3年目の9・11   04・09・18

September 11,2004

 

序章

 

ニューヨークのワールドトレードセンターの高層ビルに2機の旅客機が飛び込んだのが3年前の丁度この日(2001年9月11日)である。

あの映像が世界の人々を震撼させたことはいうまでもない。

このワールドトレードセンターで亡くなった人の数は約2800人ということであるが、これはその後のイラク戦争でアメリカ軍がイラクに侵攻して以来1年間に死亡したアメリカ軍兵士の約3倍の数である。

この2800という数字の中に旅客機の乗員・乗客が含まれているかどうかは定かには知らないが、1年間の戦争で死ぬ兵隊の数よりも大勢の一般市民が犠牲になった、ということはまことに痛ましい事件だと言わなければならない。当然、こういう事件が起きると、その時の為政者というのは様々な批判にさらされることは論を待たない。

そのもっとも普遍的な批判が「何故防げなかったか」という批判だろうと思う。こういう事件が起き、こういう批判が極自然発生的に湧き上がってくると、為政者の側としては、その批判に対抗しなければならないので、必然的に報復という手段をとらざる得なくなると思う。

約3千人もの一般市民を殺されて、その国の為政者が「あれは仕方がなかった!」では済まされるわけがない。

どんなに愚昧な為政者であったとしても、国民を統治する立場の人間ならば、テロに対して毅然と報復を加えなければ国民の信頼を得られない。

ところがテロというのは相手が見えないわけで、その見えない相手に対して効果的な報復をしなければならず、そこが為政者、つまりアメリカ大統領にとっては難しいところである。

それでウサマ・ビンラデイアンを匿っているであろうと思われるところのアフガニスタンの空爆ということになったわけであるが、アメリカがテロの報復としてこういう行動に出ると、世界の人々は一斉にアメリカを非難し始めた。

日本もその例に漏れず、政府としてはアメリカと同盟関係にあるので、政府の立場としてはアメリカを支持せざるを得ないが、野党をはじめ日本の統治に関与していない知識人層は一斉にアメリカの行動を批判したわけである。

この9・11事件が起きたとき、アメリカ大統領ブッシュは、これを「新しい戦争だ!」とはっきり言明した。

確かに20世紀末までの主権国家同志の古典的な戦争からは逸脱した戦いだと思う。

相手は姿の見えないテロ集団で、主権国家の正規軍ではないわけで、テロ集団と正規軍との戦いという新しい戦争の形態に移ったとみなさなければならない。これは従来の古典的な戦争に比べると非常に難しい対応を迫られると思う。

あの事件から3年経って、テロ対策として完全なものが出来上がったかといえば、まだそういうものは完成していないわけで、テロを防ぐために警備を強化すれば、様々な締め付けが一般市民に覆いかぶさってくる。

それで、それを緩めれば警備に穴が開いてしまうため、2律相反する矛盾を抱え込まなければならないということになる。

9・11事件を教訓として、世界各国がそれなりにテロに対処しようとしているが、とにかく相手の姿が見えないわけで、それ以降もテロ行為というのは一向に減る気配がない。

9月1日(2004年)に起きたロシアの小学校占拠事件なども実に凄惨な事件であるが、ロシア当局も有効な防止策を模索しているのだろうが効果的な方法というのは見付かっていないのが現状であろう。

あの事件でも、為政者としてロシアのエリツイン大統領が非難をあびているが、こういう事件が起きるたびに為政者を批判するということはある意味で非常に無責任なことではないかと思う。

9・11事件にしろ、ロシアの小学校占拠事件にしろ、為政者の側にはまったく想像もつかないような事件なわけで、「事前に防止せよ!」といってもそれは無理な話だと思う。

一日何万人という市民、国民、旅行者が利用する空港で、そこを通過する人々を漏れなくチェックするということは極めて困難なことだと思う。

それが出来なければ、ブッシュ大統領がいうところの「悪の枢軸の国民は一切入国させるな」としようとすると逆に今度は自分達が不便をかこつわけで、今日のように世界がグローバル化した社会では、特定の国だけをボイコットすること自体が不可能になってしまっている。

その典型的な例がいうまでもなく9・11事件であったわけで、テロそのものが完全にグローバル化してしまっており、その結果としてニューヨークのWTCが標的にされたわけである。

テロリスト達はビジネスマン並みに世界を股にかけて飛び回っているわけで、テロも極めて合理的かつワールド・ワイド化してきているということである。そこが又新しい戦争といわれる所以であろう。

 

認識の見直し

 

だがこのテロに共通して流れている基底がイスラム原理主義というものである。9・11事件ばかりでなく、ロシアの小学校占拠事件を含め、あらゆるテロにはイスラム原理主義というものが共通分母として存在しているわけで、このテロの流行を止めさせるには、イスラム原理主義というものを撲滅させなければならないのではないかと思う。

いわば21世紀の宗教戦争ともいうべき様相を呈しているのではないかと想像する。

9・11事件以降、アメリカがアフガニスタンを攻撃するさいにも、イラクのフセイン大統領を叩くさいにも、日本は同盟国の一員としてアメリカに追従せざるを得なかった。

その時、日本の野党をはじめ日本の知識人と称する人々は、自分達の為政者を詰(なじ)って止まなかった。

つまり、アメリカに追従するばかりではなく、日本の自主的判断でアメリカの行動に協力しないように言え、という意味のことを盛んにいっていたが、これは為政者ではないものの安易な発言で、ある意味で無責任きわまりない態度である。

アメリカの為政者、つまりブッシュ大統領としては、本人が好むと好まざると、アフガンを攻撃し、イラクを攻撃しなければアメリカ国民に対して責任を果たしたことにならないではないか。

アメリカ大統領としては、9・11事件というテロの後で、「ウサマ・ビンラデインの犯行と断定出来ないのでアフガンの攻撃は出来ない」とか、「フセイン大統領が本当に大量破壊兵器をもっているかどうかわからないので攻撃できない」、などと悠長なことをいってアメリカ国民を納得させている暇はないわけで、とにかくテロに対する報復を先にして、国家元首としてテロと敢然と戦う、そのポーズを示しておかなければ、アメリカ国民に対して責任を果たしていることにならないのである。

日本でも、アメリカでも、マスコミというのはニュースを報道しているわけで、為政者がきちんと国民を統治している限り、それはニュース足り得ないのである。

役所がきちんと業務をこなしている限り、それはニュース足り得ないのである。役所の人間が公務中にパチンコをしていれば、それはニュースになるが、きちんと公務していれば、それはニュース足り得ないのである。

