EXPO2005見聞録050409

 

EXPO2005見聞録

入場前の状況

平成17年4月5日、愛・地球博へいってきた。

先月25日に開幕してこの日まで寒い日が続き、勇躍し、期待して出かけた人は苦労しただろうと思うが、この日は行楽には最適な日和になった。有難いことである。

この日が、春日井市と姉妹都市を提携しているケーローナ市がカナダの都市ということで、カナダのナショナル・デーに参加するため、市が参加者を公募したので、その抽選に当たったからである。

家内は本人の分と私の分を別々のハガキで応募したらしいが、私の方だけ当たった。

カナダのナショナル・デーという公式セレモニーを盛り上げる為のサクラであるが、サクラだろうがなんだろうが、ただで博覧会に行けるということは大きな魅力であった。

ところがここでノッケからボヤキになってしまう。

というのも、当日、指定された集合場所に行くと、もうバスは到着して準備万端整っていたが、引率する市の職員と参加者の間でトラブルが起きていた。

つまり参加許可証には、「当選者ご本人が参加して下さい、当選者以外の方は参加できません」とはっきりと明記してあるにもかかわらず、当選者以外の人がまぎれていたらしい。

本人達は夫婦で乃至は子供連れで申し込んだが、そのようにはならなかったので市に電話したら「良い」といわれた、と強硬に抗議していたが、私が市の職員だったら、書類を指し示して、何が何でも同行させないところであるが、現実には市の職員もそこまでは徹底は出来なかったようで、結局は折れて引き下がらざるを得なかったようだ。

市民のごり押しが通ってしまった形だ。

それに時間厳守が全くなっておらん。市の職員は全員が揃うまで待っていたが、これも予めかなりの余裕を持たせたスケジュールになっていたので、遅刻者を待つことが出来たが、市民が決められて事をきめられたとおりに行動しない、出来ないということは、民主化の度合いが極めて低いといわざるを得ない。

「途中、車が混んでいて遅れた」なという言い草は理由にならないと思う。

幼稚園の子供ではあるまし、集合時間に合わせて行動することも出来ない大人では、民主主義国の国民とは名ばかりで、民主化の度合いの極めて低い胡乱な人間集団といわなければならない。

市の職員はこういう愚民の扱いに相当手馴れていて、やけに落ち着いて、焦る様子はないが、こちらは心配でたまらない。

出発前にトラブルがあったがそれでもバスが発車すると会場の駐車場にはすぐに着いた。

車内では今回の企画の説明があって、帽子と、ワッペンと、バッジと、食事券の配布等々があった。

駐車場はがら空きで、入り口に一番近い位置にバスは着いたが、ここは西ゲートである。

どうもここが団体専用の駐車場であり、同時に団体専用の入り口らしい。

2,3日前に小泉首相の一声で、弁当の持込がOKになったが、この辺りの協会側の対応は少々不味いと思う。

最初から「弁当を持ってくるな」ということは、人の心を知らない対応だと思う。

誰しも、ああいうイベント会場でいくら手つくりの弁当だとて荷物を持ち歩くのは出来ることならば避けたいと思っていると思う、にもかかわらずそれを最初から「駄目だ」と言われれば、それは「おかしい」という心情になるのが当然だと思う。

黙っていれば、人は最初から荷物になるようなものを持ち歩かないように工夫すると思う。

それで我々も荷物検査のゲートを潜ったが、私は最初から荷物を持ち歩かないようにデジタル・カメラは首からぶらさげて、あとは小さなポシェット一つだけにした。

ところがバスを降りてまた待ち、ゲートの入り口に行ってまた待ち、この待ち時間にはうんざりした。

しかし、これは致し方ない。

ゲートが開くのが9:30で、我々はもう9:00ちょっとすぎにはここに着いてしまっていたのだから怨むほうが悪い。

出発時間がスケジュールから相当遅れていたので、私は相当にイラ付いていたが、これは私の思い上がりであった。

道中が30分も掛からないとは思っても見なかった。

私の思い込みでは、春日井から万博会場まではどうしても1時間は掛かると思っていたが、これは私の思い過ごしでしかなかった。

ただ自分の住んでいる周辺のことであるにもかかわらず、バスが東名高速に乗ったところまでは分かるが、東名高速からどういう風に会場までいったのかそれが分からない。

私の古い概念では、名古屋インターで下りて猿投グリーンロードを東に走り、昔あった愛知青少年公園に行くというイメージを払拭しきれないが、どうも新しい道を走っているようだ。

