人々が一向に前面に出ていないのは一体どういうことなのであろう。
出ているとしても、見世物的な存在でしかなく、彼らがこれらのパビリオンの運営に直接関与しているようには見えないのは一体どういうわけなのであろう。
つまるところ、これらの地ではネイテイブな人々というのは、社会の前面には出てこれない、出られないという環境があるのではなかろうか。
こういう事をいうと、我々同胞の中からは「白人がネイテイブな人々を抑圧しているからだ」という論議になるが、これはある種の偽善に他ならない。
ネイテイブな人間、白人も、黒人も、黄色人種も含めたトータルとしての人間というものを知らない者の言い草だと思う。
アポリジニの人々は最初から車に乗ったり、奇麗な西洋風の家に住んだり、電化製品に囲まれて生きることを拒んでいるわけで、万博などに参加しようとも、見たいとも思っていないものと私は解釈する。
だからと言って、彼らが不幸というわけでもない。
それは我々が自分の価値観を基準にして「不幸だろうなあ!」と思い込んでいるだけで、彼らはそれで天下泰平だと思っているものと思う。
ただ21世紀に生きている現代人の発想からすると、自分の生活と較べて「貧しいなあ」と思い、「気の毒だなあ」と思い込んでいるにすぎない。
だから心ある進歩的文化人と自負している、善意の塊のような人々は、そういう気の毒な人々を「救済しなければならない」と、善意の押し売りに走るわけである。
最近はオーストラリアに旅行する日本人も多いが、ここが極めて対日感情の悪い国ということを忘れているような気がしてならない。
ここを旧日本軍が空爆をしたことを根に持って、東京国際軍事法廷では一番過酷な報復を要求していたことを忘れてはならないと思う。
最近は対日貿易を促進して外貨を獲得したいので、あまりそういうことは表面に現れてこないが、彼らの深層心理を見くびってはならないと思う。
つぎはフイリッピン館に入ったが、ここは対日感情が極めて良いところとされているが、それは当然ことで、先の戦争中にはアメリカの植民地であったものを日本軍が解放し、一旦は独立をさせたけれども、戦争が終わると再びアメリカの植民地にされ、再び再独立をしたという経緯がある。
だから、彼らの独立の根っこには日本の功績があることを彼らが知っているからだと思う。
日本軍がマッカアサーを追い出したことにより、彼らは独立の気運をつかんだわけで、彼らの国はアメリカに支配されるまでの長い間、スペインに支配されていた。
フイリッピンという言葉を聞くと、それはスペインの海洋制覇の言葉と同じ様に聞こえるのも不思議なことだ。
スペインはアメリカ経由でフイリッピンを支配していたわけで、太平洋の島々は総てスペインの支配下であったといってもいいぐらいである。
グアム、サイパン、フイリッピンとそれは繋がっていたわけで、グアム島にさえスペインの要塞があるというのだから驚く。
しかし、戦後育ちの私にとってはフイリッピンとくればアメリカ軍という構図が抜け切れない。
1991年にアメリカがフイリッピンのクラーク基地をあっさり変換したのには正直驚いた。
しかし、これによって日本の沖縄の比重が増したことに日本の誰もが気が付いていない。
アメリカも日本にウエイトを置くということを言わないので、誰も気が付かずに済ましてしまっている。
フイリッピンというところはやはり地勢的な見地からも地下資源が豊富にあるわけではなく、工業立国ということはありえないので、必然的に観光立国で行くしか選択の道はないと思う。
その意味で興味深いところではある。
フイリッピン、ラオス、マレーシア等々のパビリオンは総じて強烈に印象に残るものはなかった。
ところがベトナム館ではいささかカルチャー・ショックを受けた。
最初入った時はなんだか金ぴかの仏像が無造作に並んでいるなあと思ったが、入ったらすぐに正面の狭いステージで楽器の演奏が始まった。
アオザイを着た女性が数人で、それぞれの楽器を演奏しだしたが、この楽器が特別に奇異に見えた。
まず最初、正面から見て右の端の女性の持っていた楽器といったら、実に不可解な代物であった。