昨今、日本人の間でも「知る権利」などと判ったような判らないようなことを声高に叫んでいる人がいるが、「知る」ということは主体性が伴わないことには「知ること」にはならないと思う。

「知る権利」ということは、相手が隠しておきたいと思うこと暴き、相手が秘密にしておきたいと思うことを拒む権利なわけで「相手に隠させないようにする」権利だと、推し量って考えるべきである。

言葉を変えればプライバシーとか守秘義務を破壊する発想である。

お医者さんや弁護士は、患者やクライアントの秘密を守る守秘義務というものがあるが、それを真っ向から否定するのが「知る権利」と言うものだと思う。政治の場においても、何もかも国民の前にさらけ出せばそれが民主的というわけでもないと思う。

例えば、テロの容疑者としてある人物を追いかけているとき、その情報を公開すれば、それが国民の利益になるかといえば、そんなことはないわけで、隠した方が国益に繋がるということもあるわけである。

そして、日米ともにマスコミというのは物事に対して結論を出すということをしなくても済むわけで、為政者、乃至は政治家の出した結論に対してのみコメントを述べれば、それでマスコミとしての使命は果たしたことになるわけである。

テロが起きれば、そのテロを起こさせた為政者、テロを防げなかった為政者、テロを起こす背景を詰(なじ)っていれば、テロを防止する方策を何ら提示しなくとも、それでマスコミとしての使命を果たしたことになるわけである。

9・11事件が起きる前にもアメリカを標的としたイスラム教徒のテロはしばしば起きていた。

その時の世界の知識人のコメントは、「豊なアメリカと貧乏なイスラム教徒の対立だから、地球規模で貧富の差の是正をしなければテロは収まらない」ということが争点となった。

これが「貧富の差の是正」というものであり、他方、南北問題といわれるものであるが、アメリカの繁栄をテロの温床として整合性を持たせるというのはどうかと思う。

人が豊になることを否定するような発想は、この21世紀において許されるべき思考ではないと思う。

アメリカの繁栄はアメリカ人の努力の結果であり、今の貧乏な国の貧困は、その人達の責任だ、とはっきりと言うべきだと思う。

イスラム原理主義者がイスラム教の原点に立ち返ろうと、一日に何度となくお祈りするのは彼らの勝手であるが、アメリカの繁栄は、そのお祈りの時間にもビジネスに精を出し、作物を作り、工業製品を作り続けた果てに獲得した彼らの繁栄なわけで、アメリカは「豊だから許されない」という論法は成り立たないと思う。

アメリカといえども国内に様々な問題を抱えていることは他の主権国家と同じであって、その点に関しては同じラインに並んでいるといったほうがいいが、にもかかわらず、アメリカという国が突出しているのは、アメリカ国民の努力という他に言い様がない。

これと同じものがイスラム教を信奉する国家にあるかといえば、残念ながら無いわけで、必然的にアメリカがこの地球上で突出してしまう、という結果を招かざるを得ない。

世界のマスコミは、アメリカの豊かさそのものが悪の根源であるかのような報道の仕方であるが、これもずいぶん思い上がった発想で、こういうものの見方をしている限り、人間社会から偏見というものはなくならないと思う。

アメリカや日本と、他の低開発国、アジアやアフリカの貧しい国々との違いは、結果としての富の量ではなく、富を追い求める熱意の差だと思う。

富を得るためにはお祈りなど後回しだ!、富を得るためには長老の言う事など聞いておれるか!、富を得るためにはどんな苦労も厭わず、これは俺の仕事ではないなどと人を当てにしない、結果は自分の責任だ!という自覚を持つ、等々のあらゆるノウハウを習得し、実践する努力の差だと思う。

これが結果としての富の差よりも、富を追い求める熱意の差であり、その認識を持つか持たないかで貧富の差というものが出来上げっているのではないかと想像する。

 

価値観の相違

 

問題は、イスラム原理主義というのは、こういう発想を頭から否定しているわけで、これの逆をしようとしているため、テロの終焉という発想には何処まで行っても至らないわけである。

テロ行為というのは、ただの強盗団が、自分達のテロ行為の後で、ほんの少しばかり政治的な発言を付け加えれば、それでなんとなく立派なテロ集団として認知されてしまうということでる。

アフガニスタンの山奥でも、イラクの山奥でも、ただの強盗が外国人を浚(さら)って、本国軍隊の撤去を求めれば、それだけで立派なテロ集団、武装集団としてマスコミが認知してしまい、結果的に世界中がそれに振り回されるということになる。

イラク戦争の際のイラクの武装集団というのは、まさしく山賊そのもので、その山賊もフセイン大統領が強力な支配権を行使していたときはおとなしくせざるを得ず、ある程度既存の秩序に従わざるを得なかったが、フセインが倒れ、アメリカ軍が無差別に近い攻撃をしてくれば当然、自衛という意味からも、山賊行為に走らざるを得なかった。

それを日本のマスコミは馬鹿だから、武装集団などと恰も政治的信念をもった人間と同じような見解で報道している。

ただの山賊と、秘密結社として政治的集団の見分けもついていないということである。

イラクの山賊といった場合、それば昔からあの地を放浪しているべドウイ

ンと呼ばれていた土人である。

土人という言葉は今はほとんど使われていないが、「土着の人」という意味で、前は普通に使われていた言葉である。

こういう人達というのは近代文明というものを忌み嫌っているわけで、その分近代国家の人達から見ると未開人、遅れた人というイメージはどうしても払拭しきれない。

だから差別用語という風に取られがちで、今は使われないが、「土人」という言葉そのものが、ものの本質をよく表していると思う。

こういう人々も人間である以上、むやみやたらと殺していいわけはない。

しかし、先方はそうは思っていないわけで、そこには完全に価値観の相違が双方に横たわっているわけである。

我々の価値観では、人の形をしたものはむやみやたらと殺してはならないという不文律が定着しているが、先方にはそれはないわけで、自分達と価値観の違うものは人の形をしていても人にあらず、という価値観になっているのである。だからこそ、ロシアの小学校を占拠したテロリストたちは、幼い無抵抗の子供を殺してもなんら良心の呵責に触れないのである。