それでこれを書いている最中にインターネットで調べてみると、名古屋インターと上郷サービスエリアの中間に日進インターチェンジが出来、そこから長久手まで新しい高速道路とが出来ているではないか。

道理で新しい道を走っていると思ったわけだ。

この辺りに来るともう完全にトヨタの地盤で、海外の人からみると中部国際空港の開港も、愛知万博の開催も、その総てがトヨタのためだという感覚で受けとっているようだ。

確かに、今は愛知というか、中部地方というか、東海地方は経済的に極めて活況を呈していると思う。

右肩上がりの上昇気流に乗っていると思う。

何の関係もないが、愛工大名電高校の春の選抜高校野球の優勝や、中日ドラゴンズの快進撃も、そういうムードに載っているのではないかと思う。

で、バスを降りると動く歩道があって、これに乗ると労せずして歩けるが、今まで見た歩く歩道は、踏み板が大抵は金属製のものであったが、ここの場合は、ゴム質のものでふわふわしていた。

これも自然環境に配慮したものであろうか。

私の個人的な印象では、足元がふわふわするというのもなんだか不安定で、金属製のしっかりししたもののほうが好ましい。

入場ゲートの前は、我々以外の一般入場者で、大勢の人が群れていたが、我々は団体ということで一まとめに括られた感じでしたが、それにしても人員整理の係員があまりにも多すぎるような気がしてならない。

定められたユニフォームを着て、大きな声を張り上げてこまごまとした注意を呼びかけていたが、あれほど係員が世話を焼かなければならないということは、我々の民族は社会的な行動が全く出来ないということではなかろうか。

現に、最初に愚痴ったように、書類で書かれたことでもきちんと守られないということは、我々は民族としてきちんとした社会生活が出来ないということではなかろうか。

このEXPO2005、愛・地球博覧会というのは21世紀にはいって最初のエキスポでもあるわけで、開催側がもっとも恐れていることはいわゆるテロである。

このテロを防止するために、こまごまとした規制があるわけで、弁当の持込規制というのもその一環としてあったと考える。

その理由付けに、食中毒などと、いい加減の理由をいうものだから反発を食うわけで、最初から正直に「テロ対策のため不要不急の荷物を持ち込ませない」ためだと正直に言えばいいと思う。

ところが、そういう事をきめ細かく言ったとしても、そんなことを無視する愚民が大勢詰め掛けてくることは当然であろう。

だから入り口で係員が大声をあげて、幼稚園児にでも説き伏せるような、きめ細やかな注意を、声をからしてわめかねばならないのであろう。

管理する側は自分の立場で行動するが、管理されている側は自分のおかれた状況が知りたい。

たとえば、ゲートの前で何十分も待たされたとき、なぜ待たされているのかその理由が知りたい。

理由さえ判れば納得出来るのだが、その理由の説明がないものだから、いらいらしてくる。

これは巷でも大いにありうることだと思う。

例えば乗っている電車が突然止まったら、その理由をすぐにアナウンスされれば乗客は納得して待つことが出来るが、それがないと非常に不安になり、いらいらし、怒り出すわけである。

これは案外徹底しているようでそうでもない。

そのことは突き詰めれば管理する側の人間的なセンスによるわけで、気の効いた人ならばすぐにそういう措置をとるであろうが、鈍感な人はそこまで気が回らないであろう。

 