一種の竪琴、ハープシコートなのだろうか、弦を斜めに張ったように見えたが、室内が薄暗くてその弦は目で確認できなかった。
釣り糸のようにあるようなないような。
そして弦を止めている柱?のようなものが隅にあって、それを微妙に左手で回転させ、弦を引くのに竹のヘラのようなバチを持って奏でていた。
その音色の妙たるや、まるで天国で乙姫様の雅楽を聞いているようなみょうちきりんな雰囲気であった。
演奏が終わったとき、アオザイを着た女性に聞いてみたところ、ダイバオと教えてくれたが、はじめて聞く言葉なので正確に表記できたかどうかはしらない。
その対面には、これまた日本の琴を小さくして幅広にしたような楽器があり、これをバイブラフォンのバチのようなもので弦を叩いて演奏していた。
これはこれで世にも珍しい音色で、この楽器の名前も教えてもらったら、こちらはタンボボと聞き取れた。
タンポポと似ているなあと思いながら早速メモに書きとめた。
それと二胡のような楽器は男性が弾いていたが、もう一つカスタネットのような音色の拍子木もあった。
この楽団には近代的な西洋風の楽器は一つも無く、総て民族色豊かなものばかりであった。
竹で出来たシロホンのような楽器もあった。
最初の演目はまるで中国の音楽と見まごうばかりのもので、やはり陸続きの大陸国家なので、中国の影響がモロに出ているのかと思ったが、後のほうの演奏ではそうばかりともいえずかなり独特の民俗音楽であった。
しかし、あの竪琴のような楽器には驚いたものだ。
舞台がヤケに狭っ苦しいなあと思ったが、電気を使わない生の演奏ではこれが限度なのであろうか。
これをお寺の仏像の前で演奏するというのは、やはりアジアのアジアたる所以ではなかろうか。
後ろには金ぴかの仏像が鎮座していた。
ベトナムとくれば我々の世代ではベトナム戦争を連想せざるを得ないが、30年前のあのベトナム戦争とは一体なんであったのだろうか。
結果としてはベトナムは共産主義国となったが、その途端にドイモイと称して、改革開放政策になったわけで、ならば何のための共産主義との戦いであったのだろう。
戦争の結果として東シナ海に溢れた難民は、資本主義世界、自由主義陣営で収容したわけで、基本的にあの時あふれ出たボート・ピューピルというのは共産主義国が対応に当たらねばならなかったのではなかろうか。
結論的に言えば、共産主義者たちが現地の旧体制の人々を海に押し出しておいて、それを自由主義陣営に押し付けたという構図ではなかろうか。
ベトナムの共産主義者の後ろには共産中国が控えていたことを我々は知らなければならない。
共産主義者たちがベトナムの潜在的な土俗的な古い体制をぶち壊すところまでは理解できるが、そこに近代的な民主化の波が押し寄せて、民主国家が建設されたと言い切れるであろうか。
しかし、このベトナムの民族楽器というのはいささか意表を衝かれた感じがする。
これでこそ万国博覧会だと思う。
こういうカルチャー・ショックとの出会いこそ、万国博覧会の意義だと思う。
それからこのグローバル・コモン6の総てのパビリオンを見てまわったが、もう一つ驚いたのは南太平洋共同館で、太平洋に浮かぶそれぞれの島が、それぞれに独立国となっている点である。
大東亜戦争前はドイツの委任統治国などと称せられ、それを日本が割譲したなどと言われていた島々が、総てそれぞれに独立国として存在するという事実には驚きを隠せない。
しかし、一国ではなんとも力不足で、こうして共同でパビリオンを運営しているとはいうものの、確としたPRするに足るものがないので、小物の土産物屋に転じてしまっていることは致し方ない。
出口の近くには売店があって、そこでは椰子の実を売っていた。
先回来たとき、西洋系の色白の白人の若い女性が、これを手に持って颯爽と歩いているのを見て、どうしても自分でもやってみたいと思っていたが、その時は何処で売っているのかわからなかった。
ところが今回は目の前にそれがあるものだから、ついつい手が出てしまった。
表面を荒く削って、一番上に穴を開け、そこにストローが差し込んであった。
中にはたっぷりと液体、果汁が入っているように見えたが、案外そうでもなく、ストローを力一杯吸い込まないことには果汁が口の中に入らない。