イスラム原理主義者から見れば、イスラム教徒でないものは人のうちに入っていないわけで、犬か猫でしかないわけである。

だから子供を殺しても悪いことをしたという意識は毛頭持っていないわけで、あんなことが出来たわけである。

今日ではあらゆるものがグローバル化しており、情報も例に漏れずグローバル化しているわけである。

テレビの受信機を作る能力はなくても、テレビを見ることはできるわけで、コンピューターを作る能力がなくとも、コンピューターを使うことはできるわけである。

アフガニスタンの山の中でも、イラクの山の中でも、ニューヨークのWTCビルの崩落する映像というのは見ることができるわけである。

ロシアの片田舎の小学校占拠事件というのは、映像としてみることができるわけである。

そのことは自分達の行為の結果を確認し、確かに効果があったのだ、ということを認識することができているということである。

問題は、こういう行為をしても何も良心の呵責を感じないという価値観にあるわけで、その価値観の根拠になっているのがイスラム教という宗教であるところが最大の問題である。

「普通のイスラム教と、イスラム原理主義とは違う」といってみたところで、現実にテロをしている人達に「テロを止めよ!」と説得しても、聞いてもらえない以上なんとも手の施しようがないわけである。

日本ばかりではなく世界の識者においても、テロ行為の奥底には「貧富の格差を是正しなければテロを撲滅できない」という認識が地球規模で蔓延しているが、これはある種の詭弁でしかない。

テロをする側が「俺たちは貧しいから金持に反駁しているのだ」といってみたところで、それはただ単なる人殺しの詭弁でしかない。

「盗人にも三分の理」というのは、世界共通の真理であって、人を殺しておいてもっともらしい口実を言えば、それがあたかも立派な政治的主張に見えるというだけのことで、そんなことを容易に認めるわけにはいかない。

 

為政者の措置

 

前述したように、地球規模で見ればキリスト教徒もイスラム教徒も同じような長さの歴史を持っているわけで、その同じ歴史的時間の中で、キリスト教徒の方は先進国となり、イスラム教徒の方は後進国のままに甘んじているというのはお互いに夫々の責任であると思う。

他方が他方を圧迫したという筋合いのものではないと思う。

他方が他方を圧迫したという事例も過去にはあったが、それは双方が同じようなことを繰り返して今日の状況に落ち着いているわけで、その宗教にまつわる抗争で、今日の南北問題、貧富の格差の問題になっているのではないと思う。ところが今テロをしようとしているテロリスト達は、そこにテロの整合性を求めようとしているわけで、それはとうてい世界の人々を納得させるだけの理由にはなり得ない。

キリスト教徒たちがイスラム教徒を奴隷のように扱って、自分達は酒池肉林に耽っていたわけではない。

キリスト教徒たちは、それこそ血のにじむような努力を重ねて今日の繁栄を築いたわけで、それに引き換えイスラム教徒たちは宗教の戒律に厳格に従うあまり、近代的な生活習慣や近代という意識改革に乗り遅れたわけで、それは彼ら自身、つまりイスラム教徒自身の責任なわけである。

「アメリカがイスラム文化圏を席巻しているから我々は報復しているのだ」というテロリスト達の言い分はまさしく「泥棒にも三分の理」と言う諺のとおりで、全く整合性というものが見出せない。

価値観の相違という範疇を通り越して、同じ人間として理解しえるものは何も存在していない。

何処まで行っても暴力の応酬でしかない。

いくら暴力で応酬し合っても、それで問題が解決できるとも思えない。

世界的規模の冷戦が終了したのが1989年で、これを機会に旧ソビエット連邦の武力による抑圧を逃れて、旧ソ連の周辺諸国が分離独立を果たした。

このことは共産主義による決め付けが限りなく緩んでしまったということで、そのことは我々の価値観からすれば良い事であったが、それは同時にアメリカ一国が、この世界で一番の豊で強い国家になってしまったということである。ここにテロの温床があると思う。

東西冷戦が終了したということは、パンドラの箱の蓋を開けてしまったわけで、今まで強権力で押さえ込まれていたイスラム原理主義というものが自由に動き回れる状況が出来てしまったわけである。

イスラム原理主義というのは、一言で言い表せば、イスラム教の原点に返ろうという運動だと思う。

イスラム教徒が21世紀という現代にマッチした生き方や、生活習慣や、意識改革に順応しようという動きに対して、イスラム教の原点に立ち返ろうという発想だと思う。

ところが人間というのは、お祈りだけをしていても生きて行けれないわけで、それを身をもって克服してきたのがアメリカに代表されるキリスト教文化圏の人々、つまり先進国という国々であった。

イスラム教の原点に返ろうとする発想と、近代的な生活を維持しようとする他の国々の間において、価値観の一致ということはありえないわけで、その矛盾の大噴火、乃至は軋轢というものがテロという行為で具現化されたものと解釈する。

そのことから考えれば、テロリスト達の目的というのは、ただただ罪もない人々を沢山殺すためだけにテロがあるのである。

特定の大統領とか政治家だけを殺せばそれで済むという問題ではない。

目的が、価値観の違う人々を沢山殺さなければならない、というものである以上、テロの行き着く先は大量破壊兵器に行き着くものと考える。

こういう事件に対してコメントを求められるような評論家というのは、何処の世界でも、事件に対して傍観者であるが故に、傍観者として極めて無責任な発言をしがちである。

1995年(平成7年)3月、東京で起きた地下鉄サリン事件も完全なるテロ行為であるが、あの事件に対しても日本の識者というのは、「日本の社会の閉塞性にテロの遠因がある」などと統治する側、いわゆる為政者の側にテロを誘引する原因があるというようなコメントをして奇麗事で語っているが、これも傍観者としての無責任な発言の典型的な例だと思う。

あの地下鉄サリン事件にしろ、ニューヨークのWTCビルへの航空機の突っ込み事件にしろ、統治をする側、為政者の側にはそれを予防する手段、手法というのはまったく無いのではないかと思う。

地下鉄にしろ、旅客機にしろ、公共の乗り物なわけで、それを利用する人を徹底的にチェックするなどということは物理的に不可能だと思う。

小学校に侵入してくるテロリスト達を事前に予知するなどということは不可能だと思う。

だからこそ、それがテロリストの手段になるわけで、テロをする側はあらゆる物を利用できるが、それを迎え撃つ側は、相手の姿が見えない以上、その方法も手段もありえないということである。

オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたから、「わけのわからない宗教は全部取り締まってしまえ」という強攻策をしようとすると、当然それに対する反発が出てくるわけで、にもかかわらず第2、第3の事件が起きれば、「当局は何をしているのか」と言うことになる。