会場まで

それやこれやでかろうじて入場ゲートを潜ると、場周道路を右手のほうに進んだが、この場周道路というのがまた変っていた。

両端は木の歩道になっていた。

そして中央よりに、カラー舗装した道路があって、真ん中にはグローバル・トラムと称する電気自動車とでもいうべき低速の車両の通る道となっていた。

これも前評判のワリには私にとってはさほど感心するほどの乗り物ではない。

大勢の人々の通るメイン道路を移動するということで、その車両の前を生きた人間が露払いしていたからである。

江戸時代の大名行列の露払いと全く同じことをしているわけで、これでは何が自然の叡智だといいたい。

やっている当人はアルバイトか一時的な仕事かもしれないが、21世紀に入ってこれほど陳腐な発想もないと思う。

人間が人間の乗っている車の前を露払いしているのである。

この現実に違和感を感じない人は、人間としてどうかしていると思う。

3月末で廃止になった岐阜の市電、名鉄の路面電車の前を人間が露払いして走っているのと同じである。

トラムのスピードがゆっくりなので露払いの人も全速力で走っているわけではないが、それにしても発想そのものが前近代的ではないか。

大勢の人が行き交っているところを走らせるので、その人たちの人命保護という名目だとすれば、それはロボットにさせるべきことだと思う。

21世紀の発想ならばそういうのが当然だと思う。

それからカラー舗装の道を行き交っている人力車というのも、人間を馬鹿にした発想だと思う。

人力車というのも「無法松の一生」に登場するような人力車ではなく、要するに高級3輪車であるが、人間の労力が動力源になっている点では人力車である。

いくら化石燃料つかわないから「自然の叡智」だといったところで、生きた人間を動力源としていては、21世紀の発想とは程遠いものといわなければならない。

構造的に、人間が大汗をかいてペダルを踏まなければ前に進まないというものではなさそうで、軽い労力で動かすことが出来そうな点は認めざるを得ないが、人が人に金を払って人力を直接的な労力として使うという発想は、21世紀では許されてはならないと思う。

トヨタ館ではロボットが楽器を演奏するということが売り物になっているが、電車の前の露払いとか、人力車というものはロボットに置き換えてしかるべきだと思う。

そのためのロボット開発ではないのか。

トヨタは物を作ることだけに神経が行き過ぎて、それを人間の生活に如何に応用するかという視点が抜け落ちていると思う。

ロボットに楽器を吹かせたところでナンの意味もないではないか。ただロボットの能力を誇示しているだけで、そういう能力を持ったロボットが出来たというだけで、それよりもトラムの前で露払いをするロボットだとか、3輪車を運転するロボットを先に開発すべきではないのか。

このメイン道路の左側にはIMTSという乗り物が見えた。

パンプレットの説明によると、インテリジェント・マルチモード・トランジット・システムというものらしく、近未来的な異形な格好をしたバスである。

要するに無人で、状況に応じて運行できるバスということらしいが、これも21世紀に既に入った時点では、そうそう驚くには値しないものだと思う。

技術的には確立されて当然というものだと思う。

万博、EXPOというものは、従来、人間の未来を予測して、近未来の世界を見せるという趣旨で行なわれていると思うが、我々の国日本では、技術そのものはとうに完成していても、その派生的な問題で実現がかなり遅れる場合が相当にあると思う。

例えば新幹線なども、鉄道としての完成度は極限まで行っているにもかかわらず、騒音とか振動の問題で、住民を納得させることができず、大幅な遅延が見込まれる。

原子力発電でも同じことが言え、100%の信頼が確立できなければ建設駄目だという風潮である。

そして技術開発には初期欠陥というものがつきもので、我々はそれを寛容する度量を持たず、許さないわけで、現実には人間のする行為で、それを撲滅することは至難の業である。

それでも部外者はそれを要求する。

人命尊重という大儀の元、それを逆手に取った我儘に対しては説得の方便がないのである。

技術的にはバスを無人運転するぐらいのことは完成された技術だと思う。

飛行機でさえオートパイロットが出来ているわけで、そのことから察すればバスの無人運転ぐらい簡単なものではないかと思う。

ただし、日本ではもし事故が起きたとき、「無人運転だから事故が起きた、だから金寄こせ」という問題が必ず起きてくるので、事業者として踏み切れないものと考える。

先に述べたトラムでも、バス2台分ぐらいの人間を案内するのに、運転手と案内者と露払いの3人がいるわけで、これでは何が「自然の叡智」だといわなければならない。

科学とか技術というのは人間の生活を楽にするほうに機能しなければならないと思う。

化石燃料を使わないからといって、人間が汗水たらして苦労しなければならないような方向に向くべきではないと思う。

 

カナダ・ナショナル・デー

 