その味は薄味のパイナップル・シュースのようなものであった。
まさに子供じみた幼稚な願望であったがこれで大いに納得した。
これらを回って特に目を引いたのはインドネシア館だったと思うが、昆虫の標本である。
こういう熱帯に生息する昆虫の類は自然のものであるだけに実にその色彩が美しいのには驚かされる。
自然界でよくもこれだけ奇麗な色彩がかもし出されると不思議な気がする。
また興味あるものとしてはマレーシア館のスコールの体験であろう。
入場するとすぐに傘を持たされて、しばらくすると上からシャワーが降り注ぐという仕掛けであった。
なおニュージーランド館では世界一巨大なヒスイの原石というのが展示してあった。
短時間にあまりにも多くのパビリオンを回るとかえって印象が薄れてしまって、記憶に残っていない。
忘れないうちに記録にとどめておこうと思っても、もう既に忘れてしまって、思い出せないことがある。
ここを見終わって次の場所に移動して、アフリカ館に入ってみた。
このアフリカという地域も、裕福な国は極めてすくないわけで、共同で出展しているが、ここでは得るものが多かった。
ただし、共同館というだけあって、館内には様々な国々が、小さなブースでそれぞれに展示しているので、今こうして文章に認めておこうとすると、何処がどれだか判らなくなってしまった。
しかし判らなくなったといっても、何処もここも似たり寄ったりなので、たいした相違はないが、少々無責任の咎は受けなければならない。
ザンビアだったかジンバブエだったか定かに覚えていないが、コーヒーの起源というのを見た。
小さなブースの中で、白い布を頭から巻いて、ゴゼのようにうずくまって坐った年のころ不詳の女性の前に、須恵器の小さな茶碗が
15、6並んでいた。
そばに立っている人に聞いて見ると、これはコーヒーを炒れる時の儀式だというではないか。
女性の右手には、これも黒い須恵器のポットがあって、それから茶碗に注ぐというものらしい。
というのも、この地域がコーヒー豆の原産地、というよりも発祥の地で、ここの人々が古来からたしなんできたものが、地球規模で広がったということらしい。
先回来た時はキューバ館でコーヒー豆の果肉の付いた生の実を見てびっくりしたことがあったが、それはこのアフリカの真ん中辺りで栽培していたものが南米にまで広がったということらしい。
そして、その模様が織物として展示してあるというものだから、よくよくそれを見て見ると、確かに船で搬出されている図柄があった。
足元に置いてあった豆のようなものを見ると、白っぽいしろもので、我々が日常見るコーヒー豆とはかけ離れている。
アフリカというのは、我々にとって馴染みの薄い土地ではあるが、日常何の気なしの飲んでいるコーヒーが、こういうところでから来ていたのかと思うとなんだか不思議な気がする。
これを近代的な考え方で考察するとするならば、アフリカの原住民を騙して白人達がその実の効用を独占支配した、という言い方になるのであろうが、白人にとってもコーヒーというのは貴重な嗜好品であったろうと思う。
しかし、アフリカの奥地で、ジャングルに囲まれた場所で、原住民に囲まれて、このコーヒー、この黒い液体を最初に口にした人、白人、西洋人は相当な勇気のある人ではなかったろうか。
その時にこれが美味しいものだと思っただろうか。
恐らくコーヒー・カップなどという気の効いたものも無く、果物の皮か何かに入れて飲んだに違いなかろうか、最初に飲んだ人はこれがその後地球規模で人々に愛好されるなどと考えただろうか。
我々は今これに砂糖を入れているので飲みやすいとはいえるが、アフリカの奥地で、焙煎という知識も無いまま、このコーヒーを最初に飲んだ人はどういう気持ちであったろう。
その時は多分薬でも飲むような気持ちで飲んだのではなかろうか。
この味が後世、世界中の人々が愛好するなどと考えただろうか。
そう考えると実に不思議だ。
しかし、アフリカの奥地、今でいえばジンバブエだか、ウガンダだか、ザンビアだかしらないが、この地に住む人々は、どうして白人に抑圧されるような状態に落ち込んでしまったのであろう。