ニューヨークのWTCビルに航空機が突っ込んで約3千人の罪もない人々が殺されたという事件に対して、アメリカ大統領としてはどういう事後処置がありえたのであろう。

暴力による報復は又暴力を繰り返すからと言って、何もせずにおれたであろうか。

ああいう状況では誰が大統領であったとしても、やはり武力による反撃、報復ということをせざるを得なかったろうと考える。

無責任な部外者は、「証拠が無いにもかかわらず報復した」とか、「功名心でした」とか、「法が整っていないにもかかわらずした」とか、さまざまなことをいうが、それは統治者ではないがゆえの無責任な発言で、大統領の立場に立っていれば誰でも同じことをしたと思う。

この暴力の連鎖反応を止めようとして、無責任な傍観者はアメリカだけを責め立てているが、それは少しおかしいのではなかろうか。

アメリカはテロの首謀者として、アルカイダのウサマ・ビンラデインを追い求めていることは周知の事実であるが、片一方では彼を匿っている集団があるわけで、アメリカの行為を非難する人達というのは、彼を匿う行為に対しては目をつぶっているのは一体どういう了見なのであろう。

イラク戦争が始まってからと言うもの、中東のテレビ局アルジャジーラはテロリスト側のメッセージを流しているが、このテレビ局もアルカイダのメンバーの内に入っているのであろうか。

テロリスト側のメッセージを流すということは、何処で繋がっているとみなさなければならないと思うが、この局も事態解決には一向に無関心で、テロリストを擁護するような態度であるが、これも価値観の相違で一括りにしなければならないのであろうか。

マス・メデイアの一員として、我々と価値観を共有しているとすれば、事態の収拾に前向きに動かなければならないと思うが、それがアルカイダの利益を擁護し、テロリストの広報の役目を果たしているなどとは我々の価値観からは考えられないことである。

 

イラク人の問題

 

利害の相反するものが相争うということは、一方のみが絶対的に悪いということはないはずで、相克の原因は双方に等分にあるものと考えなければならない。アメリカがイラク戦争を始める遠因は、当然9・11事件の犯人、ウサマ・ビンラデインをサダムフ・セインが匿っているであろう、という憶測にあったわけで、アメリカのこの憶測が間違っていようがいまいが、サダム・フセインが戦争を回避しようすれば、彼の当面の措置としては、その憶測を取り除くことにあったわけである。

アメリカ・ブッシュ大統領の直接のイラク攻撃に理由は、サダム・フセインが大量破壊兵器を隠しているに違いないという憶測(これも憶測に過ぎなかったが)にあった訳だから、彼としては公明正大にその憶測を解く措置をしていれば、無用な殺傷は避けられたわけである。

面子だとか、誇りなどというものは、この際何の役にも立たないわけで、それにこだわったが故に、罪もない人々が無為に殺されたわけである。

イラクとアメリカの軍事力を比較すれば、その差は歴然としているわけで、赤子でも判ることを承知でサダム・フセインが我を通したということは、彼の側にも非難されるべき点があるということである。

今回のイラク戦争で、イラクの国内がアメリカ軍の攻撃で大きな被害を受けていることは察してあまりあるが、イラク人が自分たちでこの事態を収拾しようとしないのは一体どういうことなのであろう。

サダム・フセイン大統領にさんざん抑圧されておきながら、アメリカ軍がサダム・フセインを追放した後、自分達で自分達の国を再建しようとしないのは一体どういうことなのであろう。

自分達の暫定政府に対して、自国民が爆弾テロや自爆テロをするということは一体どうなっているのであろう?

彼らは今までどおりサダム・フセイン大統領の治世のほうが良かったとでもいうのであろうか?

ならば、あの銅像を引き倒した映像は何であったのか、といわなければならない。

イラクの人々は、サダム・フセイン大統領なきあと、1年余りも自分達の国を建設できないでいるわけで、その間絶え間なくテロが繰り返されている。

この現状から、アメリカのみを非難するということは根本的に間違っていると思う。

私の個人的な考えからすれば、アメリカはイラクのことなど放っておいて、一日も早く引き上げたほうがアメリカ自身のために良いと思う。

イラクなどという国は所詮べドウインの国で、自分達で限りなく暴力の応酬に明け暮れている人達だと、あっさりと引導を渡すべきである。

この一連の動きの中で、アメリカを非難する声は巷に氾濫しているが、サダム・フセインを糾弾し、ウサマ・ビンラデインにテロを止めるように呼びかけた声明が1つも出てこない、というのは一体どういうことなのであろう。

彼はそれほどに善人なのであろうか。

中東のマス・メデイアであるところのアルジャジーラも、アルカイダやテロリストの広報は担当しているが、テロをする側に対して「テロを止める」ように説得している節は見当たらないし、アメリカ側に情報を提供している風にも見えない。

人間の存在を考える

 

そしてテロという行為に対しては国連も全く無力である。

ニューヨークの9・11事件や、ロシアの小学校占拠事件などは単にアメリカやロシアのみが標的になっているのではなく、人類全体に対する挑戦と受け止めなければならない。

だとすれば国連がもっともっと積極的に介入して、事件解明に労を尽くさなければならないと思う。

今、地球上に存在する貧富の格差の問題、南北問題、後進国と先進国の価値観のギャップ、テロのグローバル化という問題は、ただたんにアメリカやロシア、はたまた日本という単独の主権国家の問題ではなくなってきている。

こういう問題こそが国連の本領を発揮しえるもっとも的を得た活動の場ではないかと思う。

それはテロに対して報復をするという意味ではなく、もっと根源的に、テロの温床を究明するという意味で、国連が主導権を発揮すべき問題ではないかと思う。

2003年、アメリカがイラクを攻撃するに際して、フランス、ドイツ等がアメリカの単独行動に棹差して足並みが乱れたが、国連というのはあくまでも寄せ集めの世帯なわけで、お互いの国益を勘案して足並みの乱れることは致し方ない。

これらの国は直接の当事者ではないので、アメリカが報復しようとするその根拠と手続きに関して異論を差し挟んだわけだが、その奥底には、その後の利権に対する打算があったことはいうまでもない。

問題は、武力行使の是非を論ずる前に、テロの情報を共有することが最優先だと思う。

アルカイダが何を考え、ウサマ・ビンラデイン何処に潜んでいるか、イラクは本当に大量破壊兵器をもっているかどうか、という情報を提供することが、地球規模で無為な流血を防ぐもっとも効果的な手法だと思う。