ゲートを入って、旗の後をくっついて歩くだけで、これだけのことが頭の中を駆け巡った。

それでセレモニーの行なわれるEXPOドームについてみると、ここでは同じようにカナダと何らかのつながりのある愛知県刈谷市の集団と合流した。

彼らも我々と同じようにサクラの役をおおせつかってきたのであろう。

それはそれで結構なことであるが、ここでもしばらく待たされた後に建物の中に案内されたが、この建物というのは案外安普請で出来ているように思われた。

博覧会期間中だけの建物だからという意味もあるのだろうけれど、いかにも安普請であった。

それでも中に入ってイスに座って待っていたので、そう身体に負担をかけるというものではなかったが、何時まで待っても、何の案内もないので、苛立ちは徐々に増してきた。

私が小耳に挟んだところでは、11時からセレモニー開始であったが、時間が来ても一向に始まる気配がない。

後でよく新聞を調べたら11:20開始となっていた。

それでその時間になると関係者の入場があって、両国の国旗掲揚があったが、ここで私はまた変なことに思考が巡った。

というのもカナダ側は映画やテレビでよく見る真っ赤な制服にテンガロンハット、ニッカボッカに長靴、これはカナダの軍隊の制服ではないかと思うが、日本側は要するに警備員・ガードマンである。

両国間の正式なセレモニーということであれば、日本側で警備員をその場に出すということは国際間の礼式に反するのではないかと思ったが本当はどうなのでしょう。

カナダ側が国家の正式機関で事を進めれば、日本側も当然警察なり自衛隊なりのそういうことを担当している儀状兵のようなもので対応すべきではないかと思ったものだ。

ここでこういう企画というか式を演出、進行させているのは一体どういう人なのであろう。

どうも不手際が目立つような気がしてならない。

歌舞伎の黒子のような黒っぽい衣装を着た人間が舞台の上を行きかい、マイクの調整やらスピーカーの位置を確認しあっていたが、あれは一体なにものであろう。

そして国旗掲揚でも、国歌斉唱と同時に国旗が揚がっていくのはいいが、国歌が終わらないうちに国旗のほうだけ先に上についてしまい、間の抜けた感じがしてちぐはぐである。

この辺りの扱い方が如何にも素人ぽい。

国歌斉唱も、刈谷のいくつかの中学校の合唱団の生出演であったが、これはこれで完全なるアカベラで好感が持てた。

この場合、正式なセレモニーというからには、その正式さがきちんと定義されないことには、藪をつついたような話で終わってしまうが、ここで挨拶したレイモンド・チャン多文化政策担当大臣というのは恐らく中国系の人だと思うが、その行動は完全にアメリカ人のそれであった。

彼は「カナダの持つ多様性が力強い文化と経済を生み出した」と述べていたが、このセレモニーに続いて行なわれたアトラクションでは、その多様性の具体例は見れなかった。

次に登場した豊田章一郎氏は「カナダのカルガリーと開催地を競い合ったが、愛知と決定した瞬間にカナダ側からエールを頂き、感謝する」と述べていた。

また「一番最初に参加を表明してくれた国である」とも述べていた。

それはそれで結構なことであるが、この後に続いたアトラクションではいささか拍子抜けのこともあった。

というのも「自然の融合、多文化の融合」という割には、それが具現化されていないように思えた。

最初の演目でアイヌ民族の踊りというか、イヌイットの踊りのようなものを演じていたが、その出演者が完全なる白人で、民族衣装の下にはジーンズを履いているところを見ると、白人がネイテイブの真似をしているだけで、多文化の融合が意味をなしていないようにみえる。

ネイテイブの人々の習俗を、白人が演ずるという意味で、多文化の融合というのであろうか。

それにしてもネイテイブな人たちというのはどうして表面に出てこれないのであろう。

ネイテブ・アメリカンというのは、アジア大陸からアリユーシャン海峡を渡って、北アメリカ大陸、南アメリカ大陸にまで広がったにもかかわらず、彼らは歴史の表面に全く出てこれないというのは、やはりそこに何らかの理由があるものと考える。

これを違った視点で見ると、白人に抑圧された結果だ、と簡単に思い勝ちであるが、それは結果から見た視点で、そういう結果が出る前に、何らかの理由が有ってそういう結果になったのではないかと思う。