私が幼少のころ、ターザン映画というのがあったが、ターザンは白人でありながら、ジャングルの中で生育し、チンパンジーを友として活躍するわけであるが、そこに登場する原住民というのはみな悪玉である。
確かに皮膚の色は黒いが、皮膚の色と人間の脳の活躍には差別はないように思う。
ただ人間というのは自分の周囲の環境に非常に左右される生き物だとは思う。
これは同じパビリオン内の他のブースで見た156万年前の人間の骸骨を見たときにも同じことが頭をよぎったが、皮膚の色ガ如何様に違っていようとも、好奇心は同じ様に個々の人間に秘めていると思う。
ところがアフリカの原住民と、西洋の白人との差異というのは一体どこから生まれてきたのであろう。
私は人類学の学者ではないので気楽にそして無責任に想像すると、人間は生まれ育った環境に支配されていると思う。
生れ落ちたところが、アフリカの原住民の中だとすると、そこからは決して近代思想は生まれないと思うが、それは周囲がそれを許さないからだと思う。
どんな民族であろうと、どんな人間集団であろうと、生まれてきた赤ん坊は両親の庇護の下で最初は生育するが、成人に達するころになると、民族なり、氏族なり、集団内における通過儀礼というものがあるわけで、そのときに若者の好奇心というものが徹底的に骨抜きされてしまうのではないかと思う。
それが不徹底に終わると、その若者は異端者としてその集団なり集落から放逐されてしまうのではないかと思う。
ところがコーカソイド系の人々は、そういう若者の異端者に寛容だったから、文化というものが前進したのではないかと考える。
ケニアのブースでは156万年前のホモ・エレクトウスという人骨と、200万年前のホモ・ハヒリスの人骨が展示してあった。
人類の起源とされているホモ・サピエンスよりも、もっともっと古い人骨が展示してあったが、人類の起源でありながら、人類の歴史の中で、何故に近世に至るまで文明というものを拒否し、否定し続けていたのであろう。
それは民族なり集落の中で、若者の間に芽生えた好奇心の芽を、ことごとく啄ばむ方向に人々が機能したからではないかと思う。
たとえばアメリカ大陸のネイテイブ・アメリカン、ポリネシアの人々、アポリジニの人々、アフリカの諸々の民族等々、自然に恵まれていたので、生きんがために創意工夫ということをしなくても済んだのではないかと思う。
例えば、こういうことが考えられる。
椰子の葉っぱの木陰で生れ落ちた赤ん坊は、当然、両親の庇護のもとで成育し、成人に達し、そこで成人として集落乃至は民族内に受け入れるかどうかという通過儀礼のとき、その集落内の慣習からはみ出した特異な行動をすれば、それは当然長老からたしなめられるわけで、その集落なり部落なりの長老が若者のこういう行動を押さえつけることにより、その集落なり部落が過去何代にもわたって生存できたわけである。
ところが文化というのは、その慣習を打ち破らないことには前進がないわけで、サルが芋を洗って食べるというのも、若いサルが好奇心でもって芋を洗って食べたのを、長老たちが真似し、それが群れ全体に伝播して一つの文化になったものと考える。
教育ということは、従来の規範を後世に引き継ぐ、という要因も確かに存在するが、若者の好奇心を延ばすという側面もあるはずである。
それは当然知への挑戦でもあるわけで、知識と、珍しい物をよく見るという好奇心、探究心を伸ばすことだと思う。
ところが、アメリカ大陸のネイテイブ・アメリカン、ポリネシアの人々、アポリジニの人々、アフリカの諸々の民族などの人々は、現状に満足してしまって、それを怠ったが故に、白人に抑圧されてしまう結果を招いたものと推察する。
ところがヨーロッパ系のコーカソイドの人々は、寒い地方であるがため、常に生きんがための創意工夫を強いられていたわけで、そのことがかえって若者の好奇心に対して寛容であり続け、それだからこそ近代文明を開花させることができたのではないかと想像する。
しかし、私の勝手な推測も、時の流れというものを考えた場合説得力を失う。