ところが国連もアメリカ抜きでは存在そのものが危ういわけで、国連のあらゆる行動は、アメリカの武力を背景に行なわれており、アメリカの後ろ盾がないことには何一つ出来ないわけで、国連の中でアメリカに代わりうる能力を持った国がないが故に、アメリカの一国主導を阻止できない。

しかし、アルカイダやウサマ・ビンラデインをいまだに拘束できないということは一体どういうことなのであろう。

アフガニスタン、イラク、イランの山の中を逃げ回っているのであろうか。

それとも変装してニューヨークやロンドン、パリ、東京に潜んでいるのであろうか。

東京の地下鉄サリン事件、ニューヨークの9・11事件、モスクワの劇場やロシアの小学校占拠事件というのはまぎれもなくテロ行為であるが、日本ばかりではなく、世界の知識人と称せられる人々は、テロの温床をなくさなければテロ行為そのものは解決されないと、のんきに奇麗事を言っているが、これはきわめて無責任な発言だと思う。

泥棒に入られた人に、「入られるようなあまい戸締りをするほうが悪い」と言っているようなものである。

しかし、イスラム文化圏とキリスト教文化圏で双方の価値観に違いがある限り、テロ行為というのは今後も限りなくおきうると思う。

価値観の相違こそテロの温床であり、根源だと思う。

貧富の格差の是正とか、南北問題の解決をすればテロは防止できる、などいう意見は傍観者のたわごとで、そんなことが実現できるはずもない。

現在、地球上には「富めるものと貧しいものが混在しているからテロが起きるのだ」という意見は人間というものを深く考えていない人の意見である。

人間の存在を考えるということは、先進国に生きる人の生き方を考えるというだけではなく、低開発国の人が何故に現状に甘んじているのか、ということも合わせて考えなければならないと思う。

近代的な先進国に住んでいる人々は夫々がめいめいに生きる目的を持っている。ところが現在の低開発国に生きている人々というのは、日暮れ腹減りで、まことにもって自然の摂理のままに順応している生きているわけで、あれが欲しいこれが欲しいという願望を持っていない。

ある意味で、近代という意識を持たず、生きる目標が定まっておらず、何を目標に生きていいのかさえ判っていないと思う。

考えようによってはまことに幸せな人達である。

我々が羨望して止まない、良い家とか、良い車とか、良い家具とかを追い求めようという願望がないのだから悩みもないわけで、幸せな日々がおくれていると思う。

そして、そういう生活に甘んじているので、我々の価値観からすれば、それは後進国で、文化的に未発達で、貧しい国々と映るが、彼ら自身はそんなことは思っておらず、幸せな日々を送っているのである。

ところが20世紀の後半になると、地球規模のグローバリゼーションの波、つまり情報の拡散によって、先進国の影響が必然的にこういう国にも及ぶようになるわけで、そうすると他と比較することを覚える。

すると、何故彼らは良い家に住んで、良い車に乗って、良い家具をそろえているのか、と言う疑問がわいてくる。

そこで始めて、「同じ人間であるのに不公平ではないか」という疑問に突き当たるわけである。

しかし、彼らの生活葬式、彼らの認識、彼らの価値観等は、長い歴史の中で彼ら自身が選択してきた生き方であったわけで、その選択の根底にイスラム教があったことは論を待たない。

イスラム教の教えの中で、彼ら自身が自然に近い生き方を選択してきた結果が20世紀の後半から21世紀になってみると貧富の差であり、南北問題であり、低開発国という文化的落ちこぼれの現象になってしまったわけである。

同じイスラム教徒の中にも、人間の集団としてみる限り、宗教に対する固執の仕方に様々な温度差があるのは当然である。

経典にきわめて忠実足らんとする人と、そうではなく世俗的な欲求に妥協しようとする人がいるのは当然のことである。

イスラム教という宗教の呪縛から逃れて、意識改革を経て、一歩でも二歩でも近代的な生活に順応しようと思っている人は、自己の欲望を確立し、そのためには自己の努力が必要だということも理解しているが、宗教の戒律に固執し、現状から出ようとしない人にとっては、他の存在そのものが目の上のたんこぶと映るわけで、諸悪の根源は全部他者の所為だという発想になるわけである。それがイスラム原理主義と言うものではないか、と私なりに想像する。

ここでは宗教を介在して価値観が全く逆転しているわけで、我々の世界では、人の命は大事なものという価値観が支配的であるが、彼らの世界では、人の命など聖戦の前にはゴミか塵のような存在で、取るに足らない存在となっているのである。

だからこそWTCビルに突っ込んだ飛行機を乗っ取った犯人や、自爆テロがあるわけで、彼らにしてみれば、聖戦・ジハードの前には人の命などまったく無に等しいわけである。

ロシアの小学校占拠事件にもこれは如実に現れているわけで、異教徒の命などは虫けら以下の存在でしかないわけである。

幼い子供を殺して何ら良心の呵責も感じにないということは、そういうことだと思う。

テロの根底に宗教があるとすれば、宗教の大御所が前面に出てきて事態の収拾を図るべきだと思う。

 

混沌の本質

 

今年の8月にバクダットで日本人ジャーナリストが武装集団に人質として取られたとき、宗教家が奔走して解決を見たということがあったが、あらゆるテロ行為に対して、イスラム教徒の宗教家・聖職者がもっともっと前面に出て、無為な殺傷をやめるように説得すべきだと思う。

ところがイスラム原理主義というのはオウム真理教と同じで、自分達では宗教だと思い込んでいるとしても既存の戒律に厳格に従っているわけではなく、所詮は、宗教をお題目にしているだけで、実質はただの暴徒乃至は山賊か殺人者集団に過ぎないので、宗教家がいくら説得したところで聞く耳を持たないということは想像に余りある。

だとすれば、傍観者としての日本の知識階級、ひいては世界の知識人というのは、もっと端的に彼らの行為を糾弾しなければならない。

貧困が彼らをそういう方向に走らせた、などと、一見物分りのいい奇麗事など言うべきではないし、もっともっと赤裸々に彼らを非難しなければならない。あの事件から3年が経ったということで、ニューヨーク、グランド・ゼロでは追悼のセレモニーが行なわれ、それがテレビで放映されたのをみると、不思議なことに、遺族達が彼らテロリスト達を強烈に怨んでいる、憎んでいるという雰囲気というか気持ちが明確に伝わってきていない。