例えば、文字の使用ということが不得意で、そのことによってコミニケーションが上手く行かず、大同団結する機会を失ったようなことがあったのではなかろうか。

今日の北米大陸のカナダにしろ、アメリカにしろ、巨大な先進国であるにもかかわらず、その発展にはネイテイブの人々はほとんど貢献していないのではなかろうか。

だからこそネイテイブな人々の真似を白人がして、それが「自然への回帰」だとか「多文化の融合だ」とかいわれているとすれば、そんなことは言葉のアヤだと思う。

ネイテブのアメリカ原住民は、我々と同じモンゴリアンとして、モンゴロイドとして、同じ先祖をもっていることを考えると、彼らが文明の進化に取り残されたというのは、どうも腑に落ちない。

しかし、アジアに起源を持つモンゴリアン、モンゴロイドは、どうも先進的な文化には馴染めないようで、アジア大陸で漢民族が隆盛を極めた時期があったとしても、今日の時点、つまり21世紀の初頭という時期には、まだまだ白人の先進的な文化に太刀打ちできる、そしてそれを超越した文化というものを造れていない。

かろうじて日本が20世紀の初頭に、西洋人の文化を凌駕しかけたが、アジアのモンゴロイドは足の引っ張り合いで、またも西洋キリスト教文化の前にひざまずく状態になってしまったではないか。

アジアの多様性ということを、我が同胞の物分りに良い評論家たちは述べているが、アジア人というのは、つまりモンゴロイドというのは、お互いの足の引っ張りあいにはたけていても、西洋人に対して一致団結して対抗するという発想をもっていないと思う。

日本人、韓国人、中国人、アイヌ、沖縄の人、マレー半島の人、フイリッピン人、内蒙古の人々は、各種族ごとには比較的纏まりやすいが、グローバルな視点では決して纏まろうとしない。

南北アメリカ大陸のネイテブ・アメリカンたちが、未だに各種族ごとに隔離されて、後から進出してきたヨーロッパ系の白人とは同等、同質に生活できていないのと同じではないか。

アジアに住むモンゴロイドは各種ごとに大まかな国境という囲いを持っているが、彼らにはそれがないだけのことで、白人の下でそのおこぼれで生かされている図でしかないではないか。

万博の歴史が何時から始まったか知らないが、これらモンゴロイドの国で万博が行なわれたとことがあるであろうか。

これらモンゴロイドの国で、オリンピックが行なわれたのは韓国と日本以外どの民族かあるのか、何処の国があるのかと問いたい。

白人がイヌイットの真似をして、それが「多文化の融合」などとはとんでもないことだと思う。

その裏に潜む尚一層深刻なことは、ネイテイブな人でそれを実施出来ないという現実だと思う。

そのことはネイテイブな人々が、カナダ社会の表面には出てこれていない現実があると思う。

このアトラクションの中ではルワンダ難民からスターになったパーカッション奏者の演奏も披露されたが、ルワンダからの難民がスターになれても、もともとあの地に住んでいたネイテブ・アメリカン、ナイテブ・カナダ人が出演できないということはどういうことなのであろう。

私の考えるところでは、これらの人々はカナダ社会に底辺の埋もれてしまって全く陽があたらないのではないかと考える。

ルワンダからの難民は、当初、珍しがられてスターまでいけたが、もともと彼の地に住んでいた人々には、そういう意外性は最初から存在していないわけで、社会から阻害されているのであろう。

その次の出し物は、クラシック音楽にあわせて、男女二人の踊りであったが、これがまた意表を突くようなもので、黒っぽい衣装を着た、やせた男と女が、ラップ・ダンスとアイス・ダンスを2つ足して、それをまた2つに割ったようなもので良いのか悪いのか私には全く評価の仕様のないものであった。

次が女性のボーカルであったが、この女性は世界的に有名ということであったが、私には馴染のない人であり、名前であった。

その次はバイオリンとキーボードによるマウンテン・ミュージックが演じられたが、私はこれが一番馴染め、スイングした。

最後は和太鼓と、先に述べたルワンダからの難民のパーカッションであったが、これは見る値打ちのあるものであった。

ここ数年、日本のあちらこちらで和太鼓の競演が見れるが、これは実に素晴らしいものだと思う。

日本のあちらこちらにその同好者というかグループが出来て、さかんに練習してるようだが、まことに喜ばしいことだと思う。

日本の柔道も世界的規模で認知されて、もうオリンピック種目にまでなったが、あの和太鼓もいずれ遅かれ早かれ世界的に認知されるのではないかと思う。

このカナダ・ナショナルデーの企画イベントは、誰がどう考えたか知らないが、セレモリーが終わったあとのアトラクションについて、一言の説明もないというのは如何にも不親切だと思う。