というのも、我々が認識している歴史というのは、せいぜい2千年ぐらいのものであるが、ケニアで出没した人骨というのは何万年という歳月を経過しているわけで、万年と千年を比較したところで時の長さでは喧嘩にならない。
我々が通常人骨という場合、それは白い色をしている。
例えば白骨死体というように、人間の骨というのは白いというのが普遍的な認識となっているが、100万年単位で出没する骨というのは、茶渋が沁み込んだように濃い茶色をしている。
恰も、土の色が染み付いたように茶褐色をしていた。
そして大きさも現代人よりもいささか小さくチンパンジーと人間の中間という大きさであった。
私の勝手な推測では、人間は皮膚の色で人の知能に差があることはありえないと考える。
しかし、現代文明というのは不思議なことにコーカソイド系の白人によって起こされ、発展し、なおも前進し続けている。
有色人種がそれに寄与している節は極めて希少な存在だと思えてならない。
以前、ノーベル賞受賞者を調べてみたら、日本人以外の有色人種というか、アジア系の人では、たった3人しか受賞者がいなかった。
中国人が二人、韓国人に一人という割合であった。日本人は10人ぐらいでしょうか。
このデータは国籍別だから、黄色人種や黒人の中にも受賞者がいるかもしれないが、極めて少ないことは想像しえる。
こうした知の格差は、基本的には教育の問題だと思う。
人の知能を生かすも殺すも教育次第だと思う。
この場で、日本の学校教育を論ずるつもりはないが、今、後進国としてあえいでいる諸々の国々の人々は、教育というものの価値を見出せなかった人々ではないかと思う。
日本の明治維新以降の教育熱というのも、最初は立身出世の免罪符としての効果が強調されたが、それが十分に行き渡ると、次の段階として知への好奇心を満たす教育になりつつあるようだ。
しかし、本来は知への好奇心を満たすべき教育が、資本主義体制の中で生きている我々は、それが欲望の追求という方向に向いてしまっていることは素直に認めなければならない。
知への好奇心を満たす前に、それが金儲けのノウハウを探求する方向に向いてしまっている。
とはいうものの、そういう様々な欲求を満たすための創意工夫が文化とか文明というものを押し上げてきたことは否めないと思う。
このアフリカ館とか先の南太平洋共同館など見ると、この地球上にはあまりにも小さな国がありすぎるように思える。
吹けば飛ぶような小さな国が、この地球上にいっぱい転がっているという感じである。
その上、アフリカの場合は地続きなるが故に何時もいつも紛争を抱え込んでいるわけで、結局のところ自分たち同志で殺しあっているという状況だろうと思う。
教育の普及が不十分なるが故に、近代思想が行き渡っておらず、それこそ人類誕生の時のままの思考でこの21世紀に生きているという感じである。
この次はグローバル・コモン3に行ったが、ここではロープを張って一部通行止めにしていた。
後から判ったことであるが、丁度この時、皇太子がイタリア館を見学する時間とかち合っていたらしい。
ロープの向こう側で報道関係者のような人間がしきりに規制を叫んでいたので無性に腹が立った。
報道関係者というのは生理的に嫌悪艦を覚える。
手前らの仕事の都合で、何故、我々を止めるのか腹立たしくていけない。
まだ警察官がするのならば治安という観点から許せるが、報道関係者が自分たちの仕事の都合で、一般人を規制することには非常に腹が立つ。
まあそんなことを言っていても仕方が無いので、入れるところから入ろうと思っていたが、何処もかしこも人の列で、本当にうんざりしてしまう。
それでモロッコだとか、ヨルダンだとか、入れるところから入ってみたが、この地域の国々は、やはり砂漠地帯だけあって、入るやいなや砂漠色の色調に変った。
そして展示してあるものもテントのようなものが多く、それはそれなりに異国情緒たっぷりであった。
中でもトルコ館のタイルは素晴らしい。
あの青色の色調はトルコ独特のものだと思う。
ここではイスラム教に関するパンフレットを配布していたが、イスラム教というのも今のご時世では肩身が狭かろうと思う。
しかし、私に言わせれば宗教というのは精神の麻薬に過ぎない。