それよりもむしろ、あの事件に対する報復としてブッシュ大統領がイラン攻撃したことに対する疑問の気持ちが前面に出て、そのことに対する懐疑の念が現れている。

あの事件では日本人も犠牲になっているが、その日本人遺族のインタビューでの発言などは、まるであの事件を交通事故と同じ感覚で語っているように見受けられた。

確かに、航空機、旅客機がビルに衝突して人々が死んだのだから交通事故とみなすことも可能ではあろうが、「テロで殺された」という行為者に対する強い怨み、憤り、怨嗟、怨恨と言うものを露に示していないということはどういうことなのであろう。

テロをするものとされるものという2種類の人間が、同じ社会の中で共存している限り、テロをされた側というのは、その恨みや怨念を失ってはならないと思う。

遺族達がまるで交通事故にあったような感覚で「仕方がなかった!」では済まされないと思うし、そうであってはならないと思う。

テロをする側は、自分の命も惜しくないのだから全く怖いものなしである。

そんな人間が隣に生きているとすれば、我々は何時彼らによって無為な死に追いやられるか判らないわけで、「テロは仕方がなかった」とか、「泥棒にもの三分の理がある」などと甘いことはいっておれないと思う。

死をも恐れぬテロリストが、我々の身の回りにもうようよいるとなれば、それから我が身を守ることは並大抵のことではない。

ここで再び傍観者としては、国民の生命と財産を守るのは国家の責務であるという論法になる。

私はブッシュ大統領から金をもらっているわけではないが、アメリカ国民の生命と財産をテロリストから守ろうとして、アメリカ軍は今イラクで戦っているのではないか。

サダム・フセイン大統領が大量兵器を持っていようがいまいが、彼がアメリカ国民の生命、財産を脅かす可能性があれば、ブッシュとしては傍観しているわけにはいかないと思う。

次のテロが起きるまで傍観しているわけにはいかないと思う。

確かに、今のイラクでは、暫定政権に行政機構の委譲が終わって、本来ならばバクダットは平和のうちに戦後復興が進んでいなければならない時期である。それがそうなっていないのは、イラク人の爆弾テロが横行し、自爆テロが横行し、アメリカ軍と見れば発砲するので、暫定行政機構がまともに機能していないからである。

イラク人たちが、自分達でイラクを混乱に陥れているわけで、アメリカ軍がいるから事態の収拾ができない、という論議は本末転倒である。

 

限られた選択肢

 

日本の知識人乃至は世界の知識人というのは、アメリカの悪口を言っていれば飯が食えるわけで、アメリカに対してはいくら悪口を言っても身に危険が及ぶということがないので安心してアメリカを批判することができる。

ニューヨークの9・11事件の報復として、アフガニスタンに隠れているかもしれないウサマ・ビンラデイン、乃至はアルカイダを追い求めて、アメリカがアフガンに武力行使を行なったことに対して、その発想、手法、手続きを批判することは容易である。

他の選択の道を掲示することも可能であろう。

だからといって、アメリカの象徴であるWTCビルを崩落させたテロに対して悠長に時間をかけて報復の選択肢を探るなどということが許されるであろうか。アメリカ国民の生命と財産を付託されている大統領、ブッシュ大統領としては、一刻も早く目に見える形でテロと戦う姿を国民の前に披露しなければならなかったに違いない。

為政者、アメリカ大統領だとて、日本の内閣総理大臣だとて、行為としての政治に対しては決して誉められることはないと思う。

何かをどういう風に処理したとしても、決してマスコミ、乃至は知識階級から誉められるということはないと思う。

在職中に「善政を行なった」などと言われることは決してないと思う。

21世紀においても、テロというものは恐らく絶えることはないと思うが、テロを撲滅するにはテロリストを根絶やしにしなければならないと思う。

貧困の是正だとか、南北問題の解消などといって、先進国がいくら低開発国に金をばら撒いたところで、テロはなくならないと思う。

見えないテロリストに対して、為政者が如何なる対応を取ったところで、国民の中の知識階級というのは、それを賞賛することはないと思う。

人間の行為というのは、行為する人はある信念にもとづいてその行為をするが、部外者、またはその行為によって利害得失が絡む人にとっては、如何様にもその行為を解釈することが可能なわけで、その評価は正反対になることさえある。ところが為政者、統治者というのは、統治される人々を前にして選択は一つしかないと思う。

目の前のテロに対しては、テロと戦う姿勢を示さねばならず、戦っている姿を国民の前に晒さなければならず、その対処の仕方をあれこれ迷っている暇はないのである。

そういう選択肢しか残されていないのである。

けれども、その統治を斜めに見ている傍観者というのは、統治者の行為をあらゆる角度から検討してケチをつけることが可能なわけである。

つまり、批判することが可能だということである。

いくら批判して、いくら悪し様にののしろうとも、誰も傷つかないのである。アメリカがテロとの戦いに国連の承認なしでも踏み込もうとしているときに、日米同盟を結んでいる我々の側の選択肢としては、アメリカ追従しか道がないのである。

日米同盟を結んでおきながら、「日本は海外派兵は出来ません」ではとおらないわけで、好むと好まざると、必然的にアメリカ追従とならざるを得ない。

問題は、テロが起きてからその報復のためにアメリカに追従するのではなく、テロが起きる前に、それを阻止することによって全体の安全に協力、貢献できれば一番良いわけであるが、事が起きる前にそれを阻止するということは、極めて評価が低いということである。

テロを起こすかもしれない人物を事前に当局が拘束すれば、人権団体と称する人々が人権擁護の立場から必ず当局の措置を糾弾し、テロを起こすかもしれない人間を擁護する方向に動く。

テロが起きてしまえば、当然のこととして当局の不備を糾弾するが、テロが起きる前であっても、その矛先は当局に向かうわけで、当局、為政者、統治者というのは、予防措置をすればしたで糾弾され、しなければ「何をしているのか!」と言われるのである。

これが私の言うところの衆愚というものである。

世の中の知識人といわれる人々は、テロを起こす側に対してもっともっと言葉を尽くしてその非を認めさせ、彼らの行いは決して人のためにはなっていないよ、と言うことを口をすっぱくして彼らの側にいうべきだと思う。

しかし、これまでの現実が示しているように、イラクのサダム・フセイン元大統領だとて、ウサマ・ビンラデインだとて、人のいうことを素直に聞く相手ではないわけで、だからこそ、こういう事態に至っているわけである。