セレモニーは「今から始めます」といえば、それ以外の説明は不要だが、アトラクションには、どういう人が出演して、どういう演目を演ずるか、という説明ぐらいはないことには見ている方は全くつまらない。

恐らく、その辺りのことは企画会社に丸投げで、企画会社は方々掛け持ちで、十分手が回らなかったぐらいのことであろう。

このエキスポ・ドームというのも、こういう催事を執り行うために出来たものであろうが、とにかく客扱いの要領が悪いと思う。

アトラクションが終わったので外に出ようと思うと、これがスムースに出れない。

そして何の説明もないので、何故待たされているのかさっぱり分からない。

ただ意味もなく待たされるだけでは、怒れて仕方がないが、八つ当たりするわけにも行かない。

ただただ忍の一字だ。

グローバル・コモン2

 

ここでは2時間拘束というか、身動きも出来なかったが、やっと開放されたら外は非常に上天気で、歩き回るには最高の日和であった。

それで、この日はカナダのナショナル・デーだからまず最初にカナダ館から見てやろうと思って、会場の地図を見ながら一目散にそちらに移動した。

皮肉なことにカナダ館はエキスポ・ドームから一番遠いところにあった。

だからそこまで行く途中で腹ごしらえをして、アサヒパノラマレストランに入ってみたら、これがカフェテラス方式で、ついつい余分に買いすぎてしまった。

ビールを飲んで、つまみを突付いて、さあ満腹になったというわけで、カナダ館にたどり着くと、これが長蛇の列である。

入り口付近では例の赤い制服の兵隊さんがファン・サービスよろしく写真もモデルになっていた。

この長蛇の列を見ると、何時になったら入れるのかわかったものではない。

ここは諦めが肝心だと思った。

それで、その周辺を見るとUSA館があるではないか。

これはシメタと思って近づいてみると、これも長蛇の列である。

カナダ館と同じ程度の列の長さである。これもあきらめるほかない。

このあたり周辺をグローバル・コモン2いうらしいが、南北アメリカ大陸の諸国が集合していた。

見たいと思っていたカナダもアメリカも入れないとなれば、待たずには入れるがらがらのパビリオンに入るしかない。それで一番人気のないがらがらの国連館に入ってみた。

しかし、考えてみると、こういう万国博覧会に国連という世界的規模の公益団体がこれほど不人気というか、力がないというか、貧相なパビリオンしか出展できないということは由々しき問題ではなかろうか。

国際連合というからには、この万博会場でも一番華やかで、大きく、盛大なパビリオンでなければいけないのではなかろうか。

万博協会と国連は何の関係もないとはいうものの、今回のエキスポが愛・地球博覧会で、そのテーマが「自然の叡智」であり、サブタイトルが「宇宙、生命と情報」であり、「人生のワザと知恵」であり、「環境型社会」であるとするならば、国際連合という組織がもっともっと前面に出て、大きな指導力を発揮すべきではなかろうか。

人気がないのも道理で、何も物珍しいものがないわけで、疾病の克服をテーマにしているが、そのこと自体は人類共通の願望には違いない。

エイズや動脈硬化の克服を狙ったパネルの展示が主であったが、中には動脈硬化した血管と、正常な血管の比較をした展示物もあったが、後はパネルのみの展示で、他のパビリオンから見れば正に魅力に乏しいものであった。

国連が疾病の撲滅を狙う、その心は理解できないこともないが、病気を克服して人間が今まで以上に長寿を全うする世の中になれば、それとあわせて食糧問題にも関心を向けなければならないと思う。

昨今、人口爆発が懸念されて、これ以上地球上に人間が増えると、その食料はどうなるのかという視点が抜け落ちていると思う。

疾病の克服というのは、人類が古来から持ち続けた永遠の課題であることはま違いないが、人類が長寿になればなるほど、食糧の問題が深刻になると思う。

これは車の両輪の関係にあると思う。

国連、国際連合という地球規模のグローバル組織が提示するテーマとしては的を得たものだとは思うが、地球上の民族の中では、自ら食料を生産しないものもある一方で、食糧生産を企業として捉えている国もあるわけで、それを押しなべてトータルとして考えると、人間の長寿は間接的に地球上の自然破壊に繋がっていると思う。