この地域の人々が宗教に固執する理由が私には全く理解できない。
彼らはただたんなる慣習として毎日何回も礼拝しているのであろうか。
キリスト教徒が毎日曜日に教会に行くのも単なる習慣のだろうか。
毎日の生活の中で、心のよりどころとしているということがどうしても理解できない。
苦難にあたっとき、それを克服するのは自己の内なる精神力であって、宗教に依存するということは、ただの逃避ではなかろうか。
我々も日常生活の中で、危機に直面すると思わず知らず「神様仏様」と、心にもなくそういうものに縋ることもあるが、平穏な生活の中ではそんなことはありえない。
ところが彼らは生活の中でさえ常に「神様仏様」と祈っているわけで、これは一体どういうことなのであろう。
9・11事件以来、イスラム教というのが世間の耳目を集めているが、テロを是認している人々は、あくまでも特異な宗教集団であって、一般のイスラム教徒には何の罪もないと思うが、イスラム教徒は人間の開放という点からすれば後ろ向きの思考をしていることは否めないと思う。
イスラム教徒の原理に従って、女性はスカーフを被らなければならない、などという教義は近代的な生活にはなんの意味もないわけで、そういうことに固執している限り、これから先も大きな飛躍は期待できない。
科学の進歩を受け入れるのに、宗教の戒律が邪魔になっているわけで、これでは近代文明から取り残されても致し方ない。
ところが、テロ行為を繰り返しているイスラム原理主義者というのは、その近代文明を彼らの目的遂行のためには遠慮なく利用しているわけで、このあたりは立派な論理的矛盾と思うけれども、彼らは自分に不都合なことは全く意にかいさない。
次に入ったのがイタリア館であるが、イタリア人というのはラテン系の典型的な人々なのであろう、パビリオンの周りを取り巻いている行列に並んでいるお客に対しても、女性の係員が喋り捲って飽きさせない。
相手のことを聞きだそうとしたり、自分のことを喋り捲って、女性のおしゃべりは万国共通だとしても、これをイタリアの男性がすると、日本の女性はころりと騙されるのではないかと思う。
我々日本人の目から見ると、イタリアの男性は皆助べえで、日本女性を垂らしこむのが上手いという印象を受けるが、その垂らしこみの話術は彼らの民族性であって、イタリア人は男も女も、ああいう風に喋り捲っているのであろう。
中に入ると、これはもうデザインの国である。
工業製品に至るまでそのデザインは秀逸のものだ。
壁に赤いスクーターが展示してあったが、よく見るとその動力源がむき出しのままになっていたが、普通のエンジンには見えなかった。多分、新開発の新しい動力源であったのであろう。
ここで特筆すべきは、「踊るサチュロス」という像であった。
片足、片手の無いブロンズ像が空中に支柱で支えられており、それに四方八方から照明を当てることにより、丸天井にそのブロンズ象が恰も踊っているように見せるという仕掛けであったが、これは秀逸の出来であった。
この辺りまで来たらもう体の方が疲労困憊になってしまったので、本日はこのあたりで切り上げることにした。
時間にして18:00であった。
さて、帰るとなるとどういう手段にしようかと考えたが、来る時はスタンダードな手法で来たので、帰りもオーソドックスな方法をとることにした。
つまり、リニアで愛環鉄道の八草に出て、中央線経由で帰ることにした。
帰りもまさに人人人人で、人に押されて前へ進む意外になかったが、八草駅で切符を購入している間にエキスポ・ライナーが出てしまったので悔しい思いがしたが、すぐに高蔵寺行きの普通列車が来たのでそれに乗って高蔵寺に出、そこでJRの名古屋行き上りに乗り換えて帰ってきた。
途中、春日井駅で降りてバスで帰ればもっと早い時間に帰りつけたが、大曽根で夕食をとりたかったので、その案は断念した。
大曽根で下りて、以前、気にいった店があったので、そこで食事をしようとしたら店の屋号が変ってしまっていた。
ここまで来た以上,屋号が変わっていようがいまいが入らねばならず、朝、家を出てから始めて落ち着いた食事にありつけた。時は19時を回っていた。