我々、日本人は何事も話し合いで解決できると思い込んでいるが、この一連のテロ行為の噴出というのは、話し合いでは何事も解決できないということではないか。

空虚な理念

 

結局は、武力行使、いわゆる暴力でなければ暴力を封じ込めることは出来ないということを如実に示していると思う。

アメリカがイラク攻撃をしたとき、世間はアメリカの行動を一国主義という言葉で、国連の承認を得ないまま行動に移したことを非難した。

国連、国際連合の理念は、世界の揉め事は国連の安全保障理事会で協議をして、その決定に従いましょうというものである。

その安全保障理事会の主要メンバーだけに拒否感がある以上、それは地球規模の民意をあらわしていることにはならないわけで、結局のところ、安保理の常任理事国というメンバーの利益だけが優先するということになる。

もっと砕いていえば、地球規模の民意をあらわしているわけではなく、安保理の常任理事国によって、どういう風にも解釈可能というわけである。

ところが、その常任理事国のいうことさえも無視してアメリカ一国で行動でき、したということは、もう国連の意義はとうに失われているということである。我々は、自分の国を守るべき相応の力を持っていない。

他国が我々の国を攻めてきたときは、国連が守ってくれるまでの間、持ちこたえるだけの能力で十分だ、という発想で自衛隊というものが構築されている。ここでいう「国連が!」という言葉は、実質は「アメリカ軍が!」という意味で、そういう含みのなかに日米安全保障条約があるわけである。

東西冷戦が華やかなころは、いつ第3次世界大戦に拡大して、原爆、水爆が飛び交って、正真正銘の人類の滅亡に結びつくかもしれないという恐怖から、アメリカといえどもそうそう大ピラに単独行動というのはありえなかった。

ところが冷戦が終わってしまった今、アメリカの仮想敵国がなくなってしまった以上、アメリカは大手を振って我儘一杯のことができるわけである。

このアメリカの我儘をいくら外から非難したところで、それは負け犬の遠吠えでしかないわけである。

人間の掲げる理念などというものは、人々の生存には何の値打もないわけで、国連の理念を表した国連憲章も、日本の理念を現している日本国憲法の第九条も、理念としては実に立派なものであるが、人の諍いの解決には何の効用も果たしていないわけである。

人間は夢を食って生きている獏ではないわけで、他人との存在を意識するしないに関わらず、現実世界に大きく依存しながら生きているわけである。

つまり、自分の周囲の人々、自分を中心として近くは隣人から、地域から、市、県、国から、隣国から、地球全体という人とのかかわりの中で生きているわけである。

ということは、自己の我を押さえ、相手との妥協を無意識のうちに繰り返しながら生きているわけで、そのことによって、平穏な生活が維持されているが、ここで一部の人達が自己の我を突出させ、他との妥協を拒否し、平穏な生活に波風を起こさせようと策略するのがテロ行為というものではないかと思う。

ただそういう行為をするについても、何かの理由もなしには出来ないわけで、「アメリカが豊なのが気に入らない」という、理由にならない理由が使われているだけだと思う。

3年前のこの日、ニューヨークのWTCビルに乗っ取られた旅客機が突っ込んで約3千名近い何の罪もない人々が殺された。

アメリカは国家としてその報復のため、そのテロリスト達を匿っているであろうところのアフガンを攻撃し、テロリストに武器を流しているであろう思われるところのイラクを攻撃し、イラクでは未だにその戦闘が収拾してない。

イラクにおけるアメリカ軍の死傷者は千人を超えたと報じられているが、イラク人の死傷者は恐らく数万人と思われるが、このイラクの人々を日本という国から見ているとなんとも不思議でならない。

最初から、双方の価値観が平行線を辿っているから、といってしまえば実も蓋もないが、いくら宗教的見地から聖戦であろうとも、自分たちの同胞同士が殺しあっている状況は不思議でならない。

アメリカ対イラクの戦闘というのは1年前に終わっているわけで、それ以降の犠牲者というのは、戦後処理の段階の犠牲者である、

戦後処理で双方にこれだけの犠牲者が出るということは、すべからくイラク人自身の問題だと思う。

「アメリカがイラクに駐留しているから気に入らない」というのであれば、自分達で一刻も早く平和な社会を作れば、その分アメリカの引き上げる時期も早くなるわけで、にもかかわらず自分たちで意味もない殺し合いをしているのは、すべからくイラク人の問題に帰結する。

こういう状況を目の当たりして、我々日本人として一体何が出来るのであろう。日本の自衛隊もイラクのサマワに進駐して給水活動と称する支援を行なっているが、これも日米安保に関わる同盟国としての、アメリカに対する義理のようなもので、大局的には大した効果はないものと思う。

我々の国は、自らの国家に大きな呪縛をかけているので、これ以上の国際貢献はありえないと思うが、イラクの問題を超えて、テロそのものを防ぐ方法、アイデア、思考と言うものを世界に向けて発信する何かを持ち合わせていないのだろうか。

9・11事件、ロシアの小学校占拠事件、インドネシアのオーストラリア大使館爆破事件等々、こういうテロ行為を興させない方法というものを日本から発信することができないであろうか。

我々、人間の持つ理想、理念というものが実に拙いものだ、ということは先に述べたが、我々は今豊な社会に生きているので、何事も奇麗事で終わらせようとする。

しかし、それでいいのであろうか。

イラクが大量破壊兵器を持っているかどうかわからない時点で、アメリカに追従して自衛隊を出すことが芳しくないことは十分わかっている。

我々は自分の国の憲法を盾にして、イラクに派兵しないに越したことはない。それが我々の国としての理念であり、その理念に忠実たりたいと大勢の国民が思っていることは論を待たないが、そんな奇麗事で生き馬の目を抜く国際社会というもの生き抜けるであろうか。

確かに、食って糞して寝るだけの意味で、生きるということならば、それも可能である。

民族の誇りも、名誉も、プライドも、生きがいも、何もかもかなぐり捨ててもいい、というならばそれも可能であるが、我々は戦後の押し付け憲法でも、「名誉ある国家」というものを目指しているわけで、理念に忠実たらんと奇麗事をいっているとすれば、自尊心の維持の方はおざなりにならざるを得ない。

 

現実を直視する

 

先日、9月の上旬だったと思うが、ビートたけしが総合司会する「TVタックル」という番組を見ていたら、「日本はアメリカの属国だ」ということを浜コウ(浜田幸一氏)がしきりにいっていた。