地球上の人間が、これからますます長寿になり、人が死なないということになれば、ますます食料を増産しなければならず、それは自然を壊して耕地を多くするという図式になると思う。

今の日本などは、自分達の食料を自分達だけで賄うということはほとんど不可能な状態で、農業生産の現場を知らないものだから、農業が自然を破壊しているなどとは考えてもいないだろうが、南米ブラジルのアマゾンの伐採と、アフリカの砂漠のますますの砂漠化をどう捉えたらいいのであろう。

国際連合という地球的規模のグローバルな組織ならば、こういう問題を真摯に考えなければならないと思う。

アマゾンの木々を伐採すれば、それは一時的に耕地になるであろうが、そちらで木を切ったら、他の砂漠にはそれと同じ面積だけ植林をしなければならないと思う。

国内にしろ海外にしろ、旅行をしてみるとあちらこちらに放棄された土地が転がっている。

日本国内であれば、その土地には地権者がいて、税制の問題やら、耕作者の高齢化の問題等々で、全く手が付けられない状況になっている。

勿体無い話だと思うが、今日のように人権問題が姦しい社会では、それを強制的に取り上げて農業をするというわけにはいかない。

ところが世界を旅行すると、それ以上に放置された土地があちらにもこちらにもあるわけで、あれを何とか耕地に出来ないのかと考えてみるが、結論としては、出来ないからああして放置されているに違いないと思う。

数年前、アメリカの西部を旅行してみたが、荒涼たる砂漠である。

恐らく中国の西安とか敦煌あたりも同じような状況だろうと思うが、これは人類誕生以来耕地にならなかったからあの状態で存在し続けたのであろう。

21世紀の最初の万国博覧会であるとするならば、そこに参加をした国連、国際連合というグローバル組織としては、そういう点に視点を集中させるべきではなかろうか。

「自然の叡智」で、複雑な動作をこなすロボットを開発して人気を博すのもいいが、「自然の叡智」を声高にいうのならば、地球上の不毛の地を緑の大地に変えるぐらいのアイデアが出てもいいのではなかろうか。

こういう事業こそ、国連でしかし切れない事業だと思う。

ただ表面的な奇麗事で疾病の撲滅をいうよりも、もっと根源的なことを提案し、エキスポという場で、それを開示すべきではないかと思う。

エキスポとかオリンピックという国際的なイベントが、国連加盟国同志のある意味で国威掲揚の場になるのは致し方ない。

その時に、国際連合というものが他の先進国に較べて、あまりにも力がなさ過ぎると思う。

供出金をきちんと払わない国があるから資金不足だ、というのは言い逃れだと思う。

何処の国だって国家の金が有り余っている国はないはずで、金がないという状況は一様に満遍なく平等だと思う。

その限られた資金で、如何に工夫して人をひきつけるイベントをするか、というところに人間の叡智があるのではなかろうか。

この近くにはキューバのパビリオンがあったが、ここではチェ・ゲバラの肖像が大きくかかげられていた。

彼ももう既に過去の人でしかない。

私に言わせれば、彼などはさしずめ石川五右衛門ぐらいの評価しかしていないが、キューバではまだ神様扱いなのであろう。

カストロとチェ・ゲバラは日本でも左翼系の人々の間ではとみに人気が高いが、今の視点で見てみればイラクのサダム・フセイン大統領とオサマビンラデインというところだ。

彼がキューバのアメリカ資本を駆除し、アメリカ資本に抑圧されていた貧しい人々を解放したのは事実であろうが、だからといって、その後のキューバが開かれた民主主義国になったかといえば、そうではないわけでただ主役が交代しただけではないか。

アメリカ資本を駆除したというと聞こえはいいが、要するにアメリカ人が投資した設備、機材をただで取り上げたというだけのことで、泥棒と同じ行為に過ぎない。

それを人民の解放だとか、アメリカ資本の抑圧を跳ね返したとか、アメリカ人の排除だとか、政治的なスローガンで言い包めただけのことで、キューバ人が考えなければならないことは、彼らが何故にアメリカ資本に抑圧されるようになったのかという点だと思う。

それと同じ問題は、先に述べたネイテイブ・アメリカンについても同じことがいえるわけで、彼らは何故後からきたヨーロッパ系の白人に自分達の大地を明け渡したのか、という点を考えなければならないと思う。

この後、中米共同館に入ったが、ここではパナマ運河のパネル展示があり、運河の仕組みが詳しく述べられていたが、この運河の建設も、突き詰めると白人の成果ということになってしまうわけで、またしてもネイテイブの人々は一体何をしていたのかという疑問に付き当たってしまう。

運河というものは、大地に溝を彫ればそれで出来上がりというわけではなさそうで、いくつかの閘門を作って、その閘門に水を入れたり出したりして、太平洋と大西洋をつないでいる。

これこそ人類の叡智には違いないが、それにネイテイブな人々が全く関知していないということは一体どういうことなのであろう。

ただただ、土掘り人夫としか関与しきれなかったということはどういうことなのであろう。

ここではコーヒーの豆というものを始めてみた。

街中のコーヒーを売っている店で、コーヒーの豆というのはよく見かけるが、あれは既に皮をむいた種そのものであって、その種には果実の部分があって、その果実はまるで我々の周囲で見かけるものとしてははグミの実とそっくりなものであった。

色も真っ赤で、それが木の枝についているのを始めてみた。

その後、アルゼンチン館に入ったが、ここではアルゼンチン・タンゴの実演をしていた。

アルゼンチン・タンゴとそのダンスというのは見ものであったが、惜しむらくは映像でなんども見ているのであまり新鮮さは感じられなかった。

このグローバル・コモン2には、カナダやアメリカをはじめ国連、キューバ、その他もろもろのパビリオンが7つ8つあって、すいていていつでも出入りできるところは全部見てまわったが、丁度それをし終わった時点で16:00になったので、集合場所に移動した。

この集合場所というのが、またまた反対側で、場周道路を半周反しなければならなかったが、それはそれであっちを見たりこっちを見たりしてゆっくり歩くには最適であった。

これだけの規模の万博であれば、とても一日では見切れるものではない。

2回3回と足を運んでも全部を見るということは多分出来ないであろう。

こういう具合に一日は終わったが、帰りのバスではいささか考えさせられたことがあった。

バスが春日井インターの導入路に入ってくると、その内側の緑地が見えたがここのゴミのひどさといったらない。

まだ芝生が枯れているので、余計に目に付いたのかもしれないが、このゴミのひどさと言ったらない。

会社の机の中に、誰が持ち込んだか知らないが、文庫本で金文学著、「中国人民に告ぐ!」という本が転がっていた。

中国人が中国のことをぼろくそにこき下ろした本であったが、その中で中国人は「ゴミを外に捨てる」とか、「公共道徳がなっとらん」とか、「自分さえよければあとのことは感心をよせない」とか、様々な悪口雑言が羅列してあったが、それはそのまま、その全部が我が同胞にも当てはまる。

何ゆえに芝生の上にビニール袋に入ったゴミがあり、空き缶が散乱し、ペットボトルが散乱しているのか。

まさしく我が同報の道徳心の結果ではないか。

自分の車に乗っているときは窓の位置が低いので気が付かなかったが、バスの窓から見ると、実に惨めな様相である。

我々の同胞の中から、あれを何とかしなければという発想は出てこないのだろうか。

ゴミの問題は、今日、極めて難しい問題となっている。

善意でゴミを拾っても、それを捨てる段階でトラブルが生じてくる。

愛知万博でも、弁当の持込が解禁されてから、このゴミの問題がクローズアップしてきて、関係者は頭を抱えているようだ。

ゴミの分別がトラブルの原因である。

自分の捨てようとするゴミが、分別のどの部類にあたるのか、という判断が各人各様で違っているからこういうトラブルになる。

それとは別にインターチェンジ内のグリーンベルトの中にゴミを捨てるという感覚は一体何であろう。

車の中から捨てなければ、あんなところにゴミがたまるわけがない。

これはどう解釈したらいいのであろう。

高速道路を走り続けている間に、車の中で飲み食いしたものを出るさいに全部捨てて行こうという魂胆としかいいようがないではないか。

これでは中国人を笑うわけにはいかない。

 

Minesanの大きい旅小さい旅に戻る