それは、沖縄でヘリが墜落して現場検証に日本側をまったくタッチさせなかったという事件からそういう議論になっていたが、こういう事案から、「日本はアメリカの属国だ」という認識はもっともなことだと思う。

これがいわゆる「食って糞して寝るだけ」の国民の典型的な姿である。

ならば、アメリカと互角に渡り合える国家になろうとすれば、今の日本の国民はそれを心からフォローしきれるであろうか。

アメリカの技術を一切使用せず、自前の技術開発で原爆、水爆、その他の核兵器をはじめとして、戦闘機、イージス艦、ミサイルを開発して、アメリカと同じレベルで渡り合える国になることを今の日本人が望んでいるであろうか。

今の日本人はそんなことを望んではおらず、アメリカの属国で十分だし、アメリカの基地が沖縄に集中している限り、現状維持で十分と思っているのである。

沖縄にアメリカ軍の75%が集中していようとも、普通の内地に住む日本人には関係ないことであり、それは政府の責任で、政府が何とかすればいいことだと思っているのである。

沖縄を除く内地に住む日本人にとっては、米軍基地が内地で増えることは罷りならぬが、沖縄に集中している限り、自分達の問題ではないわけで、それは政府が解決すべき問題だ、と考えているのである。

こういう状況下で、政府といえども答えの出しようがないと思う。

内閣総理大臣に誰がなろうとも、答えの出しようがないと思う。

米軍に対して「沖縄から少しは撤退してくれ」ということは言うであろうが、いくら日本政府が言ったところで、聞く聞かないはアメリカ軍の判断なわけで、その意味ではまさしく属国以外の何物でもない。

しかし、日本がアメリカの属国でいる限り世界は安心して日本を見れる。

日米安全保障条約についても「ビンの蓋」論議というのがあって、日米安保で日本がアメリカと同盟を結んでいる間は安心だという、世界的な考え方がある。世界の人々は、日本がアメリカと頚城を分かって、アメリカと同等にわたりあうことほど恐ろしいこともない、という思いを持っているようだ。

日本がアメリカの属国でいる限り、安保条約で結ばれている限り、枕を高くして眠れるというわけだ。

先の湾岸戦争のとき、日本は金だけ出して人を出さなかったので世界から顰蹙を買った。

その反省の元に、今回のイラク戦争では給水活動などと称する偽善がましい行動で、「人も出した」という実績を作ろうとしたわけであるが、国際関係というのは理念とか理想などという奇麗事では通らないのである。

国際関係を見るときに何が一番大事かといえば、今現実に何が起きているかという現実を直視することだと思う。

9・11事件も、ロシアの小学校占拠事件も、ジャカルタのオーストラリア大使館爆破テロも、イスラム原理主義者が関与しているということを直視しなければならないと思う。

こういうことをしでかすテロリストというのは、姿を見せないわけで、極端なことをいえば、隣人を疑い、見知らぬ人を疑い、旅行者を疑い、イスラム教徒全部を疑って掛からなければならない。 

 

政府の責任?

 

9月11日には、日本の新聞でも何か特集をするのではないか、と思って注意してみていたが、特集を組んだりしたメデイアは無かったようだ。

それよりもこの日のトップ・ニュースはプロ野球がストをするかどうかのほうに感心が集中していた。

まさしく日本は平和だ。平和のきわみだ。結構なことだ。3年前の外国のテロのことなどすっかり忘れて、プロ野球がストをするかどうかに全国民が集中しているなんて、これほど絵に書いたような平和があろうか。

しかし、何かが起きたとき、それを全部政府の責任ということにしてしまっていいものだろうか?

自分と、自らの政府を、全く別物のように見立て、政府というのは我々国民とは乖離した悪魔だという感覚である。

悪いことは何でもかんでも自らの政府の責任で、善良な国民とは別種の日本人の悪行という感覚で、自分自身を誤魔化していていいものだろうか?

沖縄にアメリカ軍が偏在するのも政府の責任、イラクに自衛隊を派遣するのも政府の責任、子供が子供を殺すのも政府の責任、北朝鮮の拉致問題が進まないのも政府の責任、銀行の統合も、郵政改革の遅延も政府の責任、何でもかんでも悪いことは全部政府の責任というのは、国民の側の逃げ口上ではなかろうか。物事というのは、あらゆるものが表裏一体をなしているわけで、表があれば必ず裏が存在しており、何かをしようとすれば必ず反対意見というものが出てくることは自然そのものである。

こういう状況下で、大勢の人が賛成し、乃至は反対するから、その大勢の人の声は「正しいのだ」という判断は一種の錯覚に過ぎない。

あの太平洋戦争を当時の日本国民の全部が支持していたことを考えてみよ。

安保闘争のとき、日本国民の大部分が反対であったことを考えてみよ。

大勢の人の意見、大勢の人の声というのは、如何に無責任極まりないかと言うことを真摯に考える必要がある。

民主主義の根本原理が最大多数の最大幸福ということは曲げようのない真実であるが、最大多数の意見がそのまま最大幸福に繋がるとは限らないわけである。最大幸福を追求するために、最大多数の意見を鵜呑みにしては、結果として奈落の底の転がり込むことになる、ということも間々有る、ということを考えなければならない。

だから民主主義ということは限りなく衆愚政治に近いと言うことを肝に銘じるべきである。

その衆愚という意味で、今世界中で起きているテロ行為というものを眺めたとき、テロリストと称する人々は大衆の中に埋没しているわけで、それだからこそ当局、政治をする側、統治をする側は懸賞金までつけてそれを追っているにもかかわらず、一向にテロリストを密告してくる大衆が出てこないではないか。テロリストたちの目標は、本当は当局であり、政治をする側であり、統治をする側にもかかわらず、テロの犠牲になっているのはテロリスト達の同胞に過ぎないではないか。

自分たちで自分達の仲間を殺しておいて、その原因をアメリカの所為にするなどとは本末転倒もはなはだしいが、世界の大衆、無責任な傍観者としての知識人というのは、声をそろえてアメリカの存在を糾弾しているではないか。

私はアメリカの回し者ではないが、アメリカは自由の国といわれるだけあって、良いことも悪いことも明けッぴろげに公開しているし、いくら悪口を言っても殺されることはないので、皆が安心して悪口を言い合っているのである。

本来ならば、それと同じ量の意見なり、糾弾なり、説得なり、宗教論争をテロリストに向けて言わなければならないと思